5.5-6 幸せの味
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それから、シェンは馬車隊の一員になった。
馬車隊は、ランタナヤという町を目指しているらしい。そこに拠点を構えているそうだ。
移動する道中、一団の子供たちは通る場所通る場所で簡単な小屋を作り、そこで芸をして金を集めていた。そしてその傍ら、シェンは毎日四方八方から言いつけられる雑用をこなしながら過ごした。
おかげで言葉がかなり流暢になった。だからと言って、他の子供たちと必要以上の会話をすることもないのだが。
でも、孤児院の中に閉じ込められて暇を持て余している子供たち相手と違って、暇つぶし半分にいじめられるようなことはほとんどない。それに仕事中は仕事のことで頭をいっぱいにできるから、ここが今までで一番居心地が良い場所なのは間違いなかった。
すらすらとアルバート語を喋るようになったシェンに、一番話しかけてきたのはエブリンとロジーだった。
二人はしょっちゅう「あとは芸を覚えるだけだ」と言う。どうやら、シェンもそのうち芸を覚えて見世物をすることになるようだ。見物人の前では、あからさまな外国人の顔つきと訛りが物珍しいからウケる……らしい。
そんなもんかあ、と、シェンは思った。
馬車隊が止まるたびに、いくつもの馬車の間を飛び回るように行ったり来たりする日々。
そうしながらシェンはアルバート語だけでなく、馬車のつくりから毎日使う生活用品のしまい場所、見世物に使う道具の保管の仕方、はたまた細かいしきたりまで叩き込まれた。
――しかし、そんな生活が始まってすぐに、シェンには一つ気掛かりなことができた。
たくさんの馬車の中に、獣用の鉄の檻ばかりが積まれた荷馬車がある。
檻の中には狼、大きい猪や狐、猫や猿のたぐいまでが縄で短く繋がれ、水だけ与えて放置されていた。
猟師から譲ってもらったのか、馬車隊のメンバーが罠でもかけて生捕りにしたものかはわからない。シェンが仕事をするようになった頃には、もうすでに馬車二台ぶんが獣でいっぱいになっていた。
食べるなら、生捕りにはしない。毛皮目当てだったとしたらなおさらだ。飼い慣らして芸を仕込むつもりなら、さすがにもう少し大切にされるはず。
しかしその獣たちをどうするのか、シャモアやエブリン、ロジーにも聞いてみたが、誰も「まあ見てろ」と言わんばかりに笑うばかりで、教えてくれなかった。
そして結局、獣たちの世話をするのも、シェンの仕事のひとつになった。というより、誰もやりたがらないから、仕方なく引き受けていた。
暗い荷馬車の幌の中。獣たちを入れた小さな檻がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。幌をめくると、汚れた毛皮のカビたような臭いや、傷んだ糞と体液の臭いがムワッと押し寄せて吐きそうになる。
シェンは檻の隙間を、体を横にしながら何とかして通り、檻の鉄棒と鉄棒の間に体をねじ込んで、獣に水を与え、排泄物を片付けて回った。
四方八方から痩せこけた獣たちが、涎をだらだらと垂らしながらシェンを恨めしそうに睨む。シェンが獣の鼻先をかすめて通っても、縄を噛みちぎって食いついてこようとする奴はいない。ただ、腐臭のする息をシェンに吹きかけながら、敵意の中にすがりつくような哀れっぽさを含んだ可哀想な動物の目で、シェンをじっと見ている。
死ぬほどきつい仕事だった。
慣れるまで、終わったあとは毎回馬車の陰に穴を掘って吐いていた。食った食事がもったいないから、腹が空っぽになる食事前に仕事するようにしていた。そのせいで、いつも食事は鼻が潰れて味がしなかった。
三週ほど経った、ある日の夜。
馬車の隊列は目的地に到着した。
