探偵は縛られない

江古田煩人

探偵は縛られない

 この街で探偵を雇いたいなら、どこか適当な電柱を探してみるといい。

『イノシカ探偵事務所 浮気・身辺調査・その他依頼引き受けます』

 雨ざらしになり、すっかり色褪せた多色刷りのビラ。かすれたタイプ文字のすぐ下に、手書きの内線番地がおざなりに書き添えられていた。


 丹本にほん国首都、東興とうきょう。高々とそびえる巨大な摩天楼群をぐるりと取り囲むようにして、いつの頃からか薄汚れたスラム街が都市のあちらこちらに深く根を下ろしていた。東興に数あるスラム街の一つであり中心街からもほど近いこの通りは、見渡す限り安モルタルのアパートと鉄骨ビルが絡み合うようにして形作られている。通称『ガラ通り』、登録上の正式名称はすでに忘れ去られて久しい。中心街とは異なり丹本自警団の捜査の手も満足に行き届かないこの無法地帯は、区画開発で住処を潰された住民達、ことに貧民層にはおあつらえむきの寝床となっていた。ガラ通りの住人は人種も生い立ちも様々だが、貧しさに関しては皆一様に共通している。丹本国民の義務である生存税すら払えない住民がたむろする地区にろくなインフラが整備されているはずもなく、金座きんざ飛沫谷しぶやといった華々しい目抜き通りから数本離れた路地裏に入ればそこはもう電気はおろかガスや水道さえ通っていないスラム街の一丁目である。健康で文化的な最低限度の生活とはおよそかけ離れた環境ではあるが、それでもガラ通りの住民達は唯一の居場所であるこの街を生かし続けていくために、栄えゆく中心街から文字通りあらゆるものをくすねて回った。都市部の水道管には鮫歯さめばドリルでいくつも穴が開けられ、マンションの共用管理棟からは都市ガスのボンベがごっそりと消える。外縁部の電柱には盗電用の三叉さんさケーブルが絡みつき、それらを太く撚り合わせた所に続々と新しいアパートが建てられるせいで、ただでさえ混沌としているガラ通りの路地はまるで迷路の様相を呈していた。

 錆びた通信ポストから二つ目の角を、右へ。建物の数が無尽蔵に増えていくせいで、丹本政府がごく初期に割り当てた内線番地はもはやあてにならない。その代わりを果たすのが電柱や壁面などいたるところに貼られた案内ビラで、道に撒かれたパンくずを追うように、目当てのビラを追いかけてゆけば自然とその店に行き着く仕組みになっているのだ。丁字路の突き当たり、じゃ売りや骨汁こつじる屋の屋台が立ち並ぶ比較的大通りに面して建っている二階建ての小さなビル。排気ガスで薄汚れた外壁やほこりにまみれた窓ガラスも、周囲のごみごみしさと比較すればまるで新築のようである。ドアに打ち付けられたアルミの名掛けには、かしこまった明朝体で『猪鹿いのしか探偵事務所』と銘打たれていた。


「宇佐見、昼飯なんにするよ」

「昨日飲みすぎたせいでなんだか胃もたれしちゃってね、なんか軽いのが食べたいな。はすみちゃん、冷蔵庫にあれあったでしょ?」

「どれだよ」

「ご近所さんからもらったハム。あれパンに挟んでさ、サンドイッチこさえてほしいの」

「てめえでやれよ、なんのために腕が二本も付いてんだ? 樽みてえな腹にガバガバ安酒詰め込みやがって」

「マスタード多めでね」

 照りつけるような陽光がじりじりと部屋に差し込む午前十一時、ふかしていた煙草の煙を深々と吐き出すと、山羊顔の男は吸いさしをもみ消してかったるそうにソファから立ち上がった。ねじくれた二本の角、毛ばたきのように膨らんだ尻尾。名前は互藤はすみ、いかにも粗暴な見てくれの獣人だが、元はガラ通りではごくありふれた捨て子の一人だった。しかしその常人離れした腕力とおまけで付いてきた凶暴性のおかげで、今は所長である宇佐見の元で探偵所員として働いている。探偵といえどその仕事内容はそれこそ多岐に渡り、身辺調査や遺失物の捜索はもちろんのこと、ガラ通りで起こった事件の犯人確保や復讐代行といった後ろ暗い仕事まで幅広く請け負っているのだが、かなりの危険を伴う仕事とはいえ捜査と称してターゲット相手に思うさま拳を振るえるこの仕事が彼は嫌いではなかった。

 汚れたフローリングを、蹄がにぶい音を立てて打つ。見た目の割に足音が重いのは、蹄の裏に蹄鉄ていてつを打ってあるせいだ。ヤニで黄色く染まった指先を流しで軽くゆすいでから冷蔵庫の扉を開けると、中には飲みさしの酒瓶が一本。それきり冷蔵庫の中には何もなかった。

「おいクソウサギ、てめえ昨日のつまみに何食った」

 クソウサギ、と呼ばれた男がソファに寝転んだまま、とぼけたように瞬きをする。小紫の毛皮に覆われた耳をおさげのようにだらりと垂らした兎人だが、その顔面には赤く光る巨大な目玉が一つきり。いかにも奇形じみた男の名前は宇佐見、悪魔的な見てくれとは裏腹にその正体はイノシカ探偵事務所の所長を勤めるさえない中年男性である。あくびを噛み殺しながらぼってりした腹を掻く仕草は見るものが見れば可愛らしく、また腹の底からむず痒くなるほど人を苛立たせるものであった。

「え? そんなのいちいち覚えちゃいないわよ、酒の席での記憶ってのは朝になったら小便と一緒に流れてっちゃうものなんだって。それともなによ、俺がつまみ食いしたって言いたいの? やだやだ、育ての親をいつから猜疑さいぎの目で見るようになったんだか」

「食ったんだな? 明日使うからハムには絶対に手を付けるなって、俺は確かにそう言ったよな」

「記憶にございませんわ」

 宇佐見がそう返すが早いか、カウンター越しに飛んできたキッチンタイマーが宇佐見の頬をかすめ飛んでいった。狙いが数センチずれていたのは単なるコントロールミスかせめてもの温情か、勢いよく壁に叩きつけられたタイマーは哀れっぽい音で数度鳴ったきり動かなくなった。

「危ないわね」

 壊れたタイマーを一瞥してからカウンターに視線を戻すと、怒りに全身の毛を逆立てたはすみと目が合った。熱しやすく冷めやすいその性質を湯沸かしにでも使えればいくらか経済的かもしれないが、あいにく人間の感情を電力に変える手段はまだ開発されていない。怒り冷めやらぬといった様子で頭をぶるりと振ると、はすみは足音も荒くソファへと戻ってきた。

「クソッタレなどっかの誰かがハム食い荒らしたせいでサンドイッチ作れねえんだ、悪いな。犯人見つけたら内臓ぶっこ抜いてソーセージにしてやるから待っててくれるか」

「わざわざ加工しなくったって、はすみちゃん好みの大きなフランクフルトがおじさんのココににあるってのに。一口どう?」

「そりゃありがてえな、今夜はてめえごとぶつ切りにして兎肉ポトフにしてやる」

 二人分の重みを受け、尻の下のスプリングが音を立ててきしむ。腹立ちまぎれにもみ消したばかりの吸い殻に手を伸ばすはすみへ、宇佐見が露骨な視線を向けた。

「やめなさいよあんた、貧乏っちいんだから」

「貧乏っちいんじゃなくて貧乏なんだろが、どこで作ってるかも分からねえようなイカれたカス酒買い込む金がありゃ俺の三日分のヤニ代くらいにはなったってのによ」

「どっちにしたって小便になるか灰になるかの違いくらいしかないくせに」

「言ってろ、一時間でもヤニ切らしたら俺は働かねえからな」

 未練がましく吸い殻に火を付けようとするも、散々吸い尽くされてちびた吸い殻からは煙さえ上がらない。やがて諦めたように灰皿へ吸い殻を押し付けると、はすみはがっくりと肩を落とした。

「終わっちまった、最後の一本だったのに」

「嘆いたって空から金が降ってくるわけじゃないでしょうが、依頼が来なきゃ俺らだってこの吸い殻とおんなじなのよ」

「だからその依頼を今待ってんだろうが、どっかで強盗でもありゃすぐ駆けつけてって犯人の身体まるごと金に代えてやるのによ。贅沢は言わねえよ、誰でもいいから一発殴ってやりてえってだけだ」

