7
ピピピピ。ピピピピ。山瀬はアラームの音で目を覚ます。時刻は午前六時半になるところであった。まだ眠たいところではあるが、呑気に「眠たーい」と言っている場合ではない。
とりあえず体を起こし、限界まで伸びる。クゥーッと犬の鳴き声のような声を出し、ハァとため息をついて脱力した。のそのそとベッドから降りると、床に英単語帳が転がっていた。それを拾い上げ、リュックの中に押し込む。サァーッとカーテンを一気に開けると、そこには雪景色が窓いっぱいに広がっていた。
扉を開け自室を出る。月衣の部屋の前を通って、踏み外さないようにゆっくりと階段を降りていく。キッチンの方から忙しそうな音が聞こえてきた。忙しそうではあるが、なんというか、理不尽な悪とは無縁な、平和な朝とでも言うべき音でもあった。
「おはよう」
母は卵焼きを作りながら、目線は焼かれる卵に向けたまま山瀬に声をかけた。
「おはよ」
山瀬は、重い瞼を擦りながら反応する。
朝食の甘い香りに反応して、腹がぎゅるぎゅると鳴いた。山瀬は、反射的に腹に手を当て、そっと撫でる。
廊下を渡って洗面所に入り、取っ手を手前に引くと、水が勢い良く流れ出た。その勢いに鈍く驚き、少し弱めてから手のひらに水を溜め、一気に顔面を濡らす。それで幾分か目が覚めた。ブラシを手に取り歯磨き粉を少量だけ乗せて、ブラシと歯で泡立てていく。口内が泡でいっぱいになると一度吐き捨ててからもう一度磨き始めた。満足がいくまで磨き終えてから、口に水を含んで念入りに濯いだ。
スリッパを脱ぎ風呂場に入る。シャワーヘッドから飛び出す水がお湯に変わるのを待ってから、寝癖を直すために髪を濡らしていく。白いバスタオルで手荒に拭いてドライヤーで乾かす。乾かす時は、髪とドライヤーを少し離すのが、山瀬の小さなこだわりであった。
「朝ごはんできたよー」
母親の声がする。腹は、腹痛を覚えるほど減っていた。
ダイニングチェアに腰掛け、朝食を頬張っていった。いつもと変わらない朝食であった。
父親は既に仕事へ出ており、月衣はまだ寝ている。時刻は午前七時を過ぎていた。
朝食を食べ終え、山瀬は自室に戻る。リュックには、先程押し込んだ英単語帳と歴史の一問一答ブック、数学のチャート、国語と理科の参考書が入っている。しっかり全て入っていることを確認してから、ズボンを履き、カッターシャツのボタンを閉め、学ランを羽織った。靴下を履いて、黒のベルトの腕時計を左手首に巻きつける。
リビングに戻り、弁当を参考書たちの上に乗せてチャックを閉じた。リュックを背負い、軽くジャンプをして位置を整える。
「じゃあ、行ってきます」
山瀬は、少し緊張を感じながら、母親に視線を向けた。
「頑張ってね。応援してる」
ありがとう、そう言ってから山瀬は靴を履き、そして扉を開けた。すると、階段の方からドタドタと大きな音がした。月衣が慌てて階段を降りてきたのだった。
「危ないよ」
「こら、危ないでしょ」
山瀬と母親の声が重なる。
「ごめん、寝坊した!」
月衣は、まだぼやけている頭をどうにかはっきりさせながら、山瀬を見つめた。
「お兄ちゃん、頑張ってね」
「おう」
山瀬は、気恥ずかしそうに返事をした。
二人の見送りを後にした山瀬は、家の門先で両手を広げ伸びをした。よしっ、と小さく喝を入れると、試験場へ向かって歩き出した。
ザクザク、と雪を踏み押す音が聞こえる。駅が近づくにつれ、その音の数は増えていった。駅のバスターミナルでは、多くの受験生たちが、バスを待ちながら参考書を眺めている。山瀬も負けてはいられまいと、リュックの中、弁当の下から英単語帳を引っ張り出してペラペラとめくり始めた。
気持ちを落ち着かせようと深呼吸をしてみれば、甚だ冷たい空気がスゥーッと鼻を通り、肺へ流れ込んでいった。しかし、緊張はさほど解れはしなかった。
バスの中は生暖かった。それはまるで、人が次から次へと死んでいく小説を読み終えた後の空気感のような、いささか吐き気を催すような、つまりは気持ちの悪いものだった。
山瀬は窓側の席に着いたのだが、隣の席に座ってきた男がそれはそれは体格の良い男で、なんとも身動きの取りにくい環境だった。終いには、こんなにも冷たい冬にも関わらず大量の汗をかいており、またその醜さが、生暖かいこの車内の空気をより一層悪くした。
息が詰まるような思いで、やっとのこと試験会場に到着した山瀬は、深いため息をついた。
会場の前に張り出されている座席表の中に、自分の受験番号を探す。なかなか見つけられないでいると、ポンッと肩を叩かれ振り向く。
「席どこ?」
山月の綺麗な声に多少うっとりしながらも、残り一時間半という制限に焦りを覚えた。
「あった」
山瀬は自分の席を見つけることができ、さらには、後ろの席が山月だということも確認ができた。
「前後じゃん」
「ホントだ。後ろからちょっかいかけないでね」
「しないよそんなこと」
山瀬と山月は会場に入り、各々席に着いた。試験まで一時間二十分。
最後に足掻いてやろうと、一限目の英語へ向けて単語帳をめくる。以前と比べて付箋が少なくなった単語帳を見て、今までの努力を感じた。ここが正念場だ、と改めて気合いを入れ直す。
「おはよー」
試験まで一時間程となった頃、茂田が会場に入ってきて、山瀬に話しかけた。
「おはよ。もう一時間しかないよ」
「知ってる。山瀬、もう勉強はよせよ」
「何でだよ」
茂田は、分かってないなと言いたそうな顔をした。
「今更足掻いたって、もうどうにもなんねーよ。やめやめ」
山瀬は、多少ムカッとしたものの、それも一理あるなと思い直し、潔く単語帳を閉じた。やれることはやってきたのだ。自分を信じて臨むしかない。
会場が賑やかになってきたと思ったら、すぐに静まりかえった。受験生たちが、自身が受験生だという自覚を持ち、緊張を隠せなくなっていたのだ。
時計の秒針の音が聞こえ、その緊張に拍車をかけていった。山瀬は、少し気分が悪くなり始めた。リュックから水筒を出して水分補給をすると、僅かに心が鎮まった気がした。
スーツを着た知らない男が全受験生の前に立ち、説明をし始めた。会場にピリッと小さな音を立てて、約二百人の緊張が交じりあっていった。
一月末に行われた、人生が決まる試験の三週間前のこと。
短かった冬休みが終わり、新年が明けてから一週間も経たないうちに、学生たちは勉学に励み始めていた。
雪が溶けて、歩くたびにべしