5.5-4 破片
**********
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……
きぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
ひっ……えぐっ……と、小さくしゃくり上げる声が聞こえた。
「ね、ねえさまぁ」
声の出所は星だった。息が漏れるようなささやきは、耳を澄ましてもよく聞き取れない。
「ね――まだ、出れな――の?」
自分の鼓動がうるさい。珅は耳を塞いでみたが、どくどくいう音は余計に大きくなるだけだった。
「――だしてよぉ」
だしてよぉ。
珅は頭の中で、震える星の言葉を繰り返す。
ぎり……と歯噛みして、珅は脇にあった荷物袋の中をまさぐる。ウサギ用の包丁を取り出すと、体をよじって、箱の壁にぴったり耳をつけた。
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
壁の向こうからは何も聞こえない。どうやら、箱の外には誰もいないようだ。
大きな音さえ立てなければ、うまく逃げられるかもしれない。
珅は箱の蓋に手と頭を当てると、立ち上がる要領で、力一杯蓋を押し上げた。ぎち……と箱を縛っている縄が軋む。が、到底蓋は持ち上がらない。
「うんに……っ」
珅はさらに足を踏ん張る。
箱の本体と蓋の間から、ほんの少しだけ、外の空気がすうっと入ってきたような気がした。
珅はその隙間へ包丁をねじ込んだ。全体重をかけて、めいっぱい押し込むと、こんどは全力で横に引く。
四苦八苦すること、しばらく。
箱の外で、ブツっ、パサリ…….と音がした。同時に珅の包丁は抵抗をなくし、
「わっ⁉」
突然するりと動いた包丁に、思わずよろけて尻餅をつく。
包丁をおいて体勢を立て直し、蓋を押し上げる。さっきよりも手に感じる重さが格段に少なくなった。
うまく、箱を縛っている縄が切れたらしい。
珅は何回か、その作業を繰り返した。
ついに、
「は、は ……あ……あ、いた」
珅は包丁を荷物袋にしまい、蓋を押し開ける。蓋の下から、すっとする外の空気が風になって入ってきた。が、真っ暗だ。
「で、でれたの?」
星が怯えた声で訊いてくる。珅は「まってて」と言うと、箱の壁をよじ登って外へ出た。
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
不気味な音だけが、床の下から聞こえてくる。
周りは木箱ばかり。船着場に積んであったのと同じ木箱が、ところ狭しと山のように積んである。
人気のないところからして、どうやら納屋みたいな場所なのだろう。天井も壁も暗くて見えない。周囲をあんまり動き回ると、今いた箱に戻って来られなくなりそうだ。
珅はその場にかがみ込んで丸まった。膝を抱えた腕で耳を塞ぎ、自分の心臓の音だけを聞く。
数秒間そうした後、珅は重たい首を上げて、唾を飲み込んだ。
姿勢を低くしながら、一歩、二歩、三歩……真っ暗闇の中を、横にある箱の壁を支えに手探りで進む。
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
歩いていると、突然箱の壁が途切れた。
そのかわり、ぺたぺた冷たい感触が手に当たる。陶器の、大きな甕に似た――
ぺたぺたぺたと触って、珅は甕の蓋を探り当てる。そうっと押したら、蓋は簡単に開いた。
ちゃぷちゃぷ音がする。
塩気のない、嗅ぎ慣れた飲み水の匂い。そうっと手を入れて、小指で中身に触れる。
ひやりと濡れた。舐めると、やっぱり水だった。少し生臭い気がするが、こんなうまい水は飲んだことがないくらい、やたら美味しかった。
珅は手で水をすくうと、無心に啜った。狭い箱の中の暑さと、激しい緊張でからからになった喉が生き返る――その時。
がちゃん!
ぎぎい……と、どこか近くで扉の開く音がした。
体が凍りつく。こっ、こっ、と足音が納屋の中に響く。誰かが入ってきた。
見つかったら――もし見つかったら、どうなるんだろう?
