昨日の地図で歩く場所

キタノタカヲ

第1話 封書

 その日、仕事から帰った真一が郵便受けの中で見つけたのは、久しく帰らない生まれ故郷の役所から届いた一通の封書だった。


「…税務課?なんだこれ」


 真一はその役所、それも税務課などという部署から郵便物が届くというシチュエーションを想像もしたことがなく、唐突に届いたこの封書にただ戸惑った。


 駅から10分歩いて、郵便物を確認するために立ち止まったせいで、ただでさえ7月の湿気と熱を帯びた夜の空気が、なおさら不快感を増して体に纏わりついてくる。


 その空気を振り払うように、他のチラシなどと一緒にまとめて取り出したその封書を眺めながら、真一は部屋のあるマンションの三階に向かって階段を登っていく。


 東京の都心から西側に電車で1時間程度の郊外、中央線と西武多摩湖線を乗り継いだ小平市にある自宅賃貸マンションは、2LDK駐車場込みで家賃15万円ほどと、真一のようなアラフォーの中間管理職家庭が住む物件として、決して悪いものではない。

 ただ三階建ての低層マンションのためエレベーターがないのだけが玉に瑕だ。

 しかし築浅で借上げ社宅として契約し、家賃の負担も半分程度のため、これ以上贅沢を言うつもりも無い。


「そういや昔、原付の税金払うの遅れた事あったな?何か終わってない手続きでもあったのかな…。いや、まさかね」


 そんな事を小声で呟きながらポケットから鍵を取り出し、真一は部屋のドアを開けて玄関に入った。


 封書の中身について、特段、思い当たるような重大な問題はないはずだし、今すぐにどうこうする必要があるようなものでもないだろうと真一は判断し、いったん封書のことは意識から放り出し、まずは帰宅という幸福感あふれるイベントを心ゆくまで味わうこととして、リビングへ入っていく。


「おかえりなさい」


 すぐに笑顔で真一を迎えてくれたのは、四歳年下の妻、紗織である。

 普段肩まで下ろしたままの髪を、頭の後ろで束ねているのは、夕飯の準備をしてくれていたからだろう。

 何か用事がない限り、一歩も家から出たくないという超インドア派のせいもあり、あまり陽に当たらないためか肌がずいぶん白い。

 そんな人間なので、人付き合いも広くはなく、友達と出掛けたりしなくて良いのかと真一が心配になるくらいだが、人と会うのが面倒と公言して憚らない。


 同じ会社に勤めていたそんな彼女が、真一にメールで連絡してきてくれたのは、彼女が転職のために会社を離れてからの事だった。


「アメリカの冷蔵庫にも、製氷皿はついてるんですか?」


 真一に届いたメールは、別の会社に転職した元同僚という関係から見ても何の脈絡もなく、正直に言って突拍子もない内容だった。

 しかし不思議に嫌な気分はせず、真一はアメリカに留学していた頃の経験から、素直に知っていることを書いて返信したのだった。


 だが驚いたことに、真一の返信に対して、その後ぱったりと彼女からの連絡は途絶えてしまった。

 つまり彼女は真一の返信内容に満足して、それっきり彼女の中でその話題は終わってしまったらしかった。


 確かに以前から彼女に関しては、メールに返信してこないという話を、真一も彼女の同期たちから聞いたことがあったのだが、噂どおりの変わり者っぷりに、ただただ面食らったのだった。


「ただいま」


 そんな他人とのコミュニケーションがお世辞にも上手と言えない彼女と、よくぞ結婚にたどり着くまで人間関係が構築できたものだと、他人事のような感想を持ちながら、真一は帰宅の挨拶をする。


「はぁ〜、通勤はたいへんだねえ」


 ようやく腰をソファに落ち着け、エアコンの快適な風を浴びながら、真一は今更ながらにサラリーマンの宿業を嘆く。


「おつかれさま。電車座れなかったの?」

「ぜんぜん無理。この時間帯は期待も出来ないね」

「そうかあ。乗り換えもあるし、しんどいねえ」


 実際のところ、真一は体力には自信があるほうで、割とどれだけ長い距離でも、歩くのがつらいということは無いのだが、通勤電車のしんどさというのは体力とは関係ないように思う。

 やはりそれは、肩や荷物がぶつからないようになど、他人との距離感を常に意識することからの気疲れが一番大きいだろう。

 もしかすると、そんな事は気にもならないという人の方が多いかも知れないが、要するに真一も紗織のことをとやかく言えない、人付き合いの下手な人間なのかも知れなかった。


「こればっかりは仕方ない。車があって猫もいると都心の物件は厳しいもん」


 そう言いながら、真一は足元に擦り寄ってきた茶色い塊を抱き上げた。

 まだ子どものいない真一たち夫婦の愛情を、その一身に浴びまくっている飼い猫のビリー。

 アビシニアンという種類の短毛種で、とても人懐っこい性格をしており、夫婦揃って文字通り猫可愛がりしている。


 しかしながら飼い主の愛は届かぬ事も多く、今も抱っこされるタイミングでは無いらしく、「放せ放せ」とでも言うように身をよじらせて真一の手から逃れようとする。

 真一は思ったよりも全力で拒否られた事に、ほんのり傷つきながらビリーを床に下ろした。


「ビリーは抱っこじゃなくて、オヤツだよねー」


 悲しみに暮れる真一を見て笑いながら、紗織が猫用のドライささみを取り出してビリーに近づく。


 この猫こんなに速く動けたか、と真一が思わずにいられないほど素早く、紗織の元へと駆け寄るビリー。

 真一とのスキンシップとドライささみとの優先順位争いは、完全に後者の勝利となったようだった。


「ほらほら、落ち込んでないで、ご飯たべようよ」

「…ひとの悲しみを喜びやがって」


 慰める言葉とは裏腹に楽しくてたまらない、と言う顔をしている紗織にジト目を向けつつ、真一はダイニングテーブルの席に着いたのだった。

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