5.5-3 太陽が沈む方角


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 日の沈む場所を目指して、まっすぐ珅たちは進んだ。

 ぺんぺん草や貧乏草の白い花が生い茂る野っ原。

 枯れかけで禿げた木ばかりの、荒れた林。

 地平線から山の斜面までを覆う鏡のように、水を湛えた田園地帯。


 見たことのない景色をたくさん見た。

 嗅いだことのないにおいをたくさん嗅ぎ、食べたことのないものばかり食べた。

 そしてある日、ついに海へ着いたのかと思ったら、大きな川だった。

 その時は、たまたま出会った渡し守のお爺さんに、危うく海を渡るお金を全部あげるところだった。お爺さんはそのお金を取らないで、昨日獲れた野草と狸の肉を食わせてくれた。

 使わなくなった琅のおしめを、お爺さんと一緒に四人で河に流した。

 お爺さんは珅たちを見送る前、軽くなった荷物に、よく干した綺麗な狸の毛皮を入れて言った。

「港に着くまでにお金が要ることがあったら、これを代わりに渡すように」と。


 晴れの日は、満天の星空の下で大の字になって寝た。

 曇りの日は、翌朝太陽が見えなかった時のために、進んできた方向を地面に描いて、その横で寝た。

 雨の日は、仕方がないからずぶ濡れになった。

 星の機嫌が悪くて進めないこともあった。

 玲が腹を壊して動けないこともあった。

 通りがかりの畑の作物を盗み食いし、ウサギや魚を捕まえ、はたまたすれ違った人に食べ物を分けてもらいながら、珅たちは思ったより簡単に食いつないでいた。

 人里を通りかかることも少なくなかったが、誰もいない集落が大半だった。どこの集落の人間も、みんな戦に呼ばれて行ったのだろう。

 人のいる家があれば幸運で、体調が良くない時は何日か休ませてもらった。お爺さんにもらった狸の毛皮は、気がついたら使ってしまっていた。いつどこで使ったのか、さっぱり覚えていない。


 そうやって過ごすうちに、出てきたところの記憶はどんどん薄まっていく。

 珅は、もうずっと前から三人で旅をしていたような気にさえなっていた。

 じっとしていると、緑一面野原の景色にも、ときどき橙色の炎がちらついて見える。記憶の霧のかなたにあるどこかの村から、黒くて重い波が追いかけてくる。

 ただ、歩いている間はそんなこと気にしていられない。

 だから、沈む太陽に明日目指す方角をみる時、珅はいつも一瞬だけホッとするのだった。


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 薄青色の空に太陽が傾き、地平線の端がすすけた紫へ変わり始める時刻。

