5.5-5 飼い葉のパルマ
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「シスター・アルマンダ」「シスター・フロック」「シスター・オルフィーノ」「シスター・ロマ」と、自分の名前。
白い塔の屋根裏部屋に置かれて数日、やっとそれだけは聞き取れるようになった。
ここにいる大人はみんな「シスター」と呼ばれるようで、女の人しかいない。
シェンが五歩も歩けば突っ切れるくらいの、小さな木床の部屋には、壊れた家具やヒビのいった鏡、虫の食って穴だらけの服や黒ずんだ本がぎゅうぎゅうに詰め込んであった。その隅に、カビ臭いシーツを何枚も重ねた上で、シェンは寝起きした。
シスターたちがかわるがわる、痩せた薬草と豆のスープを持ってやってきた。
シスター・アルマンダとだけは、持ってきてもらった紙と鉛筆で絵を描いて会話した。針金のように背中まで伸びた髪を、とかしてもらった。
他の子供たちが入ってこないようにか、大人のいない時は外から鍵をかけられた。
夜が辛かったのを覚えている。暗くて狭い部屋は揺れない船と同じだった。唯一、先細った天井の上の方に、小さな窓があるのは救いで――晴れた夜はそこから月明かりが入ってきて、そういう日は少しだけ眠れた。
用足しと水浴びに連れ出されると、廊下でたくさんの子どもとすれ違った。
みんなシェンが通ると、どれだけ騒いでいても黙ってこっちを見た。自分は呪われ子になったんだと思った。
変な灰色だった皮膚が、人間の肌の色に戻ってきた頃。
「お食事」「お水」「おやすみなさい」もろもろ、ここが「アルバート王国」の「孤児院」だということ、「天主はあなたを救われた。感謝しなさい」の意味がわかるようになった。シスターの真似をしなくても、胸で星印を切れるようになった。
飢えたように、言葉がほしかった。「珅」の中のどこかにいた、形のない、黒くて重い何かから逃げるために、狂ったように言葉を貪っていたような気がする。
やがてまもなく、シェンは屋根裏部屋を出されて、同じくらいの子供と相部屋になった。
相部屋の子のことは、ほとんど覚えていない。
たしか、小さな二段ベッドの上下で寝起きしたはずだ。最初は興味本位らしく話しかけてはきたが、そのあとはシェンがまともに受け答えしないからか、全く会話しなくなった。
早朝に起きてお祈りし、食事を終えると、畑を耕すか掃除をするか、草むしりか水汲みか、何かしらをさせられて、あとは自由。
ボロボロのタオルを自分用にもらって、たまに一人で水浴びした。
シスターたちは、子どもたちを集めて読み書きと数を教えた。シェンはついていけるはずもなくて、いつも聞き流すだけ。
そういう時は、あとでシスター・アルマンダに言葉を教えてもらいに行った。彼女はいつも特別に、丸一日シェンに付き合ってくれた。
一日二回の食事は、手のひら大の固いパンに豆のスープと食用油。稀に干し肉の切れ端。
それじゃ足りない子供は多い。シェンは言葉がろくに話せないのをいいことに、毎回のように食事を横取りされた。何も食べられない日さえあった。
ただしシェンも、黙って横取りされてばかりではいなかった。
幸い、体ひとつの勝負は得意だ。食事前に厨房に忍び込んで食べ物を盗み、畑の作物をできたそばから少しずつ頂戴した。
自分の食事に手を出した子どもへ片っ端から掴みかかり、横取りし返したこともよくあったが、そうすると次の食事は抜きにされた。それでも、大人しく毎回の食事を待っているより、そっちの方が腹は膨れた。
やがて自分に孤児院一の暴れん坊と名がついたことは、言葉を覚えかけのシェンにもわかった。
食事の争奪戦に始まった子どもたちとの対立は、やがて紙や靴の取り合い、井戸の場所取り、なんにつけても小競り合いに発展するようになり、毎日やったやられたの大騒ぎ。
手を出しても勝てないシェンに対抗するためか、他の子供たちはあることないことシスターに言いつけだした。
