第104話 束の間の宴

 悪態をつきながら冷蔵庫へ向かう乾とすれ違って、居間へ戻り座る。宗谷兄妹は既にオードブルを開けてポテトやらをつまんでいた。

 吉峰はというと豪快にスナック菓子をパーティー開けに、それをアテにしてやたらとハイペースでビールを飲み進める。


「...親父来る前に潰れないでくださいよ?」


「大丈夫大丈夫!ウチ酒むっちゃ強いで?」


 チューハイを手にした乾が、どこか懐疑的な視線を吉峰に向けながら戻ってくる。プルタブを起こし中身を少し呷ると溜め息をついた。


「強いんは強いんやけどな...飲む速さがブッ飛んでる。酔い具合はパッと見一般人と同じでも、そん時はだいたい向こうの十倍は飲んでる計算やな。」


「ちゃーんとちょうどええとこで止めとくから心配いらへんよ?」


 すると、玄関のインターホンが鳴らされる音が響く。おそらく橘が来た。俺はいち早く立ち上がって出迎えに向かう。

 客人とはいえ家主に行かせるのは忍びない。磨りガラス越し、寒さに肩をさすっている姿の見える引き戸を開ける。


「...よう!もう始まってるか?」

「外さみィ~...早く入れてくれ!」


 そこには、髪に雪をわずかに積もらせた橘が桐で出来た細長い箱を抱えて立っていた。体温で融けた頭の露を払い落としながら足早に玄関へ入ってくる。


「車乗って来りゃあ....ああ、そうか。」


「おう、酒飲むからな。じゃお邪魔します。」


 やってきた橘と共に居間へ。乾や吉峰はもちろん、盛夏も非正規課員N-Rとなる上で面識がある。歓迎の声と共に、橘は敷かれた座布団に腰を下ろした。

 しかし早くも一缶ずつ空けている酒飲みコンビの注目は、手にしている高級感を醸し出す桐の箱に集まっている。


 熱い視線に観念したのか蓋が開かれる。そこには酒瓶が一つ、その形にくり貫かれた紺のビロードにすっぽり納まっていた。

 ラベルの漢字が達筆すぎて読めないそれは、橘の遠い知り合いが作っている地酒だそう。以前贈られ、飲みながら年を越す予定だったものをわざわざ持ってきたらしい。


「ええもんは入れ物から高そうやなァ~!」

「ここに持ってきたんはいい判断やで課長!美味しく頂いて...」


「アホ!」


「だァっ!?」


 吉峰の拳骨が乾の後頭部を打つ。皆の、朗らかな笑い声が響き渡る。

 ずっとこうしたかった。辛い死を経験しすぎているのなら、緩急をつけて慣らせばいい。

 俺は結局戦いから逃れられない。逃れるつもりもないが。いずれ平穏と殺伐が心の中水平線となり交わる時、それがようやく人間を卒業する瞬間と言える。


「いちいち殴んなや!馬鹿んなってもうたらどうすんねん!」


「手遅れなんとちゃう?」


「相変わらずだなァ二人とも。ほら、皆で味わうために持ってきたんだから取り合うな。」

「っと、グラスは...」


 座ったまま寝たり、何をするにも周囲を警戒したり。そうならないまではまだ、一人の人間としていられる。

 死神。背負ってきたその不名誉な異名こそが重荷を和らげてくれていることに気がついた。

 これは大義名分、一種の免罪符。必要とあらば誰であろうと殺す存在。

 できればなりたくはない。だからこれ以上俺のようになる者を増やさないよう、擲つ。これはそのための跳躍に備えた屈み、兼ねて休憩。


「.....俺も、飲んでみるか。」







 ─────────────────────







 ─────三時間後。


「...不破、俺達そろそろ帰るわ。」


「...ああわかった、そんじゃ。」


「来年また改めて顔出します。よいお年を。」


 すっかりドン引きというか、呆れ顔になった宗谷兄妹が荷物を持って部屋を出ていく。

 それもそのはず、酒の強さについて口論になった乾と吉峰が飲み勝負を始めてしまった。

 その末、完全に潰れた乾が文字通り振り回されかねない勢いで吉峰に揺さぶられている光景が広がっているからだ。


 空き瓶、空き缶はその都度片付けているのだが、とんでもない量が積もった。吉峰は回らない呂律で返事をしない乾へ啖呵を切りながら片手の一升瓶を呷っている。

 橘が持参した日本酒はとっくに空になってしまった。俺はビビって飲まなかったが。

 代わりに適当に選んで飲んでみたストロングチューハイは鼻から抜けるアルコール臭さがどうにもダメだった。もう当分飲酒はしないだろう。


 すると橘は、目の前で展開される一方的な勝負を見て少し笑い、まさぐった懐から煙草とライターを取り出す。

 そして、手前の空き缶を一つ手に取った。


「...なァ睦月。ちょっと付き合ってくれよ。」