「俺らに平和を憎む日が来るとはねえ」

 法の手が及ばないガラ通りでは日々細かな犯罪が絶えない。空き巣や窃盗はもちろんのこと、詐欺、傷害、誘拐、強盗殺人などという物騒な事件もたびたび起こるのだが、まさか社会規範からあぶれた貧民層の居住区を丹本自警団が取り締まってくれるはずもない。その代わりに、ガラ通りを始めとした貧民街では私立探偵がその役割を担うのが半ば暗黙の了解となっているのだが、むろんそれには安くない金銭のやりとりが発生する。つまり依頼主からいくばくかの報酬をもらって事件調査や犯人確保をするのがこの街の私立探偵の姿なのだが、今日のように目立った犯罪が起こらない時は露骨に報酬が減ってしまう。依頼を生み出すために自ら放火まがいの事をしでかす悪質な探偵も中にはいるようなのだが、少なくともこのイノシカ探偵事務所はガラ通りの探偵の中でもそれなりに信用を得ている方なのである。マッチポンプに手を出すくらいなら、一回いくらのこまごました依頼をしらみつぶしに探し回る方が——実際に探し回るかは別として——まだマシだという程度の気概はあった。

「どいつもこいつもクソッタレがよ、仕方がねえから飯でも作るか」

「献立当ててみせようか? チキンパスタでしょ」

「当てるもヘチマもあるかよ、もう乾麺と鶏缶とトマト缶しかねえってのにそれ以外何が作れるってんだ」

 はすみが吐き捨てるように呟くなり、事務所のドアが音を立てて開いた。膨らんだ帆布のバッグを肩に引っ掛けて事務所に入ってきたのはむろん客ではない、この探偵事務所に居候をしている狐人の御朱門おしゅもんいなほである。尻尾をうるさげに一振りすると、いなほは呆れたような顔で二人を見た。

「また喧嘩? やめなよ、ご近所さんに丸聞こえだよ」

「うるせえよクソ、このデブスが先に仕掛けてきやがったんだ。文句言いたきゃ押入れの裁縫箱でこいつの口と耳縫ってやってからにしろ」

「随分な物言いじゃないの、ヤニの吸いすぎでオツム縮んじゃった?」

「二人ともやめてって言ってんのに毎日毎日よく飽きないよね」

 再び巻き起こりかける喧嘩をぴしゃりとはねつけると、いなほはキッチンカウンターの上に荷物を下ろした。よほど重かったのだろう、腕を上げて伸びをするとそのまま休む間もなく荷物の整理を始める。まるで買い物帰りの主婦のようだが、三人の中では彼女が一番の年下なのである。

「ご近所さんからもらってきたよ、ハネモノの玉ねぎと茄子、それとお米が少し。あと自分とこで飼ってる鶏が産んだからって卵もいくつか、他は近所のおばちゃんが寒天ゼリーとか五家宝ごかぼうとかいろいろ持たせてくれたけど。お菓子は来客用にするから、二人とも食べないでね」

 袋から次々と取り出される食料に宇佐見が目を丸くする一方で、はすみの顔はいかにも不満たらたらだった。

「クソいなほ、お前はいいよな? ニコニコ笑って近所の奴らに挨拶してれば色々もらえるんだからよ。俺がおんなじ事したら恐喝だって言われるんだぜ、理不尽だろがよ」

「立派な恐喝じゃん、コワモテのお兄さんがタバコふかしながら『なんか持ってねえか』なんてカツアゲ以外の何物でもないんだから。こないだ見たよ、干魚ひうお屋のお兄さんを路地に引き込んでタバコせがんでたとこ」

 いなほが言うが早いか、宇佐見の赤い目がぎょろりとはすみを捉える。その凄みのある視線を避けるように目を泳がせながら、はすみはもごもごと弁明した。

「だってそりゃ……いつだかあそこの下水パイプに湧いたドブネズミ退治してやったろ、そのお礼にってよ……脅すつもりなんかねえのによ、ただ何か持ってねえかなって聞いてみただけで……」

「はすみちゃん、世間一般的にはそれを恐喝っていうのよ? おじさんきちんと教えておかなかったかな? 悪人相手なら何やったっていいけど、それを一般人相手にやっちゃいけないのよ。もう一度教えてあげようか? 拳で」

「分かったつってんだろ、もうやんねえよ! 腹減ったんだったらガタガタ騒いでねえで座ってろ」

 あからさまに舌打ちをすると、はすみは宇佐見のねちっこい叱責から逃れるように立ち上がった。空いたソファへ代わりにいなほが収まりながら、思いついたように声をかける。

「はすみん、そういえばさっき依頼があったよ。ほったらかしにしてる空き家の掃除をしてほしいって」

「ざけんな、俺は便利屋じゃねえぞ。ほったらかしのボロ屋なんか一思いに燃やしちまえ、その方が手っ取り早いだろがよ」

「またそういうこと言う」

 とげとげしい返事に、いなほが肩をすくめる。ふくれっ面のままポケットから引っ張り出した紙切れには、依頼主からのものらしい簡単なメモと内線番地、それと空き家への道のりを示す簡単な地図が書き添えられていた。見るからに入り組んだ地図は、この近辺によほど精通している物でなければおよそガラ通りの住人でも読み解くのは難しいだろう。

「空き家の掃除ねえ……まあ、ないよりマシな依頼だけど。食べ物だけじゃなくって依頼まで引っ張ってくるなんて。お嬢さん、はすみちゃんより優秀かもね」

「だって、仕事がなきゃつぶれちゃうんでしょ、ここの事務所」

「はっきり言うのね? でもはすみちゃんが嫌がるのよ、俺はこんな依頼なんかやりたくねえって」

 いなほの手から受け取ったメモを蛍光灯の灯りに透かしながら宇佐見が呟く。儲けどころか、滞納している家賃の支払いすら難しい現状では依頼の内容を選り好みしている余裕などないのだが、あいにく実動担当のはすみは雑用よりも人の顔面に拳を叩き込む仕事の方を好むのだ。仏頂面のままエプロンを身に付けるはすみをカウンター越しに眺めながら、宇佐見は考えあぐねたようにメモを振った。

「それで? どこの誰から依頼されたの、これ。やたら綺麗な字ね」

「モーター屋さんの子供から渡されたの。地方で働いてた親戚のおじさんがガラ通りに帰ってくることになったから、その前に掃除をしてほしいって……お金は後でそのおじさんが払うって言ってた」

「後払い? 詐欺だったらめんどくさい事になるんだけど、その辺り大丈夫かしら。後払い金を踏み倒す奴なんかガラ通りにはごろごろいるのよ」

「踏み倒したらはすみんがただじゃおかないよ、多分ここに住んでる人はそのくらい分かって依頼しに来てるでしょ。依頼人にタカりに来るくらいの人、わざと怒らせる人なんていないよ」

「まあ、犯人の身ぐるみはいで質屋に突っ込むくらいは平気でするからねえ」

 二人の視線に気付いたのか、はすみがカウンター越しに顔を上げる。包丁を動かす手を止めるなりこちへ中指を立てるはすみの目があまりに殺気立っているので、二人はそれきり黙り込むしかなかった。


「食え、冷めねえうちに」

 湯気を立てる親子丼に、付け合わせは茄子の即席漬け。とろけるような卵の輝きに、いなほは目を輝かせた。

「すっごくいい匂い。ねえ、毎回思うんだけどどうしてこんなに料理がうまいの? いっそのこと、お店でも開けばいいのに」

「バカ野郎、自己流でやってるってんのに店なんかできるわけねえだろが。そこのクソウサギがてめえじゃ飯の一つも作れねえからって俺に任せやがるからだよ、俺が死んだらもれなく宇佐見も餓死だ。ざまあみやがれ」

「なーによそれ、俺のおかげで身につけた特技じゃないの。はすみちゃん、憎まれ口叩くのもほどほどにして少しはおじさんに感謝したら?」

「明日はてめえの舌でタンシチューだな」

 食卓でふんぞり返る宇佐見の頭を小突くと、はすみも遅れて席に着いた。相変わらずの仏頂面だが、いなほの褒め言葉が素直に嬉しかったであろう事は小刻みにふわふわと跳ねる尻尾からもよく分かる。その様子に小さく笑いながら手を合わせると、いなほは出来立ての親子丼を一口頬張った。