でも、シェンは大人に叱られるのなんかへっちゃらだ。村のウサギ番は叱られるのも仕事だったのだから――
子供たちはいつしか、シスターに言いつけるのでさえ大して効果なし、とみたらしい。
ある日の昼、シェンが中庭で水浴びをしていると、いきなり大勢の子供に井戸のへりへ囲い込まれた。
あ、とシェンが思った時には、体がふわりと井戸がこいを乗り越えていた。真っ暗な景色に丸く切り取られた曇り空を見て、はじめて突き落とされたことに気が付いた。
その時は、さすがのシェンも死ぬんじゃないかと思った。
井戸の壁を登ってこられないよう、釣瓶をシェン目掛けて何度も落としながら、井戸をのぞいてひそひそしたり、わざとらしく悲鳴をあげている子どもたちの昏い顔が目に焼きついている。
誰かに助けてもらった記憶もないが、その時死んでいないのだから、死に物狂いで壁を登って勝手に助かったのだろう。
そのあと、やっぱりシスターたちに叱られたのはシェンだった。他の子供たちから事の顛末を聞いたシスター・アルマンダが、尋常でなく怒り狂っていた。
シスターたちの様子や子供たちの顔、断片的に聞き取れた会話からするに、シェンが他の子をふざけて突き落とそうとして、誤って自分が落ちたのだ――とでも言われたらしい。
しかしそれは、孤児院一の暴れん坊に困っていたシスターたちには、都合がよかったようだ。
この事件の罰として、そのままシェンは孤児院の外に身ひとつでつまみ出された。
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孤児院に戻る気もなかったシェンは、孤児院の前に流れる川沿いを、上流に向かって歩いていった。
岩場と草地が交互に続く、緑と灰色の景色。遠くの方で、ゆるやかな丘や谷が、空と地の境界に曲線を描いている。
何日歩いたかわからないが、川沿いを歩いているだけあって、飢えを凌ぐくらいの食べ物と水にはありつけた。
泥だらけになりながら、歩いて歩いて、歩き続けたある日。
川沿いに街を見つけた。
シェンは迷わずそこに足を踏み入れた。
あてもなくふらふら街を見て回って――時々街の人には野良犬みたく棒で追われて――気がついたら、やっぱり以前に出てきたのと同じような教会の前にいた。
教会の奥には、やっぱり孤児院があった。
前と同じように、門の前に座り込んで数日過ごしてみると、同じように中からシスターが出てきて、シェンを中に招き入れた。
体をきれいに洗われるところから始まって、前と同じ孤児院生活の繰り返し。
やっぱりすぐ年上の子どもたちに目をつけられて、安穏には過ごせなかった。でも、前のところより食事は良かった。浮き出た肋骨とこけた頰が少し丸くなった。
悪い生活ではなかったと思う。
しかし、しばらくして気がついたら、また川沿いを一人で歩いていた。何があってそこを出て行くことになったのかは、全く覚えていない。
森の中に分け入り、平原を渡り、山を登って、やがて川を見失った。道を見つけて、どこというあてもなくその先へ歩く。
金も食うものも着るものもない。道中、人里から離れた弱肉強食の世界で、雑食の獣として生きるのは悪くなかった。
ただ、だからってそうしているわけにいかない。わかっている。
寒くなると腹を痛める。獣に追われて怪我をすれば、そこに変な虫がたかる。死ぬのかな――などと、そのたびに思っているようじゃいけないのだ。
身体がつらいとき、〝一人になっても生き延びるんだ〟が、耳鳴りのように繰り返す。それと、呪いみたいに鼻へこびりついた、血と肉のにおい。
この中の一人だけでも大人になってくれれば、それに越したことはないんだ。
と、あの時母様は言った。
それなら大人になるまでずっと、その日死ぬか生きるかギリギリの賭けに、毎日勝ち続ければならないのか?
たった一人、自分しかいないこの世の中で、一体いつ誰が、大人になれたかどうかを決めるのだろう。
大人になったら、賭けをやめていいのだろうか。
やめたら、どうなるのだろう。生きるか死ぬかの賭けをしないって、どういうことなんだ?
