9

 バスを降りて家まで走るが、夕食の時間をとうに過ぎてしまっていた。重たいリュックに揺られないよう、ショルダーハーネスをしっかりと握った。

「ただいま」

 扉を開けると同時に叫んだ。リビングに続く扉の向こうから、母親の「おかえり」と言う声が聞こえる。

 山瀬は玄関で少し待った。しかし、山瀬が帰るといつも一番に出迎えてくれる月衣が扉を開けない。帰ってきてないのだろうか。いや、しかし、この時間まで出歩くことを両親が許すわけがない。

 リュックを背負ったまま扉を開けると、月衣はダイニングチェアに座っていた。頬杖をついて、気怠そうにしている。山瀬が帰ってきたことに気づいていないようだった。

「月衣?」

 山瀬は月衣の背中に向けて声をかけた。しかし、月衣は振り返らない。

「おーい、聞こえてる? 兄ちゃん帰ったよ」

 横から月衣の顔を覗いてみると、虚ろな目つきで心ここに在らずといった感じだった。

「帰ってきてからずっとその調子なの」

 母親がキッチンから顔を覗かせた。

「どうしたの? なんかあった?」

「分かんない。話しかけても上の空だし、反応したと思ったら曖昧な返事しかしないし。何考えてんだか」

「調子悪いのかな」

 山瀬は冷蔵庫から水を取り出した。食器棚からグラスを取り、水を注いでいく。

「解が帰るの遅かったから機嫌悪いのかもね」

「マジ? でも帰ってきてからずっとこうなんでしょ?」

「まあそうね。でも何も言わないから」

 母親は呆れたような表情をした。いつも元気な月衣のこのような様子を見るのは初めてのことだった。

「父さんは? なんか知ってる?」

「知らん」

「聞いた?」

「聞いたけど、なんでもないって言うんだ」

「へぇ」

 自分の周りで自分のことを話されているのにも関わらず、月衣は何を考えているのか読み取れない表情をしたままだ。

 山瀬は月衣の肩を揺すった。

「月衣? どうかした?」

 月衣はようやく兄がいることに気づいたようで、目を丸くした。

「え? おかえり。帰ってたんだ」

「声かけたんだぞ」

「ああ、ごめんね。気づかなかった。考え事してて」

「僕が帰るといつも玄関まで来てくれるのに」

 月衣はまた魂が抜けたようになった。初夏の道端に転がっている蝉の抜け殻みたいだ。

「月衣」

「え? ああ、あれ、そうだっけ」

「そうだっけ、じゃないよ。なんか変だよ」

「ううん、別になんもないよ」

「明らかにいつもと違うぞ。兄ちゃん帰ってくるの遅かったか?」

「ん、 え? いや、あ、そうそう。帰ってくるの遅いよぉ、まったく」

 月衣は思い出したように声を張り上げた。取り繕った笑顔はいつものように輝いていなくて、様子がおかしい理由も山瀬にはこじつけのようにしか思えなかった。

 山瀬が夕食を食べている間も、風呂を出てからも、月衣の様子は変わらなかった。目を離したら居なくなってしまいそうで、山瀬は今夜自室で勉強する予定を変更して月衣の側にいることにした。

 山瀬がリビングで単語帳を見ている間、月衣はずっとダイニングチェアに座り込んでいた。単語帳の上から何度か盗み見をしたが、スマホを構い始めたかと思うとすぐテーブルに置いて、また頬杖をついた。

 木々の隙間から光が差し込む月夜の森の中にいるような、静かな時間が過ぎていった。ただ、月衣だけは時間が止まったようだった。

「月衣、なんか飲む?」

 山瀬は立ち上がって月衣の横顔を見た。やはり反応はない。

 目が冴えてしまうとも思ったけれど、どっちみち寝る気配は無いように思えたので山瀬は珈琲を二人分淹れることにした。豆から挽くまでもないかと思い、インスタントコーヒーを淹れる。

