百十三 転変
二日後、パジにイハヤが現れた。港の倉庫にいたオウリを有無を言わせずに連れ去り、まずはカナシャの家に行く。関係者にまとめて話を、だそうだ。どうやら忙しいらしい。
「とにかくカイナさんが無事なのはほっとしたよ。カナシャも気をつけておくれ」
これでテイネ一家の信頼はつないだ、というところか。それなりに苦労人な次期族長のことを、大変そうだなとオウリは他人事のように思った。
「気をつけるっていっても、わたしにはどうしようもないもの」
「そうだけどね」
危機感のない言い方にイハヤが苦笑いする。
「今回のことについては、カダルに正式に抗議する。これからひとまずエダまで行って――向こうの情勢次第だけどなるべく早めにね。内輪のことで迷惑かけるならこっちも考えるよ、て言っておかないと」
「ほう、強気じゃないですか」
「だってさあ、ここは諸々吹っ掛けるべきだよ」
隣同士仲良くやっていく気はある。だが言うべきところは言っておき、こちらに有利な条件を引き出さなければならなかった。
これを機としてマカトがシージャにまでなだれ込む可能性だって否定はできない。追い詰められたナルカがそうするかもしれない。そのためエダの町は戦支度を進めており、弓や矢などの武装を船で輸送している最中だそうだ。迷惑千万だ。その途中、イハヤだけこちらに立ち寄ったのである。
「クリョウはエダに入るんだよ」
「……弓の稽古、役に立ちましたね」
あまり嬉しくないことではある。戦になどならないにこしたことはないのだ。その情報にカナシャはうなずいた。
「それでもう行っちゃってるんだ。なんで一緒じゃないのかなって思ってた。あと……シラさんは? なんだかまた具合が悪そうな感じがするんですけど」
「シラと別行動だとどうしても気にされるんだね。というか、感じって。そりゃタオに残ってるんだけど、遠くを探るのやめなさいよ」
カナシャとオウリを、イハヤはちょいちょいと手招いた。二人の耳だけにこっそりささやく。
「やや子ができたみたいなんだ」
二人とも息を飲んだ。やや。赤子のことをそう優しく表現する言い方で、イハヤがどれだけこの報告を大事に思っているのかわかった。
「ほんとに?」
「おめでとうございます」
同時に叫んでしまった。カナシャとオウリはそれぞれ別に、この悩みについて聞かされたことがあるのだった。関係者にまとめて、とはこの事か。だがイハヤは控えめに笑った。
「まだどうなるかわからないから、他言は無用だよ。シラが、カナシャにありがとうと伝えてほしがっていてね」
「……ああ、そっか」
「おまえ、何かしたのか」
オウリに怪訝な顔をされて、カナシャは照れくさそうに笑った。
「ちょっとね」
「……まあ、よかったな」
ほんの少し、シラの身体の力を底上げし温める手伝いをしただけだ。そんなことを言ってもオウリにはわからないだろうから、言わない。女性の身体のことだし、これはカナシャとシラの秘密なのだった。
そんな風に考えられるようになっただけカナシャも女らしくなってきているといえよう。ただ、本人はそうとは気づいていなかった。
その少し前。ナルカは黙々と食事をとりながら、フーシの町を捨てられるかどうか検討中だった。
思い切ったものである。こんなことを口にしたら、この町に根づいて暮らしてきた配下の者がどう反応するかわからなかった。なのでまだ、一人の頭の中での仮定にすぎない。
だがどうしようもなさそうなのだ。兄マカトは着々と北進している。陣営は切り崩されていた。このままジリ貧となり死を待っても仕方ない。
運べるだけの財を持ち、船で動くのはどうだろう。カダル南部にもマカトに反感を抱く者はあるはずだ。北での動きを歯噛みして見ているかもしれないそれらと組み、南で挙兵すれば。
南に回るのなら、あるいはアニ族やカツァリ族との連携や共同作戦はできないか。まったく節操のない行動だとわかっているが、そんなもの、はなからどうでもよかった。
自分に大義などない。そうナルカにはわかっていた。これは、子どもが駄々をこねているようなものなのだ。
「兄さんは、いつも俺を庇う」
ふと呟く。
兄弟の内、大人になるまで育った男は二人だけだった。そんなものだ。子ども、特に男の子など少しの病や怪我などで死ぬのが普通。母が違うとはいえ大切な、情の湧く間柄だった。
――だからこそ、庇われるのが我慢ならない。
「何か、おっしゃいましたか」
「いや」
共に陰鬱に食事をしていたサミルが振り向いた。バイヤの商人で、邸も倉も略奪と焼き討ちにあっている。もう退路もなく、ナルカを担ぐしか術のない哀れな男だった。
「御クチサキを迎えに行った連中は成功しただろうかと思っただけだ」
「はあ、あの老女と孫娘という」
実のところ、カイナを手に入れたらそのままカナシャのことも拐いに行く手筈だった。実行役が一網打尽にされパジは平穏無事に済んでいたので、オウリ達はそのことに気づいていない。だが現地での成り行きをこの時ナルカの側もまだ知らなかった。
「御クチサキなど、本物でなくともよろしいのでは?」
サミルは小声で進言してみた。ナルカは面白そうに目だけで笑う。
「そうだな。それらしければ、よい」
「なのに何故わざわざ」
後がないこのサミルはもう、なりふり構わずにナルカのために働くしかなかった。ナルカにとって、ある意味一番信用できる人物かもしれない――その気安さで、ナルカは戯れ言を言ったのか。
「判じてほしいとは思わないか。おのれの人生を」
冗談とも本気ともつかない、そんなことを言われてもサミルは答えられなかった。
たわむれのように口を突いたその言葉。ナルカの本心はどこにあるのか、もうナルカ自身にもよくわからなかった。
――この翌日、マカトの圧迫をかわすために彼らはフーシの町を捨てた。その言い方ならまだ聞こえはいいが、実態としては完全なる敗亡の将だった。
しかし彼らが向かうのは南ではない。ある目的のため、ナルカは自ら動くことにした。
カナシャはそっと一人で裏庭に出た。昼下がりの、和らいだ冬の空気の中だった。
唇が震える。
鼓動が激しく高鳴る。
それを必死で抑えながら、カナシャは言葉にせず尋ねた。
――オウリが死ぬって、どういうこと?
いつもカナシャを包んできた優しいもの達が、惑うように揺れる。
嫌なモノが来る。近くまで来ている。彼らはそう教えてくれた。この先にあることを。
日暮れ頃、それはカナシャを奪おうとする。駆けつけたオウリはカナシャを守って闘うのだ。だが相手は一人ではない。不意を突かれたオウリが血を流し倒れる。
その様子がカナシャにはありありと見えた。今より先に起こることがこんな風に景色として迫ってくるだなんて初めてだと思う。カナシャとオウリに関することだからだろうか。だけど、どこまで信じてよいものか。
信じたくなどない。信じられなかった。オウリを失うなど、あってはならないから。
カナシャは拳を強く握り、胸に押しあてた。心臓が痛い。
わかっている。精霊の先読みが見せてくれたならば、これはあるべき姿――その、一つだ。このままにしておけば、オウリは死ぬのだろう。
そんなのは嫌だ。
死なせない。わたしが、この先の姿を変える。変えなくちゃ――私が。
カナシャは裏庭を見回した。よく洗濯物を取り込みながら、オウリと過ごした場所だった。
たとえここに戻ることができなくなったとしても、それでもオウリだけは守りたい。
カナシャはそう、決めた。
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