一回でも負けたら終わりの賭けをやめる。
でもこの世で生き続けている以上、「賭けない」のは不可能だ。
じゃあ――つまりそれは、「負ける」ということに他ならない。「負ける」すなわち、諦めて死ぬということ。
そこまで考えたら、シェンはぼんやりと納得した。
大人になったら、死んでもいい。
大人になったら、シェンは死ぬ。
いつか大人になったら、毎日自分の身を賭け金にして、神経をすり減らしながらする博打をやめる。眠ってしまえばそれで終わり。
シェンはくっくっと笑った。なんて楽ちんなんだ。終わりさえ見えていれば、どれだけ辛くたって耐えられる。
死んだらどうなるのだろう。仙界とか天上界に行くのかな。それとも、悪鬼に連れ去られて魔界に行くのかな。
後ろめたいことはいっぱいした。きっと自分の魂なんか汚れきっている。天上界に行けるはずはない。
とすると、悪鬼に連れ去られる運命だろう。でもそしたら、星や玲や琅には会えない――
もう長らく思い出すことのなかった顔が、その瞬間はっきりと頭をよぎった。
すっと顔から笑いが引く。
妙に、耳元で打ちつける雨の音がはっきり聞こえる。
はあ……と小さなため息が漏れると、ただでさえ冷えた体が、心臓まで冷え切ってしまったような気がした。
まだ、当分死ぬわけにはいかない。どんな顔をして彼らと会えばいいのか分かるまでは――
そう思ったのが、どこかの川辺で雨に打たれている時だったか、畑の作物の葉陰で雨宿りしている時だったか、それとも森で獣の臭いに息を潜めている時だったか、もう朧げにしか思い出せない。
**********
街から街へ、人里から人里へとあてもなく歩きながら、数年が経った。
シェンは孤児院を転々とするのをやめて、一人で旅をするようになっていた。
街にいるときはそこいらでモノやカネを盗んだり騙し取ったりしながら、路地の端っこで雨風を凌いで過ごす。
しばらくひととこに留まれば、だんだん盗みがうまくいかなくなる。そうなったら、ふらりと街を出て次の居所を探した。
そうしているうちに、シェンは道中で行商や興行の隊列を探して、その荷馬車にこっそり忍び込んで移動することを覚えた。そうすれば、勝手に遠くに連れて行ってもらえるうえに、雨風もしのげて暖かく、運が良ければ荷馬車の荷で飢えがしのげる。
見つかりさえしなければ、今までに比べてこれほど楽なものもない。いつだか乗り込んだ船の貨物庫と違って、逃げようと思えばいつでも逃げ出せる。
そう思えばこんなところでも平気でいられるくらい、逞しくなったんだなあ――などと、日々のんきな考えごとをする余裕すら出てきた。
荷馬車に積まれた飼葉樽の隙間で、ネズミと一緒にぎゅうぎゅう押されながら、がたん、ごとん、と揺れに合わせて頭を巡らせる。とは言っても――頭を巡らせたところで、大したことは思い浮かばない。ぼんやりとした言葉や景色が、浮かんでは消えていく。
このまま、いったいどこへ行けばいいのか。
ずっと根なし草のまま、あてどもなく旅を続けるのか。
それとも、いつかどこかで根を下ろすことになるのだろうか。
そういえば、この飼葉樽だらけの馬車には何か食べられるもの、入ってないのかな。
飼葉ってどうして食えないのだろう。いや、食えないわけじゃないが、腹が膨れるほどは食べられないからもどかしい。
あーあ。これが全部食べ物だったら、大人になるまで一生ここで暮らすのになあ。
こんなたくさんの食べ物と、こんなにちゃんとした寝床がある場所が見つかるのなら、そこに根を下ろしてもいい。それが具体的にどんなところなのかは、全く想像できないけれど――
ふわぁ……とシェンは大あくびをした。
飼葉の匂いは嫌いじゃない。香ばしくて、いかにも温かそうな匂いがする。飼葉の匂いの空気を吸っているだけで、腹が膨れるような気さえしてくる。
頭がぼーっとする。いい。すごくいい。このまま、今日はいい夢が見られるかもしれない。
シェンは自分にしか聞こえない声で、小さく讃美歌を口ずさんだ――
がたんっ
いきなり大きく馬車が揺れる。飼葉樽ががくんと動いて、上にのしかかってくる。
「いっ……たぃ」
小さくぼやいて、力ずくで飼葉樽を押しのける。今の今まで飼葉樽の隙間やシェンの体の下でちょろちょろしていたネズミたちが、ごそごそとどこかへ逃げていった。
