八十五 もう二人の候補者
食堂と宿の前の広場に出ると、子猿は身を乗り出して何かを訴えた。木陰を作っている木の方に行きたがるのは木登りして遊びたいのかもしれない。
そういうのが次第にわかるようになっている自分が怖い。
広場の木は高すぎて縄につないだままでは登らせられないので、建物の脇に回って下枝の低い若い木に腕を伸べた。
上の方に薄紅の木の実がかたまって残っているのはレンブだろうか。猿は腕を伝って枝に渡り、葉をかいくぐって遊び始めた。
こうしてじっくり見てやれば言葉を話せなくてもある程度の意思は伝わるのだ。これなら赤ん坊の面倒ぐらいみられるかもしれないとオウリは思った。
カナシャには無理だと言われたが、自分とカナシャの子なんて考えただけで無茶苦茶に愛おしいじゃないか。ずっと見ていられる自信がオウリにはある。
子猿を遊ばせながら待っていると、向こうにルギの姿が見えた。こちらに気がついてやってくる顔や肩に力が入っているのが見てとれる。何かあったらしい。
ルギに気づいた子猿がキキッと言ってオウリの肩に飛び下りてきた。その両手でレンブを一個抱えていて、オウリはハッと枝を見上げた。しまった、届く所にあったのか。
「待たせて悪かった」
言ったルギは、レンブを持って得意げな猿をなでた。
戦利品をほめられて、子猿は嬉々として果物をかじりだす。うっかり盗みを働かせたオウリが眺める前で、シャリシャリとうまそうだ。
「何かあったか」
気を取り直して尋ねると、ルギは黙ったまま猿の縄をオウリからほどき、自分に結び直した。
「……ジェグの件は終わった。感謝する」
「そうか」
オウリは言葉少なな鳥射ちの肩を叩いた。この苦々しい顔は、ルギにとって不本意な流れが来ているのかもしれない。
「トゥガとクタはどうした」
「トゥガはとっくに仲裁して戻っていた」
「ほう」
ケルタ氏とファナワ氏の境界にある道が地震で崩れたのだそうだ。
そこはサイカからこのボノへと続く主要な二本の道のうちの一つで、補修工事の負担について揉めていた。それをさっさと裁いて来たらしい。
「クタは、解決案は出したが手間取っている」
サマリ氏の中で大事な泉が枯れた。これも地震の影響らしい。
その辺りはめぼしい水源が他になく、水不足になっている。どうすればよいかという訴えに、クタは井戸を掘るよう言ったそうだ。
だが川の多いサマリには井戸掘り職人がおらず、クタの出身ソンガンにも豊かな川と水路があって井戸など必要ない。
職人のあてがなくボノに話が上がってきたので、今ルギがケルタの井戸掘りを手配して派遣することで話をまとめてきたという。ケルタは逆に川が少ない地域なのだ。
「それは……クタは脱落かな」
オウリが苦笑すると、ルギはギリッと歯ぎしりをした。
できれば年長のクタに押しつけて、この争いを終わらせたかったのだ。だが部族内の人材すら把握しきれていないとなるとそうもいかない。
「だがおかしくないか。トゥガの担当だけ楽すぎるようだが」
小声で言うと、ルギは鼻に皺を寄せてうなずいた。
クタもルギも、門外漢の水利工事や米取引などに関わったのだ。ルギに至っては他部族との交渉すら必要になる事柄である。おかげで半月近くもカツァリを空けることになったのだ。それに比べると明らかにおかしい。
「ティスタの爺どもだな」
ルギはくそ忌々しいといった顔で吐き捨てた。
「どういうことだよ」
さすがにオウリもカツァリの内部事情までは知らない。他部族の者が口を挟んでいいものかわからないが、愚痴があるなら聞くぞ、と言ってみた。
だがルギは唇を引き結んだまま子猿の食べ終わったレンブの芯を取り上げて茂みに投げ込み、盗みの証拠を隠滅した。
「いや、いいんだ。オウリ、飯は食ったか」
「……何も。こいつに散らかされそうで迷ってたんだ」
いろいろと我慢強く飲み込んでしまうルギに向かって子猿の背をトントンとすると、やんちゃな散らかし屋はピョンとルギの胸に飛び移った。
肩によじ登り、手で頭をぐしぐしとするのがまるで慰めているようで、オウリは笑った。
子猿で一瞬和んだルギだったが、その時遠くから呼ぶ声がした。
「おっ、ルギ! 見つけたぞ!」
大きく手を振ってこちらにやってくるのは若い男だ。引き締まった身体で律動的に歩く、闊達を体現したような人物だった。
ルギは面倒くさそうな顔をグッとこらえ、ささやいた。
「トゥガだ」
こちらからも大股で近づくのにオウリもついていく。トゥガは屈託ない笑顔でルギの肩を抱こうとして猿に気づき、大笑いした。
「可愛い相棒を連れてるな。猿にもモテるのか」
全体的に声も表情も大きい男だった。子猿はキイッと警戒してルギの背に回ってしまう。
「こいつは雄だ」
「なんと、母猿に見込まれて息子を託されてきたのか。よしよし、いい男に育てよ」
逃げた背中まで覗き込まれて、子猿はオウリに飛び移った。そのまま胸元に潜ろうとするのをオウリが片手でつまみ出しルギに返したものだから、キーッと悲しい声を上げる。オウリもかなり懐かれたようだった。
それを笑顔で見ていたトゥガと目が合い、オウリはこちらから挨拶した。
「商いをしているオウリと申します。この度はジェグとの取り引きで参りました」
「俺はティスタのトゥガ。ジェグの力になってくれてありがたい。ルギの友人だという商人だろう? 歳も近そうだし、くだけて話してくれよ」
オウリはこの空け広げな男との距離感を測りかねて曖昧に笑った。トゥガはオウリを上から下までざっと見て言う。
「サイカの人か。米なんてよく融通できたもんだなあ」
「オウリはサイカ族だが、今はシージャにいる」
ルギが口を添えるのにトゥガはほうほう、とうなずいた。
「なるほど、ルギは面白いつながりを持っているよな」
トゥガはちらりと周りを見て、彼なりに声量を落とした。
「だからそろそろ、ウチの爺さん達も納得してほしいんだよ。ルギが長になるのが一番丸く収まるのにさ」
ふうん、とオウリは思ったが、表情は動かさなかった。まだトゥガの真意はわからない。トゥガは明るい笑顔のまま、ルギに小声で申し入れた。
「人に聞かれない所で、少し話をさせてくれ。このままだとウチの誰かが、やらかすかもしれない」
「不穏だな」
ルギも顔色を変えずに言った。
「……じゃあ部外者の俺は席を外しておこう」
面倒事に巻き込まれそうで内心辟易したオウリが仕事用の微笑みで逃げようとすると、ルギがその腕を押さえた。
トゥガもバンバンとオウリの背を叩き楽しそうに笑うが、声は小さく抑えたままだった。
「いやあ、ルギが連れて来たってだけで、もう目をつけられてるからさ。身を守るためにも話を聞いておけよ」
「あのなあ……」
隔意を置くためにも丁重にしておこうと思っていたのだが、トゥガはそんなものは勝手に突破してくる奴だった。しかも状況がこの二人と一線を引くことを許さないらしい。
流されて諦めた様子のオウリを見て、ルギがすまん、と呟いた。
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