 見通しのいい、緑と茶色の小高い丘がいくつも連なる場所を、珅たちは歩いていた。

 ゆるい斜面を競走で登り、てっぺんについたら転がるように下りる。

 それを何回か繰り返したある時――いくつめかの丘の頂上に一等で着いた珅の目の前へ、キラキラ光る深青の草原がひらけた。

 びっくりするくらい、まっさらで真っ平らな景色。

 波打っているのは草の葉だろうが、珅はこんな青っぽい、変な色の草を見たことがない。それが奇妙なくらい平坦な、地平線まである広い土地一面にびっしり生えている。

 あまりに薄気味悪くて、珅は引き返したくなった。

「わ」

 後ろから坂を登ってきた玲が、小さく声を上げる。目の前の景色に釘付けになったまま、ぴたりと珅の腕にくっついて言った。

「これ、海?」

 珅は黙っていた。

 海には信じられない量の水があることは知っていた――船に乗って渡ることも、海を渡ると珅の知らないところに着くことも。

 でもたくさんの水というのは、渡し守のお爺さんがいた川のようなところを言うのだ。それ以上の水なんか、想像もできない。

 変な色の草原からは、常に生臭い風が、珅たちの顔に吹き付けていた。

 おまけに、無数の草が靡くたび、ざざあ……ざざあ……とぞくぞくするような音が微かに聞こえる。

 二人が呆けて黙っていると、がざがざ! と音を立てて後ろから星がやってきた。

「ぎゃーっ! なんじゃこりゃ!」

 星は目をまん丸にして叫んだ。

「すごい! ひっろい! でっかい! 変な色!」

「うるさい」

 玲が、無表情で言い放った。

 星はおかまいなしに、

「見に行こ、姐様!」

 と言った頃には、行く手の下り坂を、脚を引きずりながらすごい速さで降り始めていた。

「待ってよ!」

 珅も叫んで、その後を追いかける。玲は珅の手を握ってついてきた。

 足元の草地が、だんだん茶色い砂に変わっていく。

 砂は湿気っていて、歩くと判を押したみたいにくっきりとした足跡ができた。時々砂がほろほろと崩れて滑りそうになる。

 珅と玲は腰を低めて慎重に進んでいたが、はるか先で星は、何度も転げて砂まみれになっていた。

「ん! 砂がしょっぱい!」

 そう言って、口に入った砂をぺっぺっと吐きながら、星はさらに草原へと近づいていく。

 さっきより近くで見ると、草原の端は白い跡を残して、うねうねと生き物のようにのたうっている。

「星!……」

 珅は思わず叫ぶ。

 しかし、星は信じられないことに、迷いなくその草原の端へ足をかけた。

「すげー! 水! これぜんぶ水だよ! ぎゃーっ! わはははは!」

 珅と玲は足を止めて、顔を見合わせた。もう一度草原へ向き直ると、絶叫している星を茫然と見た。

「ぎゃははははぁっこっちくるなぁっ! えいっ! うわ! うわぁあはは!」

 珅はだんだんたまらなくなってきた。あんなに楽しそうな星を見るのは、初めてかもしれない。

 我慢できなくなって、珅は走り出した。玲が離れないように追いかけてくる。

 星のところにはすぐに着いた。

 草原の端は、透明で下の砂が透けていた。

 白い泡を立てながら、ざざあ、と迫ってきて、ざざあ、とすごい速さで遠のいていく。

「水だねえ、姐様」

 玲が、白い泡の往復する跡を目で追いながらつぶやく。迫ってくる水に触れないよう、珅は半歩下がって玲の腕をきゅっと抱いた。

「姐様、何してんのー」

 星がじゃぶじゃぶと水波を蹴りながら近づいてくる。

 その後ろで、西日がもう橙色に変わりはじめていた。遠い水の果てに落ちていく陽の光で、星の頬は燃えるように輝いている。

「姐様、来てよ」

 星は足元の波を両手ですくって、ぴゃっ! と珅にひっかけた。

「うぇっ! ぺっ」

 顔についたぬるい水を慌てて振り払う。口の中に入った水滴は、びっくりするほど塩っ辛い。

「な、にこれ、まずっ」

 珅は後退りながら、何度もペッペッと口の中の水滴を出す。舌を動かすたびに濃い塩と薄い生臭さが口に広がって、泣きそうになった。

 玲が食ってかかる。

「星、やめてよ」

「は、ただのしょっぱい水だよ」

 そう言うと星は、じゃぶじゃぶ二人のすぐ前にやってきた。そして尻が濡れるのもおかまいなしに浅いところへしゃがみ込んで、波の下の砂を掘りはじめた。

「玲」

 珅がべたべたになった手を服の前で拭きながら、ぼそりとつぶやく。

「これ、海?」

「……うん」

 玲は砂を掘る星を眺めて、目をしょぼしょぼさせながら答えた。


 その日は、砂に半分体をうずめて眠った。

 海の砂は温かかった。

 今日初めて聞いたばかりの波音は、なぜだかずっと前から知っているような気がした。聞いているうちに、いやなこともいいことも、記憶にあるもの全部がぼやけて遠のいていく。

