5.5-7 「シェン」
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次の朝。
他の子たちが全員出払った後の寝室に、またシェンは一人で残されていた。
すると、一度出て行ったはずのロジーが一人で戻ってきて、「ついてこい」と言う。シェンはロジーの背中を追って、子供たちの家を出た。外は昨日と同じくらいの快晴だった。
「今日から、パルマは芸の稽古をするぞ」
ロジーが背中越しに言う。シェンはやっぱりな、と思った。
「昨日、俺たちのする演目は全部見ただろ。あの中でまずはどれか一つ覚えるんだ。覚えたらショーに出てお客に見せるんだからな、気合入れて頑張れよ」
あい、とシェンははっきり返事した。
「んで、まずはどれがパルマに向いてるか確かめなきゃいけねえんだけど……今日稽古に出てるやつらのところで片っ端から試してみるか」
そう言ってロジーは、シェンを劇場小屋の方へ連れて行った。
日がな一日、いろんな子供のところを連れ回された。
劇場小屋と家畜小屋、そしてその周辺を取り囲む森と採石場の間を稽古場にして、子供たちが自分の演目を練習している。
木の間に縄をかけている綱渡りの子や、木の枠に布を貼り付けて大玉を作る玉乗りの子、地面に丸く座り込んで新しい譜を合わせている早口演奏の子供たち、ナイフ投げのシャモア、とにかくたくさんいた。
ロジーは、シェンが全員のところを回り終わるまで丸一日見張っていた。どれを稽古させるか見極めているのだろう。どれも、それなりにできたと思う。
その次の日も、同じようにロジー監視のもとでいろんな演目を回った。
稽古場には、昨日いた顔ぶれは誰もいない。馬車隊の大人たちがランタナヤのはずれの方に屋敷を持っていて、そこの雑用に行っているそうだ。
子供たちは、見世物の稽古と、大人たちの屋敷の雑用を日替わりで交代するのがルールらしい。だから今日稽古場に揃っているのは、昨日雑用に行っていたメンバーだ。
そういうわけで、昨日と違う演目を、シェンはまた片っ端からかじった。
エブリンのところにも行かされたが、馬に乗ったのは初めてで大失敗した。というより、そもそも体が小さすぎて、鞍をつけてもらっても上手く跨れなかった。
全部の演目を回り終わった、夕方。
真っ赤に燃える夕日が、採石場の向こうの森に沈んでいく。風は冷や水のようにつめたくて、さわさわと吹きつけるたび全身に鳥肌が立つ。
さっきまで稽古の片付けでてんやわんやしていた子供たちは、全員ハオじいのいる家へ帰ってしまった。劇場小屋のすぐ横で、残っているのはロジーとシェンの二人だけ。
「最後だ、パルマ」
ロジーは言って、ニヤリと笑った。浅黒い顔が夕陽を受けて艶めく。
「俺と勝負しようぜ」
「し、勝負?」
シェンは面食らった。ロジーは得意そうに、
「そ、俺と組手すんの。先に背中をついた方が負けな。じゃあよーい、はじめっ!」
掛け声とともに、いきなりロジーが飛びかかってきた。こうなったらつべこべ考えている暇もない、シェンは姿勢を低くしてロジーの股の間をくぐって避けると、体を捻ってロジーに向き直った。
それからだいぶ長いことやり合ったと思う。
ロジーがもういい、と言った頃には、空には星が瞬き、シェンたちの影は足元の闇に飲まれていた。
「か、帰ろうか」
ロジーは肩で息をしていた。
「あぃ」
シェンも肩で息をしていた。
決着はつかなかった。
ロジーの攻撃は速くて重くて容赦なかったけれど、シェンの方がはるかに体が柔らかくて、スピードも若干上回っている。
シェンはロジーの攻撃をウナギのようにぬるりぬるりとかわし続け、こちらからは一切攻撃しないかわりに、ロジーにも一発たりとも当てさせなかった。別にシェンは勝とうとも思っていなかったが、続ければ単純にスタミナの切れた方が負けていたのだろう。
