欠けた娘

柊三冬

第1話

月の欠片を拾った夜。

娘は『』を得て『』失った。






人に踏まれてできた土道に1人の娘がいた。天を仰げば漆黒に染まった空に欠けのない望月が娘を見下すように浮かんでいる。時刻は知らぬ。とうにくれた太陽がいつ顔を出そうと娘には関係がないのだ。

娘に似つかわん美しい手持ち提灯を左手に、蝸牛のごとく緩慢な足取りで進む様は、宵闇に浮かぶ恐ろしき人魂のようでもあった。

前へ前へと歩みを進めていたが、強風で目が眩み提灯が大きく揺れた。と、その刹那。娘の目前に淡い光を放つ2つの石───否、石と呼ぶには美しすぎる物体が落ちていた。

急に現れたか、はたまた元々そこにあったのかは定かでは無い。ただ分かるのはそのようなことを忘れてしまうほど美しいことである。

娘はそれを見つめた後手に取った。8つの娘の手に収まる大きさをしたそれは月のように美しく淡く儚げな光を放っているように見える。もう1つは娘が手に取ると同時に黄の蛍火を灯して姿を消した。娘はなにか思うことなく再び歩みを進めた。


足を踏み出す度娘の素足が音を立てる。何十回目のそれが鳴ると向かいから1人の男が歩いてきた。娘は知らぬ顔で歩みを続けたが、男はこちらを見るや否や口を開いた。


「そちらの右手に収まっている石を私に売っていただけませんでしょうか?」


娘は首を横に振った。


「お金があればご家族が喜ばれますよ」


娘は再び首を横に振った。

虚無の象徴とでも言えよう虚ろな瞳は、しかし揺らぎそうに無い。それを見てか男は忌々しげに顔を歪めたかと思えば荒々しい足音を鳴らして立ち去った。

娘に家族はなかった。そして娘の心に灯った僅かながらの高揚感が「喜」の感情であるなど知らなかった。娘は初めて反抗した。


更に何十と足音を立て、1本の立派な樹木が見えたと思えば先程と変わらぬ美しい物体が落ちていた。娘がそれを手に取れば今度は赤の蛍火を灯して霧散した。娘はなにか思うことなく歩みを進めようとしたが、目前に佇む1人の女を見るや足を止めた。女は人当たりの良い笑顔を浮かべて口を開く。


「お前の髪を整えてやるからその美しい石を私に譲ってくれないかい?」


娘は首を横に振った。

女はそれを見た途端、般若のごとく顔を歪ませ、ひとつ舌打ちしたかと思えば


「そんな汚い髪を触るなんてこっちから願い下げだってのに、恩知らずな娘」


と罵声を並べ立てたのち苛立ちを隠すことなく立ち去った。

娘の髪は乱れていた。洗ったことのない髪は娘の目すら覆い絡まり縮れ、櫛を通すなぞ不可能に思える。そこらの野犬の方が美しく見えるほど、娘の髪は乱れていた。

娘は何度目かも分からぬ己への嫌悪を目の当たりにし、初めてふつふつとしたなにかが沸いた。それが「怒」の感情であることなど娘は知らなかった。


娘は歩みを進めた。月の様に美しい物体が右手に収まり、数千の足音がなった。すると、娘の目前にはまたしても先程とは変わらぬ美しさを備えた物体が落ちていた。娘が手に取れば、青い蛍火を灯した後、虚空へ消え去った。


娘の本能は渇きを訴えた。飢えを訴えた。もう歩けぬと、足が悲鳴をあげていた。それでも娘は歩き続けた。まともに水を、飯を口にしたことが無いと思いながら、娘は歩みを続けた。

すると目の前から1人の老婆が歩いてきた。関する気のない娘とは違い、老婆はこちらを見るや何かを取り出した。


「これをやるから、その右手の石を譲ってくれないかい?うちの子はこういうものが好きでね」


老婆は握り飯を取り出し、こちらに向けた。砂も泥も一切ついていていない濁りなき白米は娘からすれば宝石のようで、喉から手が出るほど、この老婆を殺してまで食いたいほど欲しいものだった。

だというのに娘は首を横に振った。それを見て老婆は不機嫌さを顔に醸し出し


「ごめんなさいぐらい言えないのかね」


と皮肉を口にした。

娘は口を大きく開けると老婆は恐ろしいものを見たかのように顔を青ざめさせ、その場からすぐに立ち去った。

娘には舌がなかった。

娘には見飽きた光景だと言うのに、心が何かに刺されたように痛んだ。それが「哀」であることなど娘は知らなかった。


娘は歩み続けた。変わらぬ歩調で何千と。蝸牛のごとく緩慢な足取りで何万と歩いた。

漆黒の空にあったはずの望月が見当たらなくても何も思わず娘は歩き続けた。


すると目前に上等な着物を来た美しき男が現れた。


「月の欠片を盗むなど、我らの規に反する大罪ぞ、この咎人めが」


意味が分からぬ娘は黙り込む。

それに腹を立てたのか、男は口を開いて叫んだ。


「これだから人の子は!」


その言を聞いた刹那、娘は地に崩れ落ちた。

髪に覆われた双眸が己の体を見据える。既に娘の体には頭が着いていなかった。

その身でありながら、娘は男の言うた「月の欠片」に納得した。

娘は「楽」を知ることなく息絶えた。

先程まで見当たらなかった望月が、息せぬ娘を照らし上げる。







月の欠片を拾った夜。

娘は『感情』を得て『命』を失った。





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欠けた娘 柊三冬 @3huyu

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