 水平線に映る上弦の月が、無数の光の点になってゆらゆら踊る。横になってぼんやり眺めていると、最後にすらちゃんと聞き取れなかった母親の鼓動が、耳元でよみがえった。

 頭の奥でどくどくと脈打つ、なつかしい音。しょっぱい砂の上にしょっぱい滴が、珅のほおを伝って落ちた。


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「わ、私、魚がいい」

 珅は玲の背中に引っ込みながら言った。

 岩と丸太でできた波止場の上。

 玲の足元には、ぐにぐにした長い足とびっしり並ぶ吸盤をうねらせた、二尺くらいの赤黒い生き物が張り付いている。

「そりゃ食ったことねえからだ。食ったら食えるさぁ」

 変な生き物を挟んだ向かい側で、はちきれそうな筋肉の男が、上半身裸の姿で笑いながら言った。

「じゃあおっちゃんが先に食ってよ!」

 星が男の腕によじ登りながら、嬉しそうに言う。

「いいぜぇ、見てろよ」

 男は箒みたいに剛毛の髭面でニカっと笑って、変な生き物をつかむと、星を抱えて波止場の端まで歩いていった。

 適当なところで座り込み、波止場でひしめく大きな木船の間へ片手を突っ込む。生き物をバシャバシャ海水で洗うと、びろぉんと伸びた生き物をこれ見よがしに持ち上げて、足を一本思い切り噛みちぎった。