珅は震える手で甕の蓋を閉める。そしてその上へよじ登り、隣に並んだ別の甕との隙間に足を突っ込んで、すべり落ちるように体をねじ込んだ。
「ん?」
足音の方から、今度は若い男の声がした。
「ネズミかな……」
男の声が呟く。
こっ、こっ、こっ……
足音が見えないところで動き回り、やがてこちらへ近づいてくる。空中に浮かぶ、点のような手提灯の明かりが見えた。こっ、こっ、こっ……と、珅の隠れる甕の隙間からも、だんだんはっきり足音の主の顔が見えてくる。彫りの深い男の顔。
珅は慌てて膝に頭を埋め、できるだけ小さく丸まった。
待つ。
耳を塞ぐ腕越しに聞こえてくる足音は、すぐそこまでやってきて、ぱたりと止まった。
頭の上で、珅がさっき開けた甕の蓋をずらす音がした。
体を石にして、頭を空にして、心の中でひたすら何にともなく祈る。
みつかりませんように。みつかりませんように。みつかりませんように。みつかりませんように、みつかりませんように、みつかりませんようにみつかりませんようにみつかりませんようにみつかりませんようにみつかりませんように。
男の息遣いが聞こえる。
男は甕のそばから何か小さなものを手に取って、水をちょろちょろ、ちょろちょろ、と注ぎ始めた。おおよそ、柄杓のようなもので水筒かなにかに水を入れているようだ。
すぐに――といっても珅には丸一日くらいに感じたが、男は水を注ぎ終わると、甕の蓋をそそくさ閉めて、さっさと戻って行った。
足音が遠ざかる。すぐに、がちゃん! と再び音がして、どこかにある納屋の扉が閉まった。
――そこから、珅はどうにかして元いた箱の中に戻った。
どうやって戻ったのか覚えていない。気がついたら、ぜえぜえ言いながら箱の中に飛び込んでいた。
そんな珅を見て、さっきまで出たい出たいと駄々をこねていた星も、泣きそうな顔で黙り込んでしまった。
「み、つ、か、らない、ように、しなきゃ」
捻り出すように、珅が言った。
星は小さく「うん……」と言った。玲には、もう返事をする元気もないようだった。
**********
どれくらい時間が経ったのだろうか――
一日かもしれないし、一週間かもしれない。真っ暗な箱の中では、時間の感覚なんてすっかりなくなっていた。
一秒一秒が、やたらと長かった。
「ねぇさまぁ」
何日目か、それとも何時間後か。
星が掠れた声でつぶやいた。
「数棋したい」
真っ暗闇で姿は見えない。
虚空に放たれた言葉が、三人の息で湿った暑い箱の中をただよう。
「……こんどね」
珅の返事はポトリと落ちる。
「こんどっていつ?」
星のつぶやきは、耳元で飛び回る蚊の羽音のように、珅の神経を逆撫でた。
「……こんどはこんど」
「ねぇさま、おしっこ」
「……あとで」
「えぇ、がまんできない」
「……いま外に人いるからだめ」
「ねぇさまぁ、おなかすいた」
「……がまんして」
「いつまで?」
「……あとちょっと」
ネズミがいると思われたのか、箱の外にはネズミ捕りが置かれたらしい。外から聞こえる人声が、いつだかそう言っていた。
珅は、星と玲を水甕のあるところへ連れて行くために、交互に箱から出してやった。足音がしないように靴を脱がせ、迷わないように一人ずつ、ぴったり体をくっつけて、ゆっくり歩いた。
――それも数回目。
玲が、仕掛けてあったバネ式のネズミ捕りにうっかりつまずいた。バチンッ! と嫌な音がして、玲が突然ヒィヒィ泣き出した。
慌てて珅は玲を引きずって戻った。臆病で内気で、普段あまりしゃべらない玲の泣き声は、珅の心臓をやたらめったら抉った。
珅は、玲の後ろから口を腕でぐるぐるに塞いで声を殺した。
物音を聞きつけたのか、こっこっこっこっこ……と納屋の中に人が入ってくる音。
