第3話 状況は常に変化するという命題に関する説明

「なるほど、なるほど」突如として、ドルスが頷き始めた。


 リ・ドゥは、チョコチップクッキーを一度に大量に口に含んでから、彼に尋ねる。


「ナニカワカッタノ?」


「いや、何も」ドルスは首を振った。「何も分からないということが、分かった」


「ナニモワカラナイ?」


「そうだ。考えれば考えるほど、分からなくなる」


「ナニガ?」


「何でもそうじゃないか」ドルスは自分でうんうんと頷きながら、話す。「そう……。考えるというのは、要するに、演算するということだけど、演算という手法が適用できる問題は、実のところ限られているんだ。つまり、ありとあらゆる問題に対して、演算をすれば良いというものではない。演算ができるのは、ある程度のデータが蓄積されている場合に限る。データの範囲が不明である場合や、そもそもデータが不足している場合は、演算することはできない」


「ソンナコトニ、イマサラキヅイタノ?」


「君の口には、何が入っているのかな?」


「クッキート、クッキート、クッキー」


「僕も食べたいね」


「ウン、ソウネエ。タベタイネエ……」


「くださいな」


 ドルスがそう言うと、リ・ドゥは口の中のものを自分の掌に吐き出そうとする。実際に数ミリ程度が口の外へ出ていたが、完全に出る前にドルスが彼女の口を塞いだ。


 リ・ドゥは目だけで彼を見る。


 それから、彼女は静かに一度ウインクした。


 店内の、もともと暗い照明が一層照度を低下させて、足もとがやっと見えるか見えないかほどの明るさになった。それから、壁際に置かれているジュークボックスの電源が勝手に入り、トランペットを基調とする色褪せた音楽が流れ出す。


 リ・ドゥはドルスの手を振り払い、立ち上がってジュークボックスの前まで移動すると、本体を足で勢いよく蹴りつけた。腕で蹴りつけたり、頭で蹴りつけることはできないので、足で、と断る意味はいまいち釈然としない。


 ジュークボックスは、蹴られた振動で壁に身体を触れさせる。すると、今度はその揺れが建物全体へ伝わっていく。


 回り回って、カウンターの上にあるグラスが揺れ、中に入っていたコーヒーが少し零れた。


「あーあ」ドルスが言った。「零れてしまった」


 リ・ドゥは自分の席に戻ってくると、髪を一度振り払い、椅子に座る。それから、ドロスをじっと見つめ、最後に彼にキスをした。


 椅子から転げ落ちそうになったドルスを、腕を背後に回して支える。


 なんとか、落ちない、という程度。


 彼の心情も、また同じ。


「それで?」口を離して、リ・ドゥは彼に尋ねた。「何が分かったの?」


「何も」数秒の沈黙ののち、ドルスは首を振った。「何も分からないということが、分かった」


「嘘」


「どうして、そう思う?」


「どうしてだと思う?」


「うーん、僕と君は根底の部分で繋がっているからかな」


「繋がっていない」


「あ、そうか。では、嘘と本当は常に一緒にあるからだ」


「どういう意味?」


「つまり、そういうこと」


 リ・ドゥはドルスの身体に触れていた手を離し、グラスを持ってコーヒーを飲む。それから、一度席を立って、カウンターの向こう側に回り、新しい飲み物を持って帰ってきた。今度は、グラスの中は、大量の氷と、琥珀色の液体で満たされている。アルコールの摂取に段階が移行したらしい。


「それで?」リ・ドゥは首を傾げ、再度ドルスに問う。「何が分かったの?」


「うん、そうだね」ドルスは一度頷き、話し始める。「この世界のどこかに、キーが存在している、ということ」


「キー?」リ・ドゥはさらに首を傾げる。


「そう、キー」ドルスは先ほどの二倍頷いた。


「それは、何のためのキー?」


「世界を拡張するための、キー」


「どの世界?」


「この」そう言って、ドルスは両手を空中で振り、四角形のような図形を描く。「今、ここに、こうやって存在する、この世界」


「拡張すると、どうなるの?」


「できることが増える」


「たとえば?」


「たとえば、空を飛べるようになるとか」


 ドルスがそう言うと、リ・ドゥは両手を叩いて笑った。すでにアルコールが回り始めているようだ。彼女は、自分がアルコールに弱いことを理解していない。何も考えずに成り行きだけで有名企業に就職する学生のようだ。


「それ、本気?」真顔に戻って、リ・ドゥは尋ねる。


「ほかにも、ものを生み出したり、天気を変えたりできるようになる」ドルスは答えた。「うん、そうだな……。世界というのは、特に、人間の世界、と言い換えた方がいいかもしれない。世界を拡張するというよりも、世界へのアクセスの仕方を増やすと言った方が正しい」


「増やして、どうする?」


「増えると、楽しい」


「今は楽しくないのかあ?」そう言って、リ・ドゥはドルスに顔を近づける。


「楽しいよ、とても」ドルスは静かに頷いた。「君がいると、余計楽しい」

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