「うええ! すげえ!」

 近くで見ていた星が素っ頓狂な声をあげる。

「ほれえ、うめえぞ坊主。食うか?」

 男はもちゃもちゃと生き物の足を咀嚼しながら言った。星は渋い顔をする。

「おら、来な、ガキンチョども。とりあえず腹に何か入れろ」

 男は生き物を持った手で珅たちに手招きする。珅と玲は体をくっつけて、おそるおそる男に近寄った。

「お前たち、ちっこいから喉に詰まらせるといけねえ。まずはちょっとだけだ」

 男はそう言いながら豪快に口の中のものを飲み込み、今度は生き物の足を、先っぽから親指くらいの長さだけ引きちぎった。

「ほれ、坊主。あーん」

 星の口にそれを近づける。

 驚いたことに、星は何の躊躇いもなくかぶりついた。ものすごい形相をしながら、一生懸命噛んでいる。

「くっつく」

 星がもごもごと言った。男はにっかり笑って、

「美味いか?」

「変な感じ」

「不味かぁないだろう」

「うん」

 星はやがて、ゆっくりと生き物の足を飲み下した。

「うまい」

 それを聞いた男は、満足そうに生き物の足をもう一本引きちぎった。近くにいた玲にそれをぷらぷら近づけて、

「おら、嬢ちゃん。お前も食え」

「ひぇ」

 玲が小さく悲鳴を上げた。

 男の目が珅を見る。珅は玲を抱きしめながら、小さく首を振った。

「なんだ、まともに食ってないのに好き嫌いすんな。食わなきゃもっと痩せっぽっちになって消えちまうぞ」

 男がちょっと怖い顔で凄んだ。玲は、珅の胸に顔を埋めている。仕方なく、珅は男の方に首を伸ばした。

「ほれ、あーん」

 男が鼻の先に生き物の足を差し出す。

 ふんふんと嗅ぐと、やはり海の生臭いにおいがした。珅は目をつぶって、一気に足へ食いついた。

 ぬるぬるする。何かが舌に吸いついて、噛もうにも噛めない。硬くないのに歯が立たない。珅はちょっと涙を浮かべながら、必死で顎を動かした。

「どうだ、美味いか」

 男が嬉しそうな顔をしている。

 だんだん、足は口の中で転がせるようになってきた。鼻に抜ける薄い塩味。涙を拭いて、ゆっくり飲み込む。

 珅は、男の顔を見て小さくうなずいた。落ち着いてみると、案外まずいものでもない。

「そうだろ。あとはお前だけだぞ」

 男はまた生き物の足をちぎって、玲に近づける。珅はそれを男の手から取ると、玲の口元に持っていった。

 頑なにそっぽを向く玲をなんとか宥めすかして、口を開けた瞬間に生き物の足をねじ込む。

 玲は驚いて吐き出そうとするが、足が舌に吸いついて出てこないらしい。玲は珅の服を握って半泣きになりながら、一生懸命口を動かす。

 男は玲の顔を見て満足そうに、

「そうだ、いいぞぉ。タコくらい食えなきゃ海のもんは何も食えねえよ」

「タコ?」

 珅が呟く。男は変な生き物を持ち上げて、

「そうさ、これがタコ。芋と一緒に煮るとうまいぞ」

 またも嬉しそうに笑った。

「いいもん、食わしてやる。こっちに来い」


 男は、石と流木の掘っ建て小屋みたいな家に住んでいた。

 珅たちは男について、その家に入った。隙間だらけで外が透けて見える壁、扉もない入り口、ギリギリ雨が凌げるくらいの茅葺き屋根。

 一部屋しかない家の中には、釣具と背負い籠、網や縄に流木の束、他は小さなツヅラが一つ、それでも大して足の踏み場がない。

 床は簀子の上に茣蓙を敷いただけで、その真ん中には細く煙を上げる火鉢がちょこんと置いてあった。

「夏の間しかここにゃあいねえんだ」

 男はそう言うと、火鉢をふーふー吹く。少し火が大きくなると、流木の束から枝を一本引き抜いて、火を移した。

「坊主、ここの裏にちっちぇえ竈門がある。そこにこいつで火を起こしてこい」

「はいよ!」

 星は火のついた枝を男から手渡されると、威勢のいい返事のわりに抜き足差し足で、小屋を出て行った。

「さあ、嬢ちゃんたちも来い。これ持って」

 男は家の隅から、ボロ切れで適当に巻いた小刀を寄越した。珅がそれを受け取ると、男はさっき持って帰ってきたばかりの、魚やタコだらけの背負い籠を担ぎ直した。

「ほれ、はよ来い」

 男は珅と玲の腕を、千切れそうな力で引っ張った。

 つんのめりながらついていく。

 家の裏では、石を両側に積んだだけの竈門とも言えない竈門で、星がふーふー火を吹いていた。

「坊主、下手くそだな」

 男はそう言うが早いか、火のくすぶっている枝を掴んで、バキバキ粉砕すると、火の上に振りかけた。息を吹くと、火はみるみる間に大きくなる。

