一人目…(十一)【祈追の午前四時】
――淀んだものを流し、
『……すてないで――』
身勝手に自分の外領に流し捨てたもの。
それが
……捨てられ、祈りと繋がったから。
じきに
悲しくて、哀しくて、せめて嘆いた。
私は勝手な都合で、心の安寧の為に切り捨てられ流されたから。ある意味で生贄のようなもの。嘆きが重なり因縁と繋がってしまったんだろう。水底で
忌まわしい
すべてを教えられ、蒼糸で繋げられた。
ずっと観ていたんだって。ずっと。
その前も。その前も。その前からもずっと
ずっと見ていたんだって。
そのように負わされ、そのように繋げられ、そのように織られたから。だから、ずっとずっと視ていくだけの存在。これからもそれは続けるようだ。
皆が皆『もう誰も、祈りを負わないで』そう願っていた。とっくに感情も無いのに。
でも溶ける。融ける。解ける。本望らしい。
それが解放だ。忌まわしい役責からの解放。いずれ結ばれていた身がほどける。ほつれる。結べず結ばず形を崩す。それでいい。それがいいって。
繋がった私も一緒に。
『……もう、すてないでね――』
やめたほうがいいと無言の注意。
いつか
私は私でなくなる。さようなら。
私は
……だけどその時、
定めだったのかもしれない。偶然といえばそれだけの必然ともいえる不幸。あるいは
気付けない。
『危ない』と。
ドスンッ、
空中へと放られた
水面に落ちて、水飛沫を上げた
口から大粒の気泡を立ちのぼらせ、苦しみから逃れるために必死にもがき、手を伸ばす
間も無く、
――不意に水底へ身を捧げた
それで彼女も
それでおしまい。めでたし、めでたしぃ?
そんなわけがない。
定められた手順を踏まずに私と
だから私を最後の結び目とし、
どうか、
――なのに、
違う。違う。違うのに。生死の狭間で、中途半端に引き裂けて、遠く離れて行ってしまった……。
亀裂と欠如、広がる溝。残された時間。
早くしないと。
空っぽの頭で覚えていられたこと。ただ一つのそれは『このままではいけない』こと。なのに身体が動かない。抑え縛られ、自由を奪われていて。
みしみし、ばきばき。
ずるずる、ばたばた。
ぼきぼき、ぱたぱた。
なんとかして逃れようと暴れる。
どんなになっても、取り戻すために。
取り戻して、自分達の祈望を紡ぐために。
「――落ち着いて」
……ふと、誰かが
黒い折り鶴が、水面の先を飛んでいて――。
折り鶴は羽休めをするよう女性の肩に止まり、見知らぬ女性は頭蓋を撫でたまま語り出す。
「――キミが、いや……違うな。
キミも、本当のキミだったんだね……?
盗み見は謝るよ。でも緊急事態ということで」
「僕の懸念、違和感、疑問点……。
「……聞いて。端的にまとめるから。
キミは現代に忌譚を再現してしまったんだ。その血筋で水底に身を捧げ、物語と同じ流れを汲み、
「前提として。忌譚の再現なら、
「わかったよ。キミが崩れないよう、ヌイナはキミを縛り上げている。また悪い影響が広がらないようにキミの溢す呪詛の受け皿にもなっている。猶予とはキミとヌイナの限界だったんだ。そんな状態で動けなくなったヌイナは、その後を僕に委ねたという経緯なんだろうね。……さて」
「これは、すごく荒療治かもしれない……。
心から酷なことだと思う。けどそれでも送るよ、僕の役目だから。ここまで導く。それがキミの助けになると信じて。分かたれた忌譚を使い、辿っているキミの半身と今の部分を繋げておくから」
「……うん。ははっ……はぁ、疲れたな。
僕が直接できることは、ここまでだろう――」
◆◆◆
――
理解を拒むしかない。頭が割れそうに痛い。
身体が激しく震える。なんだこの画面って。
「…………」
画面、そうか『画面』なんだと認識すると、それは古いブラウン管のテレビの画面だった。
それは
テレビの画面以外は暗闇の空間。ぼやけた頭でフラつくと、蛍光灯の点く音がして周囲が薄暗めに照らされる。
「……お母さん」
部屋の様子が、画面と共に
「……約束した……のに」
意識せず口から溢れる、弱々しい言葉。
布団が畳まれた中央のベッドに腰掛けて吐息。
「――あぅ!」
バキッと音がして、正面のテレビに亀裂。
驚いて身を
沈黙しどれだけ待っても何も起きやしない。
「なん、でぇ……?」
たとえば、画面から長髪の
「…………ぅ」
指で画面の亀裂をなぞると、胸が痛む。
亀裂の鋭利な部分で指を切ってしまったが、自分を傷付けることには慣れていた。渦巻く感情がどうしようもならなくなった時は、胸の痛みを和らげる為、渦巻いて淀んだ自分を切り捨てる為に、自分自身の
ふとした拍子にでも悲しくなる。わぁんと泣き出したくなる。自分の弱さは、母親と約束した頃から何も進歩してはいないと思い知る。それどころか日々後退し続けていて。毎日の帰り道、人通りが少ない古民家の並ぶ道で、下を流れる用水路に映る何人の自分に別れを告げたかも覚えていない。
「ぅ……ぅっ、ぐすっ」
白状する。
見捨てたい。逃げ出したい。強くなんてない。泣き出したい。苦しい。寂しい。世界のどこからも居なくなってしまいたい。もうとっくに自分を見失っている。ここはどこなの? 自分は誰なの?
