5.5-2 魂の火
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二日後、父と兄たちは村を出ていった。
他にも、同じ日に出て行く男たちが何人もいた。みんな連れ立って、荷物入れの布袋を背負っていた。
群れる人影は、小さいのも大きいのも混ざってわいわい騒ぎながら、陽気にマクワウリ畑の間の道を遠ざかっていった。
そうして三日後には、八つ以上の男たちは村に誰一人居なくなった。
子どもも男も多かったから、村からはごっそり人が減ってしまった。
面倒を見てくれる兄貴分がいなくなり、ちびっこたちはいつもより好き勝手騒いで、好き勝手走り回ってめちゃくちゃした。
キャンキャン叫ぶ甲高い声ばかりが耳について、珅は外をうろつくだけでも変に疲れるような気がした。
……とはいっても、珅自身だって村の中じゃ下から数えたほうが早いくらい年少だ。年上の男たちには毎日構ってもらっていたから、遊び相手が減ったのはチビたちと同じだった。
村の同年代では一番すばしっこい珅が、星や同い年の男相手に取っ組み合いを仕掛けても勝負にならない。
数棋をしようにも、玲は弱すぎて相手にならず、明は数棋が嫌いだし、明より年上の女の子たちでは珅がすぐに負けてしまうので、どのみちつまらない。
何をして遊んでも面白くない。
と、そんなことで悩んでいられたのも束の間――
男手がいなくなった村で、珅は休みなしに働かざるを得なくなった。
珅の母は、父や他の家の男たちに代わって、畑を耕して薪を割り、道場の手入れをし、木や土を運んで家と生活用品の補修をした。
さらにその母に代わって、珅も村の姉貴分たちと一緒に毎日の飯を作り、家の掃除と鶏の世話をし、弟と妹の面倒を全部見る羽目になった。
遊んでもらうことなんか、あっという間に頭から追い出されていった。
仕事の合間に時々、男たちのいた村をふと思い出す。
前は毎日村中を走り回っても飽きなかったのに、なにをしてもつまらない。面白そうなことがひとつもない。
自分を置いて出ていった兄たちが、本当に心の底から恨めしかった。恨めしさの赴くまま、珅は兄たちの行った先をぼんやり想像した。着替えやお金をあるだけ持って出て行くくらいだ、きっと遠くに行くに違いない。
遠くといえば、都だろう。都の
あんまりちゃんと覚えていないが、何を見ても面白くて、何を食べても美味しかった記憶がある。
風との二人旅で、道中が長くて大変だというのに、都で山と買い物をさせられた。荷物を持って帰るのがどれだけつらかったことか。それも今となっては……
風兄様も龍兄様も珅を気に入っているから、都土産ぐらいしこたま持って帰ってきてくれるはずだ。それを楽しみにでもしていなきゃ、今すぐ寝床に引きこもってしまいそうだ。
珅はふてくされて、家事の合間に時々道端で大の字になっては空を眺めた。
兄たちは山のような土産といっしょに帰ってきて、そして、自分は一日でも早く夏京に連れて行ってもらう。
そんな時が来るのを毎日想像しては、珅は砂を噛むように暮らした。
しばらくたったある日。
どんより曇った初夏の日だった。乾いた温い風に乗って、セミの声が山の方からみんみん聞こえてくる。
珅は川に水を汲みに行って、帰ってくるところだった。
小さな木桶を肩に担いでえっちらおっちら歩いていると、村の真ん中の方からわあ! とか、きゃあ! とか、女の甲高い声がいくつも聞こえてきた。
珅は歩きながら、首を伸ばして声のする方を見る。
マクワウリ畑の端に、若いのから年寄りまで村の大人が集まっている。
その真ん中には、鹿毛の馬にまたがって大人たちの頭上を見下ろしている、鈍色の鎧。肩に黄色い旗を担いでいる。
珅は道の脇に木桶を置き、てってって……と走り出した。出来るだけ音を立てないように人だかりへ近付く。
人だかりに一番近い家の裏へ隠れると、壁をよじ登って屋根に上がった。棟の上から顔を出して、道の騒ぎを見下ろす。
「――どうか御勘弁くださいましぃ」