いや――むしろ、シェンはあっさりと負けておいた方が良かったような気がしていた。でも、なぜかそれができない。
後から考えてみて分かったことだが――正面から喧嘩をしたのなんて、まだ物心ついたくらいの頃が最後。あとはずっと逃げたり奪ったりするための、最低限の戦いしかしていない。勝ち負けのない戦いしかしてこなかったから、わざと負けることもできなかったのだ。
ともあれ、帰りの道に就いたロジーは、後ろから見てもよく分かるくらい、機嫌良さそうだった。それが薄気味悪くて、シェンはやはりあっさり負けておいた方が良かったんじゃ…….と後悔した。
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「ねえ、パルマ昨日すごかったんだってね!」
次の朝、家を出て行く子供たちの列の最後尾で、エブリンが嬉しそうに言ってきた。
「ロジー、自分で〝パルマには歯が立たなかった〟って言ったんだよ。あのロジーが! パルマほどよく動ける子いないって。だからパルマは俺の弟子にするって!」
「えっ……」
シェンは歩きながら頭を抱えそうになった。
ロジーの弟子。
ロジーは猛獣使い。
じゃあ、自分がこの一座で仕込まれる演目は……
隣にエブリンがすすっと寄ってきた。
「ロジー、なんかこういうこと自分で言いたがらないのよね。今日は猛獣小屋の裏に行って。ロジー待ってるから」
そう耳打ちすると、エブリンは少し先にいる子供たちを追って、小走りで行ってしまった。
シェンはぽかんとしながら歩いた。
足が鉛のように重い。体の中が空洞になって、風が吹き抜けていくみたいに、腹の中がすうすう冷たく感じる。
いやだ。絶対にいやだ。せっかくここまで来たのに。他にも演目はごまんとあるのに。よりによってあんな毎回毎回命がけの見世物をするなんて絶対に――絶対にいやだ。
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「パルマって、もうエン国語覚えてねえの?」
夕暮れ前。稽古終わりの子供たちと一緒に歩きながら、隣にいるロジーが言った。
ロジーの弟子にされてから、一週間が経っていた。
今までで一番居心地のいい馬車隊に自分の役目を与えてもらって、イヤだなんて言えるわけもない。結局、猛獣使いの道へ足を踏み入れることになった。といっても、まだ一日中ロジーや他の子供たちと取っ組み合っているだけだが。
シェンは前を歩く子の頭を眺めながら、
「いえ、覚えてないと言うわけでハ……」
と、適当に返事をした。
ロジーはふうん、と呟いて、
「じゃあさ、エン国語の練習してよ。ショーじゃあエン国語できた方が絶対ウケるからさ。ほら、びっくりした時とか返事する時とか、何気ない時に出るのがこっちの言葉じゃなかったら、すげーキャラ立つだろ。俺より人気者になるかもな」
自分で言って、ロジーはハハ……と乾いた声で笑った。
「分かりましタ」
自分の出る見世物がだんだん現実味を帯びてくるのを感じながら、シェンは重く頷いた。
その晩、シェンはハオじいと明日の朝飯の仕込みをしながら、食事の仕込み中はエン国語で会話してくれないか頼んでみた。
「ロジーのやつがそう言ったのカ」
ハオじいは、妙に怖い声で言った。シェンは手に持ったバターの瓶に目を落としながら、
「いいエ、ロジーにはエン国語の練習をしろと言われただけでス。誰かに付き合っていただかないと練習にならないと、私がそう思っただけデ……」
シェンはハオじいの顔をチラリと見た。薄暗くて表情はわからないが、口を引き結んでいるのは見えた。
「……ダメでしょうカ? 完全に忘れたわけじゃないですから、やり始めれば不便しないくらいには話せるト……思うんですけド……多分」
ガツンッ!
