川の上から
花月夜れん
―
「みーちゃん、こっちだよ」
「待ってよ。なこお姉ちゃん!!」
一人で姉は先に行ってしまう。私は置いていかれた。
「あれ、どうしたの? 頬を膨らませて」
姉に追いつけないと思った私はとぼとぼと母のところに戻った。
母は少し驚きながらこちらに近付いてくる。
「何でもない」
口を尖らせて、言いたい事を飲み込んだ。姉は怒ると怖いから。
母は私の頭に手を置いてぽんぽんと撫でてくれた。小さく仕方ないなぁと言いながら。
小学一年生の夏休み。毎年帰る母の故郷。去年もここで遊んでいた。
姉はもう勝手に行っても怒られない。だから置いていかれた。小学校五年生の、なこお姉ちゃん。
「もう少し待ってね。今敷物敷き終わるから」
母はそう言って、木陰のごつごつした石がある場所にビニールシートを敷いていく。あれ、座ると痛いけど、慣れれば気にならない。大きめの石の上に座るのがポイントだ。
「私も手伝う」
「ありがとう」
姉は勝手に泳いでる。本当は一人で泳ぎたいけれど、母は「みーちゃんは一人では駄目。なこちゃんか私と一緒よ」と釘を刺してくる。
目の前を流れる冷たくてきれいな川。まばらだけれど地元の子ども達や私のような帰ってきてる子どもが泳いでる。
魚が泳いでるからそれを捕まえようと網を持ってる子。少し高い岩の上に立って川の中に飛び込む子。車みたいな浮き輪に乗ってる小さな子。
姉はその中で飛び込み岩のところに並んでいた。私はあそこから飛び込みする勇気がないのを知ってだろうか。
「みーちゃんはプールでいい?」
「うん」
「浮き輪はいる?」
「いらない」
浮き輪を膨らませていたら、泳ぐ時間が短くなってしまう。私はそんなことを考えながら母を急かした。
「準備体操は?」
「したよう。はやくっ! はやくっ!」
まだしてない。だけど、したと言った。目の前の川の中で泳げば体操になるのだから必要なんてないよねとの考えだった。
母はゆっくりと石の上を進む。私の足より大きいから難しいのかな。だけどもっとはやく歩いてほしい。
「お母さん」
やっと水の中に行けると思ったのに、姉が戻ってきた。
「なこちゃん。ちょうどよかった。みーちゃんと一緒に泳いでくれる?」
「……うん」
さっき置いていったばっかりなのに、絶対嘘だ。
そう思ったけれど、母はお願いねと言ってすぐにシートの場所に戻っていった。母は隣に陣取っている近所の友達という男の人と話したいのだろう。
男の人にも家族がいた。男の子どもが一人、女の子どもが一人。ただ、男の子どもは姉より年上で一人で泳ぐのを許可してもらっているようだ。彼は一人川の中を泳いでいた。女の子どもは一人じっと男の人のそばにいる。
「行くよ!」
「え、でも」
私はプールのようになっている場所で泳ぎたかった。だけれど彼女は整備されていない【川】の方へと私を引っ張っていく。
「なこお姉ちゃん」
「大丈夫だって、もう小学生でしょ」
そうだ。プールなら習ってる。少しならもう泳げるはずだ。
母を見る。もう私達を見ていない。
姉はもう川に足をつけていた。私も引っ張られそのまま足を水につける。
「冷たいー」
暑い空気と冷たい水の境目。気持ちがいい。
パシャパシャと足を進める。さらさらと水が体を撫でていく。
「みーちゃん、ここなら足届くよね」
「うん」
今年は届く。小さな小さなたくさんの小石を足の指先に感じる。
「じゃあ、そこにいてね」
「えっ?」
突然姉はそう言うと上を指差した。
「今から、あそこから飛ぶから、動かないでそこにいてね」
「なこお姉ちゃん! でも、お母さんが」
「あそこから飛び降りたらすごいんだって。さっきあの子が教えてくれたの」
「あの子?」
「ほら、あそこ」
橋とも言い難い何か。人が通れるであろうけれど、かなり高い。
「無理だよ、危ないよ」
「大丈夫だって、ほら飛んでる子いるでしょ?」
「えー」
私はこっち側は見ていなかった。だから、さっきまで誰かが飛んでいたんだろうか。今は誰もいない。
「動いちゃ駄目だからね」
「なこお姉ちゃん!!」
これ以上先は私の足がつかない。戻ると、姉に怒られる?
私は姉が向こう側に泳ぎきり、石を登って橋のところに上がって行くのをただ見ていることしか出来なかった。
姉は誰かに引っ張られるように橋の縁に立った。本当に大丈夫なのだろうか。
姉はすぅっと息を吸い込んで、体を小さくした。飛び込みの体勢だ。次の瞬間、姉はそこから落ちた。
「危ないよ」
「ひっ」
後ろから女の子の声がした。あまりに近いその声に驚いて私は足を踏み外した。
何かに下から引っ張られるようにずるりと。
突然視界が水でうまる。上にいかないとと思うのに、足もとの砂が次々に崩れ、流れていく。水が上から押してくる。
助けてという言葉も水の中では意味をなさない。
ただただ、苦しい。上に行かなきゃ。でも足がつかない。
目の前が真っ白になった。
何も聞こえない水の中なのに誰かが、「あげない」と言ったのが聞こえた。男の子の声だった。
――――。
大きな手が私を引っ張ってくれた。
そんな気がした。
「大丈夫か?」
私は水の上にいた。大きな男の人がそこにいた。
「はい」
そうだ、姉に怒られる。動いちゃ駄目だって言われていたのに。
「なこちゃん、なこちゃん!!」
お母さんの声がする。
「なこちゃん、どこ!! なこちゃん!! みーちゃん! なこちゃんはどこ!?」
母は怖いくらいに私を揺すってくる。まだ、ぼーっとしてるのに体を揺すられ大きな声で叫ぶそれは恐怖そのものだった。
「お前母親か! この子沈むとこだったんだぞ。助けてって声をあげてくれた子とオレがたまたま近くにおったからよかったものを」
「みーちゃん! なこちゃんは!?」
「おいっ。聞けって――」
「なこお姉ちゃん、あそこから飛び込むって」
私は橋を指差した。
それを見た助けてくれた男の人が顔を曇らせる。
「連れていかれたか……」
小さくそう言ったのがいまだに私の耳に残ってる。
◇◆
あの日から、母はおかしくなり私は父と二人で暮らしている。
姉は見つかった。ただ、…………。それから、家のなかはずっと静かだった。
大きくなり後から聞かされたのはあの川の飛び込みで、男の子が亡くなって地元の子ども達はあそこから飛び込みするのをやめていたという話。
姉はあの時、誰に聞かされて何を見ていたのだろう。
大学生になった夏、母に会いに車を走らせる。――母の故郷。そう、あの場所の横を通る。
小さな橋、立ち入り出来ないように柵をされていた。
だけど、見えてしまった。小さな影が飛び込む。楽しそうに、勢いよく。
母の住む家についた。
変わらない。だけど、変わってしまっていた。
「おかえり、みーちゃん」
母の隣にはあの時の近所の男がいる。
仏壇に並ぶ写真、祖父母達と姉とあの夏に見た男の子。
それに手を合わせる、どこかで見たような顔の髪の長い女が一人。
「こんにちは」
危ないよと言った女の子の声とあげないと言った男の子の声を合わせたような音が水の音とともに耳の中を通り過ぎた。
川の上から 花月夜れん @kumizurenka
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