女たちの中で、垢だらけの衣を着た老婆が言った。
「女なんか連れてったって、食う口が増えてもお力にはなれやしませんよぉ」
この間延びした、だらしない喋り方に覚えがある。紫のところの祖母だ。彼女は懇願するように一生懸命膝をついて、馬の上の鎧を着た男を見上げる。
対する男は、馬の手綱を握り込み、もう引き返そうとしていた。
周りの女たちを一瞥すると、
「戦なんぞ出たこともないくせに、分かったようなことを言うな。兎角にも、明後日ここに一人でも人が残っていてみろ。山向こうに放り込んで悪魔どもの食い物にしてくれる」
「子供たちはどうすんだい」
女たちの中から、もう一つ声が上がる。珅の母親だ。珅は耳を研ぎ澄ませた。
「私たちがいなくなって、子供たちは一人で飯を炊いて畑を耕せって――」
「ああ、それは」
男がぽん、と膝を打った。
「子供たちは内地に疎開するように、と。健康で歩ける子供だけでもかまわん。
それを聞いた珅の母親は、真っ青になって人垣の中へ下がった。
女たちの反応は露骨に分かれていた。
ほっと胸を撫で下ろす者が大半。
少数は泣き出したり、諦めたような顔をしている。
珅の母親は、後者のひとりだった。血の気の失せた顔で、周囲をおろおろと見回している。
「小邪は呪いに使う」。さらっと鎧の男が言ったその言葉は、なんだかやたら珅の耳に引っ掛かった。母親の顔を見ると、胸がざわざわする。
「
小邪は、悪い〝気〟を持って生まれてくる。それが大きく育つと、悪い〝気〟もどんどん一緒に成長して、やがて「
それを防ぐため、小邪はできるだけ幼い時に火で焼いて、魂を人間の世界の外へ送り返してやらなければならない……というのが、皇帝陛下の民がこの辺りに住み着いてからのしきたりだという。
しかし、しきたり通りバカ正直に、幼い間に焼いてしまうというのは昔の話だ。と、母様は言っていた。
生まれた時小邪に見える子でも、悪い気に触れさせないよう手厚く育てれば、持って生まれた邪気を克して良い子に育つ。だから、出来るだけ早く焼いてしまおうというのはもったいない。
近頃は都じゃそういう言説も多いということで、この村で一番齢を重ねた大婆様も、ついにそうと見解を示した ようだった。
風兄様は、本当にみんな焼いてたら村の子供が減って大変だしね――と言っていたが、珅はそちらの方が大人たちの本音なのだと思う。
だから、珅の家でも外へ出さないように、大事に小邪を育てている。三つになったのにちゃんとした言葉を一つもしゃべらず、まだ立ち上がったことすらない末っ子、琅。
土間に下ろすこともできない彼女の立場が、今どうやらまずいらしい――ということは、珅の小さな頭でもなんとか分かった。
屋根の下では、やがてそわそわと騒ぎ始めた女たちを、馬に乗った男が偉そうになだめていた。
「まあまあ、そう騒ぐような話でもない。早々に山向こうどもを追い返せば、子供たちが内地で待っているさ……とにかく、明日までにお前たちがここを出発すればな」
「明日は急すぎるわ」
今度は毅然とした声の女。あれは明の母親だ。
「男たちの時だって三日はくれたじゃないの。いつ戻ってこられるかもわからないのに――」
「文句があるなら皇帝陛下に申してみろ。明日と言わずここで首を跳ねてやる」
男は馬の上で、旗付きの槍を振り上げた。
それを見て女たちがしゅん、と黙る。
すると、男も同じように肩を落とした。
「戦地に赴きゃあ、お前たちの息子や旦那にも会える。急だってことなんぞ我々もわかっているのだがね、皇帝陛下の命だ……こんなことを言うのも良くないがね、出稼ぎに行くようなもんだと思え」
男の言葉に、女たちは全員沈痛な顔になった。
男は馬の手綱を引いて、踵を返す。
「二日後にはまた、
言い残すと、やはりもう一度小さく肩を落として、黄色い旗をなびかせながら去っていった。
女たちは、その背中を茫然と見送った。
珅はすごすごと屋根から降りる。
着地して、家の角から通りを覗き見ると、女たちが途方に暮れた顔でぱらぱらと帰っていくところだった。