「おっちゃん、すげー」

 星が目を剥いた。

「ったりめーよ。あとはここに――昨日煮た芋が」

 次に男は、立ち上がると、軒下に吊るされている蓋付きの鉄鍋を取った。鍋をぐるぐるに縛った縄を解いて、竈門の石にそうっと置く。

「あとぁこれだ」

 珅の手から小刀を奪うように取り、刃にかかっていた布を剥ぐ。背負い籠をおろし、中から適当なタコを取ると、きれいに捌き始めた。

 珅は男の手元をじぃっと見た。

 タコの中からは、次から次へとニュルニュルした内臓が出てくる。男はそれを、包丁に巻いていた布の上へ落とす。

 そのあと、家の壁の横に置いてあった小さな水桶を引き寄せて、タコを乱雑に洗う。それをぶつ切りにして、鍋の中へ放り込んだ。

「しばらく待つ。これは、あとで塩漬けにする」

 そう言いながら男は、布に包んだタコの内臓を小脇に避けて、どっかり腰を下ろした。珅たちもならって、男の横に腰を下ろした。

 焚き火がぱちぱちと爆ぜるだけの、心地いい沈黙。

 食べ物が煮える時間を、人と一緒にのんびり待つ。

 ずーっと、このままこうしていたい。

 そう思ったとたん、急に胸の内がひゅんと小さくなって、珅は静かに肩を落とした。

 わかっているのだ。ここで、こうしているわけにはいかない――体の中から沸き上がってくる形ないものが、珅をいつもそういう気持ちにさせる。

 身に覚えがある。

 かくれんぼで今にも見つかりそうな、あのどきどき。それを何十回ぶんも集めたような、なんとも言えない、どきどきしすぎて吐きそうな感覚。

 うっとうしい。

 どことも言えない珅のすぐそばで、いつもちらつく。

 逆光で黒く塗りつぶされた顔、汗と土と乳の混じったような匂い。

 そして――がさつな声で、〝生き延びるんだ〟と。

 珅は思い出したように、背負っていた荷物袋を下ろして中をまさぐった。

「おじさん」

「ん」

 男がぶっきらぼうに答える。

 珅は荷物袋から、皮の財布を取り出した。くるくるとそれを開け、中にあるなけなしの銀貨を晒す。

「これ。あげたら、あっちの船で、海の向こうまで行ける?」

「ああ……」

 男は銀貨を一瞥して、ため息と一緒に声を吐き出した。

「あんな船じゃ行けねえ。もっとでけえのじゃねえと」

「ふうん」

 珅は少し、心の底が軽くなるのを感じた。本当に行ける船がなければ、海の向こうになんか、行かなくてもいい。こればっかりは仕方がない。

〝じゃあおじさん、珅たちもここにいるよ〟――というセリフを、珅はがまんして、路銀を財布に包み直した。

 男は沈んだ声で続ける。

「すまんな嬢ちゃん。ここの船じゃ行けねえけど、もうちっと南にある……そうだな、武江っていうでけえ港なら、海を渡れる船があるだろうよ」

「そっか」

 珅はすっと真面目な顔になった。やっぱり〝武江〟まで行って、海を渡らなきゃいけないらしい。

「しかしまあ、もう海を渡る船は出てねえかもしれん」

「ほんと!?」

 珅は思わず身を乗り出す。

「あぁ、まあ……嬢ちゃんたち、そのなりじゃあれだろう? 北の方の戦から逃げてきたクチだろ。この戦はでけえよ。俺のヨボヨボ親父だって初めてって言うくらいだ」

 男はのそり、と鍋を小刀でかき回した。

「剡帝の国がいくら広いって言ってもな、もう武江のあたりまで戦の手が回ってきてる。この辺りにもあれだけ使える船が残ってるとなりゃ、山向こうが船を奪いに来るか、それとも皇帝陛下の兵が来るか、もしくは戦で住むとこを追われた賊どもが来るか……」

 珅は男の話を聞きながら、そうっと前のめりになった体を戻す。男はふう、ふう、と鍋の下の火を吹いた。

「……どのみち、戦からの逃げ場はねえわけだ。だがまあな……武江のはずれの辺りになら、乗せてくれる船があるかもしれねえ」

「じゃあ、おっちゃん、一緒にきてよ」

 横で聞いていた星が口を挟んだ。

 男は首を振って、

「やだね。俺ぁあっちの方に戻ったら、皇帝陛下の兵に見つかって首飛ばされっちまう」

「なんで?」

 星は男の膝の上に身を投げ出して、彼の顔を見上げた。

「俺のほんとの家はな、武江の港のすぐそばにある村なんだよ。そこに皇帝陛下の兵がやってきて、男も女もガキも、全員戦に連れてっちまった。俺も行かなきゃ首飛ばされるっていうのに、どうしても行きたくなかった。ここに、夏だけ漁しにくる小屋があったから、こっそり逃げてきた」

