第2話 故郷
「そういえば休みどうする?」
食事を終え、コーヒーを飲みながら真一が訊ねる。
「休み?」
「うん。夏休み」
「そうだそうだ、そろそろ予定詰めないとね」
毎年の休暇は二人で予定を揃え、だいたい混雑を避けて秋口に旅行を楽しんでいたのだが、たまには世間並みに夏休みを取ってもよかろうと、先日から話していたのであった。
どうせなら夏に楽しめる場所を訪れたいと考え、もともと山や高原が好きだったのもあり、軽井沢や上高地などを検討したものの、人気観光地は早々に好みの宿は予約で埋まっており、いきなりプランの変更を迫られてしまったのだった。
「高原の避暑地がだめなら、海辺かなあ」
「夏の海辺の観光地は、我々のような人混み嫌いには厳しいですよ、紗織さん」
真一は夏の海のイメージを思い浮かべるだけで少し疲れながら、やや拒否感を示す。
確かに海辺の観光地などでは、宿泊施設が豊富なことから、プラン自体は問題なく出来るのだろうが、キャパが大きいということは、それだけ沢山の人が集まると言うことであり、なるべく人混みを避けたい身としては、なかなか厳しい条件となるのである。
「あ、それなら行きたいところあるかも」
「聞きましょう、紗織さん」
「真一さんの地元」
真一の地元は関西の太平洋側、和歌山県の白浜町というところだが、真一は結婚して以来どころか、これまで一度も紗織を連れて行ったことは無かった。
東京からのアクセスが良くないということもあるが、一番の理由は既に実家と呼べるものが存在しないということだ。
真一は幼い頃に両親が離婚し、いったんは父親の実家へ、その後しばらくして母親側に引き取られ、母親の再婚相手を父と呼んで育った。
その養父は破天荒という形容詞が控えめに思えるほどにめちゃくちゃな人間で、先日36歳になった真一がその人生を振り返っても類型を見出せないほどだ。
酒が何よりも好きで毎晩酔っていたのはもちろん、常識はずれの大きな地声で何でもかんでも思ったことを所構わず発言し、恥ずかしい思いをさせられる事は数限り無くあった。
さらには自ら営む建設会社の仕事には並々ならぬ熱を注ぎ込み、しかし周囲にもそれを強要し、幼い真一も将来働かせるからと、小学生の頃から休みになれば現場作業に駆り出され、子供らしい思い出などひとつも無い少年時代を、真一は過ごしたのだった。
不幸中の幸いにして養家は裕福であったものの、そんな事にメリットを感じられるような場面が無いくらいに振り回され続け、成長すると共にその養父のやりように耐えられない反感を持つようになった真一は、養父の経営する建設会社を継がない事を決め、大げんかの末に相続放棄を条件に大学の学費だけは出して貰う約束をして、卒業と共に家を去った。
養子縁組も解消し、名実ともに家を出た真一は、その後紗織と結婚するに至って紗織側の姓となり、ようやく自分という人間が完成したような気持ちがしたのだった。
一方の紗織の実家は岡山県北部の美作にあり、古くは南北朝時代、太平記にわずかながらも名を見るような武家の一族で、先祖はというと菅原道真だと言うから、最初はよくある僭称家系かと真一も疑ってしまったほどだ。
ところが血筋云々は本当で、男子の無かったところに婿で入ると決まった際には、紗織の父親に「ありがとう」と泣いて喜ばれてしまった。
そのような家系ながら、紗織本人は全くと言って良いほど家の来歴にも興味がなく、血筋を誇ったところも無いどころか、山の斜面に所狭しと並ぶ先祖の墓(一家として一基ではなく、一代ごとに墓がある)の管理が面倒だから、いっそのことブルドーザーでならして統合したら良いと発言して、彼女の父を激怒させるなど無頓着な様子であった。
そんな紗織は、幼い頃に見る機会の少なかった海、それも真一が地元を離れるまで親しんだ海を、これまで見る機会がなかったこと、それを見る機会がまさに今訪れようとしていることに気付き、その企画は紗織の中では決定事項となったのだった。
「ね、そうしようよ。私、行ってみたい!」
「うーん?まあ、紗織が行きたいって言うならいいけど、でも何も無いよ?」
「何も無いってことないでしょ。有名な観光地なんだし。ビーチとか、温泉とか、パンダとか?そう!パンダ!」
紗織はさほど真一の地元に関する知識を有していなかったが、それでも全国的に名の知れた白い砂浜や温泉、国内有数のパンダ繁殖例を持つサファリパークなど、旅行先としては充分な魅力があるだろうと、ますます乗り気になった。
「おー、パンダね。そういやまた生まれたって前にニュースで言ってたな。上野だと大騒ぎになるけど、白浜だといつも生まれてて普通なんだよね」
「あはは、なるほどね」
真一も、10年ほど帰っていない地元を旅行で訪れるのは、それほど悪く無いかなという気になってきたところで、ふとある事を思い出した。
「そうだ、地元といえば、何か地元の役所から郵便物が来てたんだった」
「郵便物?」
「うん。ええっと、税務課とかなんとか」
真一は沙織に答えながら、玄関のシューズボックス上に置いたままにしていた郵便物を手に取って戻り、リビングの灯りのもとで改めてその通知を見た。
田辺市役所というロゴが、薄茶色の窓開き封筒に緑色で印字されているが、よく考えてみれば真一が地元を離れるまで住んでいたのは隣の白浜町である。
確かに生まれ故郷ではあるが、何か通知を送ってくる主体としては違うのでは無いだろうか?
「うーん?」
真一はそれを見て、ますますよく分からなくなったが、開けてみればわかる事だと封を破り、中の書面を取り出した。
三つ折りにされた2枚の紙を広げ、まず目に入ってきたのは「納税義務の承継」という文字だった。
–––どういうことだ?俺が何を承継したって?
真一は少し混乱しながら、書面に目を通していく。
文書には固定資産、相続人といった単語がある。
–––養父が死んだ?だから何かの相続が発生している?いや、相続放棄したはすだ。俺があの人から何かを引き継ぐと言うことは無いはずだ。法定相続権の方が優先されるんだったか?でもそもそも法的に相続権も無いよな?
なかなか文面が頭にはいってこず、真一は混乱を深めていくが、「湯川佐一」という名前を見付けて、ようやく理解が進み出した。
それは真一の実父の名前であった。
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