一人目……(十)【沈相の午前三時】
「――
身一つで死んだように眠る、
別れたばかりの御客様。あの少女の姿――。
ヌイナは目を丸くして、腰まで流れる漆の絹髪を
そうして勢いのまま、
スカートの中で尻尾をユラユラ揺らし、少しでも情報を得ようと、顎に指を当てて目を細める。
「ナズナ……気付いているかい?」
「ん。ここだけ、少しはマシ?」
「そうだね」
ナズナの言葉を肯定するヌイナ。
「水気こそあれ、社の近くは嫌な臭いが薄い。
幾分か呼吸をするのも楽で、身体も軽いね。
久しく放置されていてもまだ清められてる。
神域として機能してるってこと、か……」
その内に居る彼女の姿。その意味は……?
「……これ見よがしに寝かされている。
キミは本人の姿をしてるけど、なんなんだ?
僕達を招いているのか? 拒否してるのか?
仮にそれらだとしたら何様が……何故だい?」
そう尋ねるも、何様よりの返事は無く。
ヌイナはナズナと顔を見合せて、試しにと。
ロングコートのポケットから一枚の硬貨を取り出し、組子の隙間から「お
――硬貨は触れはしなかった。木床で横たわり眠る彼女に干渉せず、すり抜けて行ったようにしか見えなかった。いいや実際そうなのだろう。言わば彼女は只の虚像、影や霞みのごときもの。“本物”の肉体を持った彼女はそこには居ないということ。
「ふぅん。やっぱり、実体は無いのか……。
水気を纏った幻なのかな。僕達に姿を見せ、彼女の形を取っている。その意図はあるのか?」
「母様。これは罠?」
ナズナが小首を傾げる。
「罠か、どうだろうか。否定はできない。けど僕としては罠ではないと思うよ。例えばそうだな、僕達への警告、
傾げられた心配そうな顔に、ヌイナは微笑み、
「――案外、僕達が近付いたから。偶然それが呼び水になって彼女は姿をみせたのかも」と。
「母様。それは縁?」
「そうだね。あるいは僕が、僕達の店が、彼女と縁を繋いでいるから。彼女と共に忌縁を辿っているからこそ見えてしまってるだけかも知れない。いいかい。
「母様。言ってることがたまによく意味不明。
かんけつめいりょうに言葉にして……?」
「ははは……難しい言い回しして、ごめんね。
要するに、僕にはよくわからない。でもどんな形であれ関連性があるだろうから、近付いて触れてみないと先には進めないな。そうまとめるよ」
「母様。『よくわからない』の……」
ナズナはジトっとした目を向ける。
「難しい事言って、なんやかんやで『あんずるよりうむがやすし精神』な行動派の母様である」
「うん。まるで否定できないな……。行動派と言われると
「……?」
「どれだけの困難があっても、解放する。
禊を済ませて、物語を物語として終わらせる」
「…………?」
眼鏡を直して苦笑いを浮かべるヌイナ。
「おっと、時間が限られているんだった!」
「母様。天然物? まいぺーす?」
「さて神社の神様、失礼をば。あまり褒められたモノでない僕がこれから社の中に踏み込む行為、どうかご容赦賜りますようお願い申し上げます」
ヌイナは社に向かって深々と礼をして。
横倒しになって割れた賽銭箱と、脇に落ちている汚れた鈴紐を後目に、特に施錠もされていない組子障子を無遠慮に開け放つ。そうすると、
「ん。消えた」
直後――ぶわりと空中の水気が強まり、社の建物全体が今にも倒壊しそうに酷く軋む。それと同じくしてイツキの姿は雲散霧消に失せてしまった。
加えて、これまた妙な臭気が社の奥部より運ばれて来るものだ。それは外に漂っている淀んだ生臭さや腐臭に近いが、少々毛色が異なるもの。血の臭いにも感じてしまう錆びた鉄の臭い。
「暗い。懐中電灯を構えておく」
「ありがとう、ナズナ」
照らされた拝殿の中は何も置かれていない。
有るのは天井から下げられた
そんな幕を目に入れた瞬間に、
「……ぐ……う゛ッ」
ヌイナは頭を押さえて
呼吸を整え沈黙し、苦い顔で牙を鳴らす。
「母様っ! 母様っ!?」
「ハァ……大丈夫。心配しないで平気だよ。
目に入れたら、少し刺激が強かっただけさ。
色々と見えたし、聞こえた。惨いものが沢山」
ヌイナは若干視点を反らして幕に近寄る。
その
「『一人を繋げたら、次もその祈りを追う。
前の者の祈りを追って身を
その言葉の含意は、直ぐに明かされるだろう。
本来は聞こえざる声を受け、代言したもの故に。
「『繋がらないということにも意味がある』か。
僕の感じていた『懸念』は、なるほど。ここまで繋げてしまった罪を、未来に残さない為のもの。しかしそれ故に、現在の彼女に降りかかった負債」
幕は黄ばんだ布本来の背景色を除けば、蒼色と墨色の世界。人々は墨色の糸、蛇だか竜は蒼色の糸で縫われていて。説明を付け加えると『人々』の身は『蛇だか竜』の末端から伸びた蒼糸の美しい曲線に繋がれている。それだけ。文字などは無く。