そこで、あ、と珅は道端に置いてきた水桶のことを思い出した。
くるりと体の向きを変え、急ぎもせずのんびり走って、来た道を戻る。
やがて村の端に近づくと、珅が置いたままの水桶がぽつりと待っているのが見えた。
足をゆるめながら、水桶のそばまでたどり着く。
座り込んで息を整え、曇り空を仰いだ。
今聞いたことを頭の中で再生しながら数分、目の前で飛び交う鳥を眺める。
しばらくすると、珅はえいっ! と立ち上がった。再び桶を担いで、えっちら、おっちら、家を目指した。
鼻歌交じりにのんびり水桶を運んで、ほどなく。
村の家並みに差しかかると、四方八方からから悲鳴にも似た大人たちの声が押し寄せてきた。
さっきの御触れが瞬く間に村中へ伝わり、みんな混乱しているらしい。
家に着く手前で、焦り顔の明が、きょろきょろしながら正面から走ってきた。
「珅、大変なことになってるらしいよ」
「うん、しってる」
珅は足を止めて返す。
「なんだ知ってるの」
明はそう言うと、珅と目線を合わせるように少し屈んだ。
「珅、内地に行くのはみんな一緒だからね。母様たちがいなくても、村の姐様たちも大婆様もいるから大丈夫だからね」
「う、うん」
珅はちょっと面食らいながら答えた。そんなことを言いながら、自分より明の方がよっぽど不安そうに見える。
明は珅の返事をどう取ったのか、無理やりににっこり笑って珅の頭を抱きしめた。
「私もちゃんといるよ。だから珅も、玲と星の面倒みてあげてね」
「……うん」
言われなくても見るつもりだったけど……と珅は思ったが、うまい言葉が見つからなかったので黙っておいた。
明はそれだけ言うと満足したのか、変な笑顔のまま振り返って、こちらに手を振りながら走っていった。
珅はふう、とため息をついて、再び歩き出す。
数分と歩かないうちに、家に着いた。
建て付けの悪い木の玄関戸を、半ば体当たりするように開けて中に入る。
土間にあった大きな水甕の蓋をずらし、その中に担いでいた桶の水をどばどばとひっくり返した。
「珅っ!」
突然、家の中から母親の金切り声。
どたどたどた、と激しい足音がしたかと思うと、母親が草履をつっかけて土間へ駆け下りてきた。
「あんたが来るのを待ってたんだよ」
母親は珅が担いでいた木桶を奪って放り投げると、珅の脇を持ち上げて家の中へ運んだ。大人に抱いて運ばれるのが久しぶりだったので、珅は思わずケタケタと声高らかに笑った。
「笑い事じゃないよ、今から真剣な話をするんだ」
母親にピシャリと言われて、珅は口を両手で押さえながら頑張って黙る。家の真ん中では玲と星が正座で待っていて、二人とも珅を羨ましそうな顔で見ていた。
頰がまだひくひくしている珅を、母親は玲と星の間に下ろす。再びどたどたと家の奥へ歩いて行き、今度は琅を小脇に抱えて戻ってきた。
琅を珅の膝の上に下ろして、母親は子どもたちの前に座り込んだ。
父親が戦に行く前、子供たちに話をした時と同じ並びで、珅たちは母親の顔を見上げる。
あの時と違って真っ昼間で、窓からはさんさんと光る夏の眩しい空が覗いていた。
だからか、今から母親が話したいことは何となく予想がつくのに、一人必死の形相をしている母親がどうしてもおかしくて笑いそうになった。
「いいかい、今から大事な話をするからね。一回しか言わないからよくお聞き」
珅は琅を膝の上でぎゅっと抱いて、母親を見た。対して玲は宙を見つめてぼーっとし、星は我関せずとばかりにきょろきょろ辺りを見回している。
「また父様の時みたいに戦の御触れが来たんだ。だから、母様は戦に行かなきゃならない」
「えーっ!」
それを聞いて、星が叫んだ。
「なんで母様が行くの⁉︎ 父様が男しか戦は行かないって言ってたもん、僕の方が先に行くに決まってる!」
「うるさい、戦は遊びじゃないんだよっ!」
母が怒鳴った。星の顔がみるみる歪んで、すぐにうえええん! と声を上げて泣き出す。
珅は星に近い方の耳を肩で塞いで、母をもう一度見た。母はイライラとため息をついて、
「村の八つ以上の女はみんな戦に呼ばれた。この村は子供たちだけになっちまう。だから、皇帝陛下が、子供たちは
「それ明が言ってた」
珅はぼそりと答えた。
母親はぶっきらぼうに「そうかい」と吐き捨てて、
「でもお前たちは、明や他の子とは一緒に行かないよ」
「えっ……」
今度は玲が声を上げた。母親はそれを無視して続ける。
「皇帝陛下はきっとご乱心なんだ。女子供が戦に呼ばれるなんてことぁ、大婆様にも聞いたことがない。これはただの戦じゃないんだ。だから、お前たちも一緒に内地に行ってみろ、八つになったらみんなで仲良く戦に行かされるに違いない」
「父様もよく行くでしょ、べつにいいよ」
珅はあっけらかんと答えた。
一瞬で母親は目くじらを立てて、
「父様はたまたま強いから戦に行っても帰って来られるんだよ! お前は覚えてないのかい、紫の父様も、
血走った母親の目を見ていると、さっきから笑いそうだったのもすっかり吹っ飛んでしまった。
――どうにかなってしまったのは皇帝陛下より、母様なんじゃないだろうか。
「だからね、お前たちは内地にはやらないことにしたんだ。珅、東西南北はわかる?」
「え、うん」
珅は反射的にうなずいた。
母親はずい、と顔を寄せてきて、
「昼間の太陽がある方角は?」
「南」
「太陽が沈むのは?」
「西」
「よしよし」
母親は満足したようにうなずいた。
「いいかい珅、この村からずーっとずーっと西へ進んで、海に着いたら南へ下るんだ。すると、
「船に乗ったらどこ行くの?」
珅が首を傾げた。母親は首を振った。
「わからない。だけど、多分皇帝陛下の国じゃない、違う国に着く。そしたら、お前たちは戦に行かなくて済む」
「やだ」
「やだじゃあないっ! 人の言うことが聞けない子供なんか、どのみちここに置いていくよ、連れて行ってもよそ様の迷惑だからね!」
珅は黙った。
わんわん泣いていた星も、ふっと静かになった。
何にもわけがわかっていない琅だけが、珅の膝の上でがさごそ動いている。
「いいか、母様は今日の夜までに村を出ていく。村の子供たちもだ。でも、お前たちはここからずっと西へ行くんだよ。わかったね、お前たちはそうしなきゃ死ぬしかないんだ……」
母親の鬼気迫るうわ言に圧されて、珅は腹のあたりがむかむかした。
「死にたくないなら西に行くんだ。明日になったら、ここに兵士がいっぱい来て、残ってる人はみんな首をはねられるんだよ。母さんの持ってる金をやるから、絶対にぐずぐずするんじゃない。とにかく西に行って、海に着いたら南に行って、そのあと船に乗るんだ。わかった?」
珅、玲、星はばらばらに頷く。
母親は数秒、何か言いたそうにもじもじした。 そしてそのあと、ふう、と大きな息をついて、肩を落とすと、疲れたような優しい声で言った。
「珅、玲、星、琅。お前たち……いいね、一人でもいいから生き延びな。一人になっても生き延びるんだ。絶対だよ。母様はね、お前たちの誰でもいいから大人になってくれりゃ、それに越したことはないんだ」
お前たち――と言いながら、母親の視線はじっと珅を射抜いていた。
珅は居心地悪さで少し引け腰になって、小さく頷く。一刻でも早く話を終わらせたかった。
「うん」
「わかったね」
「うん」
「絶対だよ」
「……うん」
珅が三度目に頷くと、母親は満足したように立ち上がった。
「準備する。お前たちも荷物をまとめな」
珅たちは固まったまま、小さく「……はい」と返事した。
珅は、せわしなく行ったり来たりする母親の背中を見遣った。
星も玲も今の話がちゃんと分かったのだろうか。というかそもそも、ちゃんと聞いていたのだろうか。
星や玲が自分より幼いのはわかる。
でも、なんで自分ばかりなんだ。自分だけ返事をさせられたのも納得いかないし、それで満足する母親も気に食わなかった。
べつに、自分は母様の言うとおりにしようとはこれっぽっちも思っていないのに。
珅は琅の着物を直すフリをしながら、しばらく家のど真ん中でこっそりいじけた。