王都近く、ランタナヤ。採石場のある町――というよりは、採石場の周りにできた集落をまとめてそう呼んでいる、そうだ。
森で覆われた低い山には、馬車五台が並んでも余るくらいに幅の広い道が、ででんと寝そべっている。
その道をゆっくり登り、峠を越えると、パッと視界が開けて白い光が目に飛び込んできた。木がすっかりなくなって、つるつるにハゲた山の斜面に、月の光が反射していた。
段々畑のように切り出された黒い岩肌は、山の端へいくにつれて茶色い土をかぶり、やがてまばらに木が生えて、森に覆われていく。
森と岩肌の間にある茶色い境界あたりに、石と木でいい加減に立てられた、掘建て小屋みたいな家がたくさん見えた。馬車の一団は黒い岩肌を横切って、特に大きな掘建て小屋へ止まった。
「荷下ろしは明日にするぞ!」
ロジーの掛け声で、子供たちはワァッと湧き上がった。
夜の森に、きゃいきゃい甲高い声が響く。子供たちはしばらくその場で騒いだあと、誰からともなく散り散りになって、馬車の近くの大きな掘建て小屋を通り過ぎ、闇の中へ走り去っていく。
「パルマ、置いてくよ!」
シェンの横を走っていくエブリンが、振り返りざまに叫んだ。シェンは慌てて、エブリンの後を追う。
エブリンと子供たちは、ぼんやり銀色に光る採石場の淵を、反時計回りに走っていく。
ものの数分で、獣避けの高い塀に差しかかった。塀の真ん中にある隙間のような門から、子供たちがなだれ込む。
入るとそこには砂利と湿った土の敷かれた狭い前庭、そしてその奥に、木造りで一階建ての大きな建物があった。
門の正面には粗末で重そうなドアがあって、シェンは他の子供たちに続いて、そこへ駆け込む。
中は天井の低い、小さな玄関ホール――と、シェンは思わず急停止した。
玄関ホールで待っていたのは、先に入った子供たちだけではない。ホールの中にちらほら、とてつもなく目を引く見た目の者たちが、今入ってきた子供たちと一緒にぺちゃくちゃしゃべっていた。
シェンより頭一つ高いくらいの背丈の女の子、ただし両腕と指が異様に細長くて、蜘蛛の足みたいに膝まで伸びている。
右足と左腕のない男の子が、そっくり同じ顔をした左足と右腕のない男の子と、左右対称に支え合って立ち話している。
シェンの胸くらいまでの身長の男の子……いや、顔つきからして青年というべきだろうか?
「パルマーっ! パルマいるか⁉︎」
奥からロジーの叫び声。シェンは我に返った。
「あいっ!」
玄関ホールの左側にある戸が開け放たれていて、中からロジーや子供たちの声がする。シェンはそこへ入った。
中は食堂だった。低い天井を、壁の燭台で揺れる蝋燭の光が、ちろちろ舐めるように照らしている。
広いのに、物も人も多くて何があるのかよく見えない。黒ずんだ大きな木のテーブルが、真ん中にどんと鎮座しているのだけはやたら目立っている。
「パルマ、来い!」
ロジーの声の出どころを探す。テーブル脇にたむろする子どもたちの間を縫い、椅子の足の下をくぐって、食堂の一番奥にロジーの姿を見つけた。
「いたいた、パルマ。見てよハオじい、新人! な、こいつチビでガリガリだからさ、今晩たらふく飯食わせてやってくれねーかな」
「……今からカ」
低くてしゃがれた、厳しい声がロジーの向こうから聞こえた。
「だめかなぁ」
ロジーはわざと少し甘えた声で言い募る。
すると、食堂の角にあるボロい食器棚の影で、鋭い光がきらりと走った。椅子の下から顔を出すシェンを、厳しい目が見下ろしている。
「準備がなイ。明日ダ。今日は全員パン食って寝ロ」
「わかった、明日な。おいパルマ、出てこいよ」
言うと、ロジーはシェンの首根っこを掴んで、ひょいと机の下から引っ張り出した。
「この人、ハオじい。ここの料理番の爺さんだ。挨拶しな」
