8

 かつて「センター試験」と呼ばれた試験は、大いに失敗した。

 早朝から自宅のリビングでテレビに張り付き、自己採点に臨んだ。採点し始めてから約三十分。山瀬は既に頭が真っ白になっていた。

 あれだけ勉強したつもりでいた英語でさえも、目標にしていた八割超えには程遠い点数。山瀬は自分がこれまでの人生の中で最も情けなく思えてしまった。

 それからの自己採点も酷い点数が確かな数字として確固としてしまって、もっと勉強に専念するべきだったと、今更後悔に沈むことになった。

 月衣が二階から降りてきて、明らかに意気消沈している兄の背中を見て心苦しくなってしまう。どう声をかけてあげようかと必死に考えたが、今はそっとしておくことにした。兄が変な気を遣わないように忍び足で洗面所に行き、水がお湯になるまで少しの間待ってから顔を洗った。歯磨きを済ませ、再びリビングを覗くと、まだ兄は重い空気を纏ったままローテーブルに伏せていた。

 自室に戻ってブレザーを着て、薄化粧を施す。山瀬と月衣が通う高校は、化粧にやたらと厳しいのでバレない程度に着飾る。準備を終わらせ荷物を全部持ったことを確認してから、玄関に向かった。

「お兄ちゃん」

 月衣は靴を履きながら、一から五でいうと四くらいの声量を出した。すると、リビングから「はーい」と活気のない声が聞こえてきた。

「月衣もう行くよ」

「気をつけて」

「お兄ちゃんはまだ行かないの?」

「もうちょっとしてから行く」

 今にも溶けてしまいそうな兄を残し、どうすることもできないまま月衣は家を出た。


 月衣が家を出てから十分くらい経った頃、ようやく山瀬は動き始める。歯磨きは済ませたし寝癖はもう直していたので、あとは着替えるだけだ。今着ている服を脱いで新しい服を着る、という行為がいやに億劫に感じられた。それでも学校を休むわけにもいかないので、仕方なく着替えることにした。

 教室に入ると、案の定自己採点の話題で持ちきりだった。どうにか僕には話題を振らないでくれ、と誰にも挨拶をせずに下を向いて席に座る。しかし山瀬の祈りとは裏腹に、着席して五秒も経たないうちに憂鬱な話題がのしかかってきた。

「おい山瀬、どうだった?」

「なにが?」

 山瀬はわざとらしく恍けた。この態度でどうか察してくれと言わんばかりに。

「自己採点」

「あー、どうかなあ。どうだったかなあ」

 もう試験の話はしたくなかった。寒さで指は痛いし唇は乾燥していて、なぜ生徒たちが登校してくる前に教室の暖房をつけておいてくれないのか、と何の罪もない担任を嫌らしく思った。いや、生徒たちの快適な空間を作ろうと思わないことは大罪のようにも思えるし、されど担任がそこまですべきなのかどうかは分からなかった。

「ねえ」

 山月の声がした。彼女が近づいてきていたことに気がつかなかったらしい。

「私立どこ受けんの?」

 てっきり山月からも自己採点のことを聞かれるのかと思っていたので、山瀬は呆気に取られてしまった。

「名古屋の方の大学受けるよ」

「どこ?」

 僕は名古屋の外国語大学の名前を言った。割と名の通っている大学だ。

「わあ、まじか」

 山月は心から驚いているようだった。「わあ、まじか」の「わあ」が特に声が大きかった。高すぎず低すぎない、丁度良く心地良い声が騒がしい教室内に微かに響いた。

「一緒だ」

「まじで」

 今度は山瀬の「まじで」がやたら大きかった。もし試験に合格したら、同じ大学に通うことができてしまう。その事実を知ると途端にモチベーションが上がってきた。好きな人と同じ大学に受かって、一緒に登校なんかして、昼ごはんを二人で食べて、一緒に講義に参加して、同じサークルに所属したりして、「あの二人デキてんじゃない?」なんて噂が立って、山月も山瀬もまんざらでもない顔をする。完璧すぎるシナリオが完成してしまった。

 さっきまで鬱陶しく感じていた寒さも、今になっては頭が冴える絶好の気温じゃないかなんて調子の良いことも思った。

 知らない間に雨が降っていた。生徒たちは「傘なんて持ってきてない」と嘆いていた。こういう日に傘泥棒が大量発生するのだ。山瀬は自分の傘が盗まれないように早めに教室を出て昇降口に向かった。しかし既に傘は無かった。持ち手にネームペンで「山瀬解」と書いてあったにも関わらず、傘はなくなるのだ。自分の持ち物に名前を書くことが無駄だという考えが山瀬の頭に浮かんだ。

