第一柱:弁財天様

1

 あの日は何の変哲もない、もうすぐ春休みが終わろうとしていた、そんなささやかな日だった。

 その日のわたしは新学期の準備をするため、千早ちはやちゃんとあずさちゃんと一緒に近所のファンシーショップに行った。新しいノートや消しゴム、三人でおそろいのシャーペンを買って。その後、駄菓子屋さんに寄って、近くの公園で買ったばかりのお菓子を食べながらおしゃべりをして過ごした、帰り道のことだ。

「春休みも、もうすぐ終わりだねえ」

と千早ちゃんがポニーテールの髪をゆらゆら揺らしながら言った。すると梓ちゃんが、

「春休みは夏休みと違って短いもんね」

と、ふわふわした調子で同意する。

 そう、千早ちゃんの言う通り、春休みはもうすぐ終わっちゃう。だけど……。

「春休みの宿題、算数のドリルがまだ残ってるんだ。終わらなかったら、どうしよう……」

 算数は、とっても苦手! 私は計算するのが遅いから時間がかかっちゃうの。だから他の宿題は終わったんだけど、算数のドリルだけは、まだ残っているんだ。 

 今日も帰ったら続きをするつもりだけど、春休み中にちゃんと終わるかな。

 不安でいっぱいになっていると、

「あと三日あるんだから、きっと終わるよ。心結ゆいちゃんは心配性だね」

と梓ちゃんが言ってくれる。

「そう、そう、梓の言う通り、心結は気にし過ぎなんだよ。大丈夫だって。それに終わりそうになかったら、すぐアタシに言いな。手伝ってあげるから!」

 千早ちゃんは、どんっ! と一つ胸を強く叩いた。千早ちゃんは、姉御肌って言うのかな。とっても頼りになるの。梓ちゃんも優しくて、二人とは小さい頃からずっと一緒の、大好きな友達だ。

 単純かもしれないけど、二人のおかげで重たかった心が軽くなった。もう少し自分でがんばってみよう。

 なんて気合を入れ直したところだけど、わたしは一人足を止めた。

「わたし、神社に寄ってから帰るね」

 そう告げると梓ちゃんは、「あっ」と声を上げて、

「そっか。お参りしないとだもんね」

と言った。

「今日で七日目だっけ? やったじゃん、よくがんばったね。でも気を付けて帰るんだよ」

 千早ちゃんも私に劣らず、なかなか心配性だと思う。あと数日で五年生になるんだもん。一人でだって帰れるよ。

 大丈夫だよ、と返して二人に手を振ると、わたしは一人、すめらぎ神社の階段を駆け上がる。

 数十段とある階段を登り切り、乱れた息をそのままに拝殿の前までまっすぐ行く。お財布から取り出した五円玉をお賽銭としてお供えしたら、ぎゅっと強く目をつむる。

 神様、神様。どうか、どうか、お願いします。春日かすがくんと同じクラスにしてください——……!!

 わたしは、何度も何度も繰り返す。お願いします、神様……! と。

 うん、これだけお願いすれば——、千早ちゃんから聞いた通り、七日間連続でお参りしたんだもん。きっと神様も願いを叶えてくれるよね……?

 わたしは一息吐くと、ドキドキと高鳴ってしまっていた胸をなで下ろす。あとは春休み明けのクラス発表を待つだけだ。

 腕時計を見ると、あっ。いけない、もうこんな時間だ。時計の針は、午後五時二十分を指していた。早く家に帰らないと、お母さんに怒られちゃう。

 わたしは最後の、だめ押しって言うのかな。神様にもう一度お願いしてから急いで拝殿を後にする。

 だけど参道を小走りで進んでいたら、急に横道から人影が現れた。その影に盛大にぶつかってしまい——、

「きゃっ!?」

 体が大きく弾け飛んだ。

 いたた……。わたしは、おしりを手でこする。だけど、わたしと同じように地面に転がっている同じ歳くらいの、袴を着た男の子の姿が目に入ると、あわててその子のそばに駆け寄った。

「あ、あの、ごめんなさい。わたし、急いでて、それで……」

 男の子は上半身を起こし上げながら、

「いっつう……」

と、にぶい声をもらす。

 もう一度謝ろうとしたけど、その前に、

「あーっ!??」

と男の子の口から大きな悲鳴が飛び出した。そのせいでわたしの頭はキーンとなる。

 男の子は地面に向けていた顔をわたしへと向け、

「どーしてくれんだよ! お前のせいで御朱印帳がぬれちゃったじゃないかっ!!」

「ごしゅいんちょう……?」

 男の子は鬼みたいにつり上がった目をした顔を、ぐいと近付けてくる。

 とってもこわい……! だけど、『ごしゅいんちょう』って、なんだろう?