「あぃ……パルマといいまス。よろしくお願いしまス」
ゆらりと、黄色っぽい眼光が動く。
「……
シェンの口がぱかんと開いた。
呼び名の通り、ハオじいは老人だった。影の奥から、黄土色でしわくちゃの痩せた顔がこちらを見ている。灰色のエプロンの下に着ているのは、暗い色の襟の詰まった服――目にした瞬間、どこかで見たことのある形の服だと思った。
思い出した。シェンがいつだったかにいた村の、大人の男が着ていた服にそっくりだ。
それに気がついたとたん、シェンの脳みその底から真っ黒な記憶が顔を出した。
心臓が絞られるような感覚がして、ぞわりと鳥肌が立つ。村の言葉が、ぬるりと喉の奥から出てきた。
「
「そうカ」
ハオじいはシェンと同じ訛りのアルバート語でさらりと言って、ふいと顔を逸らした。
「……え……あっ!」
ロジーが一人で、場違いに素っ頓狂な声を上げる。
「パルマ、ハオじいと同じ国から来たのか!」
なになに、とばかりに周囲へ子供たちがわらわらと寄ってくる。シェンもハオじいも、ロジーには答えない。
「なあ、そうなのかよ? 道理でどっかで聞いた訛りだと思ったんだ! よその国の子供は初めてじゃないけど、初めてだよな、エン国人の子供が入ってくんのは」
ロジーが周りの子ども達を見回す。子供たちが、お互いに顔を見合わせながらざわついた。
「エン国ってどこ?」
「えー、そんなことも知らないの?」
「じゃあお前はわかんのかよ」
「あんた、エン国人じゃないの」
「はぁ、そんなわけな――」
「ガキども、今日は終いダ! そこのパン食って寝ロ!」
ハオじいが掠れ声を張り上げた。しん、と子供たちが凍りつく。
「新入りからそこに並ベ。湯が欲しいやつは器を持ってこイ」
すると氷が解けたように、子供たちが我先にとシェンの後ろへ並んだ。
ハオじいが、食器棚の向こうの暗がりの奥へ消える。よく見るとそこは、一段下がった狭い土間だった。土間は厨になっていて、巨大な甕がいくつもひしめき合い、天井からは乾いた野草がぶら下がり、かまどの上ではでこぼこのケトルが湯気を上げていた。
シェンは肩からななめにぶら下げていた小さな袋から、使い古した銅のカップを取り出して、ハオじいに差し出した。
ハオじいがそこへ、ケトルの湯を入れる。もわりと立ち上った湯気が、シェンのまつ毛で水滴になった。
「ありがとうございまス」
シェンがそう言うと、ハオじいがケトルを持っていない方の手で薄焼パンを差し出してきた。それを受け取って、シェンは踵を返した。
食堂の扉を出たところまで戻り、壁を背にして座り込む。薄焼パンをカップの上に乗せ、湯気でやわらかくしながら少しずつかじって、他の子供たちが戻ってくるのをぼんやり待つ。
馬車隊で食べ慣れた、小麦の味そのままのパンは、シェンの喉の奥で痰のように引っかかっていた故郷の言葉の残滓をからめ取って、腹へ落ちていった。
**********
まさか次の夜、本当に目の前いっぱいのご馳走を食べさせてもらえるなんて、シェンは思っていなかった。
カボチャの茎とにんにくの炒め物。
野菜クズと野草のスープ。
漬けた猪肉と芋を蒸したもの。
ベリージャム。
いつもの薄焼パン。
川魚の煮しめ。
ヤギ乳のバターと潰した豆の和え物。
他にもいろいろあったかもしれないが、手をつけられたのはそんなものだった、と思う。
夜の食堂はどんちゃん騒ぎだった。座る場所を取り合って、押し合いへし合いしながら、子供たちはギャーギャー言って次々料理に手を伸ばした。
「こらっ! パルマの取らないで!」
エブリンがシェンの隣で、こちらに手を伸ばす子供を叱っている。
今晩の主役は、一応にもシェンだ……ということで、シェンは両隣をエブリンとロジーに守ってもらいながら、珍しく他人に飯を取られる心配をしないで食べた。それはもう、腹がはち切れそうになるくらいに。