「んん、おいしい〜。さっきまで怒ってた人が作ったとは思えないな、卵がふわふわ」

 柔らかな卵の甘みに混じって、濃い出汁の香りが鼻に抜ける。はすみの作る汁気が多めの親子丼は、たまに大口の仕事が入った時以外はめったに口にできない贅沢品であった。がつがつと親子丼をかき込む宇佐見の隣で、しかしはすみは何かを考え込むように黙りこくったままである。

「はすみん、冷めちゃうよ。食べないの? 」

 そう言いながら茄子の漬物をかじるいなほに、はすみは独り言のような声で応じた。

「いなほ、お前が依頼人から貰ってきたってメモだけどよ。なんか、どっかで見た字だなって思ってよ」

「どっかって、どこで見たの? こんな綺麗な字書く人、近くにいたっけな」

「もう一度貸せ、そのメモ」

 いなほが手渡したメモを机に置くと、はすみは横目でメモの字を睨みながらようやく親子丼に手をつけ始めた。ぽろぽろと落ちる飯粒がメモの端を汚し、隣に座っている宇佐見があからさまに嫌な顔をする。

「やだはすみちゃん、行儀悪いの」

「絶対に見たことあんだってよ、このヘラヘラした字。依頼人名簿にあったか? おい宇佐見、名簿どこやった。読ませろ」

「食べてからにしてよはすみん、行儀悪いよ。それにこんな目立つ字が名簿にあったんならすぐ分かるよ、私も毎日見てるし……見間違いか、別のところで見たんじゃないの?」

「俺がウソついてるってのかよアホギツネ、絶対に見たことあるってんだろ!」

「息をするように喧嘩するんなら俺の事務所から出てってもらいますよ、はすみちゃん? おじさん、怒ると怖いの、知ってるでしょうが」

 おどけてはいるが底冷えするような気迫を孕んだ宇佐見の声に、はすみはふてくされた様子で箸を置いた。

「黙れよデブ、ごちそうさん」

「育ての親に向かってなんて言い草かしらね」

「うるせえ、洗ってやるから食器まとめろ。ぼろ屋の掃除もどうせ俺一人に行かせんだろ、ならそのくらい手伝えよ」

 食べ終えた食器を流しへ運ぶはすみの尻で、毛ばたきのような尻尾がいかにも不機嫌そうにばたばたと揺れている。よほど何かが引っ掛かるのだろうか、いなほは食器をまとめながらテーブルの上に投げ出されたメモをもう一度眺めた。かしこまったような角文字が罫線に沿って几帳面に並んでいる。こんな綺麗な文字を書く人が、わざわざ貧民街のぼろ屋を改修して住もうというのだろうか?

「ねえ、うさみん」

「お嬢さん、いい? 一度受けちまった依頼については俺らで邪推しないこと。今さら言ったところでしょうがないでしょ、本当に怪しい依頼かどうかは現場に行ってみないと判断しようがないじゃないの」

「……ごめんなさい、依頼を受けた時に気づけばよかった」

「そんな顔しないの。それに」

 申し訳なさそうに耳を垂らすいなほの頭を、宇佐見は軽く叩いた。

「これよりひどい依頼なんて、おじさん達いやんなるほど受けてるのよ」

 

 いくらはすみ一人が駄々をこねようと依頼内容が覆るわけではない、いつものことである。その例に漏れず今回も、昼食からきっかり半時間後にははすみの姿はガラ通りの裏路地にあった。多少なりとも危ない仕事であれば宇佐見と二人で現場に出向くこともあるのだが、こうした細かな依頼の時は大抵はすみだけが外回りに出る。小さな扇風機が一台きりとはいえ、外よりはいくらか涼しいはずの事務所で仕事をしている二人の姿を想像するだけで、はすみの胸の内にむかむかとした苛立ちが込み上げてきた。

「クソッタレがよ、どうして俺一人で廃屋の掃除しなきゃなんねえんだ。んな依頼でいくら儲かるってんだよ、あのアホギツネも依頼を選びゃいいってのに」

 八月のガラ通りは、むっと肌にまとわりつくような湿気に満ちていた。軽やかな風の流れはでたらめに建てられた建物群のせいですっかり遮られ、どこからか漂う澱んだ臭気がどぶ色の流れとなって鼻先をかすめていく。狭い店先にバケツで水を撒いていた牛人の老婆が、赤く爛れた眼ではすみをじろりと睨んだ。大気のどこかへ常にかすかな瘴気を漂わせているようなガラ通りの湿った雰囲気は、はすみのささくれた気持ちを余計に掻き乱すようだった。

 瀬戸物屋の角を左に折れると急に広い通りに出た。ガラ通りのちょうど中央に位置する、錯感さくかん商店街である。元は三指さんし商店街という名前のありふれたアーケード街だったというが、建物と建物の隙間へめり込むようにして新たな店が出来てはすぐに潰れていく有様や、違法取引で摘発された店がすぐさま屋号と顔を変えて新たに店を出すことから、商店街に惑わされているようだ、錯覚したかのようだということでこの呼び名がついた。しかし、よくよく注意して見れば潰れていくのは店を開いてたかだか一年にもならないようなヤクザ崩れが営む店ばかりで、ガラ通りに住む住人が普段から利用するような店はきちんと昔から変わらずそこにある。はすみが目当てにしている煙草屋もその一つで、人一人がやっと収まるくらいの大きさしかない古びたプレハブ店舗に『たばこ』の赤い看板を取り付けた簡易店舗は、両脇をすすけた廃ビルに挟まれるようにして、それでもきっちりとシャッターを開いて営業していた。はすみがその煙草屋の前を通り掛かると、カウンターの向こう側で肘をついていた鰐顔の老婆がのっそりと立ち上がるなり、あたり構わぬ大声でがなりたてるように呼び掛けた。

「山羊の兄さんやい! あんたねえ、先月の煙草代、いつになったら払うんだい」

 耳が遠いのではない、わざと周りへ聞かせるように言っているのだ。老婆を無視して通り過ぎればその割れ鍋を叩くようなしわがれた声は嫌がらせのようにますます大きくなっていくはずなのだから、はすみは渋々ながらも煙草屋のカウンターへ近寄らざるを得なかった。こちらを睨みつける老婆に、はすみがうんざりした顔で店の壁を軽く蹴り付けてやっても、老婆は乱杭歯の総入れ歯を飴玉のように口の中でしゃぶったまま、鼻の穴からふうっと大きく息を吐くのみだった。

「あんたあねえ」

「何だよクソババア、金なら今度払うっつってるだろが」

「その今度今度いつまで続かすつもりなんね、ええ? あたしだって義理で商売やってるわけじゃあないんだよ、払うもんきっちり払わんといい加減あんたんとこの兎の旦那に言いつけるよ」

「チクんのだけは勘弁してくれっつってんだろ、あんたのくだらねえ告げ口ひとつで目の前の大事なお得意さんが内臓ぶちまけて死んでもいいってのかよ? 知ってんだろ、俺の上司はそれくらい平気でするぜ」

「金ぇ払わんやっちゃ客やないねえ、ええ? その手はなにさね」

 催促するようにカウンターへ出されたはすみの手を見て、鰐女は鼻を鳴らした。

「三番。こっちは肉体労働なんだよこれから、新鮮なヤニ吸わねえとやってられねえ。いいから一箱よこせ、三倍にして返してもいいからよ」

「このばあたらもんが」

 はすみの手を払いのけ、老婆は下唇を突き出すようにしてこちらに挑みかかった。枯れ枝のような指先で、カウンターの下でこれ見よがしにとんとんと叩いているのは分厚いつけの帳簿である。決まり悪そうに帳簿から視線を逸らすはすみを、老婆はなおも追撃した。

「一応聞いちゃるけえの。ひとつ言ってみい、今度はどんな依頼を請け負ったんね? 強盗の一人や二人捕まえてくるっていうなら、あたしもいくらか都合してやるけども、ええ?」

「……空き家の掃除」

 はすみのもごついた答えを聞くなり、老婆は大きなため息をついて背中を向けた。そればかりか軋んだ音を立てて頭上から巻きシャッターが降り始めたのだから、はすみはその途端に泡を食ってカウンターを激しく叩き始めた。

「おい⁉︎  おいクソババアふざけんな、三倍にしてもいいっつってんだろうが! てめえ客を門前払いする気かよ、シャッター開けろ、おい!」

 すっかり降り切ってしまったシャッターに向かっていくら怒鳴り散らそうと、老婆からの返事はない。呆然とその場に佇んでいたはすみであったが、やがて小さく舌打ちをするとポケットから引っ張り出した小銭をカウンターの上に積み上げた。しめて三百二十六円、それが今のはすみの全財産である。壁にこびり付いた泥汚れを蹄の裏でこそげ落とすと、はすみは空のポケットに両手を突っ込んだまま背中を丸めて歩き始めた。

