ポルとルズアの二重奏・前日譚集

音音寝眠

5.5章 二度と来ない朝

5.5-1 村


 村は、その日も薄青色の晴天だった。


 空の端は山の峰と地平線。天いっぱいにうねる、銀の雲でできた巨大な竜の鱗。

 その下には、ただひたすら畑と田んぼが広がっている。一面茶と緑の景色に、黄色い土の道が線を引いていた。

 端が霞んで見えるくらい大きな畑の一区画には枯れ茎がふんわりと敷き詰められていて、かわいいマクワウリの苗がちょうど伸び出しているところだ。

 その一画のど真ん中を通る、小高く盛られた小道の半ばに、こんもりと小さな人だかりがあった。


 カンカラカンカン、カラカン、カンカラコン……

 小さな人だかりからは、鋭い無数の金属音がたどたどしいリズムになって聞こえてくる。集まっているのは、みんな年端の行かない子どもたち。

 女の子も男の子もみんな鮮やかな赤や青、褐色をした質素な筒袖を着て、丸く輪になっている。

 その真ん中では、八つや九つくらいの男の子が数人、おぼつかない動きで踊っていた。

 脚を揃えてジャンプしたり、回ったり、伸びたり縮んだりを素早く繰り返す。

 踊る男の子たちの脇で、同じ歳くらいの太った男の子が一人、穴の空いた鍋を伏せて、リズム良く木の枝で叩きまくっていた。

 踊りを取り囲む子どもたちは、穴あき鍋の音に合わせて手を叩き、目を輝かせて踊りに釘付けになっている。


 カンカラカンカン、カラカン、カンカラコン……

「くぉらあぁぁぁっ!」

 突然マクワウリ畑の反対側から、野太い男の怒鳴り声がとどろいた。子どもたちがびたりと動きを止める。

 しん、と静まり返る人だかり。

 一人、二人……やがて全員が声のした方を振り向く。

「あ」

 輪の中にいた小さな男の子が、ちょうど畑の真ん中あたりを指さした。

 その先には、ちろちろ動き回る小さな白っぽい点。

 枯れ草の敷き詰められた畝を、まるで宙へ浮いてでもいるかのように器用に避けながら、どんどんこちらへ近づいてくる。

「あれ、ウサギ番?」

 今度は女の子が呟いた。

「ウサギ番かあ」

「なーんだ」

 口々に子どもたちから声が上がった。そして、一人、また一人と輪の中心へ視線を戻していく。

「てめえゴラァ! 畑踏み荒らしやがって!」

 さっきより大きな怒号が、ウサギ番にむかって上がる。輪の中でも特に小さな子が数人、跳んで驚いた。

 少し大きな女の子が、震え上がったちびっこを二人、両手で撫でながら言った。

「本気じゃないから大丈夫」

「ほんきじゃないの?」

 右側で撫でられていたちびっこが、上目遣いで聞き返す。女の子はうなずいた。

「うん。他の人が真似しないように怒って見せてるだけ」

「じゃあ、なんでウサギばんはいいの?」

「ウサギを追っかけるのが仕事だから」

「なんでウサギおっかけるの?」

「なんでって」

 女の子はちょっとうんざりしたように、

「ウサギは苗食べるし、踏んじゃうからさ」

「ウサギばんはふまないの?」

「そうだよ」

 女の子の答えを聞くと、ちびっこは畑に目を戻す。彼女がため息まじりに

シェンは苗踏まないで走れるからねぇ」

 と言い足した時には、畑の中で動いている白っぽい点が、目の前まで迫っていた。


 ちっちゃな人影。梔子緑の筒袖。灰染めの細袴。ドロだらけの丸っこい裸足。

 カラスの尻尾みたいに後ろでくくった黒い髪を揺らして、三尺も下にある畑の中からびょーん! と道へ跳び上がる。

「ワァ」

 小さく歓声を上げるちびっこの耳を、何か大きなものがひゅん、と掠めて、女の子の顔面に直撃した。

「ぇぶっ」

 女の子は慌ててそれを受け止める。

 手の中にあったのは――薄茶色の、ずっしり太ったウサギ。温かい身体はだらしなく伸びきって白目を剥い ていた。


 女の子がウサギの飛んできた方向を見ると、すぐ目の前に、たった今畑から上がってきたばかりの子どもが突っ立っている。

 人の輪が後ろへ下がって、少しだけ場所を空けた。

シェン、投げないでよ……」

 女の子が、困ったように伸されたウサギを持ち上げる。呼ばれた子ども・シェンは、女の子に目もくれず、人の輪の割れ目へ押し入って、真ん中で踊っていた男の子たちの横へ当然のように並んだ。