ハオじいのいる厨の方からは、しゃこしゃこ、と鍋を洗う音が聞こえてくる。ハオじいはたまにこちらへ顔を出しては、テーブルに置いたケトルの湯を足して戻っていった。
全部の皿から一欠片の食べ残しもなくなると、どんちゃん騒ぎはあっさり終わった。
みんな、自分の周りの皿を上げて厨に持っていく。手ぶらになった者から、眠い目をこすってさっさと寝床へ帰っていった。
シェンも皿を上げると、玄関先にあった水甕から自分のカップに水をすくって口をすすぎ、寝床の部屋へと戻る。
食堂の向かいは同じくらいの広さの大部屋になっていて、そこが全員の寝室だ。
ランプもついていない部屋。ベッドなんかないので、みんなでできるだけふかふかの布を持ち寄り、くるまって寝る。
年の小さな子供ほど、寒がったり寂しがったりするから真ん中に。一番外側は年長者の男の子たち、身体が冷えると困る女の子たちはその内側、という順番で、なんとなく丸く団子になる。一人で寝たい子は、人混みから離れててんでんばらばらと好き勝手寝そべっていた。
シェンは昨晩もそうしたように、みんなが集まって寝ている団子の、外側寄りの中間層あたりで、他の子供の汗や泥の匂いに埋もれるようにぬくぬく眠った。
……はずだった。
しかし、床に入っていくぶんもしないうちに、ぎゅるぎゅる……と腹から変な音がし始めた。
同時に胃袋のあたりがきりきり痛み出したので、目の前に寝ていた年下の子の体を引き寄せて腹を温めた。
しかし、今度は吐き気がしてきた。シェンは慌てて立ち上がると、つま先だけで団子になっている子供たちを飛び越え、抜き足差し足で寝室を飛び出し、玄関から外へ出た。
シェンは急ぎ壁際に柔らかい地面を探し、足で小さな穴を掘る。間一髪、そこへ腹の中のものが決壊して戻ってきた。
ほとんど形が残った夕飯の成れの果てを一瞥して、シェンはひょひょいと穴を埋める。
口の中が酸っぱくてまずい。勝手に浮いた涙を拭くと、腹の調子がおさまるまで、外壁にもたれて膝を抱えた。急にたくさん食べたから、腹が受け付けなかったのだろう。
だが困ったことに、しばらくしたらまた腹が減ってきた。
食べたものを全部出したから当然だった。
ついでに食欲も一緒になくなってくれればよかったものを、吐き慣れた体ではそうもいかない。今度は空腹でぎゅるぎゅる腹が鳴り出す。
シェンは諦めて立ち上がると、玄関の中へ戻った。
食堂の前を曲がって、寝室に……と思ったが、寝室のドアノブに手をかけたところで、シェンはぴたりと止まった。
耳を澄ます。
何の物音もしない。
中の子供たちはみんな寝ている。後ろにある食堂のドアから光は漏れていないし、ハオじいもどこかへ引っ込んだのだろう。
ちょっと見るだけ。シェンは小さく口の中でつぶやいて、寝室の反対側――食堂のドアの前に引き返した。
ノブに手をかけ、そぅっと開ける。
ランプも燭台も消えて、真っ暗だ。シェンはドアの隙間から忍び込み、床の角を素早く這って進む。
厨のいつものところに、パンのかけらくらいあるだろう。そうでなければ、野菜クズの一つでも落ちていればいいが。そう思って、食堂を奥まで進む。食器棚の角を曲がって、段差を下り、土間の厨へ入る。
厨に入ってすぐ、さっき薄焼パンが山と用意してあったカゴの中には、何も入っていなかった。いつも、子供の人数分しか用意しておかないのだろう。
ちっ、と舌打ちしたくなるのを堪えて、土間の地面やかまどの上、包丁台の上をゆっくり、慎重に嗅ぎ回る。かまどの中にはまだ火が燻っていて、わずかに明るい。
厨を半周した。
何も見つからない。
その時、ザッザッ、とすぐ外で足音。シェンは小さく身を縮め、近くにあった水甕と竈門の間に体をねじ込んだ。
ギィっ!