 山瀬は仕方なく雨に濡れて帰ることにした。大粒の雨に打たれながら校庭をとぼとぼと歩いていると、後ろから「待って」と声がする。振り向くと、山月が傘を持って走って来ていた。

「傘持ってないの?」

 山月は赤いリュックのポケットから小さなハンカチを出して山瀬に渡す。正方形のハンカチで、隅に鰐のイラストが描いてあった。

「盗られた」

「やっぱ? こういう日って傘泥棒増えるよね」

 山月は仕方ないと言わんばかりに微笑んだ。

 山瀬と山月は二人で一つの傘に肩を寄せ合って入った。山月の華奢な肩に山瀬の肩が触れる。雨に濡れて冷たいはずの肌が、やけに温かく感じた。二人の周りにいた生徒たちは横目で二人を見ながらひそひそと耳打ちしあっている。山瀬はその状況に気がつき気恥ずかしくなってしまったけれど、山月は気にする素振りもなく床に弾ける雨を見つめていた。



 高校の最寄駅に着くと、山瀬は傘を畳んで滴を落とすためにコンクリートを石突で突く。雨に当たらず乾いていたコンクリートは無造作に濡れた。ある程度乾かした傘を「ありがとう」と言って山月に渡し、彼女は「どうも」と優しい声で言った。

 電車が来るのは数十分後だったので山瀬は山月の隣にそろそろと立った。ホームには人が少なかった。ベンチに座って本を読んでいるサラリーマンと立ったままスマホを構っている女子高校生、やけに化粧の濃い中年の女性がいた。山瀬はぼんやりとその三人を見つめた。特に何も起きることなく雨だけが降り続いている。山月は山瀬が立っている側、つまり左側の髪を耳にかけて目を閉じていた。その横顔は穏やかで儚くて、今にも消えてしまいそうな透明さがあった。

 雨が似合う女性だと山瀬は思う。山月の背景に雨が降っていれば、それが激しい雨であろうと細かい雨であろうと、それは絵画のように思えた。

 山瀬は雨が好きではなかった。気分は落ち込むしやる気は出ないし濡れるし、何よりも湿気で暑くて苛立つ。しかし、隣に山月が居てくれれば雨の日も悪いものじゃないと、雨の日が少しだけ好きになった気がした。

 電車が来たので乗り込むと、車内は蒸し暑かった。「あっつ」と隣で山月が苛立った声で呟いた。山瀬もうんうんと同意を示しながら、二人は四人がけの席に向かい合って座った。山月は小窓に肘をついて外の風景を眺めている。山瀬も窓の外に目をやる。小さな四角で切り取られた世界は次々と景色を変え、あっという間に家の最寄りに到着した。

 山月はまだ降りないようなので、そこで別れることになった。山瀬は手を振り、山月も手を振り返す。プシューという音と共に扉が閉まり、山月を乗せた電車はみるみるうちに小さくなっていった。

 山瀬は改札を出て、キオスクでスナック菓子を購入した。ぼりぼりと菓子を食べながらバスを待っていると、雨が止んだ。バスに乗り込む頃にはさっきまでの雨は嘘かと思うほどに晴れ渡っていて、心做しか山瀬の心も晴れていた。赤信号で止まった時に窓から道路に溜まった雨を見つけた。綺麗に反射して見える反転世界を眺めていると、そこに月衣の顔が写ったように思えた。山瀬は自分と妹の受験が終わったら、一緒に映画でも見ようかと少し心躍った。


 家の玄関に開けると、月衣がリビングからひょいと顔を出してにかっと笑った。

「おかえり」

 月衣はいつも出迎えてくれるのだ。いつも必ず兄より先に家に居て、山瀬が帰るとリビングから顔を出して「おかえり」の一言をかけてくれる。山瀬はその月衣の一言が帰宅の楽しみであった。可愛い妹が、家に帰ると出迎えてくれる。そんな幸せを自分が持てていることが嬉しかった。

「いただきまーす」

 いつも通りに家族四人でテレビを見ながらわいわいと夕食を食べる。母親の作った美味しい料理が、今日一日の疲れを癒してくれる。父親はビールを飲んで顔を真っ赤にして、月衣がその顔を見て父親をいじる。みんなが笑う。

 試験には失敗したが、こうして変わらない家族の中にいると山瀬は救われた気がした。向かいの席で口いっぱいに食べている妹を見て、山瀬は可笑しくなって心の底から笑った。


 夜は更け家族は寝静まり、掛け時計の音だけが聞こえる中、山瀬は勉強に励んでいた。一月末の試験が終わったとしても、まだ受験は続いている。私立大学の試験に国立大学の試験。気は遠くなりそうだったが、何せ私立大学については山月と志望が同じなのだ。それだけで山瀬は頑張れた。

 扉をノックする音が聞こえた。集中していた山瀬はビクッとして扉に目を向ける。そっと扉が開くと、隙間から月衣の顔が見えた。

「お兄ちゃん、まだ勉強してるの?」

 時計を見ると、午前三時を回っていた。

「まだ起きてたのか」

「トイレから帰ってきたら、お兄ちゃんの部屋から光が見えたから」

 寝癖の激しい妹は、兄を心配してくれたようだった。

「何か飲み物いる? 月衣はココア飲むけど」

「あーじゃあ、コーヒー」

 月衣は「分かった」と言って部屋を出ていった。数分すると戻ってきて、二人分の飲み物を置くと部屋を出ていき、なにやら自室で忙しそうにしていると思ったらまた戻ってきて、今度は問題集とノートを持っていた。

「月衣ももうすぐ試験あるから」

 月衣はそういって山瀬の部屋のローテーブルに問題集やノートを広げ勉強を始めた。

「自分の部屋でやったら?」

「ここの方が集中できる気がする」

 山瀬は一人で集中して勉強したかったが、月衣も一言も喋らずに集中していたので許すことにした。

 山瀬はひと段落ついた時にふと妹に視線を落とした。二人して志望する学校に受かり、一緒に喜ぶイメージをするとふふっと声が漏れる。「何笑ってんの」と月衣に不思議そうな顔をされたが「何でもない」と返した。

 自分も妹も明るい未来が待っているといいなと山瀬は思った。



 ドーナツを一口食べてしまうと、これを食べ終わってから勉強しようという気持ちになってきた。砂糖をそのまま食べているんじゃないかと錯覚するほどに甘々しい。新発売という文字にまんまと釣られて買ってしまったことにはもちろん後悔し、加えて、メロンソーダと合わせてしまったことにも後悔している。甘いものと甘いもののブレンドは、どうにも相性が良くない気がしてきた。しかし、怪訝そうな顔をして飲み食べするのも失礼かと思い、かと言って嬉しそうな顔で食べることも無理難題なので、無表情に徹することにした。

 味は無い。味は無い。味は無い。

 効き目の無さそうな呪文を心の内で唱えながら、無表情で頬張っていく。頭を使う時は甘いものが良い、なんてどこかで聞いてしまったばかりに苦悩を招いてしまった。

 あと一口。あと一口だけれど、されど一口なのだ。うぷっとしそうになり、ダメだダメだと必死に抑える。この一口さえ飲み込んでしまえば、ようやく勉学に励むことができる。うぅ。

 やっとの思いでドーナツを浚えると、酷く疲労してしまっていることに気がついた。やっぱり、もう少し休憩してから勉強しよう。

 山瀬はポケットからスマホを取り出して、SNSを巡回していく。興味を惹く話題は何も無さそうだった。つまんね、と吐き出してスマホを仕舞う。

 名前も知らないアイドルグループの歌が小さく流れている。誰のどういう曲が分からない音楽は、ただの雑音としか思えなかった。

 山瀬は店内をぼんやりと見渡した。店内は九割を女子学生で占めていて、この甘い香りがドーナツによるものなのか、はたまた女子学生によるものなのかは分からない。そんなドーナツ屋に男一人で座っているというのは些か羞恥心を患うものであったが、山瀬にとってこのドーナツ屋は自習室みたいなものだった。

 知らない音楽と知らない顔。勉強の妨げになるものが存在しないこの空間を山瀬は気に入っている。強いて言うならば、ドーナツを食べたくなることが唯一の妨げであった。

 ようやくシャープペンを握る。教科書とノートを開き、英語の問題を解き始める。


1 次の問いの空欄に入れるのに最も適当なものを、それぞれ下の①〜④のうちから一つ選べ。

Due to the rain, our performance in the game was ( ) from perfect.

① different ②free ③far ④apart


 山瀬はノートに③と書いた。

 山瀬はこの形式の問題がとても苦手だった。普段なら正解を導ける英文でも、四つも選択肢を提示されてしまっては他の選択肢も正解のように思えてきてしまう。いつも、この形式の問題で時間を取られてしまう。

 英語の過去問を解き終えたところで、ふぅと一息ついた。解答ページを捲り、一つ一つ丁寧に答え合わせをしていく。

 マル。マル。マル。バツ。マル。

 それから各大問の点数を計算し、総合点数を出した。九十三点。山瀬は小さくガッツポーズを取った。前回より六点上がった。この点数を本番で出すことができたのなら合格も夢じゃない、と山瀬は心踊った。

 五教科全てを解き終えて点数も出したところで店内の掛け時計を見ると、午後八時を回っていた。山瀬は急いで帰る支度を済ませ、軽快に会計を済ませて店を出た。

 外はすっかり夜風に冷え込んでいて、街が月の微光に照らされていた。

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