ハオじいが、竈門にスープ用の深鍋を叩きつけた。
しばらく両手を深鍋の取っ手に置いて、じっとその中を睨む。やがて、ハオじいはふう、とため息をついた。
「お前はこっちの言葉がうまイ」
シェンは身を硬くして黙っていた。
「儂よりもずっとダ。わざわざ元の言葉を取り戻す必要がどこにあル」
そんなもの、いらないなら捨てちまエ。
呟くように吐き捨てたのを、シェンは聞き逃さなかった。
ハオじいは指で眉間をぐりぐり揉み、さっきシェンが剥いておいたじゃがいもを取って切り始めた。
ダメだったか……と思ってシェンがバターを作る作業に戻ってしばらく。
ハオじいは手のひらで額を押さえて俯くと、体の中の空気を全部吐き出すようなため息をついて、
「あの見世物バカめ」
と、エン国語で呟いた。
内容こそ口汚いが、シェンの知っているエン国語よりも上品な発音に聞こえる。
「あれも気の毒なやつだ」
ハオじいは自分に言い聞かせるように言うと、深鍋に残ったスープの中へ、じゃがいもを放り込んだ。シェンはエン国語の呟きを、ハオじいからの了承と取った。
「ありがとうございます」とつまりつまりのエン国語で声をかけ、急いで水甕からスープ用の水を汲みに走る。
いちいちエン国の言葉と一緒に腹の底から出てくる黒いぬめぬめしたものを腹の中へ押し戻し、朝食の仕込みにかこつけて見ないようにした。
全部の仕事が終わったあと、いつも通りハオじいは駄賃のスープをくれた。
でも今晩は、いつもより具が多くて、バターで炙った大きな山ウズラのハムと小麦粉の団子が、器の中でひしめき合っている。
ここにきた次の日に食べたあのテーブルいっぱいのご馳走と同じくらい、心の躍る香りと見た目だ。
――ハオじいがハオじいなりに気を遣ってくれているのだということは、あの怒ったような素振りを見た時からわかっていた。
元いた国の言葉なんか、いらないなら捨ててしまえ。
こちらに聞こえないつもりで言った言葉には、何かしら彼の本心が滲み出ていたのだろう。彼ももしかして、シェンと同じように戦で痛い目をみてここへ流れ着いたのかもしれない。ハオじいだって、エン国語なんか思い出したくもないのかも。
勝手口の横に座りこみ、匙で山ウズラの身をほぐしながら、知ったことか、とシェンは思った。
毎日これが食べられるなら、もといた村の言葉だろうが、外国人らしい容姿だろうが、痩せぎすで小柄すぎる体躯だろうが、ハオじいのわかりにくい親切心だろうが、なんでも利用してここに居座ってやる。
ハオじいはシェンを追い出せやしないだろうが、おそらくロジーに気に入られなければ、ここにはいられない。どっちの機嫌が大事なのかはイヤでもわかる。
できれば命懸けのショーで身を立てなくてもよければ、居座りがいもあるんだけれど――いや、こうなったら贅沢は言うまい。気遣いなんか、この一杯で充分なのだ。
勝手口の裏で月を眺めながら、ひんやりする地面に座ってスープの具をかじる幸せ。きっとそれは、ここにしかない。
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シェンはみるみるうちに、エン国語を取り戻した。
ひと月もすると、厨房に入ったらぱちっとエン国人になるような感じで、エン国語だけがするする口から出るようになった。
ハオじいもあれからは特段何も言わず、シェンとはエン国語で会話した。それだけでなく、律儀にエン国語の読み書きまで教えてくれた。
村にいた頃には、せいぜい自分と弟妹たちの名前が書ける程度だった。それが今更ちゃんと文字を教わって、村で暮らしていた時より「エン国人」になった気がする。
そんな様子を、ロジーはしっかり見ていた。
ふた月たった頃だったろうか、ロジーはシェンに次なる指令を言い渡した。裁縫上手の子供に手伝ってもらって、ショーに出るための衣装を作れ。ただしエン国風のを、と。
もともと裁縫は得意だった。でも、衣装を作ったらいよいよショーに出るばかりになってしまう。シェンは複雑な気持ちで引き受けた。