厨に、細く月明かりが差し込む。
「……そこで何してル」
しゃがれた老人の声。
厨の奥の勝手口が細く開いて、そこにハオじいが立っていた。まだ、飯炊用のエプロンをつけたままだ。
「出てこイ」
シェンはハオじいの声に、身を硬くした。
「叱りゃせン。出てこイ、新人」
そこまで言われると、もう隠れても無駄というものだ。シェンは、四つん這いですごすご隙間から出た。
ハオじいは中に入ってくると、両手にそれぞれ持っていた木桶と麻袋を近くの水甕の上に置いた。その手で地面に刺さっていた火挟を取り、竈門で燻っている炭をつまんで、壁の小さな蝋燭台に灯をともしながら、
「腹でも減ったのカ」
シェンはいつでも逃げ出せるように身を低めたまま、黙って目でハオじいの動きを追う。
「何とか言ってみロ」
ハオじいは平坦な声で言って、壁にかけてあった巨大な銅の器ををゴン、と包丁台の上に置いた。
そこへ麻袋の中からゆっくりと小麦粉をあけ、
「塩」
「……ぇ?」
シェンは思わず聞き返した。ハオじいはこちらを見もせずに、
「包丁台の横に塩の袋があル。持ってこイ」
シェンは、横の包丁台を振り返る。確かに、その陰には汚れた麻袋がくたっと置いてあった。そっとそれを手に取って、立ち上がる。
「よこセ」
そう言った時には、ハオじいに塩の袋を引ったくられていた。彼はそこから小さめに一掴み、塩を器に放り込む。
次にさっき持ってきた木桶から、器の中へ水を少しずつ入れては粉をこね、入れてはこね……みるみる間に、さっきまで粉だったものは粘土のように柔らかい生地に変身していた。
「手を洗ってこイ。これを千切って伸ばして寝かせて、夜が明けたら焼ク」
ハオじいは言葉を切って、シェンを見る。
「晩に食った分は戻しちまったのカ」
シェンは黙っていた。
「手前みたいにガリガリで、いきなりあんな食えるわけがなイ」
ハオじいは吐き捨てるように言って、器の中の生地を睨んだ。
「早くしロ。朝飯の仕込みしたら何か食わせてやル」
シェンはそれを聞くと、さっきハオじいが持ってきた木桶をひったくり、勝手口横の瓶の蓋を勢いよく開けた。ちょっとだけ木桶に水を取って、爪の中まで土だらけの手を丁寧に洗う。
「その水は後で畑にやっておケ」
ハオじいの声でシェンは顔を上げ、手についた水を振り払った。
そのあとは、ハオじいの手つきを見よう見まねで、食事の仕込みを手伝った。
炊事場らしい炊事場で料理をするなんて、もう何年ぶりだろう。シェンは腹が鳴るのも忘れ、夢中になって言葉少ななハオじいの指示に従い、厨房中を飛び回った。
ほどなくして、仕込みがひと段落したあとの厨房は、それはもう素晴らしい匂いで満ちていた。厨房の空気が、金色に色づいているように見える。
麻布とロープでできた粗末な棚にずらりとパンの生地が並び、野菜くずと鶏骨のスープがかまどでぐつぐつ煮立っている。
夕方とりたてのヤギの乳で作ったバターは、銅のボトルに入れられ、水甕と水甕の隙間で冷やしてある。
これが全部机に並んだら、子供の数と比べてなんだか物足りなく見えるのだろう。もったいないことだ。
シェンは使い終わった木桶を干しに、勝手口から外へ出た。
すうっと首元を吹き抜ける森の風で、びっしょりかいていた汗が一瞬で乾く。空を見ると、満月が少し天頂を過ぎていた。
木桶を置いて中に戻ると、ハオじいがスープの中で小麦粉の団子を煮ていた。ハオじいは、手元にあった木の椀にそれを盛り付けて、たっぷり汁をかけて、匙をつけて、シェンに手渡す。
「駄賃ダ」
その瞬間、
ほっ
と思わず息が漏れた。
椀の温かさで、体のどこか、奥の奥の真ん中あたりにある氷が解けたような感じがする。
心臓の裏側が温かい。内臓がふにゃふにゃと柔らかくなっていくみたいで、シェンはちょっと怖くなった。
ああ、そうだ、お礼を言わないと。と、他人事のように思った。
でも結局、口からはありがとうの一言も出てこない。ハオじいの顔すら見ないで、ふらふら勝手口から出て、ばたりと戸を閉めた。
シェンは勝手口の横の砂地に座り込んで、膝の上に椀を乗せた。しばらく、湯気の立ちのぼるスープの表面をぼんやり眺める。
匙で少しかき回して、また眺める。
恵んでもらったわけでも、奪ったわけでも盗んだのでもない、正当に自分が手に入れた、人間の食い物。
