黒の髪、銀の髪

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 魔女の価値は髪の色で決まる。

 銀色よりも金色、金色よりも亜麻色、亜麻色よりも栗色、栗色よりも鳶色、鳶色よりも焦茶色――その色が濃く、黒に近いほど、その者は大きな魔力を備えているという、あらわれが、魔女の髪の色なのだという。

 そしてわたしの髪は、烏の濡羽のような、漆黒の色をしていた――


「本当、ネッラの髪って素敵ね……」

 今日も最終の講義が終わり、これからどうしようか、十番街に新しくできたお菓子の店が美味しいらしいわ、そうだわ、いまから行ってみましょうよ、なんて、かしましく言葉を交わす級友たちに囲まれて、わたしが曖昧な笑みを作っていると、うっとりとした声音でマローネがそう囁きかけてきた。

「夜闇のような真っ黒な色なのだもの……見つめていると吸い込まれちゃいそう……」

「ありがとう、マローネの髪も綺麗よ」

 いつものやり取りに、わたしも決まりきった応えを返すと、マローネはばっと一歩跳び退いて、とんでもない、と両手を振る。

「わたしの髪なんて、つまらないわ。ありふれた栗色だし……」

「まあ、そういじけなさんな!」

 そんなマローネの背中をばしばし叩きながら、からりとした声でブルーナが言う。

「ネッラの黒髪に比べたら、あたしらみんなつまんない髪の色さ!」

「そうよ、だってネッラは“黒髪の君”なんですもの」

 調子を合わせて、オウラが弾んだ声を上げる。

「もう、その呼び方はよして、って、いつも言ってるじゃない」

 言葉に苦いものが混じらないように、努めて私は明るく言葉を返す。

 “黒髪の君”。

 魔女の間の伝承で、千年にひとり現れるという、黒い色の髪を持つ子どもを讃える言葉だ。

 不思議なことに、黒髪が発現する子どもは、親の髪の色によらない。

 わたしの母もごくありふれた茶色の髪をしているし、過去の記録によれば銀色の髪の母親から黒髪の子が生まれた例もあるらしい。

 ただ、およそ千年に一度の周期で、黒髪の子は現れる。

 その誰もが無尽蔵とも思えるほどの莫大な魔力を有し、魔術をく操っては、魔女の世界に変革をもたらしてきたのだと、伝承にはある。

 だが、それが自分のことなのだ、ということに、わたしはいまひとつ実感が持てないままでいる。

 母はわたしが黒髪の子だとわかって、狂喜したという。黒髪の子を産んだ母親として、彼女の生涯は安泰が約束されるからだ。

 そしてわたしも、約束された未来に向かって、周りに囃し立てられるまま、ここ、魔女国各地から優れた魔法の才を持った子女が集う、アカデミア附属魔法学園中等部の最上級生にまで登ってきた。

 でも、わたしの視線は、いつもついひとりの魔女の姿を追ってしまう。

「どうしたの、ネッラ?」

 わたしの本当は気もそぞろな様子をはしっこく捉えて、マローネが問うてくる。

「あ、いや……ごめんなさい、別になんでも――」

「もしかして、またグリシャが気になるの?」

 図星をつかれて、どくんと鼓動が跳ねたのを、わたしは悟られないように表情を取り繕おうとする。

「いえ、その……」

「いやだ、ネッラが気にすることなんかないわよ、グリシャなんて」

「そうよ、あんななんて……どうせ卒業試験もネッラが主席に決まっているわ」

「だから、そんなのじゃないってば……」

 作り笑いを浮かべながら、わたしはでも、ちらちらとその方向に視線を向けることを止めることができなかった。

 グリシャは授業がはけたというのに、講堂の隅の席に着いたまま、分厚い革張りの大冊を、その頁に頭を突っ込まんばかりの姿勢で読みふけっていた。

 艶のある銀色の髪をひっ詰めた三つ編みにまとめて背中に垂らし、髪と同じ銀色の縁の眼鏡をかけたグリシャ。

 中等部の三年間、実技の試験で常に一位のわたしのすぐ後につけてきた、不動の二位。それがグリシャだった。

 そして、座学の成績ではそれが逆転する。孤高の一位を離さぬグリシャに、かろうじて追い縋る二位がわたし。

 わたしたちの関係性はそういったものだった。

「自分のすぐ下の位置の子が気になるのもわかるけどさ……」

 ブルーナが頭の後ろで両手を組みながら言う。

「あんたたちの場合、一位のネッラ、大なり大なり大なり大なり大なり……二位のグリシャ、って感じでしょ」

「そう、そしてその他大勢のあたしたち」

 オウラが調子を合わせておどけると、どっと皆が笑う。

 魔女としての能力は、座学で培った理論面よりも、あくまで実践の面に重きが置かれるから、皆があくまでグリシャをわたしの下に位置付けるのは、無理もないことであるのは理解している。

 それでもやはり、作り笑いで場の空気に合わせながらも、わたしは頭の中からグリシャのことを締め出すことができなかった。


 わたしが初めてグリシャのことを意識し始めたのは、中等部一学年の学期中程の中間考査のとき。

 わたしはアカデミア附属魔法学園に初等部のころから在籍していたが、中等部に上がると各地の学園から選抜された優秀な生徒たちが大勢編入されてくる。グリシャもその中の一人だった。

 初めのころはわたしもグリシャを意識することはほとんどなかったように思う。

 同じ教室ではあったが、グリシャははっきり言って地味で目立たない生徒で、いつもどこか怒ったような顔をして、教室の隅でひとり黙々と書を読み込んでいた。

 だが、その印象ががらりと変わったのが中間考査のときだ。

 各教室ごとに行われる通常の試験と異なり、中間考査は学年全体で一斉に試験が行われ、結果も全体を総合したものが発表される。

 実技の試験結果は――当然ながら(と自分で思うのも気恥ずかしいが)わたしが一位。しかし、その下の二位に滑り込んできたのが編入組のグリシャだったことに、わたしは少なからず驚きを持った。

 なにしろ、そのグリシャの髪は銀色なのだ。

 自分の髪の色の特別さというものに鈍感な――いや、普段はなるべく無頓着であろうと、半ば意識的にそうしてきたわたしでも、髪の色の差異を絶対的な尺度のように扱う魔女たちの因習から自由ではなかった、ということをわたしはこのとき思い知らされた。

 そして座学の試験結果で――わたしは正直に言って、自分の目を疑った。

 一位の欄にあった名前はわたしのものではなく、グリシャのものだったのだ。

 口惜しい、という気持ちは、不思議と湧いてこなかった。

 ただ、これまでの短い生涯の中で、自分の名前の上に誰かの名前が並んでいる、という初めての事態に直面して、わたしはただただ困惑した。

 結果としては、実技の評価がより重視されることもあって、わたしが総合評価で一位であることには変わらなかったが、こと魔法において自分より一歩先んじる存在がいる、ということがわたしを内心ひどく狼狽させた。

 わたしはそれから、それとなくグリシャを観察するようになった。

 講義の間、自分から率先して講師の問いに答えようとするようなことはないが、当てられたときには常に簡潔かつ鋭利な言葉で、正しい解を導き出すこと。

 授業の合間の休憩時間にも、険しい顔をしながら分厚い書籍を舐めるように読み込んでいて、それもそれは中等部の図書室から借りてきたものなんかではなく、教室の他のだれも理解できないような、アカデミア附属図書館から特別に借りだしてきた高度な専門書の類であること。

 そして、わたしがなにより心動かされたのが、彼女が構築する魔法の術式のあまりに繊細で、優美であること。

 教室の皆は見た目に派手なわたしの魔法にいつも喝采を送ってくれたが、その陰で厳かに紡がれるグリシャの詠唱のなんと見事だったことか!

 彼女の構成した呪文の、虚飾を一切許さない峻厳さ。簡明でいて、それだからこそもっとも純粋で、必要最小限の魔力で精密に駆動するその在り方。

 きっとそれは、絶対的な魔力量ではどうしても劣る銀髪である彼女が、自身の魔力でも最大限の効果を発揮できるように、研鑽に研鑽を重ね、研ぎ澄ましてきた技巧だった。

 だが、同輩も、教師も、天高く炎の翼を羽ばたかせて舞い上がる巨鳥の姿を生み出すわたしの魔法を賛美することはあっても、グリシャの緻密かつ優雅な術式に従って造り上げられる、氷晶でできたパラティウムの縮小模型の精巧さにはついぞ眼を向けなかった。