とは言っても、元いた村で着ていた服のつくりなんてほとんど覚えていない。仕方なく、シェンはハオじいに着なくなった古い服でも見せてもらうことにした。
ハオじいは事情を察して、今度は何も言わずに古着を上下一揃い貸してくれた。
使い込まれてシミだらけなのに、型崩れひとつしていない手入れの上手さには舌を巻く。しかしこれを手本にするには一度分解して、また上手に縫い直さなければならない。
そんな失敗の許されない作業を他の子供に手伝ってもらうのは不安なので 、シェンは一人で作ることに決めた。
子供たちの家の屋根裏部屋は、全部倉庫になっている。ショーに使う小物やその他の雑物は全部そこにある、というのは知っていたが、シェンはまだ一度も入ったことがない。
玄関ホールの一番奥、寝室側の壁の角。ランプ灯りの届かない薄暗がりでひっそりと隠れるように、狭い梯子がかけてある。
梯子は天井へと伸びていて、その先に人一人通れる大きさの黒ずんだ跳ね上げ戸があった。
ハオじいに古着を借りた次の日、シェンはロジーに稽古を早めに切り上げてもらい、一人で初めて屋根裏の倉庫へ登った。
跳ね上げ戸を開けた瞬間、カサカサカサカサ……と暗がりのそこかしこで生き物の動く音がした。
山形の壁の一番高いところに、小さな格子窓がついていて、そこから昼下がりの空の明かりが少し漏れ出している。シェンは持っていた小さな燭台をそっと床に置くと、中へ入って跳ね上げ戸を閉めた。
埃とカビのにおいが部屋の中に閉じ込められて、空気の流れが止まる。
銀色の光が、窓格子の形になってシェンの顔を照らす。
はっきりした音は何も聞こえないのに、暗闇のどこかがざわざわしている。
陶器の水甕の、ペタペタした冷たい感触
暗闇の奥から近づいてくる提灯の火
何の音かよくわからない、耳障りな低い音
喉が焼けるほど生臭い空気
ぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……ぎぎぎぎ……
頭をよぎる。
次の瞬間、こんな場所もいつの間にかへっちゃらになったな――と、シェンは思い直した。
数分して、暗さにだんだん目が慣れてきた。
積み上がった木箱、丸めた布地の束、ボロ切れと藁の山、作りかけのロープが巻いて置かれ、木の鍬や錆びた鉄の棒なんかもある。
案外中はきちんと整理されていて、埃っぽい臭いはするが、埃をかぶっているところはほとんどない。みんなが頻繁に使うからだろう。
ロジーは、ここにあるものなら好きに使っていいと言ってくれた。シェンは足元の燭台を拾う。この暗さでは、縫い針一本見つけるのは途方もなく大変そうだ。
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稽古はほどほどに手を抜いて長引かせ、大人たちの屋敷の雑用も欠かさずに行き、できるだけ日数をかけて作っていたつもりだったのに、衣装は三ヶ月そこいらで完成してしまった。
薄いあざみ色をした半袖の肌着の上に、足首が締まった白い幅広の袴を履き、紺に近い青の筒袖を着て、金色に似せた黄色のかけ紐を首元で留める。
最後に、白い腰紐で筒袖の裾を押さえる。
驚いたことに、靴はハオじいが用意してくれた。ある朝厨に行ったら、シェンの足にぴったりの薄い革靴が置いてあった。黒くて、つま先と踵だけを覆う、小舟のような形の簡素な靴。
ハオじいは、孫のために昔用意したものを使わなくなったんだ、と言っていた。
どうせウソに決まっている。だって革の感触はどう見ても真新しいし、何となくだけれど、ハオじいに孫がいるとは思えなかった。
きっと、毎晩シェンが朝飯の仕込みをする時、厨の土間についた裸足の足跡ででも形を測ったのだろう。いやはやマメなものだ。
ともあれ――靴を履いて、シェンの舞台衣装は完成だ。
最初に、それをロジーに見せた。
ロジーは目をキラキラさせて喜んだ。
シェンの周りをぐるりと回って全方向から眺め、ついでエブリンとシャモアを呼んできて見せびらかした。他の子供たちもつられて集まり、シェンはにわかにちやほやされた。