 月衣の前に珈琲の入ったマグカップを置く。月衣はマグカップを見たあとに山瀬の目を見て微笑んだ。

「ありがと」

「どうも」

 二人はマグカップに口をつけて珈琲をズルズルと飲んだ。

「月衣、あのね」

「……ん?」

「月衣に何があったのか、分からないけど、それは僕にも言えないこと?」

 月衣はあどけない笑顔を見せる。

「ホントに何もないんだって。先に寝な?」

「何もないようには思えない。ずっとぼんやりしてるし。そこで勉強してたの知ってる?」

 山瀬はリビングの方を指さした。

「え、あ、知ってたよぉ。気づかないわけないじゃん。ていうか、なに深刻な顔してんのさ。やめてよー、なんか空気重いじゃん。窓開ける?」

「寒いだろ」

 そっか、と言って立とうと上げた尻を下ろして珈琲を一口飲んだ。

「兄ちゃん、月衣の側に居るからさ」

 山瀬はさっきから月衣の目が見れないでいた。月衣の顔が酷く強張っているからだ。希望なんて一つもないなんて顔で、絶望とか裏切りとか、そういった類のものだった。

「言いたくないなら言わなくていいから」

「うん」

「話したくなったら、いつでも聞くから。その時、次は月衣が珈琲淹れてね」

 月衣はフフッと押し殺すように微笑んだ。

「優しいね。月衣、お兄ちゃんの妹で良かった。こんな優しいお兄ちゃんいないと思うよ? だって友達のお兄ちゃんの話聞いてると、ああ、月衣のお兄ちゃんは神様なんだなーって思う。いつでも月衣の味方してくれるんだもん。神様より神様だね」

「神様より神様ってなんだよ」

「仏?」

「仏って神様より上だったの?」

「え、分かんない」

 二人はとても久しぶりに笑った気がした——気がしただけなのだけれど、山瀬にとっては今朝の月衣の笑顔が随分と前に感じられた。月衣の広角は上がっていたけれど、どこか冷めた表情だった。笑っているのに笑っていない。それは、目の前にいるのが月衣とは思えないほどに酷く奇妙な表情だった。月衣はもういなくて、月衣のような[何か]が覚えたての笑顔を浮かべて、そこに座っている気さえした。

「もう遅いから寝るね」

「一人で大丈夫?」

「大丈夫だけど、それどういう意味? 一緒に寝てくれるわけ?」

 月衣は意地の悪そうな顔でニヤリとする。

「寂しいなら、一緒に寝てやろうか」

 目を丸くして、次にまばたきをする月衣。意地悪い企みがパリンと割れたように呆気にとられたようだ。

「ううん、大丈夫。お兄ちゃんもゆっくり寝なよ」

「そっか。やっぱり、ってなったら部屋入ってきていいから」

 月衣は扉を開けて、そこで立ち止まった。肩が震えている。たらんと垂れた髪の毛で顔は見えない。

「ありがと、大好き」

 月衣は振り返ることなく扉を閉めてしまった。

 山瀬はぬるくなった珈琲を飲み干し、月衣が残した珈琲は流しに捨てた。

 風が吹いたように感じた。リビングの向こうのカーテンが微かに揺れている。窓が少し開いていることに気がつかなかった。カーテンを少し開けると、月光が山瀬を優しく包み込む。そういえば、いつも履いているショートパンツじゃなくて、長ズボン履いてたな。



 そろそろ桜が咲いてしまう季節になった。後期まで残っていた受験生たちもやっと受験から解放され、のびのびとしている頃だ。山瀬もその一人だった。妹の月衣も受験を終え、兄妹で映画を見に来ていた。

 映画館は東京でもないのに人で溢れ返っており、冬とは思えない生温さに山瀬と月衣は辟易としていた。さすがにこの室温の中、上映までの時間を過ごすなんてことは出来そうもなかったので、隣接しているショッピングモールで時間を潰すことにした。

月衣は服やら鞄やら靴やらあれもこれも欲しいとうるさかったが、山瀬は聞こえていないふりをした。山瀬も新しい服が欲しかったが買うだけのお金もないために諦めた。

 結局、月衣は派手なコートを買った。オレンジ色のロングコートで大きめのポケットが両側に付いていた。そんな派手なコートをいつどのタイミングで着るのか山瀬には分からなかったが、月衣の笑顔が絶えなかったので何も言わないでおいた。

 上映時間の二十分前になったので、服を選んでいる月衣に声をかけて映画館へ戻る。映画館に入ると二人が観る映画のアナウンスがちょうど流れた。売店で飲み物とポップコーンを購入して一番スクリーンに入る。この映画館で一番大きなこの部屋には観客がぎゅうぎゅうに詰まっていた。

 変な暑さが山瀬に不快を感じさせたが、妹との映画デートを楽しまないわけにもいかないので気にしないようにした。

 映画を見終わると、月衣が眠いと言ったのですぐに帰宅することにした。家に着き晩ご飯を食べ終えると、月衣はすぐに寝てしまった。

 山瀬は二十二時頃までリビングにいたが、それからは自室にこもって本を読んだ。受験を終えてから、かつてからの趣味であった読書を再開させたのだ。時間を忘れ無我夢中に読み耽る。読み終わると大抵深夜になっているのでコンビニに足を運んで煙草を喫う。火をつけてから数分すると、スマホが小さな音を鳴らした。