 そのころからだった。“黒髪の君”として、無邪気に周囲の賞賛の声を受け入れてきたわたしの心に、小さな染みのように黒い翳が差したのは。そしてそれは、グリシャの魔法を見るごとに、わたしの中でどんどん大きく、暗く、広がっていった。

 周りがわたしを褒めそやすたびに、取り繕った笑顔でそれに応えながら、いつもわたしは心の中で、違う! と叫んでいた。

 本当の天才というのは、グリシャのような人のことを言うのだ。

 彼女の才智と、それを支える血の滲むような努力の前では、わたしの魔法など、児戯をそのまま、規模だけ大きくしてみせただけの陳腐なものに思えた。

 グリシャに出会って、わたしは初めて恐怖を覚えた。

 嫉妬を覚えた。

 羨望を覚えた。

 どうしてあんな人がいるのだろう。あんな人がいなければ、わたしは自分の中にこんな醜い感情があることすら知らずに、皆から愛される“黒髪の君”をやっていられたのに。そう思った。

 ある日、わたしが級友たちのお追従から逃れて外壁の上でひとり物思いに耽っていたとき、眼下に広がる学園の裏の林の中に足を踏み入れていく、三つ編みにした銀の髪の魔女の後姿を、わたしは認めた。

 あっ、と思ったときには、わたしの体は一息に外壁の縁を飛び越えていて、咄嗟に風の魔法と重力制御の魔法を併用したわたしはすんでのところでそっと地面に降り立つ。

 逸る気持ちをなだめながら、わたしは林の中に足を踏み入れた。

 グリシャの姿を探しながら、だが、音は立てないように慎重に、林の中を進んでゆく。

 しばらく進むと、視界にぽうっと蒼い燐光が瞬くのが見えた。

 一層慎重に、身を低くして、わたしはその光のほうへと近づいていった。

 果たして、そこにグリシャの姿があった。

 木々がすこし開けて小さな広場のようになった林の空間で、グリシャがきつく眉根を寄せた真剣な表情で魔術を行使していた。

 身を寄せた木の幹の陰から窺い見るその魔法は、やはりこの世のものでないほど美しく、風に乗って切れ切れに聞こえるその詠唱に、わたしは心が蕩かされるような思いがする。

 そんなグリシャの術式に従い、彼女の眼前では極小の雪嵐が舞い踊り、やがてそれが氷でできた龍の姿になって広場を縦横無尽に飛び回ったかと思うと、渦巻きながら一個の氷塊へと纏まり、それが一流の彫刻家の手による鑿を揮われるかのごとく、ぴしりぴしりと削り刻まれ、優美な女性の姿へと変貌していく。

 氷の精霊を司るとされる女神、プレサティアの似姿だ。

 その彫像を両の手に納めると、細く長い吐息を吐いて、グリシャは詠唱を終えた。

 もはやそれがひとつの芸術とすら言えるグリシャの魔法を、わたしは茫然と眺めることしかできなかった。

 しかし、そのとき――ぱきり、と微かな音が静寂を乱した。

 グリシャの鋭い視線が、わたしを射抜く。

 グリシャの魔法に心奪われたまま、わたしは思わず知らず潜んでいた木陰から一歩足を踏み出していて、その足下で、細い枝が踏み折られていた。

 まるで蛇に睨まれた蛙のようにグリシャの視線に射竦められたわたしとは対照的に、グリシャは落ち着き払って軽く手を振り、惜しげもなく氷の女神の像を投げ捨てる。空中で、その形がほどけて大気に溶ける。

「これはこれは、“黒髪の君”」

 わたしはこのとき、グリシャの笑みを初めて見た。

 冷ややかな、氷の仮面を被ったかのような微笑だった。

「下賤な銀髪の無様な手遊てすさびを覗き見るのがお好きだったとは、思いの外、いいご趣味をしていらっしゃる」

 違う!! そんなつもりじゃなかった!!

 そんな言葉は、石のように喉の奥に詰まって、出てこなかった。

「――っ」

 言葉にならない息を漏らして、わたしは一散にそこから走り出した。

 グリシャから、逃げた。

 気がつけば、遁走するわたしの頬を、しとどに涙が濡らしていた。

 “黒髪の君”。

 あなたにだけは、そんな風に、その名で呼ばれたくなかった。

 あなたにだけは、軽蔑されたくなかった。

 それが、学園でわたしとグリシャが言葉を交わした、最初で、最後だった。

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