「――聞こえたよ、しっかり」
ヌイナにとっては捨て置けない物品であり、
「――記すからね、ちゃんと」
事情を察することができる物品だった。
ヌイナは懐から無地の古和紙を取り出し、幕に腕を伸ばすと、紙と布を触れ合わせる――。
「だから、さ。もう
後の事は僕達が
――すなわち、ヌイナは呟く。幕に刻まれ染み付いた深い深い念は、文字として後世に残されなかった忌譚の後半、片割れとして記すべきもの。この土地に
幕に触れた古和紙にドス黒い文字が滲む。
『蛟は清水に溶けて還った。けれど蛟が居なくなった清水は淀み、土地に次々と凶事がもたらされるようになった。蛟は必要であった。凶事の因は、土地の不浄を流して浄める河川が穢れた故だ。つまり蛟が居なくなったが故。蛟が居なくてはいけない。ならば、どうすれば蛟が戻るのか?』と。成立した忌譚を意訳すれば、
『欠如した蛟は荒ぶり、人を食らい、欠けた部分を補って元に戻ろうとした。だが童女を食らおうとして我に返り、おぞましい存在に成り果ててしまった己の身体に食らいつき自裁。血肉は溶けて骨は沈んだのだと伝わる。ならばと困った人々は考えた。蛟を取り戻すには、蛟が途中で止めてしまった事をやってやれば良いのではないか?』と――。
さっと目を通して、ヌイナは険しい顔。
「……なるほど……ね。残せないだろう。
これは遺せないな。忘却されるわけだ。だからこその
「怖い顔してる。母様」
「……ナズナ。さっき言った『
「…………ん」
悲痛な表情に、ナズナはそっと控える。
「母様。進むの?」
「うん。呼ばれてるみたいだからね。
どうやら、こちらの道でも辿れるらしい」
それよりは無言となり。忌譚を握り締め、幕を開いて社の幣殿へ、更に奥の本殿へと踏み込んで行くヌイナ。ヌイナの瞳には、件の忌譚を得て強まった縁により奥に続く
本殿は幣殿から階段で五段ほど降りた、十畳ほどの土壁石畳な空間。異様な空間。その様相は、壁の四方を囲って錆びた鉄杭で張られた注連縄と紙垂。血に似た赤錆び色の水が足首までの高さを満たしており、御神体を納めているであろう中央の御宮から『ぽたぽた』と錆び水が地面へと滴っている。
ひっそりと静まりかえった空間にはまるで深い水中に居るような冷たさと不気味さ。その感情を塗り替えてしまう、張り積めた感覚。血色を滴らせる御宮へのある種の畏怖や畏敬の念。
「血……みたいだ。いや、血か――」
「なに、ここ……」
「
「……ダメ。ここ、ムリ」
ナズナは身体を縮めこませている。
「この神社は蛟の供養じゃなくて、封じ込める意味合いで後から高名な水の神様を祀ったと。それで律儀に
「母様。ナズナ……これ以上は、行けない。
行けないの。ごめん……なさい……っ!」
「うん。なら構わないよ、そこまでで。
僕だってヌイナに導かれてなければ、足がすくんで進めないところだった。思うに、人ならざる存在の僕達とは相性が悪い。拒まれてる。これより先は本当の神域、常を逸した領域なんだろうね」
「母様。気を、つけて……」
ナズナを残し「行ってくるね」と。ブーツとソックスを脱いで、長いスカートを濡らさないよう片腕と尻尾で持ち上げての、覚悟。表情を固め赤水へ素足を差し込むヌイナ。ぬめりを含む粘性の生暖かな赤水に「良い気分じゃないな」と声を滲ませる。
尖ったものを踏まぬよう気を配り、赤い水面に波を立てて御宮の有る中央へと進んでゆく。慎重に一足、また一足と進んで、数歩。御宮に手が届くかどうかの位置まで行き、足に何やら当たった感触がして。
「この下だな……。どこかに、手頃なものは」
「あ。母様、ばーるのようなもの!」
「ははは……驚いた。バールまで持ってるの?
これは背中に乗せた時に、妙に重い筈だね」
ナズナから投げ渡してもらった金属棒を、ヌイナは感触のする地面へと突き刺す。女人の華奢な体躯では些か苦労してしまうが、水圧に負けじと腰を入れ力任せに押し上げてみれば、それで禁を解くことが叶った……。言葉のまま『栓の解放』だ。赤水底に沈められた板状の鉄扉が開き、できた穴に向かい赤水が渦巻き、あたかも排水溝に吸い込まれるように流れて行くでないか。
水が抜けて、人一人が辛うじて降りて行ける岩肌が露出した空間。下り
「嫌な臭い、瘴気、呪詛が上がってくる。
降りた先では、さて鬼が出るか蛇が出るか――」
◆◆◆
――黒帯に縛られた、大蛇の
頭蓋から繋がる骨骼。骨骼に歪に詰められた蒼白いツギハギの奇塊。骨骼に無秩序不揃いに埋め込まれた、まだ幼いものだったのだろう各部、生物の神経系のように全体を
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