一人目……(一)【祈り追い溢る姫】


 ――夕暮れ、黄昏れ、逢魔刻おうまがとき

 先程まで紅色に染まった陽光が、退廃的に寂れたビル群の合間から周囲を照らしていた。

 少女は夕焼けを背に。制服のキルトスカートがまくれてしまうのも、少しばかり子供っぽいと自覚はあるお気に入りなデザインの下着が見えてしまうのさえ気にはせず、何かから逃れようとずっと呼吸も忘れるくらい無我夢中で走っていた。


 いつまで走っていればいいの? と――。

 渇いた喉から僅かに絞り出した、誰にも届く事の無い問いかけは酷く残酷で虚しくあり。

 実際に彼女の前途がそうであるよう、光の届かない暗闇へと誘われて。振り返っても、その頃にはとっくに天の陽は落ちきっており。もう光の中には戻れやしない。もう帰れはしない。けだしくも帰り道さえ失い、先の見えない宵闇で疲れ果て、終いに捕まって喰われてしまう、と……。


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 どうしようもない焦燥に駆られ思考を止めた。

その後は、本当に無我夢中。ただただ走った。


 すると唐突なゴールを迎える。

 背負っていたカバンの紐が、崩れた壁より飛び出たパイプに引っ掛かり。勢いを殺せずに埃っぽい地面へと身体を投げ出してしまったのだ――。


「……――っ!!」


 下手な受け身をして腹部を打ち、ぐっと呻く。


 もうダメだ、ごめんなさい。内心そう呟き。


 目をぎゅっと瞑る。身体を強張らせる。


 これまでか、と覚悟した。


 んでも、何も来ない。


「……あれ……?」


 伏せたままで息を静める。沈黙、沈黙。

遮蔽しゃへいになりそうな物品の影に這って身を潜める。

 数秒、数十秒、息の詰まる時が経ち。数分も経ったかという辺りで、自分が通過した狭い路地の分岐点に向けて、手頃に落ちていた空き缶を放つ。

 空き缶は壁で当たって跳ねて、ビルの隙間で分岐した向こうの通路でカランッカランと音を鳴らす。視線は向けずに身体を小さくし、再度の沈黙、沈黙。静寂、静寂。けど待てども足音や這うような音がしない、自分に近付く気配も無かった。


 んはぁ良かったと胸を撫で下ろす。

 明確な目的地などは無かったが、しいて言うなら探していた『安全な場所』に来れたのだろうかと。そう内心で安堵してしまう彼女……。


 パイプを杖に立って、きょろきょろ見回す。

たどり着いたそこは暗い暗い廃墟街。本当に全てが廃墟というわけではないが、ひどさびれた町の一画いっかく。その路地裏迷路の何処かであった。

 我ながらよくもまぁこんな所まで走ってきたものだと少女は洩らしてしまう。人気ひとのけは一切無く、人間の文明が少し前にある日突然に終わってしまったかのような退廃的な荒廃具合をした背景、淀んだ空気の暗がりの中だ。


 もう十年以上も前に廃番になった古いジュースの瓶が転がっている。ひしゃげたフレームだけの自転車が複雑に組み合い形を成す案山子さん。舗装された地面のせいで土に還ることのできない小動物の骨骸。意味もなく立ち続けている、もう三角ではない三角コーン。飛びすぎて行方不明になったんだろう野球ボール。黄ばんだ虚ろな表情のマネキン。茶色い塊のオブジェと化した古いエンジンの一部、そういった物品達が寂しそうに出迎えてくれた。


 ゆっくりと背後に振り返る少女。


「――はぁ、はぁ、もう本当に、居ない……?」


 彼女にとって追手オバケけたのならそれで良い。


 途中から頭の中を空っぽにして。なるべく狭い道、複雑な道を選んでどんどん進んできたのがこうそうしたのか。後ろにはもう、這ってくるような嫌な気配は居なくなっていた。


「……はぁ、安心させて、はいどどーん!

と登場するパターンは嫌ですからね……はぁ」


 少女は呼吸を整えようと立ち尽くしのまま。

 心付こころづき、空をあおいでみる。コンクリートの建物と建物の隙間、塗装のせた錆びまみれのダクトや非常階段を越えた先に見えた空は曇天。嫌な天気だ。


「本当に意味がわからない、です……」


 少女は涙目で身体を震わし、そっとうつむくと。

 頬端に水滴が落ちてきて、頬辺を伝って地面に落ちた。それは瞳より落ちた涙ではない。雨粒だ。


 彼女は、ぐっと堪える表情をした。


「泣いて、ませんよ。泣きません。溢姫イツキはもう心配させちゃう弱い娘は卒業するって、お母さんと約束してますから。お婆ちゃんもいるし、もう大丈夫だよって。最期さいごに約束しましたから……!」


 彼女、名を【溢姫イツキ】と申すらしい。


 イツキは息を深く吸い込むと、


「むぅ! なんなんです! 誰なんです!