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荷物をまとめると言っても、珅の荷物はほんの少ししかなかった。
下着が一着。
お古の服が一着。
琅のおしめが三つ。
小さな器、珅と琅のが一つずつと、木の匙も一本ずつ。
あとは、捕ったウサギを捌く時に使う包丁と、村の子供たちと遊ぶために集めた、黒や白の綺麗な小石がたくさん詰まった袋。
包丁は重いから置いていこうと思ったが、ご飯に困るかもしれないので持っていくことにした。
お気に入りの粗末な毛布は、上着がわりに肩へ巻いておいた。
星と玲の荷物をそれぞれ開けさせて、最低限着替えと器、匙、毛布だけ持っていることを確認する。
そこまでで、半刻とかからなかった。
「母様、準備できた」
珅は家の中をバタバタと走り回る母親に声をかける。
母親はそれを聞くと、土間へ走っていった。
玄関先にぶら下げてあった大きな竹の水筒を取って、水甕からさっき珅が汲んできたばかりの水を、ぶくぶくと入れた。
「持っていきな」
母親は水筒を珅の首にかける。そして懐から小さな猪皮の包みを取り出して、珅に押し付けた。
「これは路銀。お金だからね、絶対になくすんじゃないよ。船に乗る時、全部船の人に渡すんだ。これじゃ足りないって言われたら、その時は……」
母親は言葉に詰まった。
珅は母親の顔を見上げて、黙って待っていた。
「……乗れるだけ乗りな」
ぼそり、と母親はつぶやいた。珅はとりあえず頷く。
ドンドンドン!
突然家の玄関戸を激しく叩く音。
「
明の母親の声が、外から聞こえてきた。
母親は床下から
「あと少し! すぐ行くから待って!」
と叫び返した。
「早くして!」
言い残して、明の母親の足音が遠ざかっていく。
それを聞き届けると、珅の母親が小声で言った。
「玲、星、琅、こっちにおいで」
すぐさま玲と、琅を抱えた星が土間に走ってきた。
四人の顔ぶれが、再び母親の前に並ぶ。
母親は屈んで、子供たちと視線を合わせた。
「床下にお前たちの藁履がある。家を出る時はそれ履いてきな」
そして突然腕を広げて、母親は四人を一緒に抱きしめた。
腕の端で引っかかるように抱かれた珅の鼻へ、汗と土の青くさいにおいが届く。大きく息を吸うと、その中に乳のような甘い香りが少しだけ嗅ぎ取れた。
隣り合った弟たちに体が押し付けられて痛い。おまけに暑い。珅は少し身をよじって、すわりのいい場所を探した。
「お前たちはもう、この家には帰ってこないんだ」
母親が、子供たちの身体に顔を埋めて言った。
うぇ……と、ちいさく玲の嗚咽が聞こえる。
「玲、泣くのは船に乗ってからにしな、ね。お前たち。珅を困らせないようにね。いいね」
そして一瞬、ぎゅうっと四人を強く抱きしめ直すと、母親は腕を離した。
思いがけず、珅たちはバラバラになって尻餅をつく。立ち上がろうと顔を上げた時には、母親はすでに玄関戸を開けて出て行こうとしていた。
そして一瞬、動きを止めて振り返る。
「星、玲、琅、珅。じゃあね」
外からの光が目に焼き付く。
肝心の母親の顔は、逆光で真っ暗に塗りつぶされてわからなかった。
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昼が過ぎて、西日が赤く染まり始めた。
村は静かになった。
家の外からは、みぃんみんみんと蝉の声が響いてくる。耳を澄ませても、その中に人の声はなかった。
ひんやりと冷え切った家の中。四人は固まって、ちいさくなって、しょぼくれていた。
玲も星も、顔が真っ赤に腫れるまで泣いた。今は、二人とも黙ってうとうとしている。
珅は琅を抱いて、ぼうっとオレンジ色の光がさす窓の外を眺めていた。
兵士がこの村に来るのは明日だ。それなら、別にもう一晩眠ってからでいい。
いくらここに戻ってこないと言ったって、どうせいつか帰って来ることになるだろう。村のみんなも、ここでなければどこに住むというのか。