「あ……あぁぅ、嫌ぁ、嫌だァ!」
感情が抑えられない。人のことを嘲るように砂嵐とノイズを放つ画面を壊してしまえば、そこに反射して映る
「ぅあ……。ああ……ッ、嫌だ。溢姫は!
溢姫はァ! 大ッ嫌いです。自分なんてェ!!」
髪をぐしゃぐしゃにして、大声で叫ぶ。
泣き喚いてテレビの乗っている台を叩く。
「――うわァァんッ!! アアアッ゛!!」
置いてあった枯花の瓶を投げつける。
台から音を立て、テレビが転がり落ちた。
「あアアアッ……ああ……ああぅっ」
やってしまったと後悔し、顔を覆う。
膝を折って、愚かな自分を拒絶する。
「ぁ…………」
すべてを悲観しかけたが、
『落ち着いて深呼吸をしてね……。
心を強く持って、逃げずに自覚して欲しい』
「ひっぐ。ぐっぅ、ヌゅイナ……さん?」
ノイズの中でも安心する優しく柔らかな声。
テレビは転がり落ち、画面が下に隠れても、なおも壊れずにスピーカーから音声を響かせた。ただし強い衝撃でチャンネルでも切り替わったのか、それまでとは違うものが出力された様子であり。声は
涙を拭いて、テレビに這って近付く。スピーカーに耳を当て、すがるみたいに音声を聴く。
『うん。強いんだねキミは』
「ちぃ、違うんです……嘘ついてました」
覚えの有る音声に対して、正直に応える。
『御客様』になれば『助けて』くれると、送ってくれると約束してくれた
彼女本人とは別れたはずで、助けなんてない。
でも偽物でもいいから。ただ意味の無い、記憶の中の再生でも構わないからと。すがりつく。
『そうかな――?』
「それが、嘘だと……溢姫も忘れてました。
あの時の私は、都合の悪いこと。嫌なことを全部捨てちゃってて、忘れちゃってたから……」
自分の弱さを、失くしていた。
それを知って、自分への激しい落胆と失望。
全力で勇気を出した行動と言葉は嘘であって。
『――それは違うよ』
「違いません。嘘なんですよぉ……」
言い切る。嘘でないはずがないんだと。
沈黙、沈黙……。でも沈黙は破られた。
『なら、
「……えっ?!」
意表を突かれて、身体が跳ねる。
嘘でなくて、それも本当。どちらも本物。
わけがわからない。わかりたくない。
『だってそうだろう。考えてみて。
弱さを無くしてたから言えた言葉なら、弱さに押し込めた奥に、普段からちゃんと芯に強さを持ってるってことさ。違わないよね?』
「違わなくなくないですよぉ!
なくなく……あれぇ? どっち?」
『どっちもだよ。人間なんてそんなもの。
二律背反、矛盾なんて当たり前。そしてどちらに偏らないよう。自分が苦しくないよう。社会でうまくやれるよう。各々一人一人が自分の答えを、折り合いを探して生きて行く。それが人さ』
「私は――」
『心配してたけど、キミは強いんだよ。
ちゃんと逃げずに“向き合える”素晴らしい子だ』
「私は――いえ。それも私、なの?」
向き合える、強い子。それも自分?
ヌイナの台詞が、記憶とは異なってくる。
単なる記憶の音声じゃないということ。
『そうだ肯定する。この“自問自答”じたいが、その証拠となり得る。そもそも、キミの内で僕の声が響いている意味。何者にも冒すことのできない世界でキミを肯定している意味。つまるところ僕は、必要だから生み出された幻聴に過ぎない』
「おかすことのできない世界の……幻聴」
記憶の再生ではないが、ヌイナの声はあくまでも自分が生み出した産物。だとすると、偽物である事はかわりがない。けど嘘でもない。意味の無いものではない。「幻聴でも……幻聴だからこそ」自分を肯定してくれる、自分を愛したい、励ましたい、心の奥の本心だと知れたから。
「溢姫は、溢姫を大事にして良いの?