獣のエサじゃない。人間の食うものだ。「みんなに分け与えられた」のではない、「自分」にだけきっちり与えられた、何の駆け引きもないこれっきりの――自分が生きるためだけの糧。
このスープを手に入れるために、今まで生きてきたんだと思った。スープの温かさで、手の肉がほろほろととろけて落ちてしまうような感覚がする。
幸せになりたい。
幸せになりたいなあ。
いつか、毎日このスープで腹を満たせるくらい、幸せになりたい。
痺れて真っ白な頭の中で、心臓の鼓動がそうささやいている。
そのささやきは喉の奥からせり上がってきて、無理やり口から出てきた。言葉は形にならないで、うぐっ……うぐっ……と醜い嗚咽になった。
ふっと顔を上げると、視線の先にちょうど傾きかけた満月があった。
シェンの見上げた満月は、小麦団子の浮いたスープの表面に映っているのと同じくらい歪んで、そのうえぼんやり滲んで大きい。
その時自分が泣いていたのだと気づいたのは、ずっとずっと後のことだった。
**********
次の朝。
「今日は天気がいいから、ショーを開く。けど、パルマは何も仕事しなくていい。お休みだ」
ロジーが子供たちのそろった寝室で、そう言い放った。
「あぃっえ?」
シェンの口から思わず変な声が出た。ロジーはお構いなしに、
「そのかわり、パルマは今日のショーを一番いい席で全部見ること!」
そして、キリッとした表情で他の子供たちを見回す。
「じゃあお前ら、いつも通り昼過ぎからな。今日は全部の演目をする。荷解きは完璧じゃなくていいから、みんなショーの準備は完璧にしろよ」
子供たちはカーテンのない窓からさんさんと注ぐ陽光に顔を輝かせて、「はい!」と一斉に返事をした。
ランタナヤには、馬車隊の使うちゃんとした劇場小屋がある。よく晴れた日にはそこで見世物をするのだ――と、ランタナヤに着く前からシェンは他の子供たちに聞いていた。
だから、昨晩の空模様から朝の天気が良さそうだと予想していたシェンは、明日から何をさせられるだろう……と思いながら眠りについたのだ。
それなのに、昨晩はご馳走でもてなされて、今日は働かなくていい。
ただでそんなうまい話があるわけはない。おそらくシェンを見世物に出すために、まずショーの演目を見せておくつもりなのだろう。
朝ごはんを食べた後、シェンは手持ち無沙汰で仕方なかった。
子供たちの荷下ろしを手伝おうとすると、小さな子にまで「だめ!」と叱られる始末。
ランタナヤの町をぶらぶらしていたら、馬車隊の劇場小屋へたどり着いた。
石と丸太組みのしっかりした柱はやたら背が高く、物見櫓を四隅に立てたように見える。その上から木の皮をなめして作ったらしいつぎはぎだらけの布をかけて、屋根にしている。
小屋というより、巨大な馬車の幌だ。中ではあちこちの柱に子供が登り、ロープを結びつけたり小さな幌を屋根の下へかけたりしていた。
劇場小屋の裏に回ると、こんどは木でできた頑丈な小屋が二棟あった。こちらは天井もしっかり木で出来ているが、壁と天井の間に通気用の隙間があって、壁が一面全部錠前つきの扉になっている。
辺りにはツンと鼻をつく獣の糞の臭いが漂っていた。
なるほど、ここはおそらく家畜小屋なのだろう。馬やヤギは子供たちの家にある庭で飼われていたから、きっと……
と思ったその時、ヴヴヴ、グルルル……と身の毛のよだつ唸り声が屋根の下から聞こえてきた。
馬車に乗っていた獣たちだ。あれが多分、荷下ろしで全部この中に移動させられたらしい。
シェンが見ていると、シャモアがいつものオーバーオールを着て、劇場小屋の向こうからこちらに歩いてきた。
シャモアはシェンをちらりと見たあと、家畜小屋の前に立ち、懐から鍵束を取り出して錠前を開けた。ギッ……ギッ……ギギィ……と、立て付けの悪い扉を全身で引っ張り、開け放つ。むせ返るような腐臭が中からむわっと漂ってきて、シェンは一歩後退りした。
中にはやはり、無数の檻がひしめき合っていた。
ただ馬車に乗っていた時と違い、獣は縄を解かれて、檻の中で蠢いている。
シャモアはその中へ、何のためらいもなく入っていった。シェンは我慢できなくなって、その場を後にした。