呪いの言葉でも唱えるように、珅は玲の耳元で小さく小さく繰り返す。「しずかにして」「しずかにして」「しずかにして」――――
箱の外の足音は、何事もなく遠ざかっていった。
それから、星も玲も、すっかり怯えて箱の外に出なくなってしまった。
「ねぇさま、数棋したい」
「……あとでね」
「まだあとでじゃないの?」
「……まだ」
「ねぇさまぁ、おみず」
「……いま、ない」
「なんでないのぉ」
「……あとでもってくるから」
「ねぇさま、村のまっかうり、もうなってるかなあ」
「……しらない」
「たべたい」
「……こんどね」
「ねぇさまぁ」
「……なに」
「へへへ」
「ねぇさま、おうち、どうなってる?」
「……しらない」
「鬼ども、やっつけれたのかなあ」
「……わかんない」
「ねぇさまぁ、ぼく……」
「……なに」
「なんにも」
「しずかにしてよ」
玲はこのところ、水も飲まずにひざを抱えて、ぴくりともしなくなった。
何日に一回か、それとも何分に一回か、星とふたり、お互いに届かない声をかわす。
ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……
耳にさわる。
床の下からひたすら鳴り続けるよくわからない音と、ひっきりなしに自分が痒い体をカリカリカリカリ引っ掻く音。
ずっと、それだけだ。
それもしばらく――どれくらいしばらくか分からないが、しばらくすると、玲の身体にぷくぷくした白い虫がつき始めた。
ごはん、と言ってそれを星にやった。一緒に食べた。なんとも言えないぼってりした味が美味しかった。星も美味しそうに食べた。
虫をつまんで取るたび、熟れすぎたイチゴのようになった玲の皮膚に指が沈んだ。
真っ暗闇。体はどこともなくじんじん熱い。鼻が詰まって息苦しい。
あとは、ぷつり、どろどろと溶ろけるようなあの食感が、はっきりと珅の中にこびりついている。
**********
「おい、これ縄切れてんぞ」
「ありゃ、きれいに全部……」
「ドブネズミ野郎、やりやがったな」
箱のすぐ外から、野太い男の声が降ってくる。
「まあとりあえず、中身を食われてなきゃ……ぅうぇっ⁉︎」
外から箱が開いて、真っ暗闇にオレンジの光が差す。
「な……んじゃこりゃぁっ⁉︎ ウェエッ!」
外で誰かが激しくむせ込んだ。
それを聞きつけたのか、なんだなんだ、とドカドカ足音を立てながら、人がたくさんやってくる。
「ギャアア⁉︎」
「何の臭……オェッ」
持ち上げられていた箱の蓋がつるりと滑って、床に落ちた。しばらくぶりに、珅たちの頭の上がパッとひらける。
「うわあああああ!」
「ギャアアアア‼︎ なんじゃこりゃあっ!」
「誰だ! だれだこんなモン入れたやつぁ!」
箱の外は大騒ぎになった。ドヤドヤと何人もの男がもつれ合っているようだ。
「てめぇなんとかしろ!」
「い、いや、アンタが!」
「うるせえ! てめぇあん中に頭から突っ込むぞ!」
「おエェッ……」
大騒ぎはしばらく続いた。
と思ったら、突然首根っこを引っ張られる。足と尻が床から離れて、宙ぶらりんになった。
「ガキだ! ガキだぁっ!」
珅の首根っこを掴む男が、耳元で叫んだ。
「もう一匹いやがる!」
「まだここにも……こっちのは……うえぇっ」
「腐ってるっ」
「だ、誰が入れやがったんだ⁉︎」
「ここに入ってたもんは……?」
最後に誰かが言った台詞を聞いて、周りは一瞬静かになった。
「こ……ここに入ってた荷はどこ行った?」
どこからか、同じ声が飛んでくる。
その途端、珅の首根っこを掴んでいた男が、思い切り珅を揺すった。
「てめえクソガキ、こん中の荷はどこへやった⁉︎」
