第一章「第二の人生」

第1話 喪失

──────某拘置所、名もなき青年。



 多分、二十七日目。

無機質な天井をただ眺める日。


 色褪せた畳の床に寝転がって、生きているか死んでいるかすらわからない濁った目をときどき瞬かせ、運ばれてくる素朴な食事を摂る。

 感性が死にかけてる。格子窓越しの空はとっくに見飽きてしまった。あんなもの、青いか灰色か、黒いかだけの違いしかない。

 今日は、青ひとつない曇り空だった。


「出ろ。」


 扉の外から、あんまり聞き慣れないパターンの声が聞こえてきた。

 今日は、接見の予定があったんだっけな。

 硬くなった身体を起こし、小さく唸りながらゆっくりと立ち上がる。

 見るに耐えない面をしているのは言われるまでもなくわかってる。手前に立つ制服姿の刑務官。眉間にシワが寄っているのが見える。


 扉から出て、二人の刑務官に連れられて歩く。やがて着いた見知らぬ別の部屋。

 景色が違う、それだけで僅かに気分が高揚するのを感じた。ここが取調室であると鈍い頭で察するまでは。

 パイプ椅子に座らされると、目の前の穴の空いたアクリル板の向こう側には派手な格好をした男が座っていた。


 前ボタンを全て開けたアロハシャツに、やたらとカジュアルなサンダル。

 ニオイのきつい整髪剤で固められた金髪に引っ掛かったサングラス。無精髭。

 とてもこんな場にいるわけがないような風体。俺が言えた口ではないが。

 いや、むしろ合ってるのは俺の方かもしれない。


 男は俺に、優しく、それでいてどこか親しみのある声色で俺に話しかけた。


「よう。会えて嬉しいよ。」


「俺は、警視庁特殊事象対策課、課長の橘丈一郎タチバナ ジョウイチロウだ。よろしく。」


「名前、言えるか?」


 言えない。言えるわけがない。

 なぜなら、知らないから。


「...わからない、です。」


「そっか。なら俺が決めてもいいかな。」


 そういうものなのか。

 自分の名前を知らなければ、勝手に他人が決めてもいいのか。


 いや、考えれば、犬や猫がそうなんだから。

 名乗れすらしない俺に、拒否する権利はないだろう。

 少なくとも今は、卑屈にもそう思った。


「どうぞ...」


「ん。じゃ、お前は今日から、不破フワ 睦月ムツキだ。覚えたか?」


「不破...睦月。」


 何故だろうか、妙にしっくり来るような来ないような名前だ。


「良し。次、質問な。」

「ここに来るまでに、憶えていることは?」


 憶えている。覚えがないことを憶えている。

 俺は、人を殺した。殺していた。


────── 一ヶ月前。



 ふと気づいたら、警官が五、六人、死体となって足下に転がっていた。

 そして俺の手に握られているのは、黒々とした血がこびりついた日本刀。

 この光景に対してアンケートでも取ってみれば、全員が俺がやったと答えるだろう。


 しかし、殺す意思はなかった。記憶だって。

 例えるなら、警官をような。


「動くなッ!!」


 辺りを取り囲んでいた警官たちが、俺に銃口を突きつける。

 わけのわからないまま震えながら刀を手から情けなく滑り落として、俺はもみくちゃに取り押さえられた。

 アスファルトの床に頬を擦り付けられる痛みと、降りしきる雨の酷い冷たさ。

 あの時に俺は、ホンモノのを体感したのだろう。


         ~現在~


「........それで、今に至ります。」


「そこまでは記憶があるのか。なるほど、やっぱり奴が関わっているか。」


「.....奴って?」


「いやなに、お前を取っ捕まえた日に追ってた男がいたのさ。お前と同行してたんでな。」

矢嶋ヤジマという犯罪エージェントの男なんだが、これも記憶にないか。」


 聞いたこともない名前だ。矢嶋?