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カン、カン、カン、カンカン、カンカン……
昼過ぎ。石切場に面した劇場小屋の前から、乾いた木板を打つ音が高らかに聞こえる。
劇場小屋の正面に立った梁のてっぺんには、石枠で囲んだ小さな木板がぶら下げてあった。馬車隊で一番身軽な子供が梁を登って、それを木槌で叩く。それがショーの始まりの合図だ。
開けた石切場に響き渡る木板の音を聞きつけて、どこからともなく大人が群がってきた。
集まってくる者の大半が、腰にノミや金槌をぶら下げた、若い男たちだ。仕事の合間の憂さ晴らしに来ているのだろう。それに比べると、女子供は少なく見えた。
みんな入り口で待ち構えている馬車隊の大人たちに見物料の銅貨を払って、中へ入る。たまに、追い返されている人もいる。シェンはその喧騒に紛れて、小屋へ入った。
屋根の梁からカーテンのように垂れ下がる幌をくぐると、まず手前には丸太の長椅子が乱雑に置かれた客席。
椅子に腰掛けている者や立ち見する者、後ろの方で椅子の上に立っている者、思い思いにざわめく人々で半分くらいのスペースが埋まっている。
そして、小屋の一番奥には、小屋のもう半分の広さを占める舞台があった。
舞台の上は天井の幌が取られて、そこだけ陽光がさんさんと降り注いでいる。
シェンが人波に流されて舞台の方まで歩いていくと、前から三番めの長椅子の真ん中あたりにエブリンが座っていた。
エブリンはシェンの顔を見て、こっちこっち、と手招きする。誘われるまま、シェンは人を縫ってそちらへ向かった。
「パルマの特等席。今日はここで見てね」
そう言うとエブリンは立ち上がり、そばかすをふにゃりと歪めて笑う。あぃ、とシェンは返事をしてその席に座った。
じゃ、私はショーの準備あるから……とエブリンが去って行ってから、十分ほど。
パッパカパーン!
破裂するようなラッパの音がして、シェンは飛び上がった。ドンドカドカ、と息ぴったりな太鼓の伴奏も聞こえてくる。
舞台の端には、若い楽士たちが並んで楽器を演奏していた。ショーの賑やかしだろう。ピイヒャラ高い音で鳴る横笛や、いわゆるギターみたいな形の弦楽器、バチで叩く鉄板、その他もろもろ。
一通り演奏が終わると、ステージ背側の天幕の裏から、一昨日初めて子供たちの家で見た、身長がシェンの腰丈くらいしかない青年が出てきた。
真っ青なジャケットに黄色い蝶ネクタイの出立ちで、胸を張ってステージの端に立つと、軽く観客に手を振って見せた。
「さあさあ紳士淑女の皆さま、本日は足元も悪い中……おやや、〝お日柄もよく〟だったかな? まあどちらでもいいや。ははは……」
ケンカする猫みたいな甲高い嗄れ声で、ゆうゆうと口上を述べる。
もしかしてこれを自分がやらされる可能性もあるのだろうか……と思い、シェンはこっそり口の中で今聞いた口上を復唱する。
しかし、シェンが必死で口上を覚えようとしているうちに、ドシャーン! と大きな音がして、舞台袖から少女を乗せた小さな馬が、駆け足で入ってきた。乗っているのは、エブリンだ。
エブリンはふわふわした赤色の短いスカートをたなびかせ、器用に馬の上に立ち上がって、客に手を振っては投げキッスをしている。
馬は客席の方へ向かってきて、流れるように客席の後ろを回ると、舞台に戻ってきた。その瞬間、エブリンは勢いをつけて馬の背からジャンプし、舞台の上の梁から垂れている縄にぶら下がった。
おお〜! と間の抜けた声と、拍手が起こる。エブリンは縄をよじ登り、すとん、と身軽に梁の上に立った。
その間、ひとりでにもう一周回っていた馬が舞台へ戻ってきた。馬がエブリンの真下を通る瞬間、エブリンは梁から宙返りして飛び降り、素晴らしくきれいに走る馬の背へ着地した。
今度は、わぁぁっ! と勢いのある歓声が上がる。シェンは周りの見物客を見回すと、彼らの真似して拍手した。
そんな調子で、ショーは続いた。
エブリンはその後、馬の背の上で色んなポーズを取って曲芸をし、天井から吊った火の輪を跳んでくぐり、喝采を浴びた。
お次は、玉乗り少年。大玉に乗って走り回ったり、何個も積み上げた玉の上へ上手に乗ったりしてみせる。
芸の上手な犬。ただの芸の上手い犬に、小さな子供が芸をさせるだけ。