「パルマ、そんな仏頂面すんなって、お前は花形になれんだからさ。あとは愛想だけだぜ、マジな話」
「ぁ……
とび跳ねるロジーに言われて、シェンは自分の頬を両手で摘みあげる。
周りの子供たちは、シェンの顔を見て笑い転げた。ロジーは眉を八の字にして困ったように笑うと、
「ああ、それと得物を用意すりゃ完璧だ。デビューは目の前だな」
何て答えればいいのか、シェンにはわからなかった。
**********
ショーで使う得物は倉庫の中から気に入ったのを持っていけ、とロジーに言われたので、次の日シェンはまた稽古を早めに切り上げてもらって、倉庫を漁った。
衣装が完成してしまってから、シェンは初舞台を延ばすための手を変えることにした。
稽古の時間を短くして、他の時間は裁縫や倉庫漁りに費やすることで極力運動しないようにする。
そうすれば、少しは体が鈍って初舞台が遅くならないか……と思ったのに、そううまくはいかない。シェンの意に反して、筋肉がそれなりにつき、血色も良くなり、体は鈍るどころか前よりよく動くようになっていた。
その上都合の悪いことに、倉庫からはろくな得物が一つも見つからなかった。
錆びて刃こぼれのひどい短剣とか、柄の真ん中からボッキリ折れた槍とか、頭だけになった矛とか……草刈り用の鎌はとてもじゃないが武器としては使いにくい。石の大マサカリは重すぎる。
弦を張りかけた弓は現役だろうが、手入れが行き届いているところからして射的手の子が使っているらしい。そもそもそんなもの、檻の中では役に立たない。
半日かけて倉庫中をひっくり返し、ようやく見つけたのは、二本の鉄の棒をやたら長い鎖で繋ぎ合わせたものだった。
見つけた時は一人用の縄跳びかとさえ思った。でもまあ、鉄の棒部分は案外長くて、そこで殴れば痛そうだ。鎖が少々重いうえに邪魔だが、慣れれば使えなくもない……だろう。
ずっとずっと昔、村で何回か双節棍を持たせてもらったことがあったっけ。二本の木の棒を、短い鎖でつないだやつ。ちら、とそんなことを思い出す。
素手で獣と戦うよりマシだ。
シェンはすごすごと、それを舞台衣装の懐にしまった。
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また別の日。
「ずいぶん少なくなっちまったから、また集めに行かなきゃなんだけど……ほらパルマ。これだ」
ロジーに連れられて、シェンは猛獣小屋へ入っていた。
空になった鉄の檻がいくつもならぶ通路、黒く澱んだ空気をかき分けるように進んだ一番奥に、中身の入った檻が一つある。
ロジーは鉄格子の一歩前に立ち止まってそう言うと、シェンによく見えるよう場所を譲った。
「これがパルマのデビュー戦の相手」
「
こ、これがですカ?
と出そうになったのを、シェンはギリギリで飲み込んだ。
檻の中にいたのは、シェンの肩くらいまである、薄汚い灰色の毛並みをした、大きくて痩せっぽちのオオカミだった。
若いオスだろうか。群れからはぐれたところを罠にかかったのだろうか。シェンがランタナヤに着いた時の馬車に乗っていた檻の中に、こいつはいなかった。ということは、シェンがここに来る前からとっておきの獣なのだろう。
ロジーは優しく言った。
「若いからまだ気力はあるけど、後ろ足、分かるか? 罠にかかった時の傷が治ってないだろ。ついでにここにいるのもだいぶ長いし、ショー向けに時間かけて仕立ててる。だから見た目ほど倒しにくくはないよ」
ウソつけ。
シェンは心の中で毒づく。
怪我で弱っているけど腹が減っていて気力はあるなんて、最悪だ。死力を振り絞ってこちらを殺しにくるに決まってる。ロジーはずっと猛獣使いをやっているのに、そんなことも分からないのか? それとも戦いすぎて感覚が鈍ってるのか?
怯えもせず、こちらを食い殺せる瞬間と自分の死期、どちらが先に来るか秒読み数えながら静かに待っている獣の目を見て、本当に何とも思わないのか?
