四十八 初恋の散る時
さて。
ライリのいる家具工房はそう遠くない。それでも食事はお預け確定だ。
さっさと終わらせて仕事に戻らなければならないのだった。朝が早くて小腹が空いているのにどうしてくれる。
そんな恨みも込めて工房を訪ねたのだが、ライリを一目見て、オウリはブフッと吹き出して崩れ落ちそうになった。
「おまえ、その顔……」
恋敵に笑われてライリはものすごく傷ついただろう。でも薄い紫色に腫れた左頬を見て平静ではいられない。カナシャがどれだけ本気で張り飛ばしたかわかろうというものだ。
さっきカナシャは隠していたが、実はカナシャの手も赤くなって痛んでいた。
「ええと、カナシャちゃんの連れ合いの人ですね」
ライリの父親のワンガが口を挟んだ。
彼とオウリはちゃんと挨拶したことがない。ライリがオウリへの敵意を態度に出すので、寄りつかないようにしていたのだ。カナシャと歩いている途中で目礼するぐらいの面識しかなかった。
「商会で働いている、オウリと申します。今日はライリに話がありまして」
「こいつのこの顔は、誰と何があったんでしょう。口を割らんのです」
厳しい顔で訊かれた。
まあ父親に言いたくはないだろう。口説こうとした幼なじみにやられたというのは、かなり恥ずかしい。
ライリに目をやると、プイと顔をそらされた。
そうか。そっちがそんな態度なら情けは無用だな。
オウリはしれっとバラした。
「カナシャがやりました」
「カナシャちゃん……」
ワンガは瞠目した。
息子がよその娘に張り倒されて、その連れ合いの男が乗り込んでくる。まあ大まかな事情は察せられた。
「そんなわけで、
ワンガは目を閉じたままため息をついた。何も言えずに、どうぞどうぞと手振りをする。
オウリはまだこちらを見ないライリに向き直った。
「屋台のおばさんから、カナシャがライリをひっぱたいたと教えられてな。そろそろけっこうな噂になってるかもしれん」
静かに言うとライリはビクッとした。
町中でやらかしたのだから当たり前なのだが、工房に籠っている男二人、そういう発想はなかったらしい。
むしろ今頃はライリの母親の方が事実を把握している可能性が高いだろう。井戸端会議をなめてはいけない。
「カナシャからも話は聞いた。最近大人しくしているカナシャの評判をよくも落としたな、というのが一つ」
オウリは手指をほぐしてから拳を握ってみせた。
「とりあえず殴らせろ、というのが一つだ」
予想はしていただろうが、あまりにハッキリ言われてムカついたらしい。ライリはキッと向き直った。
「あんたがカナシャをほったらかすからだろ!」
「放ったらかしてはいないぞ。何も知らんで言うな」
「町にいないのは、ほったらかしって言わないのかよ! カナシャも仕方ないとか無理しやがって。らしくないんだよ!」
春から腹に溜め込んでいた鬱憤を叫んで、ライリは唇を震わせた。
ちくしょう。ちくしょう。こんな突然出てきた奴、なんだっていうんだよ。
オウリとしてもその気持ちを察してやれないことはない。だがカナシャに手を出されて黙っているわけにはいかないのだ。
きっちりと、わからせておかなくては。
オウリは表情を消してライリを見下ろした。
「俺が放ったらかしたなら、おまえは何をした? カナシャを怖がらせやがって」
「おれは、何もしてねえよ」
「男に詰め寄られただけで十分怖い。おまえの顔が腫れるほどひっぱたいたんだぞ? それだけおまえから逃げたかったってことだろうが」
ここまでやったと知っていればすぐにカナシャの手を調べたのに、とオウリは後悔していた。カナシャも怪我をしているのだろうに、内緒にされたことが腹立たしい。
「おまえの顔がそれで、カナシャの手は無事だと思うのか?」
ライリは言い返せずに押し黙った。冷たい顔でオウリはその襟を掴み、無理矢理立たせる。
左手の平手で、腫れていない方の頬を張った。
利き手ではないし、本気は出していない。オウリが本気で殴ったらまずいことになりそうなほど、ライリはまだ細身の少年にすぎなかった。
それでもカナシャのとは比べ物にならない重さの張り手で、ライリはよろけて尻もちをついた。
「カナシャ本人が強くやったようなので、こんなもんで勘弁しときます」
オウリはワンガに一礼すると、ライリを一顧だにせず出ていった。
仕事の前にもう一度、カナシャのところに戻って手を見てやらなくては。
「……なんだってあんな人に喧嘩売るんだ、この馬鹿息子が」
ライリはまだクラクラして立てずにいる。
どう見たって勝ち目はないだろうに、とワンガは苛々した。
小さい頃から楽しそうに取っ組み合っては仲直りしている姿をずっと見ていた。他の女の子達よりカナシャを気に入っていることが明からさまにわかるような不器用な息子だった。
ホダシが現れたと聞いて息子の初恋が終わったのを陰ながら悲しんでいたのだが、父親が思うより息子はしつこかったらしい。
「ホダシどうのじゃなく、男として完全に負けてんじゃねえか。根性叩き直せ」
普段ならここでゲンコツを喰らわせるところだが、今日はさすがにやめてやった。
男同士として、せめてもの慈悲だった。
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