目の前に白い光が飛び散る。夢中で珅は男の腕にしがみつくと、思い切りかぶりついた。
「うぇっ!」
男がパッと珅を離す。珅は背中から落ちて転がると、うろたえる男の足元をかいくぐって、星の姿を探した。
「星っ!」
星はまだ箱の中で、力なく座り込んでいた。星の二の腕をむんずと掴んで、思い切り引き上げる。
「までぇゴラァ!」
何人もの男の腕が、怒号とともに迫ってくる。星の体が重くなったのか、自分の手に力が入らないのか、星は持ち上がらない。
向かってくる男の手が、珅の上腕を捉えた。
珅は思わず星を離す。体をすばやく捩って、今度は腕に食い込む指へ勢いよく歯を立てた。
「てめぇっクソガキっ!」
再び離れた男の手を避けて屈むと、股の間をすり抜け、男たちが持つ手提灯のあかりにぼんやり照らされた積荷の箱の山へ駆け上がる。
「逃げたっ!」「そっちに行け!」
「こんのドブネズミぃっ!」
出口。出口。出口はどこだ。どこにある。どこかに扉があるはずだ。どこだ。
珅は積荷の山を四つん這いで走り回りながら、血眼で探した。目の前でちかちか飛ぶ火花がうっとうしい。
「なんの騒ぎだあ?」
右前の方からギィ、と扉が開く音がして、納屋に誰かが入ってきた。
珅はそちらを振り返る。
見つけた。扉だ――
一目散に、珅は駆け出した。男たちが肉で壁を作るように立ち塞がる。その体と体の隙間へ自分の頭をねじ込み、するりとそこを通り抜けてみせた。
「行ったぞ!」
「ボサッとすんな!」
男たちが追いかけてくる。珅は半開きになった扉をすり抜けた。
その先は、陰気臭い木の廊下だった。薄暗い道を先へ先へと、わき目も振らず走る。
息が切れる。脇腹が裂けているようだ。
後ろからの声は、すぐにそこまで追いついてきた。廊下の横道に転がり込み、小さな通気用の穴へ体をねじ込んで、とにかく人の来ないところへ逃げる。
どの道を行ったのか知らないが――死ぬほど、死ぬほど逃げたあと、珅は突然、外へ放り出された。
そこは、船の壁に空いた通気穴の入り口だった。勢いよく四つん這いに進んできた勢いで、ぽいっと空中に投げ出される。
落ちたのは甲板の上。珅はまた上手に背中から落ちて転がった。周囲がどよめく。人がたくさんいる。
すばやく起き上がると、再び周りの人間の足元をくぐって走る。自分の通った後から、悲鳴と驚きの声が上がる。
そして行く手に見つけた。
甲板から、船の外へ斜めに大きな踏み板が架けられている。その下は――石組みの頼りない波止場に続いていた。
珅は迷わず、甲板にかかった踏み板にむしゃぶりつく。後ろから服を掴まれたが、無茶苦茶に蹴飛ばして追い払った。
踏み板を転がって降りる。肩からガツンッ! と波止場の地面にぶつかって、珅の体は止まった。
「てめえ!」
船の上で誰かが叫ぶ。珅は肩を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。
「おい、見ろ、ドブネズミ!」
また別の声が、船の上から降ってきた。
珅はそっちへ目をやる。船の縁に、甲板から身を乗り出した男。
腕を海の上に突き出して、その先に持ったボロ雑巾のような――小さな星を、ぷらぷらと揺すっていた。
珅はそれを見て、どうしたらいいのか分からなかった。
船縁からいくつもの顔が珅を眺めていて、興味津々のものや、笑っているものや、悪態をついているものや、色々あった。
珅がぼうっと突っ立っていると、
「おぉ〜い、おチビちゃ〜ん」
その声は妙に上ずっていて、聞いた途端にぶわりと鳥肌が立った。
「こいつが惜しけりゃ、戻っておいでぇ」
ぶらぶらぶら、と無骨な腕が星を振り回す。珅はやっぱり、どうしたらいいのか分からなくて、棒のように立ち尽くしていた。