 全員の視線が珅に集まる。

 珅はそれを意にも介していない。おでこでざんばらに切り揃えた前髪の下から、きょとんと男の子たちを見上げた。

「……え」

 誰かが小さく声を上げる。

 珅は長い睫毛に縁取られた、大きな猫目をぱちくり瞬いて、まだ男の子たちを見ていた。さあメンバーが揃ったぞ、なんで踊りが始まらないんだ、とでも言いたげに。


「お前は女だからダメ」

 隣に並んだ男の子が、珅を押し退けようとする。珅はその手をひょいと避けた。

「珅、こっちおいで」

 ウサギを抱えた女の子が、珅を観客の輪に引っ張り込もうと手を伸ばす。

 珅は目すら向けずにまた避けて、穴あき鍋の前に座り込んでいる男の子をじろりと見た。

 彼は困ったような顔で、もともとまん丸い頰をさらに膨らませ、手にした木の枝でゆっくりと鍋を叩き始めた。

 カン、カン、カン、カンカラコン、カラコン、コロコロカン……

 列に並んだ男の子たちが、一人、また一人と踊り始める。

 その隅で珅も、穴あき鍋のリズムに合わせてピョンピョン飛び跳ねだした。

 振りは無茶苦茶だが、動きは他の子どもたちより数段大きい。周囲より二回り近く小さな身体でも、踊りの見栄えだけは負けていない。

「やるならちゃんとやれよ!」

 隣の男の子がガツンと怒鳴った。


 珅はピタリと動きを止めて、数秒彼を見つめる。

 そして今度は周囲の振りをきちんと真似して、再びぴょんぴょん踊りはじめた。

 他の踊り子たちとほとんどぴったりの動き。どんどん速くなるテンポに遅れることなくクルクル回ってみせる。

 カンカラコン、カラコン、カンカラ、カン、カン、カン――


 曲が終わり、穴あき鍋の余韻が人いきれにこだまする。

 同時に、踊りの列がドッと崩れた。息を切らして膝に手をつく子、座り込んで天を仰ぐ子、地面に大の字になって上着の襟元をバタバタやる子。

 珅はそれに紛れて、得意げな顔で額の汗を拭った。短い前髪が、パラパラと額に張り付く。



 その時、

シェンねえさま〜!」

 観客の輪の外から、明るい男の子の声。

 珅は子どもたちの間をすり抜けて、輪の外へ出た。そのとたん、珅より頭ひとつ小さい、紺の着物を着た男の子が珅に飛びついてきた。

 珅はそれを上手に受け止める。男の子の短髪から、ふわりと汗の匂いがした。

フォン兄様と数棋すうきして!」

 男の子は、真っ黒に光る二重の目で珅を見上げた。珅は表情を変えずに、

「数棋」

 とつぶやく。男の子はうなずいて珅の襟首を掴むと、ぐいぐい引っ張って今来た道を戻ろうとする。

シン、まって」

 珅は男の子・シンの手首をむりやり引き剥がし、振り返って子どもたちの輪の中に飛び込んだ。

張明ジァンミン!」

 人混みを押し除けて珅が叫ぶ。すると、伸びたウサギを抱えた女の子・ミンが、人垣から顔を出した。

 珅はつんのめるように明の前へ出て、両手を差し出す。

 明は眉間にしわを寄せて、ウサギを小さく横に抱え直した。

「何か言うことないの?」

 珅はしばらくきょとんとしていた。明の顔とウサギを交互に見て、最後に明の額のあたりを見上げると、

「投げてごめんなさい」

「それだけ?」

「ありがとう」

「それで?」

 明はまだ怖い顔をしている。まだウサギを返してくれる気はなさそうだ。

 ここで焦ったくなって、むりやり奪い返したらどうなるか、珅はよく分かっていた。珅の母親に告げ口されて、父親に知れて、しこたま叱られる。

 珅はしばらく考えた。

 明は村一番のしっかり者。珅の母親でもたまにしか指摘しないようなことを、彼女はいつも要求してくる。

 どうして欲しいのか、珅には見当もつかない。もっと丁寧に言えってことか?

 珅は右手の拳に左の掌を合わせ、膝をついて頭を深々と垂れる。足元を見つめたまま、ゆっくりと言った。

「ウサギを持っててくれてありがとうございました」

 すると、明どころか周りの子どもたちが全員目をむいた。

 珅が顔を上げてあたりを見回したら、みんながこっちを見ている。珅は首を傾げた。

 とにかく丁寧な言い方といって思いついたのは、珅の父親が、村の外から来た皇帝陛下のお役人にしていた礼だった。最上級に丁寧な礼のはずだが、それでも足りないというのだろうか?

「やめてよ、皇帝陛下に失礼でしょ……」

 明は恥ずかしそうに俯くと、押し付けるようにウサギを投げ返してきた。

 珅は受け取るや否や、居心地の悪い人だかりをすり抜けて星のところへ戻った。

「やったあ、今日は兎鍋だ」

 珅が抱えたウサギを見て、星はピョンピョン跳ねながら元来た道を戻りはじめる。

 珅はウサギの後ろ足をまとめて握ると肩に担いで、その後を小走りで追った。


 マクワウリ畑を囲む細道を、星と珅の二人は延々進む。

 畑の角までくると左へ曲がった。さっきまで珅たちがいた人だかりは、斜め後ろへ離れていく。

 行く手に目を移すと、人だかりからマクワウリ畑を挟んで反対側の小道沿いに、点々と茶色い建物が、緑の山を背にして並んでいた。

 どんどん進むにつれて、建物の前や道の真ん中でたむろする人影がたくさん見えてきた。

 再び二人が畑の角までたどり着くと、もう一度左に曲がって、いくつも並んだ家や屋台の前を通り過ぎる。

 すれ違った黒ひげの大男が珅のウサギを見て、

「珅、今日のはでっけえなあ!」

「うん!」

 珅は叫び返した。大男はにっこり笑って歩き去っていった。

 その時、

フォン兄様〜!」

 前を歩く星が叫んで走り出した。

 珅は慌ててついていく。星は道の端にできた子どもたちの集まりに駆け込んでいった。

「相手連れてきたよ!」

「え……」

 答えたのは、困惑したような柔らかい声。

 珅が星の後ろから顔を出す。そこには、長い黒髪を後ろで括った、大人びた顔の男の子が、子どもたちに囲まれて座っていた。

 彼の前の地面には、縦横七列ずつの四角いマスが描かれていて、その一つ一つに数字が入っている。彼の手前の辺上には、白い小石が七つ並べて置いてあった。

 男の子 ・フォンは肩を竦めると、

「珅にはまだ難しいよ。ロンの方が……」

「龍兄様は弱いからダメ」

 珅は風の言葉を遮って、風の向かいにどっかりあぐらをかいた。膝の上にウサギを丸めて乗せる。

「はい姐様!」

 横から星が、小さな布袋を渡してきた。珅がそれを開けてひっくり返すと、中から小さな黒い小石がたくさん落ちてくる。

 珅はそれを、自分の前の辺上にある七つのマスへ並べた。

「ほ、ほんとにやるの?」

 風は困り切っていた。珅はうなずく。

「うん」

「い、いいけど……」

 風は手に握っていた木のサイコロを、地面にぽとりと落とした。

「珅が先にしな」

 珅はサイコロをとって転がす。六の目が出たのを見ると、黒い小石の一つを前、横、ななめ、と進める。

 風も同じように、それを繰り返した。

 周りで見ている子どもたちは、座り込んだり、立って伸びたりしながら黙って二人の真剣勝負を観戦していた。

 その中で一人だけ、星は観客の輪の内側を走り回り、風の背中に抱きついて、

「風兄様、次ここ行こ! あ、珅姐様が次絶対ここ来る! 僕そう思う!」

 と、ずっと無駄口を叩きながら試合の邪魔をしていた。



「珅、けっこう強いんだね……」

 盤上が煮詰まってきた頃。風はあぐらに頬杖をついて苦笑していた。

 試合が始まった時とは反対に、風の手前には珅の黒い駒が、珅の手前には風の白い駒がずらりと並ぶ。

 盤上には白い駒が一つ、黒い駒が二つ、敵陣の前で止まったまま膠着していた。

 あまりに接戦で試合が長引くものだから、周りの観客は、いまや半分くらいになっている。

 残っている者も、よそ見して喋りながら、ちらちらこっちへ視線をやるのみ。


 珅は地面に転がったサイコロを握り、転がす。

 出たのは三。珅は盤上の黒い駒をひとつ、縦、横、と動かしてマスの端まで進むと、盤の外枠を飛び越して、風の陣地に入れた。

「あちゃ」

 風はさらに悔しそうな笑みを浮かべ、サイコロを手に取り、ひょいと投げる。

「あ!」

 出たのは四。風は素早く、最後に残った白い駒を動かす。白い駒は盤の外枠を乗り越え、珅の陣地に入った。

「あがりっ!」

 風は叫んで立ち上がった。

 珅はその瞬間、思い切り地面に寝転んだ。

「あ、終わった?」

「やっとか」

「どっち勝ったの?」

 よそ見をしていた子どもたちが、ざわざわと騒ぎ出す。


 あと一回あったら勝てたのに。

 珅は腹が立って、兄が「勝った」と報告しているのが無性に許せない気持ちになった。がばっ、と起き上がり、脇にあった布袋を取って、黒い小石を乱暴に詰め込む。

 布袋を星に放ってよこし、ついでに膝の上に乗っていたウサギを風に投げつけた。

「うわっ」

 白目を剥いたウサギの顔にびっくりする風を、横目で見ながら珅はほくそ笑んだ。

 と、

「ねえさまぁ」

 後ろから、平坦で消え入りそうな声が聞こえた。

 直後に、温かい身体が背中に触れる。珅が自分の肩の上をまさぐると、赤葉みたいに小さな手が指を握り返してきた。

リン?」

 珅は振り返る。浅黒い肌に、賢そうなぱっちりおめめをした、おかっぱの女の子・リンと至近距離で目が合った。

ズゥに何か言われた?」

 珅は玲の手を握った。玲は珅の背中にべったりと頰を押し付けて、

「でもね、龍兄様がやっつけてくれてる」

「えっ」

 珅はそれを聞くと、慌てて立ち上がった。

「珅姐様?」

 玲がびっくりするのも構わず、珅は辺りを見回す。

「どっち?」

「あっちだけど……」

 玲は風の後ろの方を指さして、

「ねえ珅姐様、編み物教えてよお」

 珅の服にしがみつく。

 珅は振り返って玲を優しく引き剥がす。そして、ぴょんぴょんぴょーん! と数棋の盤を飛び越し、風の肩を踏み台にして、観客たちの輪に突っ込むと、そのまま一目散に玲の指差した方向へ走り去っていく。



 砂まじりの道を進み、木造りの家を何軒か通り過ぎてほどなく。

 正面からたくさんの男の子が、ばらばらとこっちへ向かってやってくるのが見えた。珅はすれ違う人を避けながら、走って走って走る。

 すると、長い土の塀の前に差し掛かった。行く手には、木と瓦屋根でできた立派な門が見える。こちらへ向かってくる男の子たちは、そこから出てきていた。

 そしてその門のそばで、取っ組み合っている二人の男の子がいた。門から出てきた子どもたちは、二人を横目でちらちら見ながら遠巻きに歩いていく。

「こんにゃろっ!」

 取っ組み合っている二人のうち片方が叫んだ。

「いっつもいっつも! 玲にばっかり! ちょっかいかけて! てめえなんか! サイテーだぞ! 鬼に! 喰われろ!」

 叫びながら、相手を引き倒したり髪の毛を引っ掴んだり無茶苦茶に手を出す。

 五分刈りの頭は泥だらけで、垂れ目の下のぽっちゃりした頰は真っ赤になっていた。

 対する相手は、一見すると細身の、きのこ頭をした男の子。しかし上背は前者の一回りも大きい。彼はつかまれた手をつかみ返しながら、

「お前が! つっかかってくるのが! おもしれーんだよ! バーカ!」

 にやにやと余裕の顔だ。

 珅は一瞬ふふんと笑って、走ってきた勢いをそのままに、たんっと足を踏み切った。

「てぇりゃぁあっ!」

「ぎゃっ⁉︎」

「うわっ」

 突然叫びながら降ってきた珅に、二人が目を剥く。落下に任せた珅の蹴りを、きのこ頭の男の子はきれいに避け、組み伏せられていた五分刈りの男の子が腹で受けた。

「え……珅……おま……うぇっ」

 悶える五分刈りの子に構わず、珅はきのこ頭の男の子へ飛びかかった。

 襟元に飛び込もうとするとあっさり腕を掴まれる。きのこ頭は珅を軽々振り回し、土壁の塀に叩きつけた。

 珅は壁面で上手に受け身をとり、小さく頭を振るともう一度助走をつける。

「し、珅! ジャマすんな!」

 五分刈りの男の子が、這いつくばったまま叫んだ。珅は無視して、きのこ頭の腰へ飛びかかる。

 きのこ頭はひらりと受け流し、勢いづいた珅の後ろへ回り込む。シェンの服の腰紐を掴み、ぶん回して投げようとする。

 しかし珅はその勢いに乗り、体を捻って彼の服の腰を引っ掴み返した。きのこ頭は、自分が珅を振り回す力につられてよろける。

「おい、龍兄様!」

 珅は隙を見て、五分刈りの彼に呼びかけた。しかし彼はまだ腹を押さえて地面でヘタっている。

 体勢を戻したきのこ頭は、ムキになって珅を力で引き剥がそうとする。珅はさらに彼の服へ両手でつかまり、歯を立ててしがみつく。

 その時。

 ぶちっ!

 びびびび!

 布のちぎれる音がして、珅の腰紐が弾け飛んだ。

 同時に、相手の服の腰から尻が、きれいに破けて垂れ下がる。

「いでっ」

 珅が地面に落ちて声を上げた。素早く転がって身体を起こす。

 すると目の前には――だらしなく垂れた布の中から、ぷりっと引き締まったつるつるの白い生尻が、陽の下に晒されていた。

 珅はゆっくり、おそるおそる目を上げて、相手の顔を見る。

 灰茶色の狐目と、ばっちり視線がかちあった。

 男の子の顔は、みるみる真っ赤になっていく。

 珅は堪えきれなくなって、ぷっ……と吹き出した。そのとたんきのこ頭はぎりりと拳を握って、

「てんめぇぇ……」

「こらぁあ!」

 突然の怒鳴り声。

 その場にいた三人が同時に跳ね上がった。

「何しとる! そこに直れっ!」

 珅は手足を縺れさせながら、地面に正座した。

 対するきのこ頭は、くるりと踵を返して一目散に走り去る。

ズゥごらぁ! 直らんかぁ!」

 岩も揺るがすような声で怒鳴りながら、白髪混じりの初老の男が、瓦屋根の門からのっしのっしと出てきた。

 ゆったりした筒袖の黒い着物でがっちり腕を組み、足首の締まった白い袴をはためかせながら歩いてくる。


 谷のように深い皺を眉間に刻み込んで、鋭い鷹の目で珅たちを睨んだ。

「やべえやべえやべえ」

 地面に横たわっていた五分刈りの男の子・龍(ロン)は、脇腹をさすりながら慌てて起き上がる。

 龍が珅の隣で正座した頃には、男は珅たちの目の前に仁王立ちしていた。

「紫のやつぁ……道場には出入り禁止にせにゃあな」

 男が珅たちの背後を見やった。龍と珅もつられて、正座したまま振り返る。

 尻を丸出しにして走り去っていくきのこ頭・ズゥが、点のように小さく見えた。

 珅はやっぱりそのマヌケな光景に、くっくっと含み笑いした。

「珅!」

 男が再び怒鳴った。笑いが引っ込んで、珅はすっと前に向き直る。

「でも父様、あいつが悪い」

「どっちが悪いかの話なんぞしとらん」

 珅の父はピシャリと言い放った。

「負けた者を笑うな。何度言われりゃわかる」

 珅は黙った。龍も隣で一緒に小さくなる。

 しばらく沈黙したあと、父が重々しく口を開いた。

「誰からけしかけた?」

「……お、オレ」

 龍が、囁くような声で言った。

「なら、珅は何をしていた?」

 父の眉間の皺が深くなる。

 珅は答えない。龍が今度は少しはっきりと、

「珅は途中で勝手に入ってきた」

「お前……」

 父が唸る。

 さすがの珅も、父の唸り声を聞いたら何事もなく放免してもらえないことくらいは、身をもって知っていた。

「それではまだ当分道場には入れてやれん。弁えろ」

 珅はしゅん、と塩をかけたなめくじのように縮み上がる。

 父はそれ以上何も言わず、今度は龍に目を移した。

「龍、けしかける相手は見定めるんだな」

「はい」

 龍は首の取れかけた人形みたいに何度も頷く。

 父はまだ何か言おうとしている様子で、立ったまま二人を見下ろしていた。

 が、しばらくして、ふん……と鼻を鳴らすと、二人の間を通り過ぎて、珅たちの背後へゆっくり去っていった。


「まじで痛かったんだけど」

 龍が正座したままの膝を見つめながら言った。

「ごめん」

 珅も、膝を見つめて言った。

「お前、今度邪魔したら許さんからな」

 龍はそう言いながら、本気でしょげているようだった。

「ごめん」

 珅は繰り返した。しばらくは、ちゃんと先に言ってから割って入ろうと思った。

 日は少しずつ西へ傾き、だだっ広い畑には、だんだんと人の姿も見えなくなってきていた。



 **********



「姐様、絡まった」

「え」

 日暮れ時。珅と玲は家の隅に座って、窓から差す夕日の下で編み釦を作っていた。

 黄色い土壁の手狭な家の中は、薄暗くて、肌寒かった。

 入り口の土間と家の中を仕切る小さな柵に二人でもたれ、錆びたかぎ針で木の釦の周りに色糸を編んでいく。

 家の中に見えるのは二人だけで、上がり端に鎮座するボロい糸車の影から、珅と玲の囁き声がぽつぽつと漏れていた。

 他に聞こえてくるものといえば、家の真ん中で小さく火を上げる囲炉裏が、時折ぶつ……ぶつつ……と弾ける音。あとは、外でカラスがバカみたいに鳴いている声だけだ。


「ん、ん〜?」

 珅は玲の編み釦を手に取ると、絡まって玉をつくっている青い色糸を、かぎ針で突き回す。

 玲が珅の手元をのぞく。

「とれた?」

「とれそう」

 珅はしばらく四苦八苦していた。

 やがて玉は少しずつゆるみ、ついに解けた。一本の青い糸が、はらりと珅の手の上に落ちる。

「あっ、とれた!」

「やったぁ〜」

 玲は頰をぷっくり緩ませて、珅からそうっと釦を受け取る。


 突然、家の中のどこかでガサガサッ……と音がした。

「あ」

 珅はおもむろに立ち上がると、家の奥へペタペタ歩いていく。

 奥には竹編みの薄い間仕切りで作られた、上下二段の狭い寝床が横並びに三つ。珅は屈んで、一番右下の寝床に入って行った。

 中は真っ暗。少しだけ奥行きがあり、床には藁が敷き詰められ、その上から布をかぶせてふかふかにしてあった。

ラン、起きた?」

 珅が小さく呼びかける。すると、一番奥の隅で何かが動いた。

 珅は振り返って、

「玲、灯籠つけて」

「えぇ、火つけれない」

 玲の困惑した声が返ってくる。珅は寝床から出た。

「じゃあ灯籠ちょうだい。つける」

 玲が部屋の隅にあった紙の置き灯籠を持ってきて、珅に渡す。

 珅は寝床の横にあった小物入れ棚の引き出しから、紙縒を一本取り出した。囲炉裏で紙縒の先を少しあぶって火を移すと、灯籠の中に残っていた油へ落とす。

 ふわ、と少しだけ火が明るくなった。

 珅は灯籠をそうっと両手で持ち、寝床へ戻った。


「琅」

 真っ暗闇が、淡い灯篭の光でオレンジに照らされる。寝床の奥にいたのは、青白い顔に細い垂れ目をきらりと光らせた女の子・ラン

 短いボサボサの髪を揺らしながら、むっちりした腕で四つん這いになって、かさかさとこちらへやってくる。

「お水のむ?」

 珅が問いかけた。琅は反応せず、珅の膝に手をかけて、揺れる灯篭の火を目で追い始めた。

「……ま」

「母様はまだいない」

 珅はゆっくり、ゆっくりと答える。

 するとその時、ギィ……と後ろで玄関戸が開く音がした。

「ただいまあ!」

 明るい女性の声。

 珅は振り返る。琅もぴくりと反応した。

「ま!」

「母様ぁ、琅が起きたぁ」

 玲が部屋の仕切り柵から土間へ身を乗り出す。母は竹編みのカゴを背負い、鍋と土の器を両手に持って、家の中へ上がってきた。

「はいはい、葛湯があるよ」

 家の上がり端にある大きな木の食卓に、持っていた器と鍋を置いて、床に竹カゴをどさりと下ろした。

「玲、鍋を火にかけとくれ」

「重い?」

 玲が鍋に手を伸ばしながら言う。

「重くてもやるんだよ」

 母はピシャリと言って、懐から匙を出すと、器をかき混ぜる。

「そこにいるのは珅かね?」

「あい」

 暗がりから珅が答える。琅がその横を、ま、ま、と呟きながら這っていった。

「こら、火があるから来るんじゃない」

 母がこちらへ近づいてくる。珅は寝床を出ると、琅の腰を掴んで引き寄せる。

「珅、食べさせとくれ」

 母は屈んで、珅に器を渡した。

 上気した赤い頰、ピンと張りつめた白い肌に、ぽってり重い垂れ目。母が琅の丸い顔を覗き込むと、背中でくくった白髪まじりの長い髪が、はらりと肩にかかる。

 お歯黒を入れた歯を覗かせてにっこり笑い、

「今日は機嫌がいいねえ」

 と、母も機嫌良さげに言った。手を伸ばして、寝床の中に置きっぱなしの灯籠を取ると、珅の少し後ろに置いた。

「珅あんたねえ、ウサギは獲ったら血抜きまでしろって言ったでしょうよ」

「うん」

「しといたからいいけど。そのかわり、ウサギ鍋は明日だよ」

「今日は?」

「山ガエルの煮つけと雑炊」

 母は言いながら、囲炉裏にぶら下がった鍋を覗く。

 珅は器と匙を持って琅の前に座った。

「ほら、ま」

 そのとたん、琅は珅から匙をひったくって思いきり投げ捨てた。瞬間、珅は器を置くのと同時に跳び上がり、匙が糸車に当たる直前に捕まえた。たっ、とその場に着地すると、素早く琅の前に戻り、たった今琅がつかんだ器のほうを、あわや彼女の手からひったくり返す。

 琅は、ひったくられたことに怒るでもぐずり出すでもなく、ぽてんと座ったまま指を四本口に押しこんでしゃぶり始めた。珅は器を床に置き、匙で葛湯をすくうと、琅の口から指を引っこ抜いてかわりに匙を突っ込んだ。