 かすかにシャッターが開く音と共に、軽い音を立ててはすみの頭へ何か軽いものがぶつけられた。地面に転がっているのは見慣れたマルボロの赤箱、思わずそれを拾い上げたはすみの背後であのしわがれ声がした。

「耳ぃ揃えて返しや!」

 背後から追いかけてくる老婆の声に手の中のマルボロを軽く振ってみせると、はすみは後も振り返らず歩き出した。路地に消えるはすみの後ろ姿をじっと眺めていた老婆だったが、帳簿にしっかり五倍の値段を足すことは忘れなかった。

 

 煙草屋を通り過ぎ、二軒先の右手側にある小間物屋の脇をすり抜けるとガラ通りの住民が暮らす集合住宅街にぶち当たる。住宅街とはいえその外観はどちらかというと潰れかけた長屋に近く、横長のバラックが二重三重にも積み重なった所へ無理に取り付けられた外付け階段を、背を屈めた鼠人ねずみじん蝙蝠人こうもりじんなどが器用にひょいひょいと渡っている。長屋の床板がやたらと薄いせいで、この辺りにははすみのような有蹄人はほとんど暮らしていない。辺りの住人からはすみに向かってちらちらと投げられる視線は、明らかにいぶかしげな雰囲気を帯びていた。

「ああ、おい、君そんなとこで何してるんだ。君だよ、そこの二本角の兄さん」

 バラック街の中へ踏み込もうとしたはすみの頭上から出し抜けに大きな声がし、はすみはまぶしそうに目を細めて頭上を見上げた。トタン屋根の上で張りのある皮膜をせわしなく広げているのは、この辺りに住んでいる蝙蝠人らしい。

「顔がよく見えないな、山羊か、それとも牛かい? 知ってるだろう、あんたみたいな足の重い連中はここじゃお断りだよ。暇潰しなら帰ってくれ」

 蝙蝠男の嫌悪感をあらわにした遠慮ない物言いに、はすみは中指を立てながら負けず劣らずの大声で応じてみせた。

「いい度胸してんじゃねえか。客の依頼で建物探してんだよ、探偵はお断りってか? いいぜ兄さん、降りたくねえってんならそこでアホみてえに軽口叩いてりゃいいだろうがよ、その辺の柱もぎ取ってクソバエみてえに今すぐ叩き落としてやるからちょっと待っててくれるか」

「……ああ、なんだ。君あれか、蛇の目屋のとこにある探偵か……いや悪いね、目が本当に悪くなっててさ。謝るからそう怒るのはよしてくれよ」

 わざとらしく目を擦ると、蝙蝠男は羽を不器用にばたつかせて屋根から滑り降りてきた。つやつやと黒光りする羽を見せびらかすようにして大きな目をしきりに拭っているが、大きな耳と急須のように口を尖らせた顔はどちらかというと鼠に似ている。そのうちわのような耳をぐいと掴むと、はすみは歯を剥き出しにして思いきり凄んでみせた。

「なあ兄ちゃん、次に俺の前で蹄足ひづめあしのこと言ったら二度と喋れねえようにしてやるよ。人種差別って言葉知らねえのか? てめえみてえに飛べねえ相手だったらたとえ探偵でも馬鹿にしてもいいってんだな、地べた這いずって歩く野郎の気分を味わうつもりなら俺は構わねえぞ。そのボロ傘みてえな両腕差し出せばすぐだ、てめえみてえな折れ傘野郎のほっせえ骨なら俺は素手でもいけるぜ」

「わ、悪かったって! 分かってくれよ、ここの建物は他より脆いんだよ……それにこの辺りも最近は物騒だから仕方ないんだってば、チンピラに身ぐるみ剥がされたって俺のいとこが泣きついてきてね。だからああして屋根の上で、誰か妙な奴が来てやしないか見張ってたってわけだよ、自警団気取るのも楽じゃないや。ね、だからお互い穏やかに行こうや、そんな……へへ、怖い顔で睨まないでさ」

「俺がこの世で一番嫌いなもの教えてやろうか? 言い訳だよ、ファック野郎」

 蝙蝠男がおどついた顔で取り繕っても、はすみの顔は不機嫌に曇ったままである。それどころか足音も荒く詰め寄ってくるものだから、男は両腕を抱くと怯えたように後じさった。

「お、怒るのはよしなって……それで兄さん、何をしに来たんだい。山羊人……いや、探偵さんがわざわざこんな所まで」

「おんなじ事を二度も言わせるんじゃねえよ、俺のことテープレコーダーか何かだと思ってんじゃねえだろうな? このメモにある建物を探しに来たんだよ。ごちゃごちゃしやがって、どこがどこの路地だか分かりゃしねえ」

「探偵ならこんな建物を探すくらいやすいだろう」

「その辺の地元民どついて聞いたほうが早えんだよ」

 はすみが突き出したメモを恐る恐る手に取ると、蝙蝠男はそのメモを丹念に眺め回し始めた。何の変哲もないただのメモにも関わらず、それを裏から表からしげしげと透かし見る様子は滑稽でもありどこか不自然でもある。疑うようなはすみの視線に気づいたのか、蝙蝠男はようやくはすみにメモを返した。

「ああ、うん。きっと突き当たりの空き家だね。元はちょっとした集合店舗だったんだけど、建物にガタが来たせいで今じゃ一軒も入ってないはずだよ」

「一つ聞きてえんだけどよ、ただのメモにそこまで読むとこあったか?」

「こういうとこ住んでると疑り深くなっちまうんだよ。あんたもそうだろ? 妙な取引の印でもあるんじゃないかって……ああいや冗談、冗談だって。ところでこの建物だけど、人探しに来たってんならあいにくもう誰も住んじゃいないよ。それとも別に用があるのかい、あんなボロ家に」

「誰がてめえに話すかよ。そこまで連れてけ。あと次に俺のこと疑うようなこと言いやがったらな、そのクソ色した舌ちぎってやるよ」

「あんた、人に頼む態度ってものが……ああ、分かった、分かった。そんな目で睨むのはやめなってば」

 不機嫌な態度を隠そうともせず、はすみは蝙蝠男を小突きながら自分の前を歩かせ始めた。蝙蝠男の方も、チンピラ崩れのようなこの探偵に下手に逆らって腕を折られてはたまらないと思ったのか、細い口をますます尖らせたまましょぼくれた様子で歩いていく。狭い土道を挟むようにして建てられた灰色のバラックは自重であちこちがひしゃげ、それでも完全に潰れてしまわないように至る所を木材で支えてある。しかしこの長屋街が見た目よりずっと住み良いことはここの住人が一番よく分かっており、仮にそこいらの狼人おおかみじんなどが強盗に入っても薄い床板を勝手に踏み抜いて転落死していくのだから、他と比べて力も立場も弱い鼠人や蝙蝠男たちはこうした集落を作って互いに助け合いながら生活しているのだ。そんな中に訪れた有蹄人ゆうていじんであるはすみの姿は、よほど住人の注意を引いているらしく、開け放された窓やトタンぶきの屋根の上からははすみの様子を伺っているらしいいくつもの影がしきりにちらついている。じっと息を潜めながらでこちらを監視しているような住宅街の雰囲気は、存外に不愉快なものだった。

「さあ、着いた。ここだよ」

 路地の奥にうずくまるようにして建っている二回建ての木造家屋は、周囲の長屋と比べればいくらか綺麗なものに見えた。しかし、くすんだ灰色の外壁はところどころが大きく剥がれ、引き戸にはめ込まれた板ガラスはすっかり割れてしまっている。掛け看板を外した跡だろうか、正面に据え付けられたひさしのすぐ下だけが長方形の形に白く浮き出している。いくら周りと比べて綺麗だと言っても住人がいなくなった家屋の劣化ぶりは相当なもので、この建物がここではなく例えば錯感商店街に建っていたとしたら、誰もこんな廃屋へ引っ越したいとは思わないはずである。はすみは建物を見上げるのをやめ、周囲をぐるりと見回した。考えてみれば妙な話だ、こんな廃屋に越してくるための掃除を、誰が金を払ってまで人に任せるというのだろう? それにあのメモの、見覚えのあるいやに綺麗な字……。不意に、はすみの手が蝙蝠男の胸ぐらを思いきり掴んだ。