「おぉ〜い、いいのかい? このかわいい子ちゃんがお魚のエサになっちゃうよぉ」
その瞬間、ぱ、と星を掴む手が開いた。
ァァ――ぁ――ぁが――がっ――ァ――
箱の中で喉が枯れていて、断末魔の悲鳴は途切れ途切れだった。腕を振り回して何度も虚空を掴み、まとったボロ切れをなびかせながら、落ちていく。
受け止めてあげた方がいいのかなあ、と珅は思った。
だんだん珅と同じ高さに近づいてくる。
まだ高くて届かないだろう。もう少ししたら届きそうだ。
受け止めたら、潰れちゃうかなあ。
どっちが潰れちゃうかなあ。
珅だったら、嫌だなあ……
どぷん
あっけない音をたてて、星の姿が飛沫に飲まれた。男たちの笑い声が、海の上から降ってくる。もう、彼らは珅を追いかけてこなかった。
背を向けて、走り去った記憶がある。
視界にチラつく星の白い水飛沫に背を向けて、石のような体を引きずって走った。船の男たちが、荷を下ろしに降りてきたんだったか。その時に、珅は薄情にも走って走って、どこぞへと逃げたのだ。
それは水面で跳ね返った陽光が目を焼くように、切れ切れに一瞬ずつ、脳裏にこびりついた光景だった。
**********
珅は森の中にいた。
頭のずっと上の方で、金と緑の天井が、さわさわと音をたてながら光っていた。
まばらに生い茂る、若木の幹の隙間からは、真っ白な陽光がこちらへ照り付けている。雨が降ったあとなのか、土はこげ茶に湿って、ちょっとぬるぬるしていた。
シラミだらけの髪が、淡くてすずしい風になびく。ほんのり温かい地面にべったり座っていると、少しだけ、わけもなく落ち着いた。
珅のすぐ横には、周りのよりひとまわり細くてやわらかい若木が立っていた。珅はその木を、根本からぼんやり見上げた。
ふと指先に、小石が当たった。珅はそれを拾い上げると、若木の薄い樹皮にあてがう。
指先が白くなるまで力を込めて、かり、かりかりかり……と樹皮を彫る。
がびがびの傷が、何本かついた。
べとべとする真っ暗闇の中で聞いた星のつぶやきと、玲の啜り泣きが、彫っている間頭の中でずっとぐるぐる回っていた。線のような傷はあまりに細くて、しばらく見つめていると、どこを彫ったのかわからなくなった。
珅は持っていた小石をポトリと落として、ゆっくり手を下ろすと、それきりぼう……と木を見上げていた。
**********
次に気がつくと、珅はどこか、開けた場所に座り込んでいた。
いや、眠っていたのか。目をぱちぱち瞬く。
目の前には灰色の空が、地平線まで続く。足下には、枯れ草だらけで幅広い土の道が横切っている。
その向こうに、草ぼうぼうの浅い土手と、小さな川。対岸には低木の茂みが、真横にずうっと続いて生垣のように盛り上がっていた。
ひととおり周辺を見回して――珅は、自分が何かにもたれていることに気がついた。
慌てて身体を起こし、後ろを振り返る。するとそこには、細長くて白い石柱が、高くそびえていた。その横に黒い鉄格子も見える。
よくわからないので、珅は前に向き直った。そこで、擦れた服の感覚に違和感を覚えた。
見ると珅は、カビや血や排泄物だらけのボロきれじゃなくて、いつのまにかゴワゴワした乳色の麻布を身に纏っていた。身をよじると、ところどころ青や赤や白の斑点になった、灰色の肌が晒される。
珅は肩に布をかけ直して、石柱にもたれると、目を閉じた。どうせ目が覚めていたって、することがない。行くところもないし、歩く気にもならない。
荷物も身ぐるみも何もない。全部なくなって、全部まっさらになった。
〝生き延びるんだ〟――頭の片隅で囁く声を聞きながら、うつら、うつら、と珅は暗闇に沈んでいった。
「KdlえNqま⁉︎」
いきなり、近くで甲高い声。
珅はパッと目を開けた。
