第3話
初夏の香りが充ち、紫陽花の花びらもこぼれそうな梅雨の午後、佳苗は期末試験を終え、ブラウスにうっすら汗を滲ませながら、自転車で公民館へ向かっていた。
5時からサークルの活動が始まるのだが、腕時計を見ると、まだ3時を指したばかりだった。
いったん家に帰ろうかと考えたが、自転車に乗っていると快い風が髪をなびかせ、付近のジュース工場からは甘酸っぱい蜜柑の香りが幽かに鼻孔をくすぐって、非常に気分が弾んでいたので、そのままペダルを漕ぎ続けた。
公民館にはすぐ着いてしまった。
3時半にすらなっていない。
「やっぱり早すぎちゃった」と、ひとりごちて、佳苗は鍵がかかっているはずのドアをガチャガチャいじくりまわした。
ドアが開いた。
意表をつかれ、彼女は息を呑んだ。
(こんなに早く、いったい誰なのかしら)と、佳苗は好奇心にかられてそっと中をのぞいてみた。
達彦だった。
椅子にすわってぼんやり煙草をふかしている。
「やあ、キミか。早いね、学校はもう終わったの?」
達彦は佳苗の気配を感じとって、ちらっと振り向いた。
細面の顔に銀縁の眼鏡をかけ、鼻筋から口もとにかけては冷厳さが漂っている。
二つの眼球が、咬みつきそうに生き生きしていた。
肩から胸にかけての筋肉がよく鍛え上げられていて、波立つような発達をみせている。
佳苗は奇妙に心の芯から燃え出しそうな気がして、頬を赤らめて突っ立っていた。
「なんだなんだ、黙ってるなんてキミらしくないぞ。学校で何かあったの?」
達彦は薄く笑って、彼女をまっすぐ見た。
「急にお腹が痛くなっちゃった」と、我ながら驚くような嘘がとびだしたけれど、別段悪い気はしなかった。
「そう。確かにすこし顔が赤いね。俺はたまたま取材が早くすんだんで先に来ていただけだから、今日はもう帰ったほうがいいよ。大丈夫か?」
「うん。じゃあ、帰らせてもらうね」
いいながら、今度は佳苗が彼をじっと見つめ返した。
その瞳に、何か訴えかけるような切なさと甘えがあった。
「キミはなぜ、そんな大きな目で俺を見つめるの?」
達彦のすっきりした口もとが、急にだらしなくなった。
いまだかつて見せたことのないその狼狽した表情から、彼女にはすべてが見えた。
もはや、ためらう理由は何もない。
佳苗は激しく高鳴る鼓動に失神してしまいそうだったが、
「だってわたし、達彦さんのこと好きになっちゃったの」
意表をつく告白ではなかった。
むしろ暗黙の了解のように、互いの感情が熱くなるのを理性でなだめつつ、静かにこの時が訪れるのを待っていたのだ。
「そうか。俺なんか好きになってもしょうがないのにな」
返事が些か否定的な響きを含んでいるように思えたので、佳苗は慌ててつけ加えた。
「どうしてそんなことをいうの?わたし、初めて達彦さんに会った時感じたわ。あなたの鋭い目が、剃刀みたいにわたしの心を引き裂くのを。そして、達彦さんのことを理解してあげられるのはわたしだけって思ったの」
彼女は汗をかきかき、懸命にいった。
「本当に、キミはいい娘だ」
達彦はしみじみいって煙草をふかし、佳苗の髪にそっと触れた。
蝉の声が幽かに二人の耳を騒がせていた。
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