 男の子がわたしの顔に突き付けている、ノートみたいなものがそうなのかな。『ちょう』って、学習帳とか自由帳とかの帳と一緒みたい。

 その御朱印帳とやらは水たまりに落っこちちゃったみたいで、びしょびしょにぬれて水がしたたっていた。

 あらら……。こんなにぬれちゃったら、もうどうすることもできないよね。

 どうしよう……!

 悩んでいると突然、男の子の持っていたノートが強い光りを放ち出した。あまりのまぶしさに思わず手の甲で目を覆い隠す。

 だけど薄らと開かせた瞳の隙間から見えたのは、え……、なあに、今の……。ノートの中から七つの人影が、すうっ……と出てきて、天に向かっていく途中、空にとけるようにして消えてしまった。

 なんだったんだろう、今の。幻覚かな。

 つい、ぼーっとしちゃうけど、また、

「あーっ!!?」

と、さっきよりも大きな叫び声がわたしを現実へと引き戻した。

「かみ、さまが……。神様が消えちゃった……」

「えっ。神様?」

 消えたって、もしかして、さっき御朱印帳から出てきた人影みたいなものが神様だったのかな。

 男の子は、びしょびしょの御朱印帳を開いて見せて、

「この御朱印帳には、神様の名が記されていたんだ!」

と言って開いたページを指差した。そこには、なにか書いてあったのかな? わたしの瞳には真っ白な景色ばかりが映り込む。

 それをじっと見ている私に男の子は、

「どうしてくれるんだよっ!!」

と、また怒鳴った。

「お前のせいだぞ!」

「わたしのせいって……」

 確かにあわてていて、ちゃんと前を見て歩いていなかったけど。でも、わたし一人だけが悪いのかな。

 けれど男の子は、わたしの言い分を聞いてくれる耳は持っていない。「お前のせいだ」を繰り返す。

「いいか、この御朱印帳には、ウチの神社でまつっている七柱の神様の名が記されていたんだ」

「七柱の神様?」

「ああ。恵比寿天、毘沙門天、大黒天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋樽の七柱だ。七福神とも呼ばれている神様たちだ」

 へえ、そうだったんだ。この神社でまつっている神様のことなんて全然知らなかった。千早ちゃんから、ここの神社には縁結びの神様がいるから、お祈りすれば春日くんと同じクラスになれるかもしれないよって、それしか教えてもらってなかったもんね。

 わたしが一人納得していると男の子は、

「なのに、お前のせいで全員逃げちゃったじゃないか!」

と、やっぱり声を荒げて言う。

 どうしよう、こわい。できることなら今すぐにでもこの場から逃げ出したいよ。

 だけど男の子はわたしのこと、絶対に逃がさないとばかりな目で、じっと見つめて……、いや、にらみつけてくる。

 本当にどうしよう!? 腰が抜けちゃって立つこともできないよ。

 誰か助けてーっ!!

 心の中で叫ぶと、

「まあ、まあ。お待ちなさいな」

と落ち着いた声が聞こえてきた。

 声のした方を振り向くと、真っ白な毛に鼻がつんととがっている生き物が、わたしたちのことを見つめていた。

 これって、キツネ……? だけどこのキツネ、確かに見た目はキツネなんだけど……、うん、見間違いじゃないみたい。尻尾が九本もあって花びらみたいに広がっている。

 赤い前掛けを付けたそのキツネは、

「争っていても仕方ないでしょう」

 諭すように、そう言った。キツネになだめられるなんて、なんだか不思議な気分……って、あれ……。

「き、キツネがしゃべってる……!?」

「ふふっ。アタシの名前は、マサキ。この神社にまつられている神様の使いよ。いつもは、ほら、あそこにいるの」

 マサキと名乗った目がツンとつり上がり気味なキツネが、ついと長い鼻で示した方を向くと、あれ……。拝殿前の両脇に二体一対の形で設置されていたキツネの石像は見当たらず、台座だけになっていた。