【今何してる?】

 そのLINEは山月からだった。煙草を喫っていることを隠そうとも思ったが、隠す相手でもない。

【いつものコンビニ】

【行く】

 すぐに返信が来る。受験が終わってから初めての山月。山瀬は緊張ながらも嬉しかった。

 十分程するとジャージにマフラーをした山月が現れた。

「あ、煙草」

 山月は怪訝な顔をしたが、嫌がっているようには見えなかった。

「ごめん。本読み終わったからさ」

「浸ってんのね」

「そうそう」

 山瀬は煙草を咥えながら返事をする。

「もう高校も卒業したんだし、いいんじゃない?」

「まだ未成年だけどね」

「それ喫ってる本人が言う?」

 山月はまた怪訝な顔をしたがすぐに大きな口で笑った。山瀬もつられて大声で笑う。二人してすぐに我に返って「近所迷惑だよ」とお互いに言い合った。

「この前なんで同じ駅で降りなかったの?」

「あー、行くところがあったんだ」

 山瀬は察したが、敢えて聞くことにした。

「彼氏?」

「そう」

 山瀬が横目で山月の顔を見ると、さっきまでの笑顔とは真っ逆さまな表情を浮かべていた。山瀬は山月から目線を外して意味もなく大通りを見つめる。見つめる先に何があるわけじゃなかったが、ただ見つめた。

「別れたんだ」

「えっ?」

 山瀬は驚きを隠せなかった。悲しさと嬉しさが一気に山瀬を覆って何が何だか分からなくなった。

「彼氏と別れた」

 山月は見たことないような表情で言った。それはなんとも言い難い表情であった。悲しくもなく嬉しくもなく、かといって無表情でもない。口角は上がっているけれど目は笑っていない。山瀬を見ているのかどうかも分からなかった。

「あの日、次の駅の喫茶店で会う約束してて一緒に帰れなかった、ごめん」

「そんなのは別に良いよ、大丈夫」

「ありがとう」

 山瀬は何も言わなかった。

「あの人は別れないって、絶対別れないって言ってた。けど、結は決心して会いに行ったから自分の気持ちは変えなかった。そしたらあの人何て言ったと思う? 信じられない。次会った時は覚えとけよって言ったの。それが別れたくない相手に言うこと? わけわかんないし、めちゃくちゃ怖い」

「こわ」

 山瀬は意図して軽く返事をする。ここで自分の意見をぶつけても何の意味もないからだ。

「なんであんなこと言ったと思う? 嫌がらせ?」

 山瀬は難しい質問だと思いながら、何か言わなければいけないと考えた。

「彼の想いが強すぎたんだね」

「どういうこと?」

 山瀬は煙草を灰皿スタンドに押し付けて鎮火し、煙草を中に落とした。

「何に関しても度が過ぎるのは良くないんよね。山月の彼の想いは度が過ぎてたんだと思う。山月の事が好きで好きで堪らなかったんだけど、別れを切り出された事でその強い愛が憎しみに変わっちゃったんだろうね」

「じゃあなんで浮気したの?」

「それは、僕は彼じゃないから分からないけど、山月に依存しないためじゃないかな。山月に依存すると嫌がられるかもしれないから、他に逃げ道を作って余裕が欲しかったんだよ」

 山月は黙った。山瀬が座ってる固定式バリカーの隣のそれに腰掛けて、足をぶらつかせた。

「分かんない。その気持ちが分かる山瀬は同じ考えを持ってるってこと?」

「そういうことじゃない。同じ性別だから分かることもあるってこと。それで僕が同じ考えを持ってるってことにはならない」

「そうだよね。山瀬はそんなやつじゃないもんね」

 山瀬は三本目の煙草に火をつけた。

「でも今後の彼は少し様子を見た方がいいかもね。何をしてくるか分かんないから」

「そんなの怖い」

「大丈夫。僕が守る」

 山瀬は自分が言った言葉に驚いた。考えるより先に言葉が出た。

「かっこいいね」

 山月は悲しそうな顔だった。山瀬はそんな山月の顔は見たくなかった。自分ならもっと幸せにしてやれる自信があったし、幸せにしたかった。でも、ここで気持ちを伝え直すのは違うと思った。

「嘘じゃない」

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