「ふーん」

 星は半分どうでも良さそうに生返事する。一方の珅は、それを聞いて、背中にずっしり重いものが乗っかったような気がした。

 男はため息をつく。

「だから、俺は武江の方にゃ戻れねえんだよ……まあな、兵隊さんがいなきゃいいんだが、武江はなんせでかい港だから……いないとも思えねえし」

 そう言って、ちらりと男は珅の顔を見た。

「あー……ガキンチョには分かんねえ話かも知れねえな」

「俺はわかったよ!」

 星がにやにや顔で叫ぶ。男は星の頭を小突いて、

「そんなわけないだろ」

 もう一度珅の顔を盗むように見た。

「まあなんだ、俺は一緒には行けねえが、武江って港のはずれに行けば、海を渡る船があるんじゃねえかな……はずれって分かるか? 端っこの方ってことだ」

「……それくらいわかるよ」

 今まで珅の隣で黙っていた玲が、ぼそりとつぶやく。男は慌てて、

「そりゃそうだわな。ま、お前らみたいなチビが武江で兵隊さんに見つかったって、首跳ねられることはねえだろうさ。皇帝陛下の兵士も鬼じゃあるまいし…….おっ」

 ふつふつ、と煮え始めた鍋の中身を、また小刀でかき回す。

「器持ってるか? お前ら」

 珅ははっと頭を上げて、脇の荷物袋を漁る。

 三つ分の器を出すと、男に渡した。

「土の器だ……珍しいな、俺らんとこじゃ。俺らんとこの土はパッサパサでよお、煮ても焼いても器なんか作れねえんだ……」

 男はブツブツ言いながら立ち上がって、軒下に吊るしてあった杓子を取ると、三つの器に鍋の中身をよそった。

「うまそぉ〜!」

 星が真っ先に器に手を伸ばして、大騒ぎする。

 それにならって、珅も残りの器を取ると、一つを玲に渡した。荷物袋から匙を三つ出して、それも弟たちに配る。

「食え。うまいぞ」

「いっただきまあす!」

 星が勢いよく器に食らいついた。「あつ、あっつ」と幸せそうに食べる。

 珅はゆっくり、器の中身に目を落として匂いをかいだ。立ち上る湯気が顔に当たる。ちょっと土臭い、嗅ぎ慣れた芋の香り。それと初めて嗅いだはずなのに、やたら食欲をそそる海の匂い。

 お腹は死ぬほど減っているのに、軟らかい芋の中で、煮えて硬くなったタコの異様な赤色がなんだかゾワゾワする。ウサギや牛の血と似たような色だ。でも、ウサギや牛の血は平気で口にできるのに、なぜかやっぱり食べる気になれない。

 そうこうしているうちに、

「おっちゃん! おかわり!」

 星が空になった器を掲げる。

 男が黙ってそれを取ると、鍋に残った芋を半分ほどごっそりそこへよそった。

 珅はえいやっとばかりに、匙で芋を一つ割って、口に運ぶ。少し海臭いが、見た通りの塩で煮た芋の味。

 珅はてらてらしたドス赤いタコの足を、そうっとかじった。

 と思ったが、なかなか噛み切れない。結局全部口の中に押し込む。塩と強烈な海の匂い。でもやはり不味くはなかった。生で食べるよりはこっちの方がいい。ナメクジやカタツムリを煮て食っている時に近い、まだ馴染みのある食感だ。