 そんな危険人物と、俺は一体なにをしていた?謎は深まるばかり。


「...知らないです。」


「そうか...まぁそれはそれでいい。」


 橘が、おう、と扉の脇に控えていた刑務官に声をかけた。

 俺の前に運び込まれたのは、一杯のカツ丼。

 そんな見た目をしておいて、慈悲深い刑事サン気取りってわけか。


「.....なんですか、これ。」


「カツ丼。」


「見りゃ、わかりますけど...」


「食わないの?お前、しばらくここの薄味のメシしか食ってないんだろ?」


「まぁ、そうですが...これ、食べたら罪を認めたことに、とかいうヤツですか。」


「いや?ただの善意だよ善意。大事な話はこれからだ。気にしねェでまず食え。」


 橘は煙草を一本取り出し、火をつけようとしたところで刑務官に止められている。

 壁掛け時計を見ると、もうすぐ昼食の時間。

 食に対する関心は失せかけているが、腹が減っていることは確かだった。


「...じゃ、お言葉に甘えて。頂きます。」


 一口頬張ると、想像よりも味が濃く感じた。

 久々に口にする甘辛さの割り下に唾液が溢れ出て、エラのあたりがつんと痛くなる。

 そこからはもう止まらなかった。

 熱さも気にせず、ハフハフと呼吸しながら俺は一心不乱にカツ丼を貪る。

 それを橘はどこか寂しそうな顔をしたまま、頬杖をついて眺めていた。


「...ご馳走さまです。」


「おう。ウマかったか?」


「...そりゃあ、久々ですから。」


「ハハハッ、無理もねェや。それじゃ本題に入ろう。真面目な話だ。」

「お前の罪状は、六人の殺害だ。フツーなら死刑。ここまでいいな?」


「......はい。」


「いつの間にか人を殺した。記憶喪失の立証もできた。おまけにその原因が不明瞭ときた。」

「俺達特殊事象対策課は、そんなお前を酷に思って、ある提案をお偉いさんに提出した」

「お前を、ウチで雇うって話だ。」


「...雇う、ですか....」


 一体全体、この男は何を考えているんだ。

 素性をまだ知らない場所とはいえ警察組織。

 そこで六人殺しの犯罪者を雇う?馬鹿げている。そんな思考を読むように、橘は続ける。


「安心しろ。課員、半分以上元々は犯罪者だからよ。」


「は...?」


「元テロリストだろ、元詐欺師だろ、あと傭兵一家の子供もいるなァ。」


「...統率取れるんですか、それ。」


「問題ない。ひとりひとり監視役をつけるし、もし脱走とか命令違反をしたら...」

「こちらが殺害する権利がある。」


 思わぬ残酷な条件に、思わずつい、ごくりと喉の奥に唾を飲みこんでしまう。従わなければ、殺されるのか。


「ウチは、国が秘密裏に、試験的に設置した対オカルト系事件専門の窓際部署でね。」

「ウチのメンバーには、殺人の権利が与えられているんだ。」


 殺人の権利。

 法によって築き上げられてきたはずの、平和の均衡を破壊するようなもの。

本当にそんなことがあってもいいのか?甚だ疑問だった。


「もっとも、誰でも好きに殺していいわけじゃない。任務内において、明らかな敵と見なした相手だけだ。」

「もちろん、好き勝手殺ったら...」


 コッ、と舌を鳴らしながら、橘は首を親指で掻っ切る動作をしてみせた。


「このままじゃ死刑が執行される。ウチは人員不足だし、お前にとっても悪い話じゃないと思うが、どうだ?」


 どうせ、俺は六人も殺した。

 その記憶がなくとも事実が消えないことは、この一ヶ月で理解している。

 自分が何をやらかしたかは、この目で見たんだ。

 だから今更、誰をどう殺したって、一緒だと思った。

 この男の下で、国が飼う人殺しの「不破 睦月」として生きるのも、アリじゃないか。


 空っぽに欠落した記憶を、なにかで埋めたかっただけかもしれない。

 理不尽を叩きつけられて殺人者に仕立て上げられた怒りを、なにかにぶつけたかったのかもしれない。

 結論を出す前に俺は、答えていた。


「やります。」


「おう。いい返事だ。」


 この瞬間、が全てを喪って、新たな自分を得た。

 俺が元々誰だったのかなんて、知ったことではない。


 今はただ、居場所が欲しいんだ。

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