 玲が気を利かせて、手拭いを持ってきてくれた。珅は琅の口や、手や胸回りを時々拭きながら、琅が葛湯を嘗め終わるたびに新しい葛湯をすくっては、口に運んでやった。


 珅にとっては随分長い時間をかけて、葛湯の器は空になった。そこへ、

「たーだいまー!」

「ただいまぁ」

「ただいま」

 星、龍、風が三人一緒に帰ってきた。

「おかえりぃ」

 母は杓子で鍋をかき回しながら応える。風がこちらにやってきて、珅の隣に座った。

小琅シャオラン、よく食べたねえ」

「うん」

 琅の代わりに、珅が返事した。琅はまだ器の底に残った葛湯をぺちゃぺちゃ舐めている。

「こらっ! 糸車は触るなって言っただろ!」

 母の叱声。

 見ると、星が部屋の隅の糸車をカラカラ回しているところだった。星は慌てて手を引っ込めると、汚れた上着を脱ぎ捨てている龍のところへ逃げていき、思い切り飛びついた。

「おい」

 その時、玄関の方から野太い声。ギィ、と扉を開けて、険しい顔の父親が入ってきた。

 琅と母以外の全員がその場に正座で居直ると、

「おかえりなさい」

 と声を揃えた。

「むん」

 父はのっし、のっし、と上がってきて、食卓の脇にどっかり腰を下ろす。

「御触れが来た」

「御触れぇ?」

 母が素っ頓狂な声をあげる。

「いつ?」

「さっきだ」

「お役人が来たのんかい?」

「いや、隣村の使いから言伝で来た」

「ほうん。それで何て? 貢物の話かい」

「いや。……酒をくれ」

 父の声には、参ったような色が滲んでいた。母が急いで、壁掛けの食器入れから湯呑みを取ると、土間の酒甕から酒を汲んで、食卓に置く。

 父はそれをちび、とすすった。

フォンロンシェンシンリン。そこに直れ」

 五人の子どもが、バタバタと言われた順番に並んで、父の前に居直る。

ランは……」

 父は、まだ茫然と匙をしゃぶり続けている琅をちらりと見て、

「まあ、いい」

 もう一度酒をあおった。

 そして、鷹の目で子供たちを順に眺める。

「さっき、戦の御触れが来た」

 しん、と家中が静まり返った。

 暗くなった家の中で、灯籠と囲炉裏の火がゆらゆらと頼りなく燃えている。父親の渋い顔だけが灯に照らされて、暗闇の中でぼんやりと、妙に明るく浮き上がっていた。

「相手は、例によって山向こうの悪鬼どもだ。北の国境を固めるために、国境近くの村から徴兵して向かうと」

「うん」

 星が思わず返事する。父が星を睨んだ。

「八つ以上の男は全員、御触れが届いて三日以内に出るように。村に残っていたら役人が探しに来て、その場で首を撥ねる」

「そんな無茶苦茶な」

 母が弱々しい声を漏らした。

「いつお触れが届いたかなんて分かるわけないじゃないか。それも八つ以上ってねえ、ガキなんか戦に連れてってどうすんだい……皇帝陛下はご乱心なのかい」

「そうかも分からん」

 父が重々しく言った。

 いつもなら無駄口を挟んだだけでも怒鳴る父親が、無駄口どころか、皇帝陛下のことを悪く言っても怒らない。

 珅は思わず、目だけで横の兄たちを見た。これは異常事態だ。

「だから、わしと、風と龍は戦に行かねばならん。正確に三日間なんてお役人には分からんだろうが、万一首を撥ねられても困るからな。念を入れて明後日に出発する。急ぎ用意をしろ」

 父は言い放った。

 子どもたちは気圧されて、全員同時にうなずいた。それを見た父は、もう一度酒に口をつける。

「戻れ」

 子どもたちが一斉に正座を解いた。

「戦ァ!」

 龍が突然飛び上がって、拳を突き上げる。

「じゃあな、オレいっぱい戦って、人でなし野郎どもいっぱい倒すから!」

 空中に拳を撃ちまくる。横にいた風が、龍の腕を捕まえた。

「なあ、やめなよ……」

「兄様、でもめっちゃ戦ったらめっちゃ強くなるぜ!」

 龍は顔を赤くして、心底嬉しそうだ。

 何か言おうとした風の視線が、たまたま目を上げた父の視線とぶつかる。

 父が小さくうなずいた。風はそれを見て、口を噤んだあと、なんとも言えない困ったような苦笑いを浮かべた。

「星、オレ帰ってきたら、紫のやつボッコボコにできるくらい強くなってんぞ」

「じゃあ兄様、僕も勝てないね!」

「お前は今も勝てねーだろ」

「どんくらい強くなってる?」

「道場一!」

「悪鬼どんくらい倒す?」

「一千くらいに決まってんだろ!」

「いいなあ、僕もいきたい! 僕は百くらい倒すから!」

「じゃあオレ一万!」

 龍と星は、囲炉裏の周りを二人で飛び跳ねながら大騒ぎする。

 母が時々、ちょっと、邪魔だよ、とうるさいハエでも追い払うかのように言いながら、囲炉裏の鍋をぽそぽそとかき混ぜていた。

 ふらりふらりと振れる灯りにあわせて、伸びたり縮んだりする龍と星の長い影を、珅はどうということもなく眺めていた。

 琅が食べ終わった葛湯の器を取り上げて、床にこぼれた琅のよだれを拭く。

 戦に行ったら、きっとどれだけ走り回って暴れていても怒られないのだろう。

 そう思うと、兄たちのいくところが未知の新天地に思えて、ただひたすらに羨ましかった。

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