私に用があるなら。正体とかを正面から、ばばーんと見せてくださいよ! 無駄に私を怖がらせるように、ずぅーとずーと付いて来るとか、変態ですか? お化けだろうが何だろうが、お巡りさん呼びますよっ! 国家権力はつよつよですよ!」


 もう気配も居ないので、大丈夫だろうと。

弱った精神を昂らせるために大声で叫んだ。


「ふふん。……溢姫の気概に負けて、今日は諦めたようですね。絶対にもう来ないで下さい。今度来たらもう私、泣きま……せんけど! 許しませんから。来なくても許しません。具体的には神社とかでお祓い受けてきますから! 明日にも!」


 地団駄を踏み、足元のグレーチングを鳴らし。

感情のメーターが振り切れた際に彼女が豹変する通称『つよつよMODE!!』に変心。年齢詐称をよく疑われる愛らしい顔を膨らませ。手をブンブン降って恐怖心を吹き飛ばすイツキ。


「そもそも、私はお化けが見えるとか。そんな特殊能力も妄想癖ももってませんよ! なんで突然こんな目にあってるんですか! すぴゅりゅちゃる? 信じてませんでしたが。この世界、お化けとか実際に存在する世界観だったんですかコノヤロー!」


 コノヤロー! がおー! うおー!

ここぞとばかりに、天に向かって吠えた。


 そんな彼女の手のひらに、再び一滴、雨粒がポツリと落ちてきた。じきにまとめて降ってくるか。

 やや季節外れの夕立だろう。積乱雲が陽のとばりとなってしまい、日の入りを待たず闇が広がる。

 可能な限り、帰道は急いだ方が良い。


 ぱっぱと衣服の乱れを直し。進もうとして、


「あれぇ……?」


 手のひらに落ちた雨粒は、消えていた。

その代わりに、蒼く透き通ったコンタクトレンズのようなものがイツキの手のひらに乗っていた。


 不思議に思い、指で摘まむと。

それは簡単に取れて。指の間をすり抜けるよう落下すると足元のグレーチング網に入って行った。

 あ「なんだゴミか」と、特に気にも留めない。


 端を発したかのよう空気が重くなる。

周囲に水の気が満ちて、靄も立ち込める。


 イツキの感情も曇る。恐怖や不安の再登場。

彼女の『つよつよMODE!!』はあまりたもたない。


「不気味な霧まで出てきましたよぉ……。

ホラー映画なら、私は物語の導入で犠牲になっちゃう頭のユルい女学生じゃないですかぁ。この世界が物語だとしたら、作者さん許すまじぃ……」


 彼女がどんどん大きく膨らむ恐怖心に負けて。

感情は白旗パタパタ。怯えた声で呟き、


 ――突然、激しく雨が降り出した。


「って。ふわぁ! 雨降ってきちゃいました!」


 イツキはハッとし。鞄の中にあると思った折り畳み式の傘を探すが、残念ながら見当たらない。

 雨宿り……は、ちょっと。また悠長にしてると変なモノが追って来そうで。そう思うとあまりしたくない気分。だったら、ずぶ濡れで帰るしか選択肢は無いのかぁワイシャツスケスケ女子高生は嫌だなぁ、と彼女は肩を竦めるしかない。


「かくなる上は、ダッシュです!

力こそパワー! スピードこそ速さ!

ワイシャツスケスケする前に、ごーほーむ!」


 いんや。もう濡れるのなんか構うかぁ!

そうやって走り出して、すぐに立ち止まる。


 ――何故? 何処か?


「――なん、ですか? こ、これ……は?」


 不思議なことに。降り出した雨がイツキを濡らしてしまう事はなかった。それだけで度を越した『怪奇現象』なのだけれど、もっと。もっと重大な怪奇現象が発生している。雨粒が当たった所の彼女の皮膚にコンタクトレンズが生えて……? きていた。


「――嫌ぁ! 嫌だ! なに、これッ?!

嫌ッ、これ取れない。取れないようッ!」


 イツキは制服の袖から出ていて、コンタクトレンズ……いや鱗だらけに成って行く自分の元柔肌を強く搔き毟る。強く爪で引っ掻く。でも痛みを感じて血は出ても、ぴったり重なり合った無数の爬虫類に似た鱗は外れてはくれないのだ。


「――お母さん! お婆ちゃん!

嫌だァ助けてェお願い、溢姫を助けてよォ!」


 怖い。怖い。怖い、怖い怖い。

彼女の感情は暴風域と言い表しても過言ではなく。彼女の存在に罅が入って行く。これでは、まるで自分が人間では無い、何か別の存在に成ってしまおうとしているようで……。

 現に、鱗は範囲を広げている。もう雨が当たったかなんて関係なく、鱗の侵食は進んでいる。


「嫌あァァァア゛――ッ!!」


 半狂乱になり、滅茶苦茶に走り出す。

とても冷静でなんていられない。助けを求めて路地裏の奥に奥にと、深く深く走って行くのだ。


 深霧と淀んだ水の気に、世の常が歪む。

 現実と幻想。常世とこよ隠世かくりよきざはし曖昧あいまいとなる。


  一瞬だけ、刹那の間。うつつじょうからもつれ。

彼女の視界が黒く塗り潰され、繋がった。


 ――血のように赤くドス黒い鳥居を抜ける。

 鳥居は境界。非現実へのほころび。深淵の覗き穴。くして幸か不幸か。普通の日常を送っていた普通の女子高生【祈追キツイ 溢姫イツキ】の人生は狂い、彼女は変態カワリモノとして件の御店に招かれてしまったのだった――。



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