電脳聖杯少女教典

梦吊伽

電脳聖杯少女教典

 剥き出しの鉄筋と青い空が見える。首元から胸にかけて嫌な汗が吹き出してきてシャツの襟ぐりを湿らしている。深海から釣り糸で無理矢理に引き上げられていくような、嫌な目覚めだった。

 雨上がりのコンクリートが放つ湿気を含んだ蒸し暑さは起き抜けの私には辛い。

「起きました?」

 黒のツーピースを纏った裸足の少女が立っている。強い日差しを受けて海苔のような黒髪が光っていた。多分起き上がれば私より頭一つ小さいくらいの、中高生だろうか。

「スカート、中見えちゃいますよ」

 彼女の片足は私が履いているロングスカートの裾を踏みつけているようだった。股から下にかけて視線で追っていくと裾のあたりに小さな裸足が乗っている、細くて白い足だった。押さえていましたと言いながら少女は足の指を一本ずつ鍵盤から手を離すように退けていく。

「いや、だからって足で踏まなくても」

 起き上がろうとすると後頭部と背中に鈍痛が走った。

「あなたは昨晩ここでトラブルにあって倒れたらしい、だからそのときに打った体の背面が痛い。喧嘩があったみたいって外の人が言ってた」

 らしいとかみたいとかばかりで信頼性に欠ける情報だった。でも私と誰か――この少女との間かもしれない――になにかあったのは確かなのだろう、喧嘩とか。最近若者の間で流行っている額に押し付けると卒倒する電子端末とか。

 起き上がれないですよねというと少女は私の対面にかがみ込み仰向けに寝転がった。スカートの中がと言っていたのはどこの誰だろう。腰まで伸びた長い髪が硬い床に投げ出されて絡まる様子がタコ足配線を想起させた。

「眠ってる間に顔周りを見てみたけど"Z's"とかで眠らされたんじゃないみたいだよ、そういうの想像した?」

 普通に殴られてか、倒れて頭打って気絶したみたいだよ。ただ、その前後の記憶がないのは。

「これ」

 ポケットから小さな紙片を取り出すと空に翳す。

「ハクキベルミン」

 真っ白な脳内にぽつりと浮かんだカタカナ7文字。若者がお遊び感覚で生み出したドープな芸術品。

「御名答。効果は知ってる?」

「あまり詳しくは」

「薬物動態としてハクキベルミンを1㎎単独経口投与するとします。このときの血中濃度は120時間前後でほぼ消失するんだけど、でもこの試験紙の色からするとあなたは20錠くらい飲まされてるから薬が完全に抜けきるのは2日以降になるかな、記憶も今日中には戻らないだろうね。明後日以降警察に相談したらいいと思うよ。」

「そんなに飲んで、後遺症は……」

「これ、おもちゃドラッグだから一回くらいなら大丈夫ですよ」

「そのお遊び薬で集団自殺したって見たことあるから」

「ユリシセンBaF錠のこと言ってらっしゃるのならあれはデマですよ。それにハクキとユリシスじゃ作用が全然別ですもん。お姉さんて結構情弱なんだ?」

 初対面の、しかも子供相手に情報弱者と呼ばれるのは尺に触ったが彼女の薬剤に関する知識は私より豊富だということはよくわかった。

 私はやっとの思いで上体を起こす。肘の骨がベトンのザラザラした感触を感じ取った。長い睫毛が瞼に触れ、目と鼻の先に博識な少女の顔がある。

「今話したのは一部の知識に過ぎないよ、人の言うことを鵜呑みにしないことです」

「自己紹介がまだでした。わたし、メリーって言います」

「きみ、日本人でしょうに……」

「本名を当ててみてよ」

「私、もう帰らないと……」

 どこへ?と当然の疑問が生まれる。どこへって?そんな、帰り道はおろか自分の家の場所までわからなくなってしまうなんて。

「お姉さん、無理だよ。無理しない。自分の名前も思い出せないでしょう」

 メリーの手が私の湿った手を掴む。なんだ、人形のようだと思っていたが温かい手じゃないか。それも少し熱すぎるくらい。

「ここ、私と私の友達たちの溜まり場なの。あなたはそこを不本意かもしれないけれど荒らしたわけだから、罰として私の話に付き合ってよ」

 さっきから首周りを中心に嫌な汗が出続けている。この子の良いように使われている気がする。


 私が倒れていたビルの隣には小さな野菜直売所が建っていた。廃業してから日が浅いのか野菜の匂いがなんとなく漂っているように思う。電気をどこから通しているのかわからないが扇風機まで回っていた。出入り口付近に古いパイプ椅子が5つ、おそらくお友達の数だけ適当に積み上げられていてメリーはそこを慎重にチェックすると2つ引き抜いてこちらに持ってくる。持つよ、と声をかけてみたがいいと断られた。私は並べられた椅子の片方に腰を下ろす。 

「潔癖症の子がいるから大変」

 小さく息を吐くように隣の少女は呟く。背もたれに腕を預けて足を組む。だから自分のスカートはどうでもいいのかよ。

 変わり者の話は長い。それに話題が盛り上がってどんどん飛躍していく、あちこちに飛んでいく。たった今話していたものだと、海釣りが続々と禁止になっているというのが人間の進化の傾向についての話にすり替わってしまった。その前は人間の騙し方から根魚の捌き方、もっと前は薬の作用についてから自分との話し合いに引き込むこと。

 次々と流れ出る言葉は全てが的を得ていて、私は反論することも相槌を打つこともできない。

 少女は一通り話し終えると咳払いをする。喉が渇いたと言って冷蔵庫なんかが置かれているであろう部屋に水を取りに行ってしまった。

 一気に静かになったので私は頭を整理するために椅子に座り直した。ギシッと錆びた音が鳴る。扇風機が送り出す微かな冷風に茹だった頭が冷却されていく。


 足の部分をガムテープでグルグル巻きにされた昇降テーブルに田舎の家にあるようなコップが2つ並んでいてその横には麦茶ポットが置かれている。一本足がそんな様子だからコップとポットがいつ床にぶち撒けられるのか気が気でない。

「……今日お友達が一緒じゃないのはなんで」

 コップに口をつける。中の薄い茶色の液体には紅茶キノコみたいなのが浮かんでいて気持ち悪かったが暑さには勝てなかったからええいと飲み下す。無味無臭。

「交代で見張ってるの。今日は私がその当番」

「君たちは勉強とかそういうのを頑張ったほうがいいよ、なんか言い方がおじさん臭いけど。遊んだりしてるんでしょう」

「まあ遊んでるように見えるかもしれないけど、学校でできない研究をしてます」

「研究って……中二病?シラフの妄想?それならまだいいけど変なドラッグとか作ってるんじゃないでしょうね」

「こんなに話してわからないかな」

 メリーはあと2つ話をするからそれが終わったら体験させてあげると言う。体験て何をさせる気だろう、私は注射器に入った真緑色の得体のしれない液体を思い浮かべた。

「私達の中にもルールがあって自傷はしないって約束なんだ」

「その割にはやけに薬に詳しくない?」

「母さんが薬剤師なの知ってるでしょ。ODと薬物の知識があるのとは関係ないよ」

 今日初めて会ったのだから知っているわけないじゃない。いや、私の母親も薬剤師だったかもしれない……だとしたら笑い者だ。早く記憶が戻ってほしいと願う。


「次は電子端末と人間の未来について話そうかな」

「それ、最終的に卵の孵化の話になったりしない?」

「大事な話だからできるだけ脱線させたくないな」

 さっきから全部脱線してると私は悪態をつく。

「人間の作り出した電子端末は人間から何を奪ったか」

「それなら、じ……」

「時間もそうだけど私らの倶楽部は別のところに焦点を当てています。

 電子端末は人間から文字を書く機能を奪っているんだよ。実は中央アジアを中心に超能力に関しても同じような実験がされているんだけど、あれはエセだからその話はまた別の機会に。人間の言語感覚はまだ機能するでしょう?というかむしろ逆でコミュニケーションを簡略化しつつ、より鮮明にさせていくことが目標だね」 

 まあ多分それ以外にも感情の制御とか発声機能とかへの影響がそのうち社会問題になりますよ。それを考慮すると最近出てきたサイコキネシスについてのインチキ論文もまあまあ役に立ってるのかな。