直後、ガシャンガシャン! と大きな金属音がした。あまりに耳障りでとっさに気分が悪くなり、珅は水のような腹の中身を足元に吐いた。
口の中が空になってから、なんとか、ゆっくり顔を上げる。石柱の横にあった鉄格子が開いて、その向こうから人が出てくるところだった。
女の人だろうか。なんだかチンケな格好をしている。背中まである黒い布をかぶり、上下が繋がった真っ黒の袴みたいな服を着ていた。布の隙間からわずかに見える髪は明るいオレンジ色で、シワの多い顔に刻み付けられたような目は、銀に近い灰色だった。
「xJ°ンhLmm8れ9」
訳のわからないことを言いながら、こちらに近づいてくる。
珅のそばに来ると、珅があまりに汚いからか、彼女は少しだけ顔をしかめて立ち止まった。が、こっちからじっと見ていると、やがて彼女はおそるおそる珅に手を伸ばしてきた。
「s7sBvッZ。gQイイ」
彼女は珅の体をひょいと抱き上げて、もときた鉄格子の入り口に入っていく。抵抗する気力も理由もなかったから、珅はされるがまま大人しく丸まっていた。
鉄格子の向こうは、ぬかるんだ土に雑草のまばらに生えた、何にもない広場だった。ぐるりと周囲を囲む鉄格子のそばに、よく見たら小さな……菜園、だろうか? ぼやけてよく見えない。
彼女が進むにつれ、周りは人で賑やかになってきた。
そこにいたのは、だいたいが子どもだった。大きいの、小さいの、男も女も、珅を見つけるとぎゃーぎゃー騒ぎながら近寄ってきて、そばまで来ると顔をしかめて後ずさる。
「yF33°bっっ!」
「yF33p°bキキ!」
子どもたちは口々に、珅に向かって何かを叫んだ。何を言っているのか知らないが、いい言葉ではないようだった。
珅を抱えた女の人は、広場の奥にまっすぐ向かっていた。見ると、そこにはつんと尖がった屋根の、白くて高くて小さい建物が立っている。正面には古く黒ずんで、丸い形をした木の扉。女の人は、ぎぎい……と迷わずにそこへ入っていく。
中は黄ばんだ白い壁の、狭くて陰気臭い廊下だった。両側の壁には小さな木の戸がたくさんあって、どこからもやはり子どもの声がした。
女の人は、珅を抱えたままさっさと進む。両側から飛んでくる、子どもたちの視線が痛い。
「Cg5Uアr」
やがて、廊下の突き当たりに着いた。そこは小さな木の裏口があった。女の人は裏口を出て、扉の外にある石段をそうっと、二、三段降りる。
裏口の脇には木桶や水甕が乱雑に置いてあって、壁に打たれた杭にボロボロの手ぬぐいがたくさん引っ掛けられていた。
正面には石組みの小さな井戸。あたりは茶色く剥き出しの土と、石でいい加減に囲まれたちっぽけな花壇がいくつか。その中では、よくわからない草が白い花を咲かせていた。
女の人は井戸のそばで珅を下ろすと、釣瓶を落として井戸の水を汲んだ。
そして、裏口の横から木桶とタオルを適当に取り、珅の身に付けていた麻布を、容赦なく剥ぎ取った。
腫れた皮膚が風にさらされて、ひりひりする。素っ裸で突っ立ったまま、珅は女の人の顔をぼんやり眺めた。
へんな顔だと思った。
かさかさして白っぽい肌に、つんと尖った鼻は大きくて、鼻の穴なんか木のうろみたいだ。深く彫られた目に切れ込みのような口、皮のたるんだ喉。
その人は、村の兄たちが言っていた、森に住む精霊にそっくりだった。若木が頑張って人の姿を似せているような――珅が想像した、〝
ここは木霊の国だろうか。
本当に、想像できないほど遠くまで来たらしい。
もちろん自分は人間なわけだけれど――木霊の国で人間はどうなってしまうのか、珅の回らない頭では皆目見当がつかなかった。
「ワヌlqM0」
何ごとかこちらに呼びかけて、木霊はいきなり釣瓶の水を珅にぶっかけた。