そうは思っているはずなのに、やっぱり一秒でも長く家にいたかった。
言葉にできない重くてもやもやしたものが、ずっと珅の胸を締め付けている。
大してしゃべることもなく、珅たちは長い時間をやりすごした。
腹が減るたび、床下の壺から漬物や干した肉を取って食べた。珅は一人で時々外へ出てみたが、本当にどこにも誰もいなかった。
村を歩くと、まれによその家の中から、珅たちと同じように置いていかれた〝小邪〟が泣いたり歩き回ったりしている音が聞こえた。
なんだか怖くなった珅は家に走って帰った。そして、琅を思い切り抱きしめた。
やがて静かに、静かに、宵闇が村を飲み込んでいった。
日が沈むと、四人の子供たちは、家の真ん中で灯籠の小さな灯りをつけて丸くなった。
やがて真っ暗で怖くなったからか、玲と星がかあさま、かあさま、と大泣きし始めた。珅は特に宥めることなく、二人が泣き止むのを待っていた。
玲も星もしばらくすると、疲れて横になり、そのまま再びうとうとし始めた。
異変が起こったのは、それから間もなくだった。
家の外。
遠くから、おびただしい数の重い足音。ドドドドド……と土を蹴って、遠くから迫ってくるようだ。
いち早くそれを聞きつけた珅は、弟たちを置いて家を飛び出した。
音の出所はすぐにわかった。
地平線の向こうに沈んだ夕日の残滓を背にして、マクワウリ畑の真ん中を堂々と踏みつけながら、無数の馬が走ってくる。
畑と空の間に、点々となびく松明の火が眩しい。それに照らされて、黄色い旗がところどころに翻っていた。
――昨日、村に来た兵士の持っていた旗だ。
思い当たった瞬間、珅は家に飛んで戻った。藁履を全員分慌てて床下から引っ張り出し、自分のをはくと、残りを持って土足のまま家に駆け上がる。
水筒を下げ直し、荷物を肩からかけ、毛布を身体に巻いて、琅を小脇に抱えた。
「星、玲、きて」
小さな声で呼びかける。のろのろ起き上がる二人を背に、珅は納屋に入った。
「姐様、どこ」
星が玲と手を繋いで、灯籠を片手に納屋を覗く。
「ここ!」
珅が言うと、二人は納屋の奥まで入ってきた。
「荷物なきゃダメでしょ!」
納屋にしまってある藁の束の奥に弟たちを隠しながら、珅はこぼした。
もう一度大急ぎで納屋から出ると、二人の荷物を探す。囲炉裏のそばに投げ捨ててあった袋を二つ見つけると、珅はそれをひっつかむ。
家の外から、馬の足音が腹の底にひびく波になって押し寄せてくる。
珅は足を縺れさせて、納屋の奥に戻った。
「ね、姐様、なに?」
灯籠の小さな灯りに照らされた玲が、泣きそうな震え声で聞いてくる。馬の足音は、納屋の奥まで届いてきていた。
「静かにして」
珅は絞り出すように言った。
しばらくすると、馬の蹄の音は、人の足音や声に変わった。
全部、野太い男の声だ。どれも近づいたり、遠ざかったりしている。あたりをたくさんの人が歩き回っているらしい。
これは、全部今日の朝ここに来たような兵士なのだろうか。母様は、兵士がくるのは明日だと言っていた。
まだ夜だ。早すぎる。兵士じゃないんだとしたら、じゃあ、一体何が来たのだろう?
「おしっこいきたい」
星が呟いた。
「ねえぇ、姐様、おしっこ」
「しぃっ!」
珅はなんとか星を黙らせながら、耳をそばだてる。家の裏にある格子窓の向こうから、男たちの話し声がぼんやりと聞こえてきた。
「――ここにするか?」
「いや、もう他に荷物置いて来ちまったから――」
「小邪だけでも探しておくか」
「それなら隣から――」
珅は唾を飲んだ。
ざざざざ、と、胸の奥が音を立てて波立つ。
珅は直感した。誰か、ここに入ってくるつもりだ。
話し声はほどなく、表の方へ遠ざかっていった。
珅は納屋へ戻ると、むんずと両手に玲と星の腕を掴んだ。
「荷物持って!」
二人はわたわたと荷物を取る。珅は二人が立ち上がるのを待たず、引きずるように納屋の外へ出た。
星も玲も、珅の突然の行動に声も出ない。珅はそのまま裏口を蹴り開け、そこにつくりつけられた鶏小屋に飛び込んだ。
ケェーっ!