「おいネズ公、その可愛い顔面をぶっ潰されたくなきゃ正直に言えよ。お前、この辺りで怪しいやつを見なかったか? この辺りじゃ見ないような顔をよ」

「な、なにを乱暴な……言ったろう、最近は目が悪くなって困ってるんだよ。昼間は太陽がちかちかして周りなんか見えるどころじゃないよ、離してくれよ」

「へえ、ろくに目の見えねえ野郎が見張り役ってのはおかしな話だな? そのビー玉みてえな目が飾りだってんなら一粒もらってこうか、レジン漬けにしてピアスにでも仕立てたらてめえのそのキクラゲみてえな耳によく似合うだろうな」

「見えないながらも善意でやってるんだよ、そんな顔して脅すのはやめてくれ! まったく、本当に蹄足ってのは粗暴な……な、なんも言ってないったら!」

 怯えた表情を浮かべてはすみの手を振り払うなり、蝙蝠男は皮膜から伸びる枯れ枝のような指で廃屋の戸口をそっと指差した。今すぐにでもここから、というより、はすみの元から逃げ去りたいという態度を隠すことなく、おどついた目線をあからさまに泳がせている。

「せ、せっかく人が親切心で案内してやったってのになんて男だ。そう誰彼構わず殴られたんじゃ敵わないよ、金のためなら仕事は選ばないってあんたらの評判は聞いてたけど俺みたいな無関係の人にまで手を上げようってんだから恐ろしいもんだね……か、鍵は掛かってなかったと思うから、さっさと済ませてくれ」

「悪いな、親切ついでにもう少し付き合ってもらえるか?」

 言うなり飛び立とうとする蝙蝠男の襟首を引っ掴むと、はすみは男に顔を近づけて囁いてみせた。

「少しくらい構わねえだろ、これも縁ってやつだ。お前さ、このボロ屋ん中に先に入って様子を見てきてもらえたら助かるんだけどよ、両腕へし折られるのと比べたら簡単なもんだろ? てめえまさか俺の蹄足をさんざん馬鹿にしといてノコノコ帰れるって思っちゃいねえだろうな、道案内がちょっと増えるのと二度と飛べねえ体になるのと、どっちの方がてめえにとって得だか考えてみろよ」

 これが辺りをはばからない大声だったら他の住民がすぐさま見咎めただろうが、地の底を這うようなはすみの囁き声は男の耳にしか届かない。石のように固まってしまった男をよそに、きしむ引き戸をどうにかこじ開けると、はすみは蝙蝠男の痩せた尻を足先で小突いた。

「ほら、先に行けよ。妙なものがねえか見てこい」

「なんて日だ、道案内しただけでこんな目に遭うなんて……」

 すっかりしょぼくれてしまった様子の蝙蝠男に続いて、はすみも埃くさい廃屋の中へと足を踏み入れた。長年使われていない建物の内部は昼でも薄暗く、湿った暗闇の中へじっとりと沈んでしまったように見える。やがて目が慣れてくると、広い土間とその向こうに続く使い古された床板が、暗闇の中からぼんやりと浮かび上がってきた。左右と正面奥にそれぞれ部屋があり、玄関のすぐ左には二階へと続く階段があるらしい。土間に立ちすくんだままおどおどしている男の尻を軽く蹴り上げると、はすみはズボンのポケットからクリップ式の小型イヤホンを取り出した。耳に挟んで携帯電話をいじると、すぐさまコール音が聞こえてくる。手放しで通話ができるこのイヤホンは仕事の際の必需品であるがジャンク品でも軽く二千円はするのだ、仕事のたびにどこかへ落としたり、壊してしまったりといった心配はそれこそ毎度のことであったが、その点にさえ目をつぶればこれほど便利なものはない。ややあってイヤホンから聞こえてきたのは間伸びしたような宇佐見の声だった。まさか相棒の仕事中に昼寝でもしていたわけではないだろうが、その腑抜けた声にはすみは大きく舌打ちをしてみせた。

『どうしたのはすみちゃん。無事に着いた? なんか機嫌悪そうだけど』

「着いたもクソもあるかよ、まるでハリボテみてえな有様だぜ。不機嫌にもなるだろうがよ、こんな幽霊屋敷に引っ越そうって奴が俺らの所にわざわざ依頼を掛けてくるって馬鹿な話もねえぞ。ふざけんじゃねえ、どうして俺がこんなホコリの巣窟すくつみてえな場所を掃除しなきゃならねえんだ」

巣窟そうくつね』

「うるせえ、口だけしか出せねえんだからてめえは黙ってろ」

 吐き捨てるようなはすみの声に、イヤホンの向こうで小さくため息が聞こえた。

『やっぱり、ただのイタズラか嫌がらせだったのかしらね。でも確証もないのに依頼を蹴るわけにもいかないし……どうするはすみちゃん、おじさん今からそっちに行こうか?呼んでくれたらキスの一発でもしたげるけど』

 小馬鹿にしたような宇佐見の言い草にはすみは思い切り顔をしかめた。宇佐見の軽口は毎度のことであるが、こんな時にまで聞かされるのはたまったものではない。

「冗談じゃねえよこの色情魔、ハタチ越えてまでガキ扱いされてたまるかってんだ。てめえの助けなんかいらねえよアホが、それに……あー、ちょうどその辺にいた親切な兄ちゃんが俺のこと手伝ってくれるっていうからよ、そいつに部屋回らせて妙なもんがねえか確認する。なんもなかったら依頼通りボロ屋の掃除だ、なあ兄ちゃん?」

 言いながらはすみがくるりと振り向くと、今まさに足音を忍ばせて戸口から出て行こうとしている蝙蝠男がびくりと肩を跳ねさせた。

「……で、でかい独り言かと思ったらそれ通話してるのかい、気が触れたのかと思った……」

「言ってくれるじゃねえかよ、せいぜい数時間の付き合いなんだから逃げずに仲良くしようぜ? てめえが拳で仲良くしてえってんなら俺は大歓迎だけどよ」

『はすみちゃん、一応聞くけど、その親切な兄ちゃんどこで捕まえてきたの』

「あ? その辺に落ちてた」

 せせら笑いながらそう返すと、はすみは蝙蝠男を肘で小突きながら、二階へ続く埃まみれの階段を顎で指した。

「化け傘野郎、てめえは二階だ。俺は一階を見る、なんもなかったら回れ右してそのまま帰れ。口答えしやがったらその分は俺の拳で返すぜ」

「こ、ここを上がれって言うのかい?ひどいや……」

 大きな蜘蛛の巣が、古びた階段を塞ぐように幾重にも張り巡らされた様子は、まるでレースのカーテンを一面に広げたようだ。しかし毛皮にべたべたと張り付くそれを潜り抜けるのはレースと違って容易ではない、おどろおどろしい様子の階段を前にしてあからさまに嫌そうな顔をする男を目線で黙らせると、はすみはまたも男の尻を蹴り上げようとした。

「てめえのそのシケたツラも口答えってカウントして構わねえんだな? てめえの答えは聞いてねえからそのつもりで」

「勘弁してくれよ、分かった、分かったって! 見ず知らずの他人に対してなんてことさせるんだい、あんたは……」

 泣き出しそうな顔でそう言うと、男はこれ以上はすみに無用な暴力を振るわれる前に蜘蛛の巣まみれの階段を駆け上がってしまった。やり取りを聞いていたらしい宇佐見が、イヤホン越しに呆れ声で呟く。

『道理で最近へんな噂が立つと思ったのよ、腕はいいけど暴力癖の山羊人がいるからあそこの探偵事務所には気を付けろって』

「ほざけよ、俺が殴ってんのは悪人だけだぜ」

『悪人か善人かの基準ってなんなの?』

「俺を怒らせたかそうじゃねえかに決まってんだろ」

 騒々しい足音が階上へと遠ざかってしまうと、はすみは左手側の部屋へそっと足を踏み入れてみた。見たところは何の変哲もない客間のようだが、それにしては窓がやたらと大きい。どうやら集合店舗として使われていた頃は、この窓を開け放って客を呼び込んでいたようだ。埃が分厚く積もった床を手のひらで軽く払ってみると、干からびたするめの足が一本落ちていた。かつては乾物屋が間借りしていたらしい。