「目を見たらダメだぜ、パルマ」
ロジーがシェンの頭の中を読んだように言った。
シェンは雨漏りする木の天井を見上げて、
**********
晴れるな。
雨降れ。
雨降れ。
雨降れ。
雨降れ……
念じ続けたのも虚しく、その日はさわやかな秋晴れだった。
頻繁にやると観客が飽きるので、見世物が開かれるのは、どれだけ多くても二週間に一度ほど。雨が降ればその度に延期。
シェンの初舞台は、今日と決まっていた。
雨が降れば一日でも命が延びたようなものを、一週間前からずっと晴れ。今日くらい降ってくれてもよかったのに、今日も晴れ。
獣と戦う練習も積んだ。
猛獣使いのショー向けに、獣を傷つけて弱らせる仕事だって何回もした。
自分の武器の使い勝手も覚えた。
準備万端、あとはもう舞台に上るだけ。自分が一番苦手なのは、愛想良く笑うことだ。
頬を揉んで顔を柔らかくし、ガラス窓の前でにっこり笑顔を作る。おお、こうすると案外可愛らしく見えるような気がする。誰も、今のシェンが死刑台に向かうような気分だとは思うまい。
遺言を残す相手もいない。自分が食い殺されたら、それはそれで派手な見世物になるだろう。
それで、一体この馬車隊はいくら儲かるだろうか。
観客からのチップはどれくらい弾むのだろう。
せめて自分が今まで見たことのないくらいの金が入ったらな。
ぼうっとそんなことばかり考えていて――
ふ、と気がついた時には、天頂まで日が上り、シェンは舞台袖に立っていた。
前の演目は、綱渡りだったらしい。派手なチュチュを着た男の子と女の子のペアが、嬉しそうに舞台から戻ってきた。
シェンはハッとして、綱渡りの子の顔を真似するように、いつのまにか溶け落ちていた笑顔を貼りつけ直す。
「よし。パルマ、行くぞ」
後ろからロジーが囁いた。
いつのまにか、舞台のセットも、司会が場つなぎに喋るジョークも、賑やかしの笛だいこも終わっていた。
ロジーが前に立って舞台に出る。その背中に引きずられるようにして、シェンも舞台へ踏み入れた。
操り人形のように空転する足の上で、ロジーを真似て手を振り、舞台上の梁によじ登って、そこから檻の上へ降りる。
ガチャガチャガチャ……と、耳を刺す鍵と鎖の音。ロジーが檻の扉を開けている。
一秒でも長く手間取ってくれ。
そう思った時には、シェンはもう、開いた檻の扉から中に飛び降りていた。
目を見ちゃダメだぜ、パルマ。
檻の奥の濁った黄色い瞳を正面から直視した瞬間、ロジーの言葉が頭をよぎった。
息が詰まる。
胸を潰されるような苦しさで、体に置いていかれていた意識がばっちり冴えわたり、ぼんやりしていた感覚が足先から頭のてっぺんまで戻ってくる。
やれ!
やっちまえ!
かかれ、おチビちゃん!
ボサッとしてたら食われんぞ!
カワイイ生き餌だなあおい! ひゅうひゅう……
檻の外から、口笛と野次が聞こえる。
生き餌はいやだ。食われたくない。体が凍っている。心臓は暴れるように脈打ち、檻の中から逃げ出そうとしている。
それなのに、頭はすっかり諦めていた。いつも体の奥底にへばりついている黒くて重いものが、瞬く間に形を持ち始める。
暗い海の水飛沫。断末魔の悲鳴が落ちていく。船縁から覗く、いくつものねちっこい笑顔。それはいつだったかの、井戸のへりから内側を覗く子供の顔と重なる。後ろ手に触れる鉄格子の触感は、水甕の表面と似ている。見つかったらどうしよう。見つかったらどうなるんだ? 箱の中に戻らなきゃ。いや、でもここは檻の中だ。ああ、あの死ぬほど美味い水がもう一度飲みたい。どこかから、ネズミ取りに足を挟まれた幼子の、隙間風に似た泣き声。汗ばんだ皮膚がどこともなく痒い。またあとでね。またこんど。こんどっていつ? そんなことは私が一番知りたいのに。排泄物の臭いの空気を吸う。その中に混じった生臭いのは何のにおいだろうか。血かな? 海水か? それとも……男の声がする。壁の向こうからだ。通り過ぎるまで音を立てちゃいけない。でも、待っても待っても全然通り過ぎてくれない。誰か泣き出したら困る。見つかったらどうなるんだろう。遠くに何かが光っている。木々の隙間からちろちろと踊る、橙色の光。姐様、なんかくるよ――あれは何だ? 畑の奥で、何か燃えている。点のような、でも大きくて明るい金色の炎……
それは目脂に縁取られた、汚い獣の黄色い目玉だ。
ああ。
ぜんぶ振り出しだ。
ぜんぶ、ぜーんぶ最初っからだ。
私は、今まで一体何をしていたんだろう。
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