第24話 接着剤

 その瞬間、張り詰めた緊張感を無に帰すような明るいオルゴールサウンドが響く。

 見ると、動き出したメリーゴーランドに見慣れない何者かが乗っていた。


 女性だろうか、目深に被ったポンチョコートのフードに隠れて顔は見えないが、細く伸びた華奢な手足が上下にゆったりと揺れるユニコーンの鞍を保持している。


 そっちに気を取られたのか、化け物の触手は螺旋を描きながら勢いよく殺戮の手を伸ばす。


「....穿傀センケ。」


 女性がそう呟くと、そこにあった空間が押し退けられるようにして歪み、手元に突如一振の日本刀が出現する。

 薄桃色をした、美術品のように透き通るような美しい刀身を持っていた。


 そして女性はその伸びやかな肢体を駆使し、優雅に刃を振るう。

 瞬きをした時には、いつの間にかその姿は数メートル先へ動いていた。

 さらに一拍遅れてぼとぼとと落ちる、見事になます斬りにされた触手の残骸。


 続けて襲い来る攻撃を、まるで舞を踊るかのような立ち振舞いでいなし、かわし、受け流す。

 その度に触手は落とされ数を減らし、その度に根元から再生する。


 しばらく攻防が続き、化け物は根負けしたのか歪んだ魔方陣を伝いどこかへ消えていった。

 風に乗って鼻を刺激するおびただしい血の臭いが、華麗なる剣舞の観客から俺を現実へと引き戻した。


 女性は手の内から刀をふっ、と消すと、床にへたり込んだまま動けない俺に目線を合わせるようにしゃがんで声をかけた。


「大丈夫ですか?」


 街中で他人を助け起こすかのように、自然であるがどこか人間味の薄い声。

 俺はその呼び掛けに未だ答えられずにいた。


「特殊事象対策課かぁ。覚えておきます。」

「それじゃ。お気を付けて~。」


 女性は軽やかな足取りでそのまま屋上から飛び降り、どこかへと姿を消した。

 死なずに着地できたか、なんてことはどうでもよかった。

 感情の乱高下の後に訪れた、ひどい脱力感と喪失感が俺の精神を針のように苛んだ。


 それから俺がどのように家に戻ったかは覚えていない。

 ただ大気の中を漂う脱け殻のように歩き、ふらふらと。

 得体の知れない刀を操るあの女性についての報告も、今はする気になれなかった。


 死のう。


 知らないうちに到着したたった一人の我が家。

 俺は寝室に入り、鍵を閉めた。


 その日はただ、泣き叫んで過ごしたと思う。

 声が枯れて、滲み出た血の味が口の中にこびりついて取れなかった。

 寝食も忘れて、二人で夜を明かした白いシーツをメチャクチャに引き裂いた。


 会って二日も経ってない。

 だから決して深い間柄ではないのに。

 なのにどうして、こんなに淋しいんだ。

 初めて相手からキスをされた女性だからなのだろうか。

 これが"失って初めて気づく"、というやつなんだろうか。


 忘れたくても忘れられなかった。

 全てを失った気分だった。

 記憶に焼き付いた舌の柔らかな感触、甘くほろ苦い、雑ざり合った涎の味。

 思い出す度に血走った眼から、涙が。

 空になった腹の中から、胃酸が止まらない。


 次の日はずっとこの寝室に居た。

 喉が渇いても、栄養を失いかけた身体が悲鳴を上げても、指一本動かす気力が湧かない。

 10数分程の浅い眠りと、トラウマの想起から来る覚醒を繰り返し続け、俺はとっくに衰弱しきっていた。


 俺は死ぬ決意をしていた。

 弾の残った拳銃は持っている。

 でもそれを扱える自信がない。

 テーブルの引き出しから見つけた紙とペンで、遺書のようななにかを書きなぐった。

 こんな心中に在りながらも俺は、その死を誰かに知って欲しかったのか。


 何度目かの微睡みに差し掛かった時、ドアをノックする音が聞こえた。

 なにかの弾みで鍵が開いていたのか、扉は向こう側から開かれる。


 そこに立っていたのは、スーツを着た若い男性だった。

 分泌液と吐瀉物が散乱する部屋に、柔和な笑みを浮かべながら入る男。

 眉一つ動かすことなく、男は俺を見るなり「待っていてくれ」と言い残して部屋を出ていった。


 戻ってきたその手には、コンビニの惣菜やパンが詰め込まれた袋。

 それがまた、あの夜を思い出させ、俺は再び激しく嗚咽しえずく。


 男はうずくまる俺の側に袋を置くと、優しく俺の頭の上に掌を当てた。

 みるみる内に肩の荷が下りたような気持ちになり、先程まで心に巣食っていた焦燥や憤懣の思いは消え去っていた。


「あ...んたは...」


 カラカラになったこの喉では、満足に言葉を紡ぎ出せなかった。

 男は袋から取り出したおにぎりを差し出しながら、「ハヤシ」と名乗る。

 俺の新たなバディとして、海外からはるばる顔を見せにやってきたらしい。


 すると、途端に目の前にあるおにぎりがとても美味そうに見えてきた。

 袋から透けていたものの数々が、天からの恵みに思えた。

 目の前で跪く男が、神様かなにかのように見えてしまった。


 林の手から、袋から。食べ物を次々と引ったくりひたすらに食らう。


 林はそのみっともない様を、ただにこにことした表情で見つめている。

 復活した食欲よりも胃のキャパシティの限界が先に来たのか、呼吸が少し苦しくなった。


「大丈夫かい?顔色はよくなったみたいだ。」


「....ありがとう、ございます...」


「いいんだよ。当然のことさ。」


 林は、俺が書いたを拾い上げると、少し悲しそうな顔をした。


「君、これから死のうと?」


「........」


 俺が答えられずにいると、林は突拍子もないことを言い出す。


「意外かもしれないが、遺書は良いものだよ。書くと、希死念慮で溢れていた元の自分から抜け出して、スッキリとした気分でその先をまた生きられる。」

「もし死にたくなったら、遺書を書くといい。ただし、只書くだけだ。」

「その度に生まれ変われるから。」


 やつれきった心に染み渡る、天啓。解決策。

 この人もまた、会って間もないはずの相手。

 それなのに、彼の言葉には妙な説得力が伴っていた。


 話し終えた林は、頭を軽く下げると、部屋から出ていこうとする。

 俺が呼び止めると、林はその訳を告げる。


「決心がついたよ。僕はここを辞める。」

「また新しいバディが来る。その人とは、きっとうまくやっていけるはずだよ。」


 そう告げるとそのまま振り切るように、出ていってしまった。

 入れ違いになる形で、心配した様子の橘課長が智歩を連れて入ってくる。

 相変わらず後生大事に、俺のやったジャケットを抱えていた。


「柴崎!!柴崎、大丈夫か!!」


「大丈夫、です....栄養失調なのかな...はは...」


 力なく、ありもしない空元気を振る舞おうとする俺に、智歩は強く抱きついた。

 二人の痩せこけた心身が複雑に絡み合う。

 その頬には、涙が伝っていた。


「ソータロー...!えぐっ、うぁあああ...!」


 聞いたこともない大声で泣きじゃくる智歩を、俺はただ撫でた。

 同時に、俺はあの恩人のことを一生忘れないだろう、とも思った。


 一言礼を言いたかった。

 智歩を橘課長に任せ、家を飛び出し道路の真ん中で俺は辺りを見渡す。

 しかし林の姿は、影も形もなく消えていた。

 後を追いかけてきた橘課長に、俺は声を上げて訊く。



「課長、あの人はどこに!?」


「あの人...?なんのことだ?」


「林さんですよ、見なかったんですか...!?」


「林?誰だ、ソイツ。」


「え...?」







誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?誰だ?





 ......





「....ッ。」


 頭がひどく痛む。

 いつの間にか、遺書の燃える様子を眺めながら寝てしまっていたようだ。

 なにか以前のことを思い出していたような気がするが、俺は夢の記憶を起きた時に持たないタイプの人間、内容をよく憶えていない。


 とっくに黒くなってしまった、金属バケツに入った目の前の燃えカスを、もう一つのゴミ箱へ捨てる。

 時刻は既に空港への集合時間に迫っていた。

 しまった、これじゃあ飛行機で寝られない。


 溜め息をつきながら居間に向かうと、ゲームを点けっぱなしにしたまま智歩がソファーの上で居眠りしていた。

 とっくに糸がほつれた俺のジャケットを、丁寧に畳んで胸に抱いている。


「こんなモン捨てりゃあいいのに...」

「起きろー、空港行くぞ。」


「.....ん、ふゎぁ~あ。」

「ねえ、ソータロー。」


「...どうした?」


「わたし、夢見た。」

「昔のソータローとか、ミヅキとかいた。」


「...奇遇だなオイ。ってか、時間ヤバイって。早く支度しろよ!」


 智歩を急かし、俺達は着替えやらの荷物をキャリーバッグに詰め込んでいく。

 緊張感緊張感。旅行じゃなく任務なんだ。

 バッグを一旦開き、チェックリストを片手に順に指差して忘れ物の確認をしていく。


 智歩がと称した携帯ゲーム機。

 必要ないものだが、無闇に却下すればまた無視されるしなあ。

 悩んだ末俺は渋々それを許した。つくづく甘っちょろい野郎だ。


 家を出るとき、羽織っている古いジャケットについては、俺は特になにも言わなかった。

 いつかにその場凌ぎに渡しただけものだが、大切にしているなら仕方ない。


 蒸し暑い空気に憂いの息を吹き掛けて、俺達は家を出る。


 これが終わったら、酒でも飲もうか。

 夜空を切り取る月を見ながら、俺は珍しくそんなことを考えていた。

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