「……住むための建物じゃねえな、俺はそう思うんだけどよ。なあ宇佐見」

 死んだみみずのようなそれをつまみ上げ、しげしげと眺めていたはすみの鼻を不意に妙な匂いが刺した。古びた部屋にふさわしくない、甘く華やかな香水の匂いである。はすみは弾かれたように立ち上がると、目をぎょろつかせながら犬のように辺りの空気を嗅ぎ回った。かすかに、だがはっきりと、華やかな残り香が亡霊のように部屋の中を漂っている。その匂いがどこから来たものかは分からなかったが、閑散とした家屋にはあまりに場違いなものだった。はすみは弾かれたように耳のイヤホンを引っ掴むと、大声でがなり立てた。

「おい宇佐見、聞いてんだろ! 今すぐ来い!」

『どうした、トラブル発生?』

「どうしたもこうしたもねえよクソッタレ、やっぱりタチの悪ぃイタズラだ。どっからか知らねえ野郎の匂いがしやがるんだよ、俺一人呼び出して何かしようって魂胆らしいな」

「へえ。嗅覚だけなら犬並みじゃないの、丹本自警団に雇ってもらえば?」

「うっせえ、グズグズほざいてねえでさっさと来い! 信じなくてもいいけどよ、可愛い相棒が万が一死んじまったら困んのはてめえだろ? 蝙蝠長屋のどん詰まりにあるボロ屋敷だ! 場所が分からなきゃその辺の奴ぶん殴ってでも聞き出してこい、たまには本気出せってんだよウスラボケが!」

 そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、二階からぎゃあっという甲高い悲鳴が聞こえてきた。あの蝙蝠男の声だ、と気付くより早く、はすみは弾かれたように部屋を飛び出すと暗い階段を一目散に駆け上がっていった。

「いい度胸じゃねえか、どこのどなただか存じ上げねえがそんなに俺にぶちのめされたきゃ遠慮せず掛かってこいってんだよ!」

『はすみちゃん! 一度落ち着きなさいって、はすみ……』

 イヤホンから聞こえてくる宇佐見の声も、すっかり頭に血が上ってしまったはすみの耳には届かない。つんのめるようにして階段を上り切ると、ふとすぐ隣に人の気配を感じた。

 長身のシルエットが掲げるバールが、真っ直ぐこちらへ迫ってきた。

 

 ひどい頭痛と耳鳴りが、はすみの意識を闇の中から引き上げた。耳の奥できんきんと鳴り続けているそれが耳鳴りではなく壊れたイヤホンのノイズだと気づいたのは、はすみが意識を取り戻して随分経ってからのことだった。

 身体中が痺れるように痛い。横倒しになった視界にふと映ったのは、今さっき駆け上がっていったはずの階段だった。踏み板のところどころに、何か硬いもので——多分、蹄や角だ——付けたような真新しい引っ掻き傷がいくつもできており、中ほどの踏み板は大きな衝撃を受けたかのようにひび割れてしまっていた。

 じっとりとした床板が、はすみの身体を磁石のように吸い付けている。周囲に人らしい気配はするのだが、そちらを向こうとしても身体が思うように動かない。手足を結束バンドか何かで締め上げられているらしく、汚れた床の上で芋虫のように身体をよじるのがせいぜいだった。

「クソッタレがよ」

 誰に言うでもなく吐き捨てると、その拍子に埃の一片が口の中へ入り込んだ。ざらついた食感に顔をしかめて唾を吐くと、ドロリと赤黒いものが床を汚した。口の中いっぱいに鉄の味がする。頭も手足も、全身が痛くてたまらなかった。

「死んで……いない、だろうね。ま、まさか人殺しに手を貸した覚えはないよ、俺は……」

「人殺し? まさか。これくらい、この毛玉にとっちゃ蚊に刺されたようなもんですよ。なんならもっと思い切り殴ってやればよかった」

 ひそひそと交わされる会話は、はすみのすぐ後ろから聞こえてくる。その聞き覚えのある声の主を思い出そうとする間もなく、声の主はわざと靴音を響かせながら自らはすみの目の前まで回ってきた。全身が足かと思うほどの長身である、紫と黄色のけばけばしい蛭縞ひるじま模様のコートに身を固めた男は、草色の両手をしきりにもみ合わせながら、大きく飛び出した目でまっすぐはすみを見下ろしている。男の左右の額と鼻筋からは大きな角がにょっこりと生えており、体の後ろで神経質に揺れる尻尾と相まって、男の姿は古代の恐竜か何かのように見える。その背後に隠れるようにしてこっそり様子を伺っているのは確かにはすみを道案内してきた蝙蝠男だ、その怯えた顔に向かってはすみが思い切り睨みをきかせてやると蝙蝠男は小さく悲鳴を上げて再び長身の男の背後へ引っ込んだ。

「なるほど、そこの兄ちゃんもグルだったってわけだ。ざまあねえな、てめえがアホみてえにビビりやがるから俺もすっかり騙されちまってたよ。おいボロ傘野郎、てめえこのトカゲ野郎にいくらで買われたか知らねえが、見ず知らずの探偵を罠にハメるってのはなかなかイカした根性だと思うぜ? 俺が連れてってやるから地獄で閻魔様に自慢してこいよ!」

「黙らっしゃい、こんな状態になってもまあよく口が回るもんですね」

 はすみの言葉をぴしゃりとはねつけたのは、角を生やした長身の男だった。高慢な口ぶりだが、はすみの反撃を警戒しているであろうことは、さざえの身のようにくるりと固く巻かれた尻尾からも明らかだった。

「互藤はすみ、でしたっけ? あんたと少しお話したい事がありましてね。少々手荒な真似になりましたが、こうでもしないとまともに話はできないものと思いまして。ポカンとしちゃってどうしましたか、まさかこの私の顔を忘れたわけじゃないでしょう?」

「あいにくだけどよ、ぶん殴った野郎の顔いちいち覚えちゃいられねえんだ。そんなふざけたツラしてりゃ誰からも覚えてもらえると思ってんならお門違いもいいとこだぜ? ご立派な角生やしたチンピラカメレオンの知り合いなんざ一人もいねえよ、てめえの名刺でケツ拭いて出直してきな」

 はすみがそう吐き捨てるや否や、男は文字通り全身を真っ赤にして目を見開いた。喉の奥でしゅうしゅうと耳障りな音を立てながらはすみの目の前にしゃがみ込むと、男の細い指がはすみの顎をぐいと掴む。その爪の先までもが、熟れきった唐辛子のように赤く塗り変わっていた。

「ああ、覚えていらっしゃらない? 気狂いみたいに笑いながら私のことボコボコにして、さんざん写真まで撮っておいて? そうですか、それは残念。小さなオツムでこなす探偵のお仕事はさぞ大変でしょう、さっきみたいに引っぱたいてあげたらこの私に何をしたか思い出すかもしれませんねえ? ええ、どうぞ遠慮なさらず」

 そこまで言うと男は鋭く振り向いた。急に鋭い視線を向けられた蝙蝠男が飛び上がり、あたりに埃がもうもうと舞い立つ。漂う埃にむせながらも、男は耳障りな高い声を張り上げてみせた。

「バール持ってきなさい!」

「ひっ、わ、分かった、さっきあんたが使った後もういらないだろうってどっかやっちゃったんだよ、どこに置いたっけ、ま、まさかやっぱり殺すのかい」

「あんたには関係ないでしょうが! 自分が何をしたか思い出させてやるだけですよ……ああ、あんたも道中こいつに酷い目に遭わされたんでしたっけ? ならついでに一発殴ってやったらいいじゃないですか」

 蝙蝠男が恐る恐る手渡したバールをすぐさま右手で構えると、男は猫撫で声で囁きかけながらはすみの頭を撫でた。

「少しは思い出す気になりましたか? できればあまり手間を掛けさせてほしくありませんね、血を見るのは好きじゃないんですよ。まあ、あんたがどうかは知ったこっちゃないですが」

 すらりとした男の細指が、はすみの額にのの字を書く。神経質な顔立ちによく似合う、力のない細い字……手渡されたメモの、華奢な文字……その瞬間、はすみはだしぬけに大声を上げた。

「お前あのクソアホ詐欺師か! ようやく思い出したぜ、何ヶ月か前にじゃ屋のばあちゃんとこで電子水だかなんだか一本何万もする水売りつけてやがったインチキセールスマンだろ? その辺の廃ビルでちょっとぶん殴ってやったらガキみてえにギャンギャン泣きやがってたっけな。てめえが有り金全部よこすって言うから『もうガラ通りには立ち入りません』って誓約書で特別に済ませてやったのに、性懲りもなくまたノコノコ出てきたってわけか。おいデメキン野郎、俺とてめえとオツムが小せえのはどっちだろうな? ああ、確か誓約書の字もあの依頼のメモと同じだったっけな、ご大層な顔してキンタマ潰れた男みてえなヘロヘロの字書きやがって」