大車輪。大人が縦に三人入れそうな大きな車輪状の輪を、女の子と男の子のペアが中に入って、自由自在に回してみせる。
綱渡り。天井の真下の高さに張られたロープを、華奢な女の子たちが渡ったり、連なってぶら下がったりする。
片足双子の曲芸。シェンが子供達の家で見た、右片足と左肩足の双子が、玉や車輪を使って組体操する。
早口演奏。何人かの子供が出てきて、聞き取れないほどの早口言葉を、手拍子と合わせて歌のように合唱する。
ナイフ投げ。大きな板に幼い子をはりつけにして、子供を刺さないように狙って投げ手がナイフを投げる。投げ手はシャモアだった。
人間梯子、蜘蛛女、劇場小屋の外に出て採石場で馬乗り弓……とまあ、本当に色々あった。小一時間も見たと思う。
これは自分なら練習すればできそうだ、これはできるまで骨が折れそうだ――と色々考えながら見ていたシェンも、最後の方にはそれなりに面白くて自然と手を叩いていたような気がする。
やがて、最後の演目がやってきた。
舞台の袖の幌を、楽士たちがみんなで持ち上げる。そこから、何人もの大人の男たちに縄で引っ張られて、巨大な台車が入ってきた。
台車の上には、細い鉄格子のでっかい檻。
そしてその中には、大きな赤ギツネが一頭入っていた。両足の付け根に深い刺し傷があって、そこからダラダラとどす赤い血が滴っている。
手負いの獣は恐ろしい。ヴヴヴヴ……と重低音で唸りながら、毛を針のように逆立て、牙を剥き出し、生きとし生けるものを全て呪い殺さんばかりの目で、周囲を睨んでいる。
縄を引いていた男たちが、台車の後ろの車輪を引き抜いて、キツネの入った檻を舞台の上に降ろし、舞台袖へはけていく。
「今日はキツネか、まあまあ当たりだな」と、隣の観客がつぶやくのが聞こえた。
獣の臭いが客席に届く。シェンが鼻を塞いで舞台を眺めていると、
パッパカパーン!
突然、場違いなラッパの音。
「――皆さまお待ちかね、最後のトリは命がけ、剣闘士と獣の一本勝負で締めましょう!」
それと同時に、舞台袖から入ってきたのは――ロジーだった。
丈の長い薄黄色のシャツに、ヨレヨレになった狩猟用のブーツ。目を引く真っ赤なベルトをがっしりした腰へ二重に巻きつけ、そこに臙脂色の柄の剣をぶら下げている。
観衆の口笛と拍手の嵐を受けながら、ロジーはキラキラした笑顔で手を振り、舞台の隅の柱から天井の梁へ登る。
そして、ぴょーんっと梁から檻の上へ飛び降り、もう一度全員に手を振ると、腰の剣を引き抜いた。
鈍く光る鉄の刃は、遠目のシェンでもわかるくらい刃こぼれしている。
ロジーは慣れた手つきで、天井にある檻の入り口をガチャガチャ開け放つ。そして、寸分の迷いもなく檻の中へ飛び込んだ。
その後は、なんだか一瞬で終わったように感じた。
開始のラッパの音で興奮していたキツネは、檻の中に降りてきたロジーにすぐさま牙を剥いて飛びかかった。
そこから、あれよあれよという間にキツネはロジーを一噛みもできぬまま、シェンの気がついた時には顎の下の柔らかいところを剣でひと突きされて、檻の床でビクビク震えていた。
ロジーは鉄格子を器用によじ登り、檻の天井から外に出てきた。返り血で赤いシミだらけになった衣装が観客によく見えるよう、大手を振って歓声を受ける。
拍手の合間に、シェンの隣の観客から「なんかイマイチだったな」と聞こえた。
今のでは、ロジーがあまりに難なくきれいに獣を倒してしまったから面白くない、というのだろう。
見世物ははじめてのシェンにも何となくわかった。この演目は曲芸じゃない。観客は、獣と剣闘士が命をかけた血みどろの戦いに臨むのを、ハラハラしながら見たいのだ。
だからこそ、この演目だけは絶対にやらされたくない――と心から思った。
ショーは終わった。
観客が、だらだらと帰っていく。出口のところで、出演した子供たちがみんな揃ってキャッキャと嬉しそうに帰る客へ話しかけている。
「パルマも行こ。ここで町の大人と仲良くなっとくんだよ」
いつの間にか後ろにいたエブリンが、そう言いながらシェンの横を通り過ぎて行った。
シェンはにっ、と笑顔を作ると、早足で出口へ向かった。
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