「うん、それで文字を書くこと自体はまだできるね。でも、きっとペンを持って紙に書きつけていた記憶なんてあまり覚えてないんじゃないですか?お姉さんも。今のご高齢の方々もそのうち完全に忘れます。

 生物としての器官は停止して、文書として記録としては残る。歴史になってしまう。うちの研究部員たちも阿呆多いからあんまり気づいてないけど、だから、私だけは覚えておいてあげたいんだ」

「……紙とペンの存在を?」

 私はきっとその阿呆の部類に入るんだろうな、何言ってるか全然わからないものと独りごちる。

「なんか全部遠回しに聞こえるけどあなたは何が言いたいの。ネットが嫌いなだけ?」

 嫌いなものを追いかけようとする気持ちはわかる。それは愛憎と言ってかなり厄介な感情だ、特に子供のそれは未発達で面倒すぎる。

「好き嫌いの話じゃないですよ。これは感情論じゃなくて、私らの研究のほんの一部のお話です」

ツーピースの膝の上に乗った指が組まれる、それが会話の始まりの合図だと私は知っている。どうやら新しい話が始まるらしい。それに、今回は一方的ではなく私にも発言権を与えてくれるようだった。

「わたしたちは今はまだ周辺機器デバイスに過ぎないの……」

「なんて……?」

 この子の言っていることがさっきからのまるでわからない。彼女は少女の姿をした老婆か、悪魔のようだと思う。変わった色の瞳は遠くを、この直売所の壁を突き抜けてもっと遠くを見つめているように見える。

「人間がそうってこと?」

「デバイスには細かい種類があるんだけど大きく分けると2種類になる。

 1つは単体だけで動作する情報端末デバイス、2つ目はパソコンとかに繋ぐことで特定の機能を発揮する周辺機器デバイスに別れます……」

 そのデバイスはCPUに接続される。それを表現するために手の平の中心に人差し指を突き立てた。

「そう言うなら、人間は情報端末の方ではない……」

 子供の哲学には話を合わせてやるべきだと思う。私はこれから起きるであろう悲惨な未来を想像しながら最後まで彼女の話に付き合うことにした。

「全然、違いますよ」

 メリーは少し馬鹿にしたような含みを持って、口角を柔らかく上げ目尻を垂らす。笑った顔を作った、笑ったように見える顔を。

「わたし達は心に空いた穴を埋めるためにいろんなものを持っているんだよ。家族とか友達、それにインターネット。

 寝ている間も私たちの脳味噌同士は常に繋がりたがってる。だけどそれは無理で人間の脳は大体がオフラインで、だからそういうの無くしたいなって思ってます」

 笑顔が、気になる。それは間違いなく笑っているんだけど無理矢理引っ張り上げたような不自然な笑みだった。少し喋っただけでもよく笑う子だとわかったけれどこういう顔は初めてだった。

 話が頭に入ってこない。

「それで、人間は外付けで大きくなっていくんだよ」

「はあ」

 頭を抱える。私は完全についていけなくなっていた。確かに変な薬も増えたし少し前に比べてネットの技術も進歩したけれど、今された人間の仕組みの話は現代の技術では到底至らないような物語、つまりSF小説とかアニメに出てくるような内容で彼女はやっぱり中二病か電波なのかと思った。

「わかんないと思うけどいいんです。あれさえつけてもらえれば」

 空のコップを手に取るとメリーは奥の部屋――倉庫として使われていたのだろうか――の中に姿を消した。しばらくするとコードの束を右手に取りサージカルテープを左手で摘んで持ってくる。

「最初はモンタージュみたいのが見えて嫌かもしれないね」

 怖いことを言う。

「何するの」

 ポーズとしてたじろぐ。けれど、なんとなくその先が見えている。コードは両端に金属の端子が付いていて私は彼女の行おうとしていることを悟った。

 今からこれであなたと私の脳を繋ぎます。

「そういうの一番合法じゃないから良くないよ。あなた、未成年だろうし」

 今更ですかと笑い声が聞こえる。緑の覆い茂る島に綺麗な声で鳴く鳥がいた、あんな声。今度はあの不自然で精巧すぎる顔つきではなく年相応の幼い女性の笑いだった。

「一番合法って、なによそれ」

 どんなところに笑いのツボがあるんだ、相当ウケたらしく手を叩いて笑われる。手に持っている機材はそんなに雑に扱って大丈夫なのか。震える指が彩り豊かな機械仕掛けの紐を数本落とし、パラパラと木製の床を叩く音が響く。笑いを堪える若い息遣いが室内に響いた。

