第7話 出発

 数日後には真一と実父の戸籍の書類も役所から届き、相続放棄に関する手続きも一通り滞る事なく済ませることが出来た。


 自分と実父との繋がりは、それで法的にも完全に無くなった訳だが、5歳を最後に何の関わりも無かった実父との間に、30年以上隔ててこんな事が立ち起こるなどとは、真一は夢にも思っていなかった。


 これまで父親に会いたかったかと言われれば、特にそう言う気持ちが真一にあった訳ではない。

 父親側のことは何も分からないので、父親が自分の事をどう思っていたのかも分からない。

 もし父親の生存中に真一が訪ねたとして、果たしてポジティブな事が起きたのかどうか、真一には甚だ疑問であった。


 父親は真一の居ない人生を過ごしており、真一が居ない前提で全ての生活が構築されていたはずである。

 もしもそんな所に真一が現れたとしたら、異物としか言いようが無いのではないか。

 まして母親と諍いの末に別れ、その後生涯を通じて一切の交渉が無かった相手だ。

 そんな真一と父親が何らかの方法で対面を果たしたとして、親子としての感情や交流を持つといったことが出来たのだろうか?


 しかしそんな事は実際には起きず、実父は世を去り、真一は親子としての法的な整理に片をつけ、永遠に邂逅は果たされなかった。


「天気が良ければいいね」


 紗織は物思う真一を元気付けるような言葉を掛ける代わりに、ただそれだけを言った。


 出発の日のまだ暗い早朝、真一はフィアット500のラゲッジに旅行期間中の二人の着替えが入った大きめのスポーツバッグ二つ、デシダル一眼レフのカメラ用ディパック一つ、その他小物などを入れた中型のボストンバッグ一つを積み込んだ。


 リバイバルされたフィアット500は見た目は可愛い小型ハッチバックだが、外見とは裏腹に意外なほどの積載能力がある。

 燃料タンクは昨夜満タンにしたとは言え35リットルしかないが、1リットルあたり20kmほどは走る事ができるので、関西まで給油無しでも問題なく辿り着けるはずだ。


 一度部屋に戻って戸締まりと忘れ物のチェックをした真一は、昨日から動物病院のペットホテルに預けているのに、ビリーの飲み水を交換しそうになったことに苦笑しながら、後片付けをして玄関を施錠した。


 まだ若干眠気まなこの紗織を助手席に詰め込み、運転席に座った真一は、エンジンを始動した上で財布からETCカードを取り出してセットし、ガラスルーフのカバーを開けて天井越しに空を見上げると、


「よし、では出発!」


 と一声発して、ギアを一速に入れた。

 1.3リットルのディーゼルエンジンが特徴的な音を立てて車が動き出す。


 時計は5時すこし前。

 まだ街は眠りから覚めたとは言い難く、車もさほど走っていない。


 昼間は流れの悪い府中街道を真一のフィアット500はスルスルと南に向かうと、新府中街道、甲州街道、日野バイパスと順調に進み、30分かからない程度で国立府中の高速インターチェンジに到着した。


 東側から太陽が顔を出す気配を感じられる朝と夜の混じった空の下、水色のフィアット500がぐるりとインターチェンジのループを駆け上がり、高速道路へと合流する。


 幸いな事に小型だがパワフルなエンジンで小気味良く加速するフィアット500だが、ギアが5速までと多段化されていないため、一定の速度を超えると回転数が必要以上に上がり、燃費が悪化してしまう。


 真一はなるべくトルクパワーで巡航させるように走らせ、必要以上に回転数が上がらないよう心掛けながら、八王子インターを越え、高尾ジャンクションから圏央道を海老名方面に向かって行く。


 東名高速と合流する頃にはすっかり空は明るくなり、車も徐々に増えてくる。

 とは言え平日の朝であり、東京方面からの下り車線はまだまだ空いており、箱根方面への分岐を越えても流れはスムーズである。


 助手席の紗織の様子を伺うと、先ほどから一言も発しないところから察してはいたが、眠っているようだった。


 —これなら足柄SAは通り過ぎて、清水あたりで最初の休憩にするのが良いかな?


 真一は箱根を越えるワインディングに備えて改めて運転に集中するよう意識を向けながら、行動予定を調整する。


 今日は伊勢までとは言え、それなりに長い距離を移動するし、豊川インターからは下道になる予定だ。

 フィアット500は高速走行も快適だが、それでも小型車であるためトレッドが狭く、強化サスペンションを装着していない真一の車では、車体がカーブなどで傾く「ロール」が抑えきれない。

 そのため乗っている人間はどうしても姿勢が動かされ、その反動で体は少しずつ疲労してしまう。


 運転している真一自身は、自分の操作に合わせて体を準備したり、ハンドルを握っていることもあり、まだしも身体的な疲労は少ないと思っているのだが、パッセンジャーたる紗織はどうしたって受け身になるため、基本的には紗織の体力に合わせた運行計画を心がけるようにしている。


 危なげなく箱根を越え、御殿場に向かって下り坂を降りて行く。

 これまでも秦野のあたりで富士山は見えていたが、御殿場に来て見える富士山は、それまで山中から見えたとしても一部分ということが多い反動と、実際に物理的に近づいていることから、随分と大きく見える。


 真一は山登りが好きという事もあるが、富士山を見ると多少テンションが高まるタイプの人間である。

 その高さ、大きさ、質量がそのまま存在感となって心に覆いかぶさってくるような、なんとも言えない感動がある。

 

 チラチラと山に目をやりながらの運転で、やはり多少ライン取りの滑らかさが損なわれたのだろう。

 車体の挙動が変わったようで、その刺激で紗織が目を覚ました。


「あれ、もう富士山こんなに近い」

「うん、今日は天気良いからよく見えてるね。まだ寝てなよ」

「ううん、もう大丈夫。真一さんが運転してるのに、横で寝てばっかりじゃ悪いし」

「そんなの気にしないのに」


 真一は大体の現在地と、次の休憩予定地を説明して紗織と行動予定を摺り合わせる。

 新東名を進み、清水PAで休憩をした後、いなさジャンクションから東名に戻り、豊川インターチェンジで高速を降りるプランとなった。

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