第17話 其は楔

 美波が気づいたとき、彼女は真っ白な光の中に立っていた。

 どうしたんだっけ、とひどい頭痛の中で思考を巡らせる。

 茜と別れて教室に鞄を取りに戻って、そうしたら教室の扉と窓が全部閉まったんだった、と思い出す。窓の外に邪気が押し寄せてきて、怖くて部屋の真ん中に行ったら段々と意識が遠くなってきて……。

(そうだ。と思ったんだった)

 そしてこの状態だ。

「死後の世界……?」

 小さく呟いた言葉は遠くへ静かに響き渡った。まるで波紋のように拡散されていく自分の声に、少しだけ気味悪さを覚える。そしてこの場所がどこまでも広いのだと実感する。

 やはり、乗っ取られて死んでしまったのだろうか。

 不安に思っていると、

「いいえ。死後ではありません」

 どこからかそんな声がして美波はあたりを見回した。どこまでいっても白い世界に、しかし声の主の姿はない。

「ここは貴方の中です、南雲なぐも美波」

「私の中……? 貴方は誰? どうしてここにいるの?」

「私は『おに』です」

「おに……」

 美波はその言葉を反すうする。

 鬼のことかと思ったが、少し発音が違う気もする。昔話に出てくるようなそれとは別物なのかもしれない。

「貴方が乗っ取りの主ね。今すぐ私の身体を返して」

「そうであって、そうでありません」

「意味が分からないわ」

 美波は眉をひそめた。声はしばらく沈黙したあと、再び言葉を紡ぐ。

「今、貴方の身体を動かしているのは鬼」

「……?」

 この声の主はおにで、身体を動かしているのは鬼だという。どうにも同じもののように聞こえるが、どこか違う気もする。

 美波の疑問をよそに、声は言葉を続けた。

「清浄が近づきつつあります」

「結界のこと?」

「清浄。清らかな存在。……貴方の意識を少しだけ手伝いましょう」

「話がつながってなくて全然分からないんだけど。つまり私は意識を取り戻せるってこと?」

「ほんの少しだけ」

「あとは自力でなんとかしろってことね」

 美波は苦笑いをこぼしたが、自分の正確にはよっぽど合っていると思った。他力本願でお祈りして時を待つよりは、武器を手にして勝ち取りたい派だ。

「目を閉じて」

 美波は言われるままに目を閉じた。

 次の瞬間、どん、と重いものが身体全体にのしかかる。

「ちょっおもっ……苦し、……」

 薄く目を開けたときには、そこはもう白い世界ではなかった。

 教室の真ん中でどうやら身体が宙に浮いている。醜悪な叫び声が聞こえて、部屋から邪気たちが溢れ出ていく。

 そこからの記憶は途切れ途切れだ。おそらく自分の微かな意識と、乗っ取ったという鬼の意識が拮抗しているのだろう。

 気づいたときには扉から柊が飛び込んで来るのが見えて、次に気づいたときには柊が黒い爪を避けていた。また次に気づいたときには、美波がもらった護符を武器にして黒いもやを誘導していた。

(やっぱりアレ、武器がわりになるんじゃない)

 今朝、茜の背中の邪気を取りはらったのを思い出しながら、美波は微かに笑う。それから静かに目を閉じた。

月見里やまなし先生……お祓いだけじゃないんだ……。私も……なんとかしなきゃ)

 助けを待つだけのお姫様は性に合わない。そう思った美波は意識を集中させる。身動きは取れないけれど、せめて意識の主導権を奪い返すのだ。

 柊が外から助けてくれるというのなら、自分は内側から補助する。お荷物にはなりたくない。

(ああ、そっか……)

 美波は気づいてしまった。自分の中でほのかに生まれ始めている感情に。

子子ねね! 戻れ!」

 柊の声が聞こえる。ねねとはなんだろうか、なんだか足元も明るくなった気がする、といろいろ気にはなるものの意識を安定させるためにじっと堪えて目を閉じる。

 美波には見えていないが、彼女の足元には今や大きな五芒星が浮かび上がっていた。子子が柊から託された石を配置し、それが陣を形成したのだ。

 美波の頭の中に、唐突に柊の声がやけにはっきりと響いた。

「其はくさび、其は疆土きょうど、五芒を以てとばりとす!」

 暴れる黒いもやのせいで外野は騒がしいはずなのに、不思議と胸の中は凪いでいた。そこへ呪文のような言葉がすっと入ってくる。

 その途端、世界が急に明るくなったような気がした。

 先ほど不思議な声と会話をした空間に再び立っているような感覚に襲われる。誰もいない真っ白な空間、その足元へ水の波紋の広がりを逆再生したように何かが静かに集まってくる。天上からは黄金色にも似た光が柔らかに降り注ぎ、どこからともなく花の香りが漂う。

 ここが極楽浄土だよと説明されたら迷わず信じるだろう。

 そんな不思議な空間が唐突に広がって、美波は得も言われぬ安らぎを覚えた。

(やばい……召されそう)

 美波がそう思った瞬間だった。

 その不思議な空間がばちんと音を立てて途切れた。

 驚いて目を開けると、今まで宙に浮いていたはずが床の上に座り込んでいる。

 身動きがまったく取れなかったのが身体の自由も利くようになっていて、美波は思わず自分の両手をじっと見た。

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