第6話 人間は常に矛盾を抱えているということに関する説明
遙か向こうに地平線が窺える空間に、リ・ドゥは立っていた。後ろを向くと、そちらには水平線が見える。恣意的に設定された陸と海の境界線はどこにもない。強いて言えば、今は彼女がその役割を担っている。
ここは彼女の中だ。彼女の中なのに、彼女自身がそこにいる。この一見すると矛盾しているように思える構造は、しかし、本来は誰しもが抱えているものだ。それを自覚しているか否かの違いにすぎない。あるいは、一度は自覚したものの、それに対する論理的な批判を根拠として、それを排除した気になっている者も見受けられる。そう……。この構造をずっと抱えているのは、実のところなかなか難しい。本当のところは、リ・ドゥもそれなりに苦しかった。いや、かつてはそう感じていた。今はと言えば、どちらかというと心地良く感じているかもしれない。
彼女は、世界とは何かという問題について、これといったはっきりとした見解を持っていない。それが理由で世界征服を実現することができなかった。それを指摘したのはドルスだ。けれど、その彼は、今は世界を拡張するためにどこかへ出かけている。
自分の物事に対する理解のシステムがどのようになっているのか、リ・ドゥはあまりよく分かっていない。けれど、こちら側の方が安定的だと感じる方向があって、それに従って活動している。世界に対する理解がないから、自分の方から世界にはたらきかけようとは思わないが、他人が世界にはたらきかけるのを阻止しようとも思わない。
空を見上げると、もう、隕石がそこまで迫ってきていた。しかし、不思議とその圧は感じられない。空気の密度も、その温度も、未だに正常を保っているように思えた。それは、当たり前といえば当たり前。それらはすべて彼女のイメージにすぎないからだ。
遠くの方に船が浮かんでいる。何人かを乗せてクルーズを楽しむ程度のもので、今はエンジンは停止しているみたいだった。ぷかぷかと波に揺られている。
一歩後退すると、足が海水の中に浸かる。そうなることを予想していたから、あまり驚きはしなかったが、それでも足が水に触れた感覚は、彼女の背を通って頭まで伝達された。
境界線の位置を調整しようとする動きが生じる。それで、彼女の足は再び海水の外へと出る。
境界線の上にいるから、彼女は陸にも海にも属していない。けれど、現実的にはそのようなことはありえない。だからといって、その様子をイメージできないわけでもない。世界征服を諦めたと言っておきながら、同時に世界を拡張する様をイメージすることも、不可能ではない。
目を開く。
そこは、馴染みに馴染んだ談話室の中。
アナウンサーが姿を消した空間が、そのままテレビの中に残っている。手に持っていたリモコンを操作して、画面を消した。
辺りを見渡す。
何も変わらない。
ただ一つ。
dorusudakega inai.
カウンターの向こう側に回って、小さなカップにエスプレッソを注いだ。それを一度に喉に流し込み、頬に付着した水分を手の甲で拭う。棚の中からチョコレートを取り出して、掌で掴んでも頬張った。どういうわけか、目から涙が零れてくる。甘さと苦しさが同時に成り立つ簡単な例だ。
談話室のドアがノックされる。
リ・ドゥは涙を手の甲で拭いて、カウンターを出てドアの傍へ向かう。
ドアを開ける。見知らぬ老人が立っていた。
「おや、まだこんな所にも……」少し驚いたような顔をして、老人が言った。「お嬢ちゃんも、早く逃げた方がいい。シェルターに隠れるんだ。テレビを見なかったのかい? もう、この星はお仕舞いだよ」
「私は、ここに残ります」リ・ドゥは応じる。
「いや、だから……」
「煩い!」
勢い良くドアを閉めて、リ・ドゥは部屋の奥へと戻る。
またもとのようにカウンターに腰を下ろして、両手で自分の顔を覆った。
社会人、社会に出る、などと言って、子どもや老人、その他もろもろの働いていない人間を、社会の構成員として認めない、世界。
世界とは、何だろう?
人々は、何を恐れているのだろう?
地球の裏側で、隕石が地表に接触した。空間で起こる様々な現象を把握できるリ・ドゥには、それが体感として分かる。まだそれほど大きな被害ではない。今までにも何度かあったように、大地にちょっとした傷が残る程度の被害にすぎない。
リ・ドゥは立ち上がる。
やり直そう、と決めながら。
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