10
「知ってるよ」
山月は微笑んだ。山瀬は笑うことはできなかった。笑う場面ではないからだ。真剣な顔をしたまま煙草を喫い続けていた。
ふとコンビニの中に目をやると、雑誌コーナーに黒色のウインドブレーカーを着た中年男性が立っていた。こっちを見ていた気がしたが、気のせいだろう。男性はニット帽にマスクをしていたために顔は見えなかったけれど、どこかで見た覚えがあった。しかし山瀬はどこで見たのか思い出すことはできず、男性はコンビニから出て狭い路地裏の闇へ消えていった。
「一つくれない?」
「え? なに」
山月は面倒臭そうな顔をした。
「煙草一つくれない?」
「ダメだよ。絶対ダメ」
「なんで」
「いいから。山月だけにはあげない」
山月は不貞腐れたが、山瀬は好きな女性に煙草なんてものを喫って欲しくなかった。
冬の厳しい寒さを忘れたように、涼しいようなぬるいような風が吹いている。これが春風かなと山瀬は思った。
人生は山瀬が思っていたほど簡単では無く、厳しい世界だった。
一月末の試験の失敗から続いて思うように点数が取れなかった山瀬は、志望校に全落ちする結果となった。これで山月との輝かしいキャンパスライフは絶たれたのだった。
それからというもの、山瀬は家に帰るのが億劫になり夜遅くまで出歩くようになった。友人の茂田は第一志望の大学に無事合格し、山月は一緒に通うはずだった大学に合格していた。落ちぶれているのは自分だけだとやけになっている山瀬は、一日に一箱の煙草を喫うようになっていた。
山瀬は決まって陽の出ているうちは外に出なくなった。起床するのは夕方で寝るのは空が明るくなってからという日々を繰り返していた。毎日毎日何をするわけでもなく、世界が動いている間はベッドの上で過ごした。
友人などはもちろん家族とさえ話す気が起こらず、食卓を囲む中に山瀬はいなかった。時々、月衣が山瀬の部屋に顔を覗かせ会話しようと試みてくれていたが、山瀬は月衣相手といえども口を開くことはなかった。月衣の話を静かに聞き、むくっと起き上がると月衣の頭を優しく撫でた。月衣の寂しそうな顔を見る度に、妹にそんな思いをさせているという事実をいやに突きつけられているようで、じわじわと山瀬の心を蝕んでいった。
そんな月衣は相変わらず笑顔がぎこちなく、気遣ってくれているのだけれど、どこか無頓着な様子だった。
山瀬はいつもとは違うコンビニの前で煙草を喫っていた。家の近くの田舎に建つコンビニとは違った県内で一番大きいと思われる、新幹線の通る駅の近くのコンビニだった。
青々しく光る看板の光が鬱陶しく感じる。
新しい煙草を一箱だけ買って三本目に火をつけたところで、茂田が遠くに小さく見えた。ゆっくりと近づいてくる茂田を遠い目で見つめながら山瀬は煙草を喫い続け、残り少なくなった缶コーヒーを一気に流し込んだ。
「お前、目に活気が無くなったな」
茂田は来るなりそう言った。心の底から心配しているような顔で、苦笑いしながら。
「深夜にこんなところで何してんの」
「煙草喫ってんの」
「そりゃ見たら分かる」
「じゃあ聞くな」
茂田は何と言っていいか分からないようだった。
「ごめん」
山瀬は強く言い過ぎたと反省する。さっきまで雨がぱらついていたために固定式バリカーには雫が付いていて腰掛ける事ができず、山瀬は苛立っていた。
「結局どこの大学にしたんだ、山瀬」
「行きたくもないFラン大学」
山瀬はフゥーと長く煙を吐いた。白く濃い煙は次第に薄くなって夜空に消えていく。
「なーんも上手くいかないよ」
茂田に一本くれと言われ、箱から取り出して渡す。高校を卒業してから茂田はもらい煙草だけを喫うようになった。山瀬は茂田が咥える煙草に火をつける。茂田は息を吸って着火させると、短く煙を吐く。
「大学なんて結局どこでもいいって」
「第一志望に合格したお前に言われてもなあ」
「まあそんな無下になんなって」
「無下になんかなってない」
「なってるやん。実際、一日に一箱吸うてんやろ?」
茂田は時によく分からない関西弁のようなものを使った。山瀬は関西人ではないので気にはならなかったが、関西人が聞いたら気持ち悪い口調だろう。エセ、と山瀬は思う。
「まあどこの大学行こうが、どこの会社に就職しようが、俺はお前と一緒にいるだけやからな。どこ行っても何しても、お前の隣に俺はおる」
「沁みるね」
「せやろ」
茂田とは出会って仲良くなってからまだ一年も経っていやしないけれど、生涯付き合っていく友人だと確信していた。
「ほんで何しに来た?」
「理由が必要?」
「まあそりゃお前、ここはそんなに近くないやろ」
山瀬は煙草を咥えながら、後頭部をぼりぼりと掻いた。
「お前と居たかっただけ」
山瀬は誰かに言われた言葉と同じようなことを言った。茂田は「そっか」と言ってそれ以上何も聞いてこなかった。ただただ二人の男が煙草を喫う時間が流れ、山瀬にとってその時間は心地よいものだった。
午前五時。空はまだ暗かった。家の前に着くと、窓から光が漏れ出ていて山瀬は珍しいなと思う。日曜日のこの時間は、まだ家族全員が寝ている時間のはずだった。
スマホに目を落とすと、待ち受け画面には大量の不在着信が溜まっており、それは母親と父親の両方からであった。こんなことは今まで無かったので、山瀬は不安に思う。大量の不在着信の他には月衣からのLINEもあり、【高校合格!友達とご飯行ってくる!】【帰ったら一緒にケーキ食べようね】と元気いっぱいの文章だった。その文を見て、昨日が月衣の合格発表の日だったことを山瀬は思い出した。昨日は茂田を呼び出す電話をするためにしかスマホを使ってなかったので、すっかり忘れていた。
玄関に入ると、恐ろしいほどの泣き声が響いていた。どうも母親が泣き喚いているらしい。
山瀬は何事かと急いでリビングに駆け込むと、母親は床に四つん這いになっており、父親は母親の背中を摩りながら、彼もまた顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。父親は山瀬の存在を確認すると「どこに行ってたんだ」と叫んだ。山瀬は答える事ができなかった。今自分が目の当たりにしている状況を掴むことも出来ないし、普段穏やかな父親の叫び声に固まってしまったのだった。
山瀬は自分を落ち着かせ、状況の理解をしようと試みた。母親は泣き崩れ、父親も泣いているが鬼のような形相をしている。月衣の姿は無い。上で寝ているのか家にいないのかは分からない。夫婦喧嘩のようにも思えず、ひたすらに混乱していった。
「ど、どうしたの」
山瀬は恐る恐る父親に尋ねる。母親を宥めていた父親は、怒り狂った表情で山瀬を睨みつける。何か言おうともごもごしたと思ったら黙ってしまった。山瀬は混乱することしかできなかった。母親は自分の涙の中を泳いでいる。窒息しそうになっていて息苦しそうだった。
とりあえず母親をどうにかした方が良いと考え、山瀬はコップいっぱいに水を注いで父親に渡す。父親はそれを受け取って妻に飲ませようとするけれど手の甲で跳ね除けられ、コップは大きな音を立てて割れた。その地獄の化け物の鳴き声のように高く響いた音は非常に大きかったが、母親の泣き声でかき消されるほどだった。
山瀬は洗面所から雑巾を持ってきて床にこぼれた水を拭き始めた。頭がくらくらしている。月衣はどこだ。こんなに大きな泣き声が響き渡っているのに、二階で寝ているとは思えない。ということは月衣はこの家にいない。なぜ居ない。どこにいる。嫌な予感が山瀬の脳裏をよぎった。
「月衣はどこ!」
自分でも驚くほどの大声は、近所、いや隣の区画まで響いたように思えた。その山瀬の声で母親は泣くことをやめた。母親は聞き取れない程の小さな声で何か言っている。聞こえない。
「聞こえない!」
実の母親に怒鳴ったことなど今まであっただろうか。月衣はどこだ。父親はなぜ何も言わない。母親は何を言っているんだ。月衣はどこだ。自分は今なぜ水なんか拭いているんだ。母親はブツブツと何て言っているんだ。月衣はどこだ。父親はなぜ黙り込んでいるんだ。母親に怒鳴るなんて自分は何をしているんだ。何て言ってるんだ。なぜ黙っているんだ。月衣はどこだ。山瀬は思考を彷徨う。息を荒め、涙に溺れた。
「殺されたの」
母親は魂が抜けたように呟いた。彼女の顔には生気なんてものは微塵も無かった。涙でメイクは崩れ、目は恐ろしい程に腫れ上がり、髪は誰かに掴まれて引き摺り回されたかのように荒れ、視線は定まっていなかった。
父親はいつもしている眼鏡をかけていない。山瀬は辺りを見回す。ダイニングテーブルの下に投げ捨てられたように転がっている眼鏡のレンズは細かくひび割れていた。時間が止まったように感じる。音もよく聞こえない。絶望が背後から迫ってくるのが分かる。追いつかれないように必死に逃げなければならなかったけれど、そんなことは出来るはずもなかった。失神しそうになりながら山瀬は力の限り絶望を拒んだ。絶望は濃い黒色をしている。頭が割れそうな程の泣き喚く声が聞こえる。その声が山瀬自身のものであることに気づくには、長い時間がかかった。
それでも、夜は呑まれ朝はやって来た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます