第21話 Be cool.

 日付が変わる頃。俺達はついに、買ってきた分の酒を全て飲み干してしまった。

 もっとも、そのほとんどを消費したのは俺ではなく、稲葉さんなのだが。


 体温が上がったせいでかなり汗ばんでいる。

 着替えたいところだが、残念なことに今着ている分しか持ち合わせがない。

 シャツの張り付きに難儀していた俺にうとうとし始めていた稲葉さんが気づいた。


「ん~?あぁ、汗かいちゃったねぇ~。シャワー使いなよー。着替え置いとくから。」


「...すみません、助かります。」


 俺は床に転がった空き缶を避けて歩きながら、風呂場へ向かう。

 脱いだ服をカゴに畳んで入れ、タイルを踏み締める。

 そして、水がお湯に変わるのを待たずに、俺は頭からシャワーを浴びた。


 磨りガラスの向こうで、足元に着替えを置いてくれている稲葉さんの姿がうっすらと見えた。

 あれだけ飲んだんだ、よろよろと歩いているのがここからでもわかる。


 万が一にも転んで頭でも打ったらヤバい。

 急いで身体を洗い流し、浴室を出る。

 着ていた服は出てすぐ横にある洗濯機に全て放り込まれていたようだ。

 代わりに置かれていた服は、アイロンのかけられていないシワだらけのTシャツ、Yシャツと古いダメージジーンズ。


 成り行きで来たとはいえ、シャワーを借りた。

 文句を垂れる筋合いなんてない。

 俺は黙ってそれらを着て、居間へ戻った。

 ソファーの背もたれに両腕を回し、テレビを見ながら俺が飲み残した缶を飲んでいる稲葉さんがこちらに気づく。


「おっ、上がったね~!コンタクトにすりゃーいいのに...勿体無~い。」


「....別に、顔がいい自負はありませんよ。」


「ん~?私顔のことだなんて一言も言ってないよ~お?」


「なっ....」


 稲葉さんは立ち上がると、俺の肩にもたれかかりながら浴室へと向かう。

 すれ違いざまに酒臭い息が脇を抜けた。

 俺は元いた場所に座り直し、空き容器に残ったあたりめの切れ端を取って、かじる。


 顔を真上に上げて、室内の空気を掻き回すシーリングファンの羽をただ目で追いかける。

 耳に入るのは、と、シャワーの音だ。

 特に身体を動かしてもいないのに、どっと疲れた一日だった。


 明日はどうか普通の日であってほしい、と願いながら瞼をゆっくり閉じ、開き、また閉じて開く。

 そんなことを繰り返していると、浴室の扉が開く音が聞こえる。


「ふぃ~、サッパリサッパリ♪︎」


 その声に振り返ると、俺はぎょっとすると同時に、罪悪感のようなものが一気に込み上げてくるのを感じた。


 タオルで濡れ髪を拭きながら、一糸纏わぬ姿で稲葉さんが現れたのだ。

 自身の状態に疑問を呈する様子もなく、稲葉さんは俺の隣に座ろうとしてくる。


「ぃいっ、稲葉さんッ!服、はよ服着てくださいって!!」


「んあ~?あぁ、ゴメンゴメン!」

「いつものクセでさぁ、私普段家だと裸族なんだよね~。あははっ。」


 すると稲葉さんは、タオルを首にかけるといたずらっぽくからかうような微笑をして、わざとらしく両腕で、露になっている胸を隠した。


「"キャー!見ないでー!"みたいなコト、言ってほしかった~?」


「い、いいから!とっとと服を...!!」


「若い子をからかうのってホント楽しいわ~。それじゃお望み通り服、着ますかね~。」


 別室へ入っていった稲葉さんは、下着とTシャツだけを身に付けた状態で戻ってきた。

 Tシャツの白に透けた黒が、かえってコントラストを生んでしまっている。


 そして、テーブルに並んだ缶を持っては置き、持っては置きとやっている。


「やべ、もう全部飲んじゃったんだっけ~。」

「買い足すのめんどいし...もう寝る?」


「....そうしたいです。」


「ん。じゃ、おいで。」


 稲葉さんについていくと、寝室に案内される。

 夫婦で使っていたのであろう大きなダブルベッドが、部屋に入ってすぐ目に飛び込んできた。

 紐を引かれた、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた暖色のランプが灯る。


「俺一人にしては...広くないですか。」


「一人?なに言ってんの~、二人に決まってるじゃん!」


 二人。ということは、添い寝するのか?

 脳内回路が弾き出した結論を理解し、収まり始めていた胸の高鳴りが再び甦る。

 俺が入り口で立ち尽くしていると、稲葉さんはベッドに背中から飛び込んだ。


「お、俺はソファーで寝るんで...」


「えぇ~?フツー逆でしょ!というか私と寝るの、そんなにイヤ?」


「別に嫌って訳じゃ...」 


 足を崩してシーツの上に座り、まるで純情な乙女のような潤んだ瞳をこちらに向ける稲葉さん。

 既婚者と聞いたからには、俺が変に深入りするわけにはいかない。

 しかしここで断って、今後の関係に傷でもついてしまったらどうしよう。


「あーわかった、わかりましたから...!」


 ...できるだけ端に寄って、背中を向けて寝ていれば大丈夫だろう。

 自分の理性を信じないでどうするんだ。

 きっと明日にはこの酔いも抜けて、今夜のことなんか綺麗さっぱり忘れてくれているだろう。


 朝方にでもこっそり起きて、ソファーにでも移っておけばいいんだ。


「へへ~、ありがとっ。」

「じゃ...寝よ?」


 稲葉さんは自身の隣をポンポンと叩く。

 俺は溜め息をつき、肩を落としながらベッドに腰掛け、横になり布団に足を入れた。

 もちろん背中は稲葉さんの方へ向けている。

 そのまま身体が絶対に触れないよう、少し折り曲げた布団を間に挟んで壁を作った。


 目を閉じ、楽しいことを考えて寝ようとする。

 もし金持ちになったら。

 もし魔法が使えたら。

 もし、特事課最悪な職場から抜け出せたら。


 しかし、眠れない。

 点けっぱなしになっているランプの光が瞼の裏にチラついているからなのか。

 この状況にひどく緊張しているからなのか。

 とっくに酔いは冷めた。

 火照った頭も既に冷えきっている。


 大丈夫。何食わぬ顔をして振る舞っていれば、何てことはないんだ。

 俺は消灯を申し出ようと、身体を捻りゆっくりと振り返る。

 もしもまだ稲葉さんが起きていたらの話だが...


「...やっとこっち見たね。」


 稲葉さんはまだ起きていた。

 反射するオレンジ色の光を瞳の奥に輝かせ、穏やかな笑みを浮かべたままこっちをじっと見つめている。

 この表情に込められた意味はなんだろう。


「あ、あの...電気を消したく、って...?」


「いいの。すぐ終わるから。」


 それを洞察する暇はなかった。

 布団の中、身をくねらせながら稲葉さんがこっちへ近づいてくる。

 向けられる視線はそのままに、必死の思いで築いたはずの壁はいとも容易く破られた。


 そして、距離はゼロへ。

 戸惑いを隠せない俺に、桃色の唇が迫る。

 吐息がシャツの襟にかかる。

 それらが近づくごとに、相手の瞳はなめらかに閉じられていく。


 俺はその慕情を、理性で否定した。


「...ダメです...!」

「アンタは、旦那さんがいるんでしょう...!?俺みたいな人間にうつつを抜かして、どうするんです!」


 密着しかけた稲葉さんの肩を抑えたまま、俺は真っ向から綺麗事を並べ立てた。

 普通で結構。凡庸で結構。

 新参者の俺なんかに、そんな覚悟はできない。


 他の課員に言わせれば、人が死んだ痕跡をなんだ。

 たったそれだけのことであれだけ狼狽えられる人間に、ベテランが心を許してはいけない。

 軽はずみな行動はしないでくれと捲し立てる俺の唇に、稲葉さんは人差し指を当ててクスクスと微笑んだ。


「ホントに柴崎くんは優しい人なんだね。」

「私の旦那も、こんなに優しさを表に出せる人だったらよかったのにな~。」


 心の隙間を埋める遊びの関係を望んだなら、こんなにつまらない男はいないだろう。

 前触れなく訪れ芽生える真実の愛を求めていたなら、こんなに奥手な男はいないだろう。

 そんな俺に稲葉さんはただ、ありがとう、と告げた。


「私の旦那ねー、優しいんだけどぶきっちょなんだ。いつも一人で突っ走って、なにも言わずに自分だけ傷だらけになろうとする。」

「今もそう。失くしたものばっかりずっと追いかけてっちゃって、ホントは私のことなんか見てないんじゃないかって。」

「あの部屋で、ひとりでお酒飲んでると時々不安になるの。」


 俺には到底関わる余地のない、抱えた悩み。

 何か力になれることがあれば、と俺は言った。

 それでも稲葉さんは首を横に振って、今のはただの独り言だとしてはぐらかそうとする。


 キスを迫った理由も酒の勢いと、単に寂しさが積もりに積もった結果だから、と背を向けながら小さな声で言った。

 俺にその寂しさを受け止める資格なんかない。

 俺は全くの部外者だし、なにより関わりを持つことは浮気に他ならない。


 女性の恋愛心理なんかわかったものじゃない。

 俺が目の当たりにしたいわゆる乙女心は、千変万化の万華鏡。

 美しくも儚く、気の赴くままに形を変えながらどこかへと移っていく。


 再び稲葉さんは振り返ると、さっき見せたようないたずらっぽい笑顔で言った。


「でも拒否られたのはフツーにくやしい。だから、機会が来たら本気でチューするからね。」

「せいぜい震えて眠りなさい、新米ルーキーの柴崎 宗太郎くんよ!」


 激励なんだか脅迫なんだか、よくわからない言葉を投げ掛けられ、俺は緊張の糸が切れたように脱力し、マットレスに身体を沈める感覚を改めて認識した。

 馬鹿馬鹿しいと思ったら、本格的に眠い。


 今度こそ、ぐっすり眠れそうだ。

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