第3話 父親
「湯川佐一」は真一の実父の名前であるが、真一にはその名前の読み方すらも分からない。
「さいち」だろうか?「すけかず」なのか?
いずれにしても古めかしいというか、あまり見かけることのない名前であろう。
当時5歳だった真一に、実父に関する記憶はほとんどないと言って良いほど希薄で、母親からも僅かな挿話程度のことしか実父に関しては聞くことがなかったため、今こうして唐突にその名が記された文書を見るのは、現実感を伴わないというのが正直な気持ちだった。
「つまり…死んだってことか?」
「えっ⁉︎ なに、どうしたの?」
「ああ…!ごめん。あのー、本当の方の父親が、どうやら死んだみたいで…。 相続するなら税金払えっていう話だったわ」
驚く紗織に対してあらましを話すが、自分でもひどい説明だと真一は思う。
文書には、相続人が居ないので役所の方で調べて文書を送ったということや、相続放棄をする場合はどうするといった事が、お悔やみとともに書かれていた。
しかし真一には、肉親が死んだという悲しみが全く沸き起こることもなく、今この時点では正直に言って若干めんどくさいという気持ちすらあった。
それもそのはずで、物心ついて以降の真一の人生において、実父はほぼ関わりが無いと言って良く、結婚の際に戸籍の写しでその名前を見たきりの、言わば文字でしか存在しない架空の存在か、あるいは何処かに居る名も知らぬ他人も同然であった。
それでも無意識に、肉親の死という事実は真一の心に何らかの衝撃はもたらしたらしく、ショックと言うほどではないものの、さざなみは立ったような気がした。
そのせいか一瞬黙ってしまった真一だったが、すぐに気を取り直し、そこで同じように黙ってしまっている紗織に気付き、ふと目を向ける。
紗織は両眼に涙を浮かべて真一を見ていた。
「え?どうした? なんで泣いてる?」
「だって…!真一さんのお父さんじゃない!お父さんが死んじゃったなんて…!」
「いやいや、そうなんだけど…知らない人だし…」
「そうかも知れないけど…」
客観的に、自分の言っていることは随分と冷たいような気がして、また自分よりもショックを受けている紗織の様子に、真一は少なからず驚いてしまった。
「まあ…確かに普通はそうなんだろうなあ」
真一は、改めて自分の歪みを認識した思いだった。
昔から、何か他人とは意思疎通の上でずれているところがあるような気がして、友人もほとんど作る事がなかったのだが、今になって漸く、人格形成において実父の存在が影響しているのではないかと、半ば確信を持ってそう思ったのだった。
実際のところは、そもそも自分が他人とどう違っているのか、本当に歪んでいるのかも分かりはしないのだが、何となく答えを見つけたような気がしてしまい、実父という存在をかつてないほど強く意識したのであった。
ふと見ると、何やらいつもとは違う雰囲気を察したのか、ビリーが足元にきて真一と紗織を見上げている。
その姿には、猫と人という種の垣根を超えた、家族としての愛情のようなものを、真一は感じる。
――家族の愛情か…。
今までも思わないことはなかったが、普通の親が居て、普通の家庭に育っていたならば、自分はどういう人間になっていたのだろう?
もちろん、ここで言う「普通」なるものは、幻想に過ぎないのだと分かってもいる。
現実には、そんな「普通」の家庭においても様々な問題があり、どんな人間になるかという事は、家庭環境だけが左右しているわけではない。
それでも真一は、「普通」への憧憬を胸に抱かずには居られないのである。
真一は自分を見上げるビリーにゆっくりと手を伸ばして抱き上げ、今度はビリーもおとなしく腕の中に収まる。
そんな姿を見て、紗織も少し気持ちを落ち着かせたようだった。
「お父さんのことって、全然覚えてないの?」
「うーん、そうだなあ」
紗織に尋ねられて、真一は改めて考えてみる。
「顔は分からないし、何していた人かも知らないけど、まったく覚えてないということもないね。 いくつか覚えてるシーンはあるよ」
「そっか…」
紗織は気遣うように真一の腕に触れながら、真一が続きを話すのを待つ。
「…まあ、あんまり良い思い出は無いけどね」
真一はそんな断りを入れてから話し始める。
「やっぱり一番覚えているのは、『お父さんとお母さん、別々に住むことになった』って言われた時かな。別に悲しいことだとはその時は感じなかったんだけど、『泣いた方が良いのかな?』って思って泣いたりしたなあ」
「………」
最初からあまりと言えばあまりな話で、紗織は咄嗟に言葉を発することもできない。
「手を怪我して入院した時、夜付き添いで寝てくれたことはあったな」
「この親指の?包丁で切ったんだっけ…」
「そうそう、まな板を二枚におろそうとしたんだよな」
くっきりと白い、地図上の線路のような縫跡が残る左手の親指を紗織が撫でる。
「何でそんなことしたのか覚えてないけど、台所で右手に包丁持って、左手でまな板押さえて、横からぐーっと力入れて切ろうとして、弾みでバーンって思いっきり左手の親指に切り込んだんだよ」
「……」
真一は少し笑いながら話すが、再び声も出ない沙織。
壮絶なシーンを想像してしまう。
「でも血は全然出なかったよ。勢い付けて切ったから、血管が収縮したらしい。全身麻酔で12針だけどね」
「まだちっちゃい頃だし、大手術だよね…」
「うん、骨の途中で止まってて、切断しなくて本当によかった。 よくちゃんと動くようになったよ」
「まったくだよ…」
それは本当に良かったと、紗織は遠い過去の施術医に感謝しながら胸を撫で下ろす。
「それで一日か二日入院しててね。夜、大部屋のベッドで、父親が一緒に寝てくれてたのは覚えてるな」
「そっかぁ」
「でも良い思い出とは言えないんだよな」
「えっ?なんで?」
「かなり後になって母親に聞いたんだけど、この怪我でかかった費用の事で、だいぶ父親と揉めたって。 『なんでそんなもん、おれが払わないといけないんだ』って」
「……」
自分の子供が怪我をして、その治療費用負担のことで、両親が喧嘩するなんてことが本当にあるのかと、紗織には俄に信じることが出来ない。
それ以上に出てくる話の救いの無さに、幼い真一をどうにかして暖かい場所に連れて行けないものかと思ってしまう。
「離婚してから、父親の実家の方でしばらく暮らしていたんだけど、最後に母親が引き取りに来て、その時は『真一、また遊びに来いよ!』って言ってたな。 母親の事は唾吐きながら罵ってたけど…」
「……」
「しかし何も憶えてないと思ってたけど、案外いろいろ憶えているんだなあ」
子供にとって唯一無二と言って良い存在の父と母が、子供の目の前でお互いに争う姿というのほ、どう考えても子供に見せて良いものとは思えない。
紗織は幼い真一が可哀想で、どう言葉を出せば良いのか分からなかった。
――この人はこんな目にあって、非行に走るでもなく、自分みたいな面倒な女にも優しく出来るような人間に、どうやってなれたのだろう?
猫をあやすように抱いている真一、その腕の中で目を閉じて眠るようにしているビリーという情景は微笑ましいが、語られている思い出話は、とても幼い子供の身の上に起きた事であってはならないと思わざるを得ないものだった。
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