珅に驚いて、鶏が大声をあげる。
珅はさらに鶏小屋の戸を蹴り開けると、外に飛び出した。
まとわりつく湿った空気。二人の弟たちで重くなった両腕。モヤがかかったような暗闇が邪魔で、先が見にくい。
珅はとにかく、足を踏ん張って走った。
家の裏にはぱらぱらと木が生えていて、それがやがて緑の生い茂る山に続いている。
珅はできるだけ手近で大きな木の影に駆け込んだ。
「姐様ぁあ」
玲がそう言いながら、珅にしがみつく。
星もその上から巻きついてきて、珅を見上げた。
「琅は?」
「今からむかえにいく」
珅は震える声を抑えて答えた。木の影からそっと顔を出して、家の方を伺う。
すると――家の前には、鶏の声を聞きつけた知らない男たちが数人たむろしていた。
珅が蹴り開けてきた鶏小屋を覗き込んで、中から卵や鶏を運び出している。
今戻るのは、無理そうだ。
珅は男たちを睨みつけながら、彼らが家に入っていかないようにひたすら念じた。
まだ中に琅がいる。
琅は小邪だ。だから、見つかったらきっと……
珅は下唇を噛む。
一瞬。一瞬人がいなくなってくれればいいのだ。村で一番すばしっこい自分なら、その隙に琅を連れ帰ってこられるはずだ。
念じて、待った。
星も玲も、緊張で黙り込む。
その時。
「あぁっ⁉︎」
突然、家の前にいた男の一人がこっちを向いて叫んだ。
珅は弾かれたように首を引っ込める。
見つかったのか――?
「あわあぁっ、て、敵襲っ! 敵襲だあっ!」
その声で、そこにいた男たちが全員振り返る。
彼らは珅たちの隠れている木よりずっと上、どうやら山の峰の方を見ているようだ。
「退散! 退散だっ!」
男たちは屁っ放り腰で逃げていった。
今ならいける。
珅は家に向かおうと、しがみつく弟たちを引っ張った。しかし、
「姐様、なんかくるよ」
玲がいっそう珅にしがみついて、こぼすように囁いた。
その言葉に、珅の足が石のようにかたまる。吸えない息をなんとか吸って、玲に聞き返した。
「どこ」
「……あっち」
玲が小さく、珅の後ろの方を指さした。その指をたどって、振り返る。
濃灰色の夜空を背にした、真っ黒い山の峰。
そのてっぺんあたりに、ちろ、ちろ、と金の光が見えた。
「小邪を出せぇ! 油撒いて撤退するぞぉ!」
「間に合うかぁっ! 迎え撃つしかねえ!」
村の中から男たちの声が聞こえる。
「灯りを消せ! 囮を出せ! 下がれ、下がれえっ!」
「姐様、行こうよぉ」
星が泣きそうな声で言った。珅から体を離すと、小さく珅の腕を引っ張る。
その拍子、珅はふらりとよろけた。とたんに固まっていた足が自由になる。
珅は木の影から飛び出すと、二人の手を引っ掴んで、なりふり構わず家と家の隙間を走り抜けた。
「姐様ぁあ、琅はぁっ」
玲が引きずられるように走りながら、切れ切れに呼びかける。
「うるさいっ!」
珅は思わず絶叫した。琅がまだいるはずの家の横を、前屈みになって通り過ぎる。
ヴワァァァァアアア――
畑の方から、子供の金切り声が聞こえた。
なんの叫びだ。化け物みたいだ。珅の喉を締め上げてくる。
心臓が握り潰される。足がまた重くなる。水の中を走っているように、体が前に進まない。
それでも後ろから、形のない化け物が迫ってくるようだった。慌てふためく知らない男たちの声をかいくぐり、夢中で土を蹴る。その瞬間、
ずざっ! と足が滑った。
「ぎゃあっ⁉︎」
「ひぃっ!」
「うわああっ!」
悲鳴を上げながら、三人もろとも村の道から三尺下にあるマクワウリ畑に落っこちた。
正面から真っ暗な土の地面に叩きつけられる。敷き詰めてあった枯れ草で、そこまで痛くはなかった。
「ひぃぃぃいたいぃぃい」