 その変な単語の組み合わせは無理やり自分を落ち着けようとして、混乱から口走ってしまったのだろうけれど素で言ってるなら外では絶対言わないほうがいいよと言われる。

「成人してても薬物乱用や電子機材の倫理規定違反は犯罪ですし、あなたこそ女性が殴り合いの喧嘩をするのはいかがなものかと思う」

 涙を拭うと彼女は冷酷に現実を告げる。

 そうか、彼女の親は薬剤師で彼女自身も薬の効能に関心があるのだ。全てを抜きにしてもメリーは他の同い年の女生徒に比べて賢い女の子なのだから馬鹿な私の身に起きたことなんて適当に偽の情報を吹き込んででっち上げることができた。

 サージカルテープをちぎる音が聞こえる。


 人差し指の爪と一本の細い管が私のこめかみに当たり、薄い紙テープが縦向きに貼られて端子の部分をぺたりと覆い隠した。

 上目遣いでメリーの顔色を伺う。緑にライトブルー、カーマイン、たくさんの細い線が少女の顔を彩っていて、私の視界もカラフルな硬い紐たちが覆い尽くしていく。お互いの顔がだんだんと色に塗れて見えなくなっていくのを見つめていた。

 テープを貼っていた手を止めるとメリーは私の顔を覗き込む。

「これ、痒いですか?」

「いいえ……」

「良かった。低刺激タイプが買えなかったから」

「……こんなこと可能なの?私、また騙されてない?私たちは繋がるの?」

「そう、繋がるの」

 琥珀の中で七色に輝くの瞳が私を見つめる、飼い猫のような目をしていると思った。

「私、お姉ちゃんと繋がりたいの」

 メリーの華奢な人差し指が私の口唇に触れた。あれ、と思う。その指が随分と痩せ細っているように見えたからだ。戸惑う。

 視線を下に向けると膝の上で組んでいた自分の手と布地に隠れた足が目に入った。そうだ、私はスカートなんて持っていなかったではないか。可愛らしい服を着ているのはいつも妹の方だった。

 

 釣り船の上で両の目が飛び出た深海魚、それが私と妹の現実だった。

 車内は蒸し暑く、熱が籠もって体も頭も限界に達していた。助手席に垂れ下がったカーアクセサリーは風がないため揺らがない。

 隣に座っていた妹はもう意識が無いようで、旋毛に息がかかる感覚があったがそれも数時間前から途絶えている。私は涙が出そうになったがいつまでたっても何も出てこない、涙を出す水分も無くなっていることに気づいた。溜息を吐き出せばその分口の中が乾燥するだろうが、私は無意識に妹の名前を呟いていた。

「明里…」

 そうだ。明里は姉の私より頭一つ身長が高くて、同年代の子と全然会わないからわからないけれど私が小さすぎるかこの子が大きすぎるのかなんてそんなことを思っていたんだっけ。少しの間を置いてお姉ちゃんと返す声が聞こえた気がする。そんなことはないはずだった。だってもう明里の身体は生命維持を手放しているだろうから。

 私たち二人は最初の方こそ炙ったように熱い窓ガラスを叩いたりドアの取手を弄ったり車の鍵が車内にあるかもしれないなんて幻想に縋り手分けして探したりしていたが今はもうそんな気も起きない。ただ、暑い。

 ダッシュボードに整列したぬいぐるみたちがこちらをじっと見つめている。

 最期の景色がこれになるなんて嫌だ、咄嗟に生気のない妹の顔を見上げる。私はこの子に何もしてあげられなかった。無自覚にでも私は何か愛情とかをあげられていて彼女はそれを受け取ってくれたのだろうか。

 明里の油を含んで束になった長髪が顔にかかってくる。全く不快ではなかった。

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電脳聖杯少女教典 梦吊伽 @murasaki_umagoyashi

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