大きな揺れを最後にして、馬車の中は静かになっていた。どうやら、止まったらしい。
頭の中が、バチバチと音を立てて冴え渡る。止まったと言うことは、荷物をおろしに人が入ってくる可能性がある。すぐにでも外に出ないと。
押しのけた飼葉樽が倒れかかってこないのを確認して、シェンは隙間から抜け出した。
その時。
ガサッ、と少し離れたところで、大きなものが動く音がした。シェンはあわてて身を引く。
「あぁっ! 何かいる!」
けたたましい少年の声が、馬車の中に響いた。
荷馬車の幌を開けて、子供が入ってきたらしい。シェンは息を殺し、ヤモリのように身を低め、目だけを動かして周囲を見回す。声の主が入ってきたら、積み上がった飼葉樽の上に登る。天井との隙間を通って、声の主の後ろに回れば、あとは外に出て逃げるだけ。
よし、簡単だ。
声の主の子供が、ぎし、と一歩踏み出す音が聞こえる。
同時にシェンは、積み上がった飼葉樽の隙間に手足をかけて、スルスル登る――
「いた!」
ヒヤリとした手に、突然足首を掴まれる。
今シェンがいた隙間から、子供の細い手が伸びていた。シェンはギョッとして、その手を振り払おうと蹴りまくる。子供は怯まず、シェンと同じくらいの身軽さで飼葉樽の隙間に体をねじ込むと、足にしがみついてくる。
子供の体重でシェンの手がつるりと滑り、あっけなく落ちた。
「よいしょ!」
子供は容赦なくシェンの両足を捕らえると、体を肩に担ぎ上げる。
「親方! 親方ぁーっ! 子供だよ! 子供がいたぞ!」
叫びながら、馬車を飛び出した。
馬車の外には同じような幌馬車が何台も停まっていて、その間を大きいのから小さいのまで、子供が何人もうろちょろしている。
「みてみてみて! 飼葉の中にいたんだ!」
シェンを担ぐ少年が叫ぶと、子供たちは足を止めてこちらを見た。走って寄ってくる者もいる。
「親方!」
「おーやーかーたー!」
「泥棒かぁ⁉︎」
「うわっ汚ねっ!」
周りの子供たちはシェンを見るなり、大騒ぎしはじめた。すると、
「なんでぇガキども。なんの騒ぎでぇ」
シェンから見て一番奥の方に停まっている馬車の陰から、のっしのっしと大男が出てきた。
変な山高帽を革紐で顎にくくりつけ、革のオーバーオールは突き出た腹ではちきれそうだ。灰色の顎ひげと口髭は伸び放題に伸びてたれ下がり、不健康そうに落ち窪んだ眼窩の奥で、深い切り傷のような目が、周囲の子供たちを睨んでいる。
「親方! 飼葉の馬車ん中に子供がいたんだよ!」
シェンの下で少年が叫んだ。親方の目が、きっとこちらを見る。
「ガキだぁ? コソ泥のドブネズミか」
「分かんねえけど捕まえたぜ」
「そのなりじゃあ、仮に何かくすねてたところでもう腹ん中だろうな」
ふん、と親方は鼻を鳴らして、どすどすこちらにやってきた。
「放っちまえ」
「でも 親方」
少年はズケズケと口答えする。
「ヒトデブソク、だろ? 女の子だぜ、こいつ。それにこんなチビなら、ちっと太らせたら芸の一つでも覚えるよ。そうじゃなければ、うちの獣どもの餌代が浮くと思ってさ。な?」
「てめえはまたこれを拾えっつーのか?」
親方はシェンをじろじろ眺めた。
シェンも親方の顔を見返した。シェンが担がれて逆さまになっているせいで、親方のじっとりした下向きの視線とシェンの視線が直線状にぶつかる。
親方はふい、と目を逸らすと、興味なさげに背を向けた。
「好きにしろ。そンかわり、てめえが面倒見るんだな」
シェンを担いでいる少年は、満面でにっこり笑った。
「わぁってるって。ただ、一つお願いがあんだけど……小屋に戻ったら、一回だけでいいからこいつにたらふく飯食わせてやってもいい?」
「……かまやしねえよ、てめえらの食い扶持が減るだけだ。ハオじいにそう言っておけ」
「おうっ! せんきゅー親方!」
心底嬉しそうに少年が言うと、親方はのっしのっしと奥の馬車へ去っていった。
親方の姿が見えなくなると、少年はシェンを背中から地面に投げ下ろした。
シェンは反射的に受け身を取って、すぐに起き上がる。それを見て、少年はニヤリと笑った。
「いいねえ。面倒の見がいがありそうだぜ」
そして、片手で周りの子供たちに合図する。子供たちが、二人の周りを丸く取り囲んだ。
「逃げるのは諦めた方がいいよ。ここの奴らは全員、その辺で細々とコソ泥やってるやつとは鍛え方が違ぇんだ」
少年が偉そうに腕を組んで見下ろしてくる。