 ――などと思っているうちに、気がついたら皿は空になっていた。

 考える間もなく、珅は二杯目を男によそってもらっていた。半分を玲の器にやって、残り半分を腹に掻き入れる。二杯目は味もしなかった。

「なあおっちゃん、もうないの?」

 空になった鍋を覗きながら、星が珅の言いたいことを言ってくれた。男は困ったような顔をして、

「同じのはねえよ。違うのを作るかね……」

 脇にあった水桶の水を捨てると、それを星に渡した。

「おい、坊主。これに海の水を汲んでこい」

「はあーい!」

 星は水桶を男から奪うと、それを引きずるように、家の表へ行ってしまった。

「さあ、こっちのチビたちはこいつを捌け」

 男は手元の背負い籠から、珅の顔くらいの魚を取り出した。

「お前らみたいな内地の子でも、魚くらい捌けるだろ」

 珅は自分の荷物から、ウサギを捌く包丁を引っ張り出して、うん、とうなずいた。

 その日は、夜までそうやって、火の周りで遊んで過ごした。


 **********


 次の朝。

 珅たちは三人そろって、男と一緒に飯を食べた。魚でも貝でもタコでもイカでも海藻でも、なんでも入った鍋に麦をぶち込んで煮た朝ごはん。

 三人は誰一人、もう食べるのをためらったりしなかった。あっという間に鍋は空になり、珅たちの腹はいっぱいになった。

 そして男の言うとおり、珅たちはまた三人だけで、男の家を後にした。


 潮風に吹かれながら歩いて、一晩、二晩を越す。

 常に右手にある海岸線は、登り坂になったり下り坂になったり、砂浜になったり崖になったりを繰り返した。

 男の家でもらった松明が海風で吹き消えないよう、神経質になりながら、珅たちは武江を目指して歩く。

 海にいるものは、奇抜な色をしているものじゃなきゃ、大概よく火にあぶれば食べられる。と男に教わったとおり、珅たちはなんでも食って食いつないだ。


 しばらく歩いたある日の昼。

 小高い岩場を歩いている三人は、少し先に小さな船着場と、そこに大きな船が乗り付けているのを見つけた。

 海岸すれすれには、大きな木箱がたくさん。その周りを、人がわらわらと動き回っている。

「あれ、何してる?」

 玲が珅の腕にしがみつきながら、そちらを指差して言った。珅は目を凝らして、

「船に……荷物を積んでる」

 すると星が飛び上がった。

「ひゃほう! じゃあこれが武江かな!」

 玲がうるさそうに顔をしかめる。

「ちがうよ。だって船ひとつしかないもん」

「行ってみよ」

 珅は呟くと、二人の腕を引っ張っていった。

 船に近づくと、はっきり人の騒ぎ声が聞こえるようになってきた。

「あといくつある!」

「まだ山ほどあるぞ!」

「下手くそめ、そんなスカスカに積んで入るわけねえだろ!」

「風向きは!」

「芳しくねえぞお」

「波が荒れてねえから大丈夫だあ」

 なんの貨物か、山ほど積まれた木箱の周りをうろうろしている男たち。

 珅は二人の手を引きながら、その一人にそうっと近づいた。

「ねえ、おじさん」

「あ?」

 振り返ったのは無精髭を生やした、白髪混じりで筋肉質の老人。珅は、玲と星の手をぎゅっと握った。

「ここ、武江?」

「あん? いんや」

 老人はぎょろりと珅の顔を覗き込んだ。

「武江はもっと南だけぇど、もうねえよ。山向こうどもが船全部かっさらって、港はめちゃくちゃだあ」

「ふうん」

 珅は荷物をまさぐって、財布を出すと彼の目の前に突きつけた。

「これあげたら、海の向こうまで行ける?」

 老人は、繋がった眉毛をぴくりと上下させて、一瞬考え込んだ。

 そして、

「ああぁもちろんだ。俺がこれ持ってって、おめぇら乗せてってくれってセンチョーに頼んでやらあ」

 そう言うや否や、老人は珅の手から財布を掠めるように取った。それを擦り切れた服の懐にしまうと、

「おぉ〜いセンチョぉ〜!」

 と叫びながら、船の方へ走っていった。

 珅たちは仕方なく、近くの岩に腰を下ろして、老人を待つことにした。


 待った。

 かう、かう、とカモメが甲高い声で頭上を飛び回っている。


 まだしばらく待つ。

 人の声より、波の音に耳を傾ける。


「……ねえ、姐様」

 さらにしばらくして、玲がつぶやいた。

「人……いなくなっちゃう」

 もう待つわけにはいかないようだった。

 積荷を積んでいた船乗りたちは、大方の木箱を積み終わり、どんどん船の上へ戻っていく。

 あとは数人の男たちと、まだ少し山なりになった木箱が残されているだけだ。

 これが積み終わったら、船が出るのだろう。ここにいたら置いてけぼりだ。

「わかった」

 珅はつぶやく。

「二人とも、絶対しゃべんないでよ」

 星と玲は、真剣な顔で唇を引き結んだ。

 珅は二人の手を引っ張り、所々にある大きな岩陰から大きな岩陰へと隠れながら、じりじり荷物の山へ小走りで近づいていく。

 積荷運びに残された船乗りの男は、もうあと三人だ。そうなると、全員が積み荷に背を向けている瞬間が必ずできる。ギリギリまで近づいた珅は、息を殺して、岩の陰から男たちの様子を伺う。

