第2話 銀鏡村

 四月からの新たな居住地は奥日向のとある、山村にあった。

 その集落の地名はかなり風変りで、銀鏡と書いて、しろみ、と呼ぶらしく、十中八九、読める人はいないほどの難読地名で、奇しくも僕の苗字と同じ地名だった。



 何度も曲がり角が続く、車窓から絶壁を見下ろすと、崖の下にある、その清流は紺碧色の濃絵硝子のように澄み切っている。

 恥じらいさえも隠したがる、夜毎に流す、少女の涙のようにどこまでも無垢だった。

 集落全体で二百人もいない、とあの人から東京を出立する、前日になって、小耳に挟んだ。



 麗らかな春情の日、だらだらと軽自動車で、峻厳な山道をひたすら走らせていると、遠方から山桜を発見した。徒花が花街を練り歩く、花魁道中のように婀娜っぽく咲いていた。

 山襞が、ぬるま湯につかったように半透明に暮れ泥み、四月なのに汗が滲み出す。



「辰一、ここはあんたの生まれ故郷よ」

 その人は慣れない、運転しながら、冷たく言い放った。

 また、辻褄が合わない、法螺話だった。あの人は譫言を時々、口にする。



 僕がまだ、小学生のときに辰一君のお母さんって、すごく若いよね、と質問するデリカシーのない、子供が必ず一人はいて、幼かった僕はありのままに話し、そのたびに周りの子供たちから失笑された。

 父親の顔に煙霞がかかった、子供を産んだシングルマザーを、世間の人間はいかに冷淡に振舞うのか、説明しなくても大きくなった僕は熟知している。



 狭い山道をかき分けるように進行すると、鄙びた民家が見えてきた。

 岨に逆らうように建築された、家々のほとんどは廃屋だった。



 その人の今日の出で立ちは珍しく、控えめな薄化粧だった。

 東京のアパートの二畳間で、あの人の喘ぎ声が、僕の部屋まで聞こえ、戯れにピリオドを打った房後、彼女は急に僕を見て、激しく睨みつけるのだから、常に虫唾が走るのは言うまでもなかった。

 街娼のような、その人がなぜ、実家があるとはいえ、こんな山奥に突然引っ越すなんて決心したのか、存外、不思議でしょうがなかった。



 東京に心を許せるような居場所があったわけじゃない。

 高層のビルに挟まれた、学校の無機質な教室にひしめく、クラスメートとも馬が合わなかったし、人いきれが充満する、東京ならではの雑踏も僕の波長と合わなかった。



 山桜が淡く光り、風薫る棚田には棚引くように蓮華草が咲き、ビザンツ帝国の聖堂のモザイク画のような、畝に広がっていた。

 その壊れそうな風景を僕は車内から食い入るように、黙視していたら、比較的新しい貸家に車は停止した。

 瓦屋根に雑多な春草が生え、手入れされていないのが、傍から意を注がなくても分かった。

「辰一、着いたから早く降りなさい」

 僕は縛りのある、命令をわざと鵜呑みにして、むさ苦しい車から降りた。

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