 もしかして、あの石像のキツネが、このマサキなの? って、ちょっと待って。だったらキツネはもう一匹いたはずだ。

 そのキツネは、どこに行ったんだろう。首を左右に振っていると、マサキの後ろからもう一匹、ヨボヨボとした目の、眠たそうな顔をしたキツネが現れた。

「ふわあ……。マサキったら、どーしたのー?」

「もう、ダイゼンったら。ほら、いつまで寝ぼけてるの?」

 マサキは鼻先を使って、ぼーっとしているキツネをわたしの前に出すと、

「この子はダイゼン。アタシの弟よ」

とダイゼンのことを紹介してくれる。

 わたしがすっかりマサキたちと話し込んでいると男の子が、

「おい!」

と横から割り込んできて、

「キツネ相手に、なにしゃべってんだよ」

と、わたしのこと、おかしな子と言いたげな目で見ていた。

 どうやら男の子には、マサキたちの言葉は分からないみたい。おまけに、

「キツネがいるなんて。さすがド田舎だな」

と口先をとがらせて言った。

 確かにわたしの住んでるこの町——、坂田さかた市は田舎町だ。海沿いにある小さな町で、市内に大きなデパートが一つあるくらいの、とても静かな所。

 そんな田舎町だけど、野生のキツネなんて、わたしだって生まれて初めて見たよ。

 まあ、キツネといっても、マサキたちは普通のキツネではないみたいだけど……。

 マサキは、じっと男の子のことを見つめて、

「葵……」

と小さく呟いた。

「あおい?」

 ついマサキにつられて繰り返すと、男の子はつり上がっている目を見開かせて、

「なんでオレの名前、知ってんだよ!?」

と驚いた声で訊いてきた。

「えっ? だってマサキが、『葵』って呼んだから……」

 そう言うと男の子——、葵くんは、じとりとマサキに焦点を合わせた。

「ねえ、本当に聞こえないの?」

「聞こえないって、なにがだよ?」

「だからマサキたちの声……」

 葵くんから返事がされる前に、

「仕方ないわよ」

 マサキが首を小さく横に振った。

「葵にアタシたちの声は聞こえないわ。それより逃げてしまった神様を集め直さないと」

「神様を集める?」

「ええ。神様たちを御朱印帳をぬらして逃してしまったでしょう? 早く集め直さないと、この神社は……」

 すっ……と、うつむくマサキ。

「どうなっちゃうの?」

と続きを促すと、マサキは悲しそうな顔をして、

「つぶれてしまうかもしれないわね……」

「つぶれちゃう!? そんなっ……!」

 思わず大きな声が出ちゃった。その声に葵くんもびっくりしたみたい。目を丸くして、「なんだよ、急に大声なんか出して!?」

と言った。

「だって神様のいない神社に……、ご利益のない神社に誰が来るの?」

 そうだ、マサキの言う通りだ。神社なんだもん。みんな、神様にお願いしたいことがあって参拝に来るはずだ。なのに願いが叶わなかったら、もう参拝しようなんて思わないよね。

 もしこのまま皇神社に神様が戻らなかったら……。マサキの言う通り、人が参拝しに来ない神社なんてつぶれちゃうだろう。

 そうならないよう、神様を呼び戻さないといけないことは分かった。

 だけど。

「でも、どうやって?」

「また御朱印帳を集めるのよ。ちょっとそれを貸して」

 わたしは葵くんにマサキの言葉を通訳して、御朱印帳をマサキに渡すよう伝える。葵くんは疑り深い目でわたしとマサキを交互に見たけど、神様を集め直すためだと言うと、渋々といった調子で御朱印帳をマサキの前に置いた。

 マサキとダイゼンは御朱印帳の前に進み出ると二人でそれを囲み、そして。

「コーンッ……!」

 大きな声で一声鳴いた。すると御朱印帳が光り出して——……。

 その光が収まると、びしょびしょにぬれていた御朱印帳は、なぜかすっかり乾いていた。

 葵くんは目を見開いたまま、あわてた手付きで御朱印帳を手に取った。

 でも中を開くと、

「神様の名前がない……」

 沈んだ声で、そう言った。

「残念だけど、アタシたちにできるのはそれくらいよ。御朱印帳の状態は元に戻せても、神様との絆までは戻せないわ。ここから先は、あなたたちの仕事よ。がんばって神様との絆を取り戻してね」

「神様との絆?」

「ええ。御朱印帳は、人と神様とが結ばれた証——。だけど、それを汚してしまったから、神様が怒って絆が切れてしまったのね。それで御朱印帳から神様の名が消えてしまった……」

 マサキは神様との絆を取り戻して、御朱印帳に再び神様の名前を記し直してもらう必要があると教えてくれる。

 そのことを葵くんに伝えると、葵くんは、

「お前、名前は?」

「名前? わたしは心結。水引心結だけど……」

 葵くんは、むすっとした顔のまま、じっとわたしを見つめて、

「今日はもう遅いから、明日、またここに来い」

 ぶっきら棒な声で、そう言った。

「明日? どうして?」

「どうしてって、探すからに決まってるだろ」

「探すって、なにを?」

「お前、バカか? 神様をだよ!」

「え……。えーっ!? もしかして、わたしもーっ!!?」

 また大きな声が出ちゃう。だけど葵くんは、当たり前だろ、と淡々と続ける。

「お前のせいで神様が逃げたんだ。それにお前、見えるんだろ?」

「見えるって、なにが?」

「だから神様だよ!」

 見えたんだろ、と葵くんは繰り返す。思わず大きくうなずくと、葵くんは、

「とにかく、お前にも協力してもらうからな」

 こわい顔をさせて、

「絶対に来いよ」

と付け加える。

 そっ……、そんなーっ!??

 夕焼け色の空を背景に、わたしは心の中で思い切り叫んだ。

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