第18話 千里の道も一歩より
神楽保存会のおじさんたちから、大きな鈴を渡され、僕は緊張のあまり、額に幾筋の汗を感じた。
持ってみると、見かけによらず、重かった。
本番では平安貴族が着用していた、白い素襖、白袴、烏帽子を身につけて、舞わないといけないのに、これは難儀だ、と最初から匙を投げそうになった。
右手にはそれなりに重たい神楽鈴、左手には扇を持たなければならないのだから、開始する前から嘆いたらいけない。
素襖と白袴で区切られた腰の合間に、白い御幣を十字で挟み、それが意外にも窮屈で、しんどいらしい。
鈴を左手で持って、腰を低くして舞う。
手先も足先も神経を尖らせて、舞わないといけない。
指導の通り、真似てみても、慣れない動きに足腰は素直に戸惑った。
明日は筋肉痛になるだろうな、と足が吊りそうになり、初心者らしい、大胆にコケるという、失敗を何度も繰り返した。
舞の練習が始まって、数分もしないうちに汗が滴り落ち、僕はつい、弱音を吐きそうになった。
「もう、ギブアップか! 早いな、東京育ちの坊っちゃんは」
おじさんたちの忠告も僕には予測していた通りだった。
「それじゃ、いかんだろう。神楽は神さまのために舞うものなんだから、真剣にしないといけないんだぞ。辰一君はリズム感がまるでないよ」
複雑な手の動き、腰をおろし、足を巧みに、左足を右足よりも半歩くらい先に、すり足で歩き、左足と右足を横に揃える形で、腰を据え、一歩ずつ歩き、足を揃える。
この単純に見える、『ずう』と呼ばれる動きは、神楽の四つの基本のうちに入っているようで、まず、初心者はこの型をマスターしなければ、先の一歩も進めないという。
千里の道も一歩より、だ。
僕は僕のギブアップしそうな心に何度も激励をかけながら、慣れない動きに、一心不乱になって専念した。
片足を出すタイミングは、想像よりも重要だった。
口承で伝わった技法だから、マニュアルも一切なければ、習得するまで己と対峙しないといけない。
四人の少年らで舞われる『花の舞』は時間に換算すれば、十分ほどは舞い続けないと、完成せず、独楽のように回る立ち位置にも、昔ながらの意味があり、その奥義も吟味しなければいけない、とおじさんたちから散々、口説かれてしまった。
銀鏡神楽を含む、宮崎県内の神楽保存会は、後継者不足に常に悩まされており、僕が東京から引っ越して来たことは、神楽保存会にとっても、とても有益だったんだよ、と伯父さんが慰めてくれたおかげで、厳しい指導にも関わらず、何とか、落ち込まずには済んだ。
「辰一君、その手の動きじゃダメだろう。こうだよ、こう」
「こうだよ、と言われてもわかりませんよ。言葉で説明してもらわないと僕は分からないんです」
ふと、横を一瞥すると、勇一は小学生なのに軽々と腰を曲げ、足を揃え、青い揚羽蝶のように、リズムカルに舞えていた。
地元生と途中からの、よそ者との差異を、まざまざと突きつけられる結果となり、田舎の逞しい生活についていけるか、心配の種は尽きない。
東京じゃ、山を駆け巡る体験はできないし、神楽なんて舞う機会は、ほぼ皆無だから、本当についていけるだろうか、と不安は暗渠に立ち込める、硝煙のように燻る。
「ダメだな。手を真似るんだよ。よくお手本を見るんだ。よく両目で集中するんだ。さっきから辰一君は動きをよく見てないよ」
先輩二人からも注意され、余程身体がなまっているんだ、と忸怩たる心境に有無を言わさず、こっぴどく駄目だしを食らった。
東京で生活した頃もほとんど、運動はしてこなかったツケが、むやみに祟ったんだろう、と心に巣食う裁定者が高らかに言う。
突然、辰一君、鈴を持つ方向が違うじゃないか、と地区のおじさんから右手を強く掴まれ、記憶がきつく誘導した。
記憶の海面から、狡猾な手が僕をいじらしく掴み、顔を突き合わせようとしていた。
記憶のページを切り裂こうとしたあまり、無意識のうちに振り切った力の衝撃で、神楽鈴が床に落ちてしまった。
「これって特注品だから、結構な値段するんだぞ」
カチャン、と鈴同士が擦れ合う音がした。
先輩たちから叱られた、僕は萎んだまま、神楽鈴を拾い、素直に謝罪の言葉を伝えた。
それにしても不意だった。
あのときの夜の呼吸は、荊棘のように四六時中、絡めないといけないのか、と。
「気にしなくてもいいぞ。初心者にはよくあることだから。辰一君は真面目だし、コツさえ掴めばすぐに良くなるから。だろう?」
伯父さんの救いの言葉も見事に筒抜け、肩は自分の見える範囲よりも、大きく震えていた。
どうして、僕は周りの機嫌を損ねてばかりなのだろう。
今さらになって、姫の森から盗み取った苺の苦い汁が、口の中に染みたような気がした。
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