星が火のついたように泣き出した。珅は慌てて肩に巻いていたボロ毛布を剥ぎ取ると、転がったままの星の上にかぶせた。
「しずかにしてぇえぇっ……ぉえっ」
叫ぶと息が詰まってむせ返る。星が毛布の下で苦しげにジタバタした。
「隠れ、隠れる、の、見つかっちゃうから」
珅は体の下にいる星に言い聞かせた。いや、何かしていないとわけがわからなくて、おかしくなりそうだったから、そう自分に言い聞かせた。
途切れ途切れでも珅の言葉が届いたか、星は毛布の下でしゃくり上げながら大人しくなった。
玲も珅にぴったりくっついてうずくまり、耳を塞ぐ。
ギアアアアア……ギィィィ――
テキシュウ! テキシュウダァア――
コロせぇ! ススめっススめぇっ!……
テッタイしろ! ウワァァァァ――ヤメロォォエエ……
イデェっイデェェダァァスゲでぇぇ……このっこのアクマッ――死ぬ……死ぬゥゥゥ――
ァァァヅいいいいいッ……ヴワァァァァァン――殺せぇ――この――ギィィィイヤダァァァァァヅいい……
無数の断末魔が全方位から降ってくる。珅は出来るだけ体を固くして、頭を真っ白にして、地獄の底を耐える。
息ができない。頭を抱えて、星の息だけを聞く。
「琅……」
小さな声で、玲が漏らした。
それが、珅の頭の中にぽつん――と引っかかった。
そうだ、琅がいない。
頭が真っ白でそれどころじゃなかった、琅を迎えに、琅を迎えにいかなきゃ。きっと、琅は騒がないから、見つかっていないかも、いないかもしれない。
そう思うと、珅の体の金縛りが、ふ……と緩まった。
今なら少し動いても、断末魔の冷たい雨には見つからない気がした。
珅はそうっと、そうっと、体を持ち上げる。
玲の視線が、珅を追う。
星が不思議そうに、毛布の下から頭を出す。
にゅーっ、と珅は体を伸ばした。
家の周りに人はいないだろうか。今、戻れる見込みがあるのなら――
星と玲の体の上に手を置いて地面に押さえつけながら、それを支えに上体を起こす。膝立ちにまでなると、マクワウリ畑の段差からわずかに頭が出た。
パッと、視界が開ける。
同時に、鼻の奥がツンとする煙の臭い。むせそうになって慌てて我慢した。
夜闇の中で、あちこちに上る赤橙の火の手。
それを、影絵のように馬や旗が遮って動き回る。
珅は、煙でしみる目を凝らした。
燃えているのは――畑の枯れ草。
流れ星のように火の粉を散らして翻る黄色い旗。
村の建物の藁葺き屋根もぶすぶすと燃えている。そしてその下で蠢く火の塊。
小さいの。大きいの。地獄のような悲鳴はそこからだった。
転がり回り、身体中を掻き毟り、やがてどれからともなく声が途絶え、うずくまったまま静かに炎を上げて消えていく。
珅はその光に惚けて、ぼんやりと自分の家を、探すともなく探した。
するとすぐに、煙の向こうでかすむ自分の家を見つけた。そこだけは依然として静かに、嘘みたいに暗い。
そして――その軒下、少し珅の手前側へ離れたマクワウリ畑の端に、一番煌々と燃える小さな火。
珅は、その火に釘付けになった。
炎の薄明かりを纏い、金色に光って見える、見慣れた形の小さな頭。
いつもみたいにぼうっと、どこでもないところを眺める垂れ目。
それがたまたま、遠い闇に沈んでいるはずの、珅の目を捉えた気がした。
――ま――
と、わずかにその口が動いた。
そしてそのまま、真っ赤な頬から崩れ落ちるように、畑の枯れ草の中へ呑まれていった。
「姐様?」
珅の足元から、玲が呟く。
珅はまだ、ずっと、煙に目を瞬きながら、暗い家を背景にしてちろちろ踊る赤橙の光を見ていた 。
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