 その途端、男の肌が塗りつぶされたように真っ黒になった。男の殺気立った様子に蝙蝠男が小さく息を呑むが、はすみの罵倒はなおも続く。

「名前は確か……ヘド橋カス次郎っつったか? 悪いな、てめえの金であの後吐くまで飲んでやったからそのイカれた顔もすっかり忘れちまってたよ。肌の色がコロコロ変わるのは相変わらずなんだな、真っ裸に剥いて殴ってやったらオモチャみてえにどんどん色が変わるから最高に面白かったぜ。あの時撮った写真なら確か宇佐見がまだアルバムにとっといてるけどよ、ネガが欲しけりゃ一本五十万とてめえのそのふざけた角一本で許してやるよ」

「黙らっしゃい!」

 ヘド橋カス次郎——もとい淀橋咲次郎は、はすみが言い終わるのを待たずにバールを勢いよく地面へ叩き付けた。鋭い金属音が辺りにこだまし、背後の蝙蝠男が大げさに耳を押さえる。

 事情はおおむねはすみの語った通りである、二ヶ月ほど前の話だった。貧民街だろうと中心街だろうとか弱い老人相手に詐欺を働く輩はどこにだって湧くもので『蛇の目屋に怪しい爬虫人が陣取っている』という近所の住人からの依頼を受けたはすみと宇佐見が駆けつけてみると、今まさにこの男が蛇の目屋の老婆を相手に妙な謳い文句の水——どう見てもただのペットボトルに入った水なのだが——を売りつけようとしている最中だったのだ。大通りで刃物を振り回すような強盗と違い、頭でっかちの詐欺師を始末するというのは実に簡単で、しかもいい金になる仕事だ。手近な廃ビルでこの男の有り金全てをふんだくり、申し訳程度の誓約書を書かせてガラ通りから叩き出したという、彼らにとっては実にありふれた仕事である。しかし命を取られはしないまでも、二人のせいで相当に痛い目を見たはずのその男が、まさか今になって復讐を企てようとしているなどとは、はすみは思いもしなかったのだ。

「思い出していただけたならいいんですよ、わざわざ私がその可愛いオツムを殴ってやる必要もないってわけですね。まあ、そうでなくとも殴るんですけれど」

「俺の頭がダメになっちまう前によ、ひとつ探偵らしく推理してやろうか? てめえの素っ裸が写ったクソみてえなネガ取り返して、あわよくば俺のこともボコボコにしてやろうって算段だったんだろ。たったそれだけのために、なんにも知らねえ俺一人だけ呼び出そうってことでこんなチンケな依頼をでっち上げたってわけだ、そこの親切な兄ちゃんにいくらか手間賃を渡してな。違うか?」

「その程度、推理ってほどでもないでしょうが。ええ、その通りですよ? ついでに言うと、あの蝙蝠のお兄さんも『こないだ俺の従兄弟があいつにタカられたんだ』と喜んで協力してくれましたからね、恨むんだったらまず第一にご自身の業の深さを恨みなさいな」

「タカられるような事すっからだろうが? 悪ぃなヘド橋、そういうインテリっぽい言葉って俺ぜんぜん分からねえんだ。耳の穴にヤニ詰まっちまってるからよ、てめえの嫌味なんざ一ミリも聞こえてなかったぜ」

「でしょうね。人間の言葉が家畜に理解できるとは思っていませんよ」

「んだとてめえ言いやがったな! どのツラ下げて言いやがるこの爬虫人……」

 頭にかっと血が上ったはすみが言い返そうとした途端、その脇腹に思い切りバールが叩き込まれた。鈍い痛みに息を詰まらせるはすみを見下ろしながら、咲次郎は冷ややかに笑ってみせた。眼を細めたせいで、ただでさえ薄い目が剃刀のように鋭くなる。

「ひとつ訂正させていただきますとね、私の両親はどちらもヒトですので。互藤はすみさん、どうぞ次回は口が滑っても『爬虫人』などとおっしゃらないよう」

「……次はねえよ、この場でブッ殺すから」

 血走った目をしているはすみへにこやかな微笑みを返すと、咲次郎は丸太を扱うような調子ではすみの身体を仰向けに転がした。そのまま胸元へかがみ込むと、コートのポケットからおもむろに取り出したのは折り畳みナイフである。咲次郎の目つきと同じく冷ややかに光っているその刃先に、はすみはわずかに表情をこわばらせた。

「あら、暴力ヤンキーでもやはり刃物は怖いですか? ご心配なさらず、あなたを滅多刺しにしようってんじゃありませんから。もちろん、法が許すならそうしたいところですが」

「んな童貞のチンコみてえなちっせえ刃物で何しようってんだよ、この耳ちょん切りてえってんなら俺ん家の刃こぼれしてる包丁の方がきっと切れ味いいぜ。惜しいことしたなあ、このクソッタレな結束バンド切ってくれりゃすぐ俺らの事務所へご案内すんのによ」

「ご冗談を。あなたじゃあるまいし、私はあくまでされた事をお返しするだけですよ? そう、例えば丸裸にしたところを写真に収めてガラ通り中にばらまくとか……最後の仕事ですよお兄さん、こいつが身体をよじらないように足首押さえといてください」

「……わ、わ、割増賃は出るんだろうね、いくら復讐ったってこんな事にまで手を貸すなんて、お、俺は聞いてないからね」

「私だっていい加減にいらついてんだよ、さっさとやるかこのバールで両腕へし折られるかどちらがいいんですか?」

「ああ、畜生、靴いらずの山羊人も鱗肌うろこはだの爬虫人も結局どっちも人でなしだ! 俺はただちょっぴり飲む金が欲しかっただけだっていうのに……」

 震える手ではすみの足首をきつく押さえる蝙蝠男の顔はもはや半泣きである。口を尖らせてなおも不満を漏らそうとする男をしっと制すると、咲次郎は折り畳みナイフを握り直した。ぎらつく刃先がはすみのワイシャツの上をすべり、微かな衣擦れの音を立てる。

「二着しかねえ夏服パアにしやがったらな、てめえの生皮剥いでジャケットにしてやるよ。喜べよヘド橋、質屋に売ったらきっとプレミアが付くぜ」

「言ってなさいな。先にその礼儀知らずな舌をちょん切ってあげた方が良かったですかね? 今からそういう方向性に転換したって構わないんですよ」

 地獄の底のように黒々と塗りつぶされた咲次郎の顔の中で、冷ややかな目だけが鋭い輝きを放っている。くるりと手元を返すようにして喉元に突きつけられたナイフを一瞥すると、はすみは途端にげらげら笑い出した。

「カメレオンが俺の舌切ろうってのか? 冗談もいいとこだぜ、先にてめえがその生意気な舌引っこ抜いてもらいに行けよ。両親が人間? どのツラさげて言いやがんだ、本当にヒト名乗りてえってんならそのご立派なツノと尻尾丸めてからにした方がいいんじゃねえのか。もし本当にてめえの親がヒトだってんなら、てめえの母ちゃんがどことも知れねえ爬虫人のザーメン染み込んだシーツでマンズリこいた結果産まれやがったのがてめえだろうな、ああ? 丁度いいじゃねえかよ、クソ都合のいいことに俺は探偵やってるからな。てめえの元になったくっせえザーメンが誰のか探し出して親子感動のご対面といこうか? 遠慮すんなよチンカス次郎、手間賃はてめえの財布まるごとで勘弁してやらあ」

 空気が凍りついたのは、ほんの一瞬のことだった。悲鳴のような奇声を上げながらナイフを振り上げる咲次郎の顔はすっかり狂気に取り憑かれている。

「馬鹿にしくさって!」

 手加減なしに振り下ろされるナイフの刃がはすみの胸へ突き立てられる寸前、踏み潰された蛙のような悲鳴とともに咲次郎の身体がすぐ横へ吹っ飛んで消えた。代わりに息を切らしながら立っているのは、見慣れた顔の一つ目兎だった。

「……悪いわね、おじさんちょっぴり足癖が悪くって。大丈夫、はすみちゃん?」

「遅えよクソウサギ、本気出しゃまだ現役じゃねえか。俺の蹴りよりすげえや」

「いい歳したおじさんに本気出させないでよ。それにしても」

 ようやく息を落ち着けた宇佐見が目線を向ける先には、壁に叩きつけられてすっかり目を回している咲次郎の姿があった。蝙蝠男はといえば、この修羅場から逃げたくとも足がすくんで動けないのか、壁際で息を震わせながら咲次郎と宇佐見の顔を代わる代わる見比べている。そのすぐ隣ではすみの結束バンドを手際よく切ってやると、宇佐見は足下の折り畳みナイフを遠くへ蹴り飛ばした。