「いぎっ……」
冷たさと、刺すような痛みで声が漏れる。
木霊は容赦なく、右からも左からも、頭の上からも、水をかけまくって珅をびしょ濡れにした。そのあと手ぬぐいを手にとって、釣瓶の水で濡らすと、珅の体や髪を丁寧にこすった。
「vd4Nj」
こっちを見ながら、木霊はひたすら何かを話しかけてくる。
珅は目の前の虚空を見ていた。い……ゔっ……と、擦られるたびに声が漏れた。しみる痛み、つれる痛み、剥ける痛みや焼ける痛み、珅の頭から足先まで全部をいろんな痛みが責める。
ほどなくして木霊は、釣瓶を片付けて、乾いた手ぬぐいを取ると珅の体を拭き始めた。
ぽん、ぽん、とやさしく当たる布の繊維が無数の傷口に触って、水でこすられるより痛い。珅は悲しくて、消えそうな気持ちになった。
ひととおり珅の体をふくと、木霊は珅の前にかがみこむ。裂け目のようなまぶたの間から、曇った空の色をした目玉が、珅の顔を見上げた。
「gバA、ハ8k?」
木霊が珅を指差して、何かをたずねてくる。枯れ草みたいに細い指。
珅は、水で冷えた体を抱くと、寒さと痛みでがたがた震えながら、小さく首を傾げた。すると、こんどは木霊の指が、木霊自身をさした。
「シjtク7一、アkレンhタ」
そう言うと、微かににっこりする。こちらに語りかけているようだった。
珅はもう一度、わずかに首を傾げた。
「シ、jう、々、一、マ、ノム、v、ン、ダ」
木霊は言葉をひとつひとつ、置くように言った。
「し……」
珅は少しだけ口を動かす。すると、木霊は頷いた。
「シjう」
「し、す?」
珅が繰り返す。
「々一」
「たぁ」
「ア」
「あ」
「ノレ」
「る」
「アん」
「まん」
「ダ」
「だ」
そこまで珅が真似すると、木霊は嬉しそうに笑って、
「sいs、夕一、ア、ノレ、mン、ダ」
「す……す……たぁあ、る、まん、だ」
「シ、ス、夕ー、アル、mンダ」
「し、す、たある、まんだ」
「シスター、アルマンダ」
「しすたあるまだ」
舌がうまく回らない。
木霊は満足そうな顔をして、こんどは珅を指差した。
こんどはわかった。名前を訊かれているのだ。
「珅」
小声で答えると、木霊はさっきの珅と同じように、少しだけ首を傾げた。
「しぇん」
珅はゆっくり繰り返した。木霊は首を傾げたまま、
「しえ?」
珅はふるふる頭を振った。
「しぇ、ん」
「しえ、ん」
木霊がたどたどしく真似をする。珅は少しだけ頷いた。
「しぇん」
「シエン」
「しぇん」
「シェン」
木霊は言ったとたん、自分でもうまく言えたと思ったのか、ぱっと目を輝かせた。まるで、小さな子供のように。
木霊は脇に投げ捨ててある、珅が身につけてきた麻布を取った。それをそっと珅の肩からかけて、羽織のように胸の前で端を結んだ。
「シェン」
「しぇん」
「シェン」
「しぇん」
「シスター・アルマンダ」
「しすたあるまんだ」
「シスター・アルマンダ」
「しすたあっまんだ」
「シェン」
「しぇん」
木霊――シスター・アルマンダは、何度も繰り返す。それを、珅は一回一回復唱してみせた。
互いの名前を唱えるたび一瞬きらりと輝く木霊の瞳。珅の視線は、森の精霊の目の中に映る光を、亡者のように追いかけていた。
「シスター・アルマンダ」
「しすたあづまだ」
「シェン」
「しぇん」
「シスター・アルマンダ」
「しすたあるまんだ」
「シェン」
「しぇん」
シスター・アルマンダはシェンを抱き上げると、鼻歌さえ歌い出さんばかりの嬉しそうな顔で、えっちら、おっちら、とのんびり白い建物の中へ入っていった。
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