「あとぁ空箱かあ?」

 男の一人が叫んだ。別の男が積荷の山を指差して、

「いんや! こっから手前はまだ入ってる!」

「そうかあ!」

 そう返事が聞こえたあと、三人のうち二人が、積荷の木箱を一つずつ担いで、船の方へ歩いていった。

 残った一人は見張り番か、積荷の山を挟んで珅たちとは反対側に立っている。こちらに背を向けて、ふう……とため息をつくのが聞こえた。

 いまだ。

 珅は海の波が押し寄せてくる音に紛れて、二人を引っ張りながら走った。

 玲の足が遅い。星は片足を引きずっている。半ば力ずくで、岩場の小さな凸凹に引っかかりながら、珅は積荷の山の影に入った。

 積荷の山には、麻縄でぐるぐる封をされた木箱と、そうでない木箱があった。玲の手を離すと、麻縄の巻かれていない手近な木箱を軽く叩く。

 コンコン、と軽い音。どうやら中は空のようだ。

 箱の端を急いでまさぐると、木箱の上が少し持ち上がった。珅はそうっと蓋を持ち上げ、まず自分の身体をそこへねじ込んだ。

 中へ入ったら、香草と土とカビの混じったような、濃い臭いが鼻をついた。珅は体をひねって、暗闇の中に足から着地し、外へ手を出して、玲の手を掴む。

 なんとか玲を引き上げた時、遠くから男たちの笑い声がした。

 まずい。戻ってきた。見つかったら――

 どうなるんだろう?

 珅は玲の体を引き摺り込むと、次は星の腕を鷲掴みにつかんで、力ずくで引っぱり上げた。

「いてっ!」

「しぃっ!」

 珅は慌てて星の口を塞ぐと、蓋を落として閉めた。

 ふ、と箱の中が真っ暗になる。

 ざり、ざり、と男たちの足音が、箱の壁を挟んですぐ目の前に回り込んで来るのは同時だった。

「あ? なんかいるか?」

「いや、いねえよ」

 男たちの声が、すぐ外からする。珅も、玲も、星も、膝を抱えて息を殺した。

「あと、これと、これと」

 箱の中が臭い。外から見るより狭くて、三人が座ると顔を突き合わせる感じになった。

「次は俺が残る」

 外の会話はよく聞こえた。

 その直後、すぐ隣で木箱の持ち上げられる音がした。

 そのまま、膝を抱えて待つことしばらく。

「これで本当にあとぁ空箱だな」

 男の声が、珅たちのいる木箱の上から降ってきた。

 そのとたん、ぐらりと木箱の床が揺れる。

「ぉん⁉ おい! これ入ってるぞ!」

 珅の体が、鉛のようにガチガチになる。

「なんだあこれ、閉めてねえのかよ。縄くれ」

「はいよ」

 すぐにシュルシュルと縄が伸びる音がして、珅たちの座る床が、小刻みに何度か持ち上がっては落ち、持ち上がっては落ちる。

 箱のすぐ外がギチギチ軋み始めた。きつく箱に縄が巻かれているらしい。

「あいよ」

 男の掛け声。

 ぐわあん、と木箱が揺れる。背中をしたたかに打って、悲鳴を上げそうになる。

 さすがの星も、そして玲も、声を上げなかった。三人とも両手で口を塞ぎ、息の音を殺した。

 ずん、ずん、と木箱が揺れるたび、珅は箱の蓋に頭を打つ。気分が悪くて吐きそうだ。振動すると涙が出そうになる。


 やたら長い時間、木箱は揺れていた――気がした。頭を打ちつけすぎて、つむじのあたりが平らになってしまったんじゃないだろうか。

 そう思った頃、どすん! と尻に激しい衝撃。

「ヴッ……」

 星の口を塞ぐ手の間から、呻き声が小さく洩れた。

「あとちょっとだあ」

 外から、またぞろ男の声がする。しかし、言いながらその声は、すぐに遠ざかっていった。


 無音。

 胸がしくしくする。

 耳を澄ませる。

 すると、わずかに、どこからか、ぎぎぎぎ……ぎぎぎ…….と木の軋む低い音が聞こえてきた。


 ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……

 音に合わせて、わずかに尻が上下している気がする。床が揺れているのだ。

 ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……

 今まで気にしないようにしてきたもの。

 村からやってきて、珅たちを追いかけてくるなにか。

 ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……と、それは、なんなのかよくわからない、〝そいつ〟の足音に聞こえた。


 ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……

 そのほかに聞こえるのは、自分の胸が脈打つ音だけだ。

〝そいつ〟は、ずっと珅たちの入った箱の周りを、延々延々、ぐるぐるぐるぐる回っている。

 ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……


 どうやら珅たちは、積荷と一緒に船に乗るのに成功したらしい。


 ぎぎぎぎ……ぎぎぎ……



 ぎぎぎぎ……



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