「俺が止めに行ってなかったら死んでたわよ、はすみちゃん」

「あんな小指みてえなナイフで刺されたくらいで死ぬかよ。ちょっと言ってやればすぐカッカしやがるからよ、あのクソトカゲ隙だらけだったろ」

「誰かと思ったらあれじゃない、はすみちゃんがボコボコにしてたカメレオンの詐欺師。復讐したいがためにわざわざガラ通りに戻ってくるなんて、義理堅いっていうかバカというか」

「おめえあいつの顔覚えてんのかよ? 俺言われても気づかなかったってのに」

「首から下だけなら抱けるかなって思っててね。裸がキレイだったから」

「趣味悪ぃな」

 ようやく自由になった手首を確かめるようにさすると、はすみは重たげな音をさせて床を踏み締めた。地鳴りのような振動が伝わったのか、呆然としていた咲次郎が肩をびくりと跳ねさせる。すっかり怯えきった目で二人の姿を認めるなり、その肌色はペンキをぶちまけたように一挙にくすんだ灰色へと塗り変わった。

「……ど、ど、どうして、来るのはあんた一人だったはずじゃ……」

「どうして、だぁ? アホたれがよ、報連相は仕事の要だろが。インテリ気取っておいてその程度も知らねえのか? そういえばテメエが突き落としてくれた拍子にクソ高えイヤホンがイカれちまったからよ、二十倍にして返せな」

 はすみが耳の奥から取り出したイヤホンを足下に叩きつけてやると、その途端に咲次郎が弾かれたように蝙蝠男へ顔を向けた。

「あ、あんた、コイツが誰かと通話してるって気付かなかったんですか!」

「……き、き……気づいてても、い、言う暇なかったろ……お、俺だって初めてなんだよこんなこと! 俺みたいな素人に復讐を手伝わせるほうが悪いだろうが、貰った金以上の仕事なんか死んだってするもんか!」

「私が悪いって言うんですか⁉︎  冗談もほどほどにしろってんだよこの乞食崩れ、何かあれば金だ金だってキイキイ喚きくさって! あんたのせいで全部台無しだ、こうなりゃあんたも私と同じ目に遭ってもらわないと気が済まない……」

「お話中のとこ悪いけどね、それ決めるのウチらなのよ。正確に言うとウチの可愛い前衛担当かしら? なにしろねえ、俺が目を離してる間におたくらに随分な目に遭わされたみたいだから」

 言い争う二人の間にぬっと顔を突き出した宇佐見が指差す先には、静電気を帯びたかのように全身の毛を逆立たせているはすみが立っていた。そのまま、重い足音と共に一歩を踏み出すと、古びた床がきしんだ音を立てる。その姿を見るなり、蝙蝠男は鋭い悲鳴を上げながら咲次郎一人を残して外へ飛び出していったが、はすみはその後を追おうともしなかった。

「いいの? あれ、追わなくって」

「俺いま気分がすげえ良いんだよ。あんなチンケな手伝いなら今回は見逃してやらあ、どうせ次からは俺の気配を感じた途端ねぐらに引っ込んじまうだろうからな。それに」

 二人分のどす黒い影が、わなわなと震える咲次郎の姿をすっかり覆った。

「こいつなら俺も遠慮なく殴れるからよ。なあそうだろ、ヘド橋?」

 

 夕陽に照らされる錯感商店街を、はすみは黙って歩き続けていた。そのワイシャツ、そして両手が赤黒く濡れていようと、すれ違う人々は生々しい鉄臭さに対してわずかに目線をくれるのみである。中には冗談めかして『よう、今日もご苦労さん』などと呼び掛ける者もいたが、それに中指を立てて応じるにはあまりに疲れすぎていた。

 例の煙草屋は相変わらず両脇を廃ビルに挟まれたまま、黙ってシャッターを下ろしている。はすみがその隅を力なく蹴飛ばしてやると、ややあって足元からのろのろとシャッターが巻き上げられ始めた。

「……そいで。稼ぎはあったんかいね」

 カウンターの向こうでこちらを睨む鰐女の目の前にポケットから引っ張り出した紙幣を叩きつけてやると、しわくちゃの手がすかさず紙幣をさらっていく。ガラ通りほど金の価値が正直な街もそうないだろう、いくら血でべとべとに汚れていようと金は金であり、それ以上でもそれ以下でもない。その例に漏れず、血まみれの紙幣を何度も数え直すと、鰐女はようやく納得したのか途端に取って付けたような笑顔を見せた。

「へえ、大したもんやけえね。ボロ屋の掃除でどうしてこんな稼いだんけ? 財布持ったドブネズミでもおったかや」

「ああ、いたぜ」

 ポケットから取り出したマルボロを無造作にくわえ、苛立たしげに火をともしながらはすみは呟いた。その両手は、固まった血ですっかりごわついている。

「額と顔の真ん中にクソみてえなツノ生やしたクソッタレのクソトカゲだ」

 

「暴れないでってばはすみん、包帯巻けないじゃん」

「クソ痛えんだよアホ、傷にみねえチンキ使いやがれ!」

「そんなチンキあるなら買ってみせてよ! それではすみん、そのカメレオンの詐欺師さんに両手ズタズタにされて帰ってきたんだ」

「殴りやすい位置に角なんて生やしてやがるだろうが、復讐するってんなら俺に殴られるの見越して角丸めてこいってんだ。クソがよ、当分は包丁握れねえぞ」

「はすみんって時々すごいムチャクチャ言うよね。蹴れば良かったのに」

「……殴るって決めちまったからよ」

 事務所のソファに深く腰を下ろしながら、はすみは包帯で巻かれた両手をぼんやりと眺めた。一発殴るだけならここまで重傷にはならなかっただろうが、咲次郎からの思いがけない——不本意だったろうが——反撃を受けたはすみがその顔めがけて何度も拳を叩き込んだせいで、両手はしばらく使い物になりそうもない。魂が半分抜けたように背もたれへ寄りかかるはすみの隣で、いなほが救急箱の蓋をそっと閉めた。

「……でもごめんね。やっぱりウソだったんだ、あの依頼……」

「マジでてめえのせいだぞクソいなほ……あー、でもおかげでカメレオン革の歩く財布が手に入ったからよ、まあトントンってとこだろ。俺も思いっきりケンカしたかった所だからよ、丁度良かったんじゃねえの」

「ご飯はしばらく私が作るからさ、治ったらまたおいしいもの作ってよ。あはは、今日はいつものチキンパスタだけどね……はすみん、今日もお疲れさま」

ねぎらいついでにヤニ吸わせろよ、俺のポッケに入ってっから一本出せ」

「それはイヤ」

 いなほが舌を出すのと同時に、事務所のドアがゆっくりと開いた。どことなく満足げな顔の宇佐見が携えているのは雑貨屋で買ったらしいフィルムカメラだ、使い切ったそれをテーブルへ投げ出すと宇佐見ははすみへ目くばせをしてみせた。

「現像しといてね、それ。いつでもいいから」

「ほざけよ、てめえとクソトカゲのハメ撮りなんざ誰が見たがるってんだ」

「やあねえ、さすがの俺だってシャワーも浴びずに一発おっぱじめるなんて野蛮なことしないっての。はすみちゃんが帰ったあとにちょっぴり脅しただけ、泣き顔が可愛かったから撮ってきたの」

「これもゆすりのタネに使うんでしょ? あざといなあ、うさみんって」

「あざとくなきゃガラで探偵やってけないわよ、ねえはすみちゃん?」

 スプリングをきしませて隣に座る宇佐見を、はすみは軽く睨んでみせた。

「俺には関係ねえ言葉だよ、大体なんだそのあざとさって。四十路のデブ親父が使う言葉じゃねえだろがよ、黙ってヤニ吸わせろ」

「その手じゃしばらく禁煙かしらね」

「んだとコラ、一番苦労したのは誰だと思ってやがんだ!」

 テーブルを叩きつける音に続けてはすみの鋭い悲鳴が上がる。騒々しいやり取りを尻目に、ガラ通りの夜はいつも通り更けようとしていた。

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探偵は縛られない 江古田煩人 @EgotaBonjin

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