こんな約束も守れない弱い私のことを……」
『僕が答えるまでもないよ?』
「…………」
『キミが自分自身をどうしたいかだ』
「……そう、ですね。そうなりたいです。
大事にしたいから、しなきゃいけないです。
誰かに諭されるまでもない、当たり前なのに」
こうこうせーにもなって幼稚だった。
手首の包帯に視線を落として、顔を歪める。
指の傷口を含めて、遅れて来た痛みが走る。
『さて、もうキミは理解しているね。
忌縁。忌み嫌って捨ててしまった弱い自分。彼女との縁を辿って“ここ”まで来たんだから』
「辿って……? 自分の縁を辿って?
あれれぇ!? そう、そうでしたよ!!」
何故わからなくなっていたのだろう。
バイクに乗せてもらって、進んでて。
自分の変貌の理由を辿っていたのに。
そうだ。水面を眺め、辿って近付いた。
手を伸ばして、縁の下に落ち込んだ。
辿ったからこそ、閉じ込められた。
「ここは」
現在地の正体。今なら自覚できる。
『でも、ただ頼るだけにはしませんよ!
もちろん私も解決の努力をします。だから勝手ですが約束して欲しいです。ヌイナさんは私の為に、苦しくなるほど気負いしないで下さいっ!』
自分の弱さを忘れて感情のままに発した、過去の自分自身の言葉。辛そうな
『――私が私でなくなるのは“これは自分じゃない”って自分から逃げた時なんです! だったら、それはしません。
何時間前かの自分の言葉が想起させる。
それはもっと過去の記憶。大切な大切なもの。
水に沈ませて流した、母親との約束の在り処。
「そうだ……大切なのに。約束を。
約束した時のことを。私は、ずうっと思い出さないようにしてました。辛くて泣きたくなるから」
けどこんな機会は二度とない。
向き合える強い子なら、今が向き合う時だ。
「でも約束を、もう一度……」
自分が望めば、見られるはずだから。
見られれば、何か変われる気がするから。
「……もう一度だけ、見せて下さい!
確かめたいんですよぉ、約束の意味を!」
テレビを再度転がし、正面に直す。
端を発してだろうか、
想像した通りに、画面が切り替わって、
『私は泣きません……もう泣きませんから。
自分の弱さでは泣きません。そう決めました。だって
病室での最期のやり取り。
『溢姫? 泣いたって良いのよ?
笑顔でいて欲しいって言ったけど。泣いちゃダメってことじゃないの。あのね、泣かない人なんていないのよ。泣けない人はいるけどね。泣けない人は悲しい人なの。涙の後に笑えない人。自分の弱さや辛さを押し込めちゃう何よりも悲しい人。そうはならないように泣きたい時はいっぱい泣いて、最後は元気に笑える子でいて。お願いね』
『わかりました!』
『溢姫。元気に幸せにね。……お母さんが天国でも心配する必要ないくらいに。たくさんの満ち溢れる幸せを繋げられる、みんなの姫様になってね』
『わかりました……もう泣きませんっ!』
自分の誤った決意に対して、心配そうに、困ったように見詰める母親の顔が印象的で。なのに『なら大丈夫だね。強い子だもん』あえて正さずに、母親は顔を綻ばせて抱き締めてくれていた。
見たかった過去。過去の自分は、
「――えぇ? えぇぇ……いやいや」
自分ながら、なんてポンコツだ……。
「…………うぅ゛」
勘違いしていた。言葉の意味を汲み取らず。母親を心配させまいと逆の意味で解釈して。
『冒頭で犠牲になって発見される女学生』は、犠牲になるために生まれたんじゃない。なかった。こんな当たり前の事だったのに気付かないなんて。嫌なことだらけのこんな世界でも、精一杯に意味をもって生きなきゃならなかった。過去形でなくて現在進行形でだ。何故なら、母親を心配させない幸福な未来に、自分を繋げる為に生きてゆくから。
そう祈望されていたというのに。自分も本心ではそう望んでいたというのに――。
「うぅ、ぁうアア! うわーん、ゥァアッ!
ごめんなさいぃ! ごめんなさァい゛!!」
泣いた。今までの分も溢れんばかりに泣く。
母親への、自分への謝罪。涙が止まらない。
安易に逃げて、安寧を得ようとした。
嫌なことから逃げて、辛いことから目を閉じて、水底に身を投じるような日々。逃げるのは悪くないけど、自分自身からも逃げてしまい、自己の欠片を淀んだものとして捨てていた。恥じないといけないんだろう。反省して踏み出さないといけない。また間違わないように。これからずっと。その感情を抱いて、時には泣いても生きて行くんだ。ずっとずっと。これから生きて行く限り、ずっと――。
――病室の隅に掛けられていた千羽鶴。
紛れていた忌譚の
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