第10話 開かない

 放課後。

 美波は約四十人分のノートを抱えて廊下を歩いていた。成績が悪くて罰ゲーム、というわけではない。単に日付と出席番号の下一桁が一致していたという、よくあるアレである。

「わけが分からないわ。ノート一冊が百三十グラムとして、四十人分で五千二百グラム、つまり約五キロよ五キロ。乙女に運ばせる荷物じゃないでしょ、ただの罰ゲームじゃない」

 心の中で言うはずの愚痴もついつい声に出てしまう。

 行き先は化学教員室、三階にある教室を出て渡り廊下を一本渡った先の棟で階段を一つ降りた二階にある。今はその渡り廊下を渡っているところだ。

「美波ちゃーん!」

 背後から声が聞こえて美波は振り返った。茜が駆け寄ってくるのが見える。

「ノート半分持つよ! んで、途中まで一緒に帰ろ」

「女神降臨だわ」

 呟く美波の傍らで、茜が積まれたノートから上半分を取りあげる。それから一緒に並んで歩き始めた。

 よいしょ、と抱え直しながら茜が口を開く。

「先生もひどいよねえ、女の子にこんな荷物運ばせるなんて。普通は男子を指名するところでしょー」

「さあねー。虫の居所でも悪かったのかもね」

「それでもさあ」

 化学の授業中、実は美波にはあるものが見えていた。

 今朝の茜と同様に、化学教師は背中に邪気を乗せて教室に入ってきたのだ。それだけではない、教員の周りにずっと黒いもやのようなものがまとわりついていた。

 その黒いモヤモヤが気になってずっと見ていたら、背中に乗った邪気と目が合った。それがニヤリとわらった次の瞬間、美波はノート回収係に指名されたのだ。

(偶然とは思えない……)

 美波は考え込む。

 邪気の表情と取り憑いている人間の感情はシンクロしているのだろうか。しかし今朝の茜にそんなところは見受けられなかった。ならば周りの黒いもやが関係しているのか。

(何かしらの段階があって、あのモヤモヤが出てきたら邪気とシンクロしてしまう……とか?)

 いずれにしても専門家ではないので分からない。

 それに、今のところ実害があったとしても雑用係に任命されるくらいだ。今後はあいつらと目を合わせないように注意すればいいだけだ。

「美波ちゃん? どうかしたの?」

 考え込んでいた美波に茜が話しかけてくる。

「あ、ごめんごめん。帰りに本屋に寄るかどうか悩んでて」

「そっか、美波ちゃんちに帰る電車って一時間に一本だっけ。これ運んでたら本屋に寄る時間なくなっちゃうよねえ」

「まー明日買えばいっかあ」

 そんな話でごまかしているうちに、目的の化学教員室に到着だ。

 扉をノックして声を掛ける。

「二年四組の南雲ですー。ノート持ってきましたー」

 しばらく待ったが返事がない。

 茜と一瞬顔を見合わせたが、持ってこいという指示だったのでガラガラと引き戸を開けた。

「失礼しまーす。先生、いませんかー?」

 教員室の中は誰もいない。部屋の奥には教員三人分の机。それと一番奥に、隣の化学資料室につながる扉がある。

 隣の部屋にいるのかと思って大きめの声で呼んだが返事はない。不在の場合は入口が施錠されているのだが、トイレにでも行っているのだろうか。先生三人で連れ立って?

「……ノート置いて帰ろっか」

 少し変な気もしたが、美波はそう言うと担当教員の机の上に抱えていたノートを置いた。その上に茜が残りの分を積みながら口を開く。

「先生が持ってこいって言ったんだから、ここ置いてたら分かるよね」

「念のためにメモ置いておこうか」

 美波はそう言うとノートの山から自分のノートを取り出して、最後のページから一枚破る。その辺に転がっているボールペンを拝借して『二年四組分』と大きく書くと、ノートの山の一番上にその紙を乗せた。

 そのとき、ふと視界の隅に黒いもやもやしたものが見えた。

(えっ?)

 資料室に繋がる扉の下から黒い靄がまるでドライアイスのように湧き出てきている。

(あれって、先生の周りにあったやつと同じ……?)

 しかし教室で見たときよりも色が濃くなっている。それに、授業中は周りにほんのり見える程度だった。こんなにもくもくと湧いたりしていない。

 ぞくり、と背中に悪寒が走る。

(ちょっと、やばくない?)

「茜……帰ろ! すぐ帰ろ!」

「え、ちょっと? 美波ちゃん?!」

 直感でここに長居してはいけないと思った。美波は茜の手を強引に引っ張ると急いで教員室を出る。

「美波ちゃん、どうしたの急に!」

「えーっと、本屋! やっぱり今日本屋に行こうと思って!」

「うん?」

「教室に鞄取りに行ってくるから、茜は門のところで待ってて!」

 美波は茜と別れると急いで教室に戻る。

 茜を先に行かせたのには理由がある。彼女は今朝も肩に邪気を乗せてきたことからも、きっと引き寄せやすい体質に違いない。だから校舎から早めに出すべきだと思ったのだ。

 それに自分には御守りがある。ある程度身は守れる。

 無人の教室に飛び込むと、窓際の自分の席に駆け寄って鞄に荷物を詰め込む。鞄のフラップを閉めるのもそこそこに抱え上げた。

 そのとき。

「え?!」

 目の前で不可解なことが起こった。

 教室の、扉や窓が音を立てて一斉に閉まった。

「どういうこと?!」

 美波は慌てて扉に駆け寄る。押しても引いても開かない。

「え、なんで?!」

 今度は窓の方に駆け寄るが、こちらも全く動かない。施錠されていないのに、だ。

(邪気の仕業……ってこと?)

 美波は青ざめた。

 陽は徐々に落ちてゆく。

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