「...煙草か?」


「ああ。折角吸えるようになったんだから、コミュニケーションの一環としてさ。」

「ウチにも喫煙者少なくないし、覚えとくのも悪くないぜ?」


「まぁ...一本だけなら。」


「うっし。そんじゃ悪ィから、外出るか。」

「いくら酔い潰れてようが、煙吸えば飛び起きるだろうぜ。乾の奴は。」


 そういえば嫌煙家だったか。そんなことを思い出しているうちに、橘は上着を羽織り外へ向かう。俺もコートのファスナーを上げて後をついていく。

 扉を潜った瞬間、頬に触れた感触。融けた水滴を拭う。夜の空から綿雪が降っていた。

 庭を囲う塀に寄りかかって、風に消されぬよう翳された手の中で人工の火が灯り、役目を果たして再び金属で出来た口へ吸い込まれる。


「コレ吸い終わったら俺は帰るぜ。まだ書類仕事が残ってんだ...」

「酒引っかけりゃ進むかって賭けたんだが、超眠いんだよね。ホラ、来い来い。」


 手招きに応える。受け取った一本を恐る恐る口に咥えると、隣から火をつけてくれた。

 ストローのように息を吸い込んでみると、舌の知らない苦味と共に煙が体内に充満していくのがわかった。

 その衝撃に思わず激しくむせ返り、俺は塊のような煙をいっぺんに吐き出す。それを見て橘は当然といった風に鼻で笑う。


「マジでェッ、煙吸ってるだけかよ...!」


「おうよ。煙草なんて百害あって一利なし。これでろくでもねェモンだってわかったろ。」

「返しな。最近高ェし、消すの勿体ない。」


「じゃあなんでアンタは吸うんだよ...」


「お前が消えちまうまでは、単なるリフレッシュのつもりで吸ってたよ。ミント効いてるヤツをな。」

「でもソレ、全然スースーしねえだろ。もうそいつにリフレッシュの意味はない。」

「煙草なんてのは税金目的に作られたテイのいいドラッグさ。俺はそれでも依存する先が欲しかっただけだよ。」


 体にも悪いからやめてほしい。息子としてかけるべき言葉は果たして本当にそれで正しいのだろうか。

 目を細め、降り頻る雪を見つめながら紫煙を吐き出し、灰を空き缶に叩き落とすその背中は、やけに草臥れて見えた。

 この男が俺を見つけようと奔走している間、俺は温室でのうのうと育って人殺し生活かよ。


 馬鹿げた擦れ違いだ。舌にまだこびりつくような苦味が唾液を引っ張ってくる。

 この苦味にも構わず依存を続けてしまうくらいには、人生をかけた目的を差し置いて休息を選んでしまうくらいには。俺達は傷ついた。

 橘は短くなった煙草を空き缶の中へ放り込むと、俺が一口吸ったばかりの二本目に口をつけた。


「なァ睦月。俺がなんで、お前に会った時に与えた仮の名字を"不破"にしたと思う?」


「.......わかるか。」


「願掛けだよ。れるに、否定のだ。人知れずカルトやらなんやら、時には化け物も相手取って戦うんだから。」

「験担ぎにはこれ以上ないと思わねェ?」


 ただの馬鹿話だ、と歯を見せて笑いながら橘は軽く片手を挙げると、背を向けて雪降る道を歩いていく。俺はその後ろ姿に、なにも言えずにいた。

 角を曲がる。姿が見えなくなる。俺がいない間どれだけ思ってくれていたか、それを再認識させられた今、職務の合間を縫って来てくれたことへの礼すら喉に詰まってしまった。


 クソ、これじゃあ、ますます負けられなくなっちまったじゃないか。つくづく絆とは、縁とは人の心を繋ぎ止めてしまう。

 手放そうとしてもできない。この世に真の孤独なんて存在しない。誰かが自分を想ってくれるからこそ自分が在る。


 事務所に戻ろうとしたが、刀を置き忘れた。少し早まる足を動かして家へ戻る。

 玄関を開けると、まだ居間の方から争う声が聞こえてきた。吉峰の声だけだが。

 刀を背中にかけようとして、止める。今夜はこのまま事務所に戻るつもりだったが、こうも暴れられては心配になる。まだ襟を掴んでぐわんぐわんとやっていた。

 まだ教えてもらってないことはたくさんある。何かあってからでは遅い。俺は電気ストーブの前に座り冷えた手を暖めながら、時折振り返り二人が怪我をしないか確認する作業に従事した。


 酒と煙草の怖さを同時に知るいい機会だった。ああはなりたくないと思い暖気を浴びているうちに、うつらうつらしてくる。

 弁解は明日になってからでも遅くないかもしれない。後ろを見る回数が次第に減っていくのを感じていると、横になりたくなる。

 少しだけ。座布団を折り畳んで頭の下に敷くと、瞬く間に全身の力が、抜けた。

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