「このまま大人しくオレたちの仲間になりゃあ、あとでたらふく飯も食わせてやる。真面目にやってりゃ、食いもんも寝るとこもあるぜ。野良生活とどっちがマシか、わかるだろ?」
今になって正面からちゃんと見ると、彼はシェンより二回りくらいは大きい。ぱっちりした二重の目にぴんぴん跳ねた黒い短髪、茶けた肌、いかにも快活そうで幼げな顔立ち。
それなりに肉付きのいいせいか、仁王立ちで偉そうに腕を組んでいると、ベテランの少年兵みたいだ。
袖を捲り上げた白いシャツからのぞく皮膚は傷だらけで、愛嬌のある目の奥には、なんとなく暗くて鋭いものを隠しているような感じがする。
逃げようったって、体格がいい上にすばしっこいこの少年の目の前で、まんまとずらかれるわけがない。その上、周りにはこの人だかり。
彼の話を信じるならば、飯は食わせてもらえるらしい。それが嘘だったところで、後からどうにかする方法はいくらでもある。
迷う理由がなかった。シェンは小さく頷いた。
それを見た少年は、ますますにんまりと笑って、
「お前、名前はあんの?」
「シェン!」
思っていたより大きな声が出て、シェンは自分で驚いた。
「ふうん」
少年は小首を傾げる。
「それ、本名?」
シェンは頷いた。すると、少年が周りを取り囲む子供たちをずいっと見回して、
「だれか、こいつの〝役名親〟になりたいやつはいるか?」
子供たちは顔を見合わせて、ひそひそ話し始めた。さんざめく声が、虫の這う音みたいにシェンの周りをぐるぐるかけ回る。
少しして、どこからか小さくてはっきりした声が飛んできた。
「ロジーが決めたらいいよ」
少年――ロジーは顔をちょっとしかめると、
「ちぇっ、オレこういうの得意じゃねーんだよ」
腰に手を当てて、シェンを睨めつける。
「そうだなぁ。飼葉樽の中にいたから、お前はパルマ。どうだ?」
周りの子供たちがくすくす笑った。ロジーは笑い声の主を一人一人探すように、全員を見回す。
「文句があるなら代わりに案出せよ」
「いいと思う」
またどこからか声が上がった。
飼葉のパルマ。外なら大抵どこにでも生えていて、馬や牛が好むから、よく飼葉にされる草の名前。
同意の声を聞いたロジーは、少しふんぞり返るようにしてシェンを見下ろすと、言った。
「オレらにはな、〝役名〟ってのがある。ここではみんな、役名でしか呼び合わない。真名は忘れちまうもんだ。で、オレの役名は〝ロジー〟。お前は今日から〝パルマ〟だ。いいだろ?」
別にシェンは何でもよかったので、適当に頷いた。
雑草の名前をつけられるのがそんなに面白いのか、周りの子供たちがまたこちらを見ながらヒソヒソ笑い出す。ロジーはその笑い声に少し顔をしかめて、
「別に変な名前じゃねーだろ! こいつはパルマだよ! 文句あるやつはマジで今のうちに言えよな!」
すると、ふ、とかき消えるように笑い声はおさまった。
「いいんだな! じゃ、こいつの名前は今日からパルマだから! わかったら誰かこいつの体きれいにしてやってくれ!」
ロジーが叫ぶと、周りの子供たちは散り散りになって馬車の影へ消えていく。
その中から二人がシェンの方へやってきて、シェンの腕を片方ずつぐいっと引っ張った。
「ほら、行こ」
右腕を掴んでいる子が、こちらも見ずにつぶやく。
つぎはぎや毛羽立ちだらけになったウールの赤いワンピースと、茶色いおさげ髪の少女。シェンよりも頭二つ分近く背が高い。
左腕を掴んでいるのは、ボサボサの黒髪をうなじで束ねて、親方と同じような汚いオーバーオールを着た、痩せっぽちの少年。こっちも、シェンより頭二つ分は背が高かった。
ロジーが子供たちの中でも特に年長者で、その上リーダー格なのは一目瞭然だ。しかしどうやらこの二人は、ロジーに次いで、それとも同じくらい、ここの子供たちの中では年長者らしい――ということも、さっき子供たちが集まっているのを見た時から思っていた。
二人はシェンを半ば引きずるようにして、馬車の間の暗い隙間を歩く。
やがて歩きながら、女の子がこちらを振り返った。
「あたしエブリン。こいつはシャモア。よろしくね、パルマ」
そう言うと、女の子――エブリンは、飾りっ気のない切れ長の目で、力なく笑った。
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