六十九 護身術
さらに二日ほど馬の扱いを習って、オウリはなんとか軽く駆けることができるようになった。カナシャは羨ましがったが背が足りなくては仕方ない。落馬したら無事では済まないのだ。しばらく見学していたものの飽きてからは中庭でシラに遊んでもらっていた。
遊ぶといっても、簡単な護身術を習っているのである。非力ながらも相手をいなし、逃げる隙をつくるのは大事なことだ。今後オウリと一緒にサイカにだって行きたいのだから、足手まといにならないように鍛えておきたい、とカナシャは思っていた。
「スサ」
通りかかったスサをシラが呼び止める。パジからの船で前方の見張りをしていたスサだが、本業は隠密の護衛だ。
カナシャの護身術の訓練だと言われたスサは表情を変えぬまま動き、あっという間にカナシャを後ろから羽交い締めにした。絞め落とすのも造作ないが、さすがに軽く動きを封じるだけで済ます。
「やっぱり手も足も出ないわね」
けしかけたシラが悲しそうにした。
「……小柄なのを生かせ」
スサは腕の中のカナシャの肩を押さえた。
腰を落として襲撃者の腕から抜け、間髪いれずに下から掌底で顎を突き上げる。相手が男なら股間に肘打ちでもいい。
そんなことを説明しながら、スサはゆっくりカナシャの身体をその通りに動かしてみせた。刃物があれば脚を潰す手もあるが、奪われて逆にやられる危険もあるので無理はしなくていい。
「あとはとにかく逃げるか隠れろ」
スサはそれだけ言うと一礼して去った。シラが困った顔で見送る。
「ぶっきらぼうなんだから」
だがカナシャはふおお、と目を輝かせて教わった動きを繰り返し練習した。
「……楽しいの?」
シラは少しオウリに申し訳なく思っていた。カナシャに武術を勧める気はなかったのだが、結果的にがっつり教えてしまっている。
ねだられたのだから仕方ないとはいえ、あまりじゃじゃ馬に育て上げてはいけないのではないだろうか。オウリにとってカナシャは可愛らしい女の子なのに。
「うん、新しいことを覚えるのって面白いんだもん」
だがカナシャは生き生きとしている。まあいいか、とシラは微笑んだ。
そこに牧からオウリ達が戻ってきた。オウリはエンラ、クリョウとすっかりくだけて話すようになっている。オウリが一番年少だったし、今は館の客人だが普段はただの商人なのだから分け隔てしないでほしいと頼んだのだ。馬を教えてもらう分際で丁重にされるのも落ち着かない。
「オウリ!」
カナシャは嬉しそうにオウリを迎えた。たたた、と駆け寄り抱きついてくる。人前では珍しい仕草に面食らって抱き止めようとしたが、オウリの腕を掻い潜ってカナシャは腰を落とした。シラがハッと息をのむ。
カナシャはいきなり下から殴りかかった。だが襲撃をヒョイとかわしたオウリはその腕をつかみ、足払いをかけてカナシャを倒すとみぞおちに拳を寸止めした。
「……なんのつもりだ?」
こんな児戯にやられることはないが、少々お仕置きが必要な気がする。オウリはカナシャの両頬をつまんで引っ張った。
「いででで、ごふぇんなはい」
謝ったカナシャをポテンと放り出す。カナシャは頬を押さえてうめいた。
「うう……師匠、オウリには通用しませんでした」
「師匠?」
「さっきスサに教えてもらったの」
身を縮めて平謝りするシラを見て合点がいった。体術を試したくなったのか。
「そりゃおまえにやられるわけないだろう。スサさんには勝てないけどな」
「お、わかるんだ」
ニヤニヤするクリョウにオウリは嫌な顔をした。
スサの体術は飛び抜けている。彼我の力量差がわからないようでは実戦で死にかねなかった。クリョウもエンラも、オウリの実力ぐらいは読みとれる男達なのだった。
パジの夜市でイハヤ達と食事した時にひっそり護衛していたのはこの二人だ。だが同時にスサも潜んでいたのだと聞かされて舌を巻いた。まったく気づかなかったので、スサには敵わないと思っている。
「オウリもいい線いってると思うが」
ついでに俺達も組み手するか、とエンラに誘われたが勘弁してもらった。乗馬では普段と違う筋肉を使うのかけっこう疲れるのだ。動物臭くなった身体を拭いて着替え、一休みさせてもらうことにした。
部屋で転がっていると戸が叩かれてカナシャが顔を出した。
「着替えた物、洗うよ」
まだ日が高いので、すぐ干せば今日中に乾く。カナシャも汗ばんだ服を着替え、腰巻姿に戻していた。
館に来てからはカナシャがオウリの服も洗濯してくれていて、ありがたいのだがなんだかこそばゆい気持ちになる。
ついでだし、と言うカナシャにとって洗濯は家でするものなので、館の洗濯係に預けるのも違和感があるのだった。
「ありがとな」
床に置きっぱなしの服を取りに立ち上がったオウリは、思い出してカナシャの両頬をむに、と撫でた。
「痛かったか」
「……痛かったです。すみませんでした」
カナシャは神妙な顔で謝罪した。オウリに一撃入れようなど、悔しいが十年経っても無理だと思う。
「俺も、すまん」
オウリは言って、カナシャの鼻の頭に口づけた。ひん、と固まるカナシャを放さずに、そのまま親指で唇をなぞる。
「こっちでもいいんだが」
カナシャはぎゅっと身を縮こまらせた。少し泣きそうな、切ない目になっているのを見てオウリは手を離す。
ふんわりと抱いて、ごめんな、とささやくと、カナシャは拗ねた顔で洗濯物を拾って出ていった。
ふうぅ~、と息を吐いてオウリは寝台に転がった。
ここに来た日にはこの寝台で二人で眠ったのだが、それ以来カナシャはほとんどオウリの部屋には立ち入らなくなった。今のように明確な用事がない限り顔も出さない。
人目のある所では普通に寄り添うくせに、二人きりになるのは避けられている気がする。
眠りこけたのがよほど恥ずかしかったのか、額に口づけしたのが嫌だったのか。
なんにしてもそろそろカナシャが足りなくなってきているオウリだった。完全に離れて仕事に出ているよりも、視界に入るのに触れられない方が堪えるのは不思議なものだ。
後で夜市に誘って、せめて手を握って歩こうと心に決めた。
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