第2話 蝶を追いかけるバカが一人いた
現在……このだだっ広い寝室には、天蓋付きのベッドの隅に座る俺と灰色の長い髪をゆるっと巻かれたメイドが、部屋の隅で突っ立っている。
先ほど退室した魔王がいつ戻ってくるのかわからない以上、ノロノロとしている場合ではないだろう。すぐにでも動くべきかもしれない。
しかし、病み上がりの身体では俺一人でこの魔王城から逃げ出すことはできないだろう。
そのため、まずはパーティーメンバーと合流して、お互いに助け合いながら、逃げ出すのが生存確率を上げるための最善方法に違いない。
そうであれば、やるべきことはわかっている。
「……えっと、テラさん?」
「はい、なんでしょうか」
「俺の仲間たちの居場所を知らないだろうか」
「……はい、知っております」
一瞬だけテラさんは何かを思案したが返事をした。
——やはり、生かされていたのか。
正直、魔王の考えていることはわからない。
が、とにかく都合が良い。
とっとと合流して、魔王城から一度退散するべきだ。
今の俺たちの力では魔王に勝てないことがわかった以上、安全を確保するのが先決だろう。それから、どのようにするべきか今後の対策を仲間たちと一緒に考えるべきだ。
「案内してくれないか?」
「それは構いませんが……お嬢様はきっと勇者さまにこの部屋にいるようにというニュアンスを含めて、私に勇者さまのお世話を任せたのだと思いますが……」
「……逃げ出してもいい、って魔王は言っていただろ?」
「そうですが……」
「だから、案内してくれ」
ダメもとで念を押した。
てっきり俺の言い分など無視されると思った。
しかし、すんなりとテラさんから返事が来た。
「わかりました」
あ、その前に俺の装備一式を探すところから始めなければならない……。
流石に聖剣がないのは困る……。
「それと……俺の装備の場所、知らない?」
「……わかりました」とテラさんは何かを言いたげように、それでいてため息をつくように返事をした。
▽▲▽▲
テラさんに案内される形で、装備が保管している場所へと向かった。
薄暗い廊下を歩き続けて数分。
魔王城は、いつの間にか戦闘の跡など全く見つからないほどに元通りになっていた。
短期間でここまで修復することなんてできるのだろうか。
物質を元通りに戻すことができる、そんな高等な魔法が存在するのかわからないが、少なくともやはり、今の俺たちでは魔王に勝てないことは確実だろう。
少し先を歩くテラさんが立ち止まった。
「……?」
「ここです。私は部屋の前で待っておりますので、ご自由にお入りください」
「わかった」
どうやらこの部屋に俺の装備一式が保管されているらしい。
とりあえず、重めかしい扉を押して開けると——どこか艶かしい女の声がかすかに聞こえてきた。
「……?」
まあ、気のせいだろう。
俺はとりあえず、足を踏れた。
室内は薄暗い。かすかに光の漏れてくる方へと近づいていくと、剣士——エペスパーダの赤い髪がチラッとカーテンのような仕切りの隙間から見えた。
「エペスパーダ!」
どうやら聞こえなかったみたいだ。
徐々に近づいていくにつれて、それと呼応するようにヒシヒシと嫌な予感が増した。
いや、正確には明らかに女の喘ぎ声に近い艶かしい声が聞こえてくるではないか。
仕切りのカーテンを開けると——かつて剛健実直な剣士だった勇敢なエペスパーダの姿はなく、性獣とかした一人の男がいた。
「お、おい……エペスパーダ?」
「あ……?って、おう!ヘルト、意識が戻ったのか!」
「ああ……って、とりあえずそこのサキュバスから離れろよっ!?」
「まあ、3回はイッたし、とりあえずはいいか」
などとエペスパーダは独り言のように呟いた。
すると、ピンク色の髪のサキュバスは「えー」と抗議の声を上げた。エペスパーダはやれやれと言った表情で「後で続きをしてやるからなー」などと言った。
そして、かつての剛健な剣士だった男はヘラヘラと豊満な胸を揉みしだいた。
俺は何を見せつけられているのか。
かつて剣一筋だった男の姿は、見る影もなく雲散霧消している。
流石に俺の視線に気がついたようで、エペスパーダはガシガシとくすんだ赤い髪を掻いてからローブを羽織った。
「とりあえず、あっちで話そう」
そう言って、だだっ広い部屋の中を移動し始めた。
俺は黙って後をついていくことしかできなかった。
▽▲▽▲
どうやらエペスパーダはサキュバスにゾッコンらしい。
四天王の一人——龍族のドラゴネに敗北して、生死を彷徨う怪我をして寝込んでいた。
エペスパーダが意識を戻したのはつい4日前のことだったらしい。
初めは俺のように警戒していた。
しかし先ほどまぐわっていたピンク色のサキュバス——メルビスさんに献身的に看護された結果、エペスパーダは悟ったらしい。
「それで、気がついたわけだよ。剣士として剣ばかりにかまけていても限界なんだとな」
「はい……?」
「大切なもの……いや、大切な人の存在こそが人を強くするってな……」
どこか遠くの方向へと視線を向けて、エペスパーダはひどく真剣な表情でつぶやいた。
どうやらサキュバスの毒牙にかかってしまったらしい。
それにしたって、この剣士さまは愛と性欲を勘違いしているのかもしれない。
……いや、この場合は違うか。
青春時代を危険な訓練ばかりをしていたため、つい4日前まで童貞だった剣士は、生死の境を彷徨った結果、どうやら雛鳥のインプリンティングのように初めて優しくされた異性に惚れたらしい。そして、初めて性に目覚めたと言うところだろう。
いやいや、これではまるで蝶を追いかける無邪気な少年のようだろう。
その蝶がどこに飛んでいくのかまではわかっていないのだ。
気がついた時にはすでに崖下へと転落する手遅れのところまで来てしまっていることにも気がついていないのかもしれない……。
いずれにしたって、俺が何かを言ったところで今のエペスパーダは聞く耳を持たないことは明らかだ。
「だから俺、ここでメルビスと幸せになるわ!」
どうやら……すでに魔族と闘うという思考は放棄しているらしい。
魔王……なんという策士なんだよっ!
エペスパーダが実直な性格をあらかじめ調べていたとでもいうのか。
剣一筋だったチェリーボーイをサキュバスに襲わせるなんて……小賢しい作戦をしやがって!
いや、待て……もしかしたら剣士は洗脳されているのかもしれない。
そうだよ。真面目な剣士が性欲に溺れるはずがないんだ。
きっと、剣士の心の隙間に入り込むような幻影的な魔術を使って認識を阻害しているんだ。
そうであるならば、まずは聖女——ラヴィー・プルフェに洗脳や幻影魔法を解除させるのが先にするべきことだろう。
とりあえずのところ、今のエペスパーダを頭ごなしに否定せずに関係性を拗らせないように慎重に接することにしようではないか。
「わかった……エペスパーダ。とりあえず今のお前が魔族と戦わないという結論を出したのならば、俺はその意志を尊重する」
「おー勇者!やはり、お前ならばわかってくれると思ったぜ!」
「その代わり……聖女の居場所を知らないか?」
「ラヴィーならば……この時間、教会にいるんじゃないのか」
教会……?
ここは魔王城だろう。
そんな人間界の建物があるとでも言うのか……。
まあいい。
とりあえずはその教会とやらに向かうとするか。
あ、その前に俺の装備はどこにあるんだ?
流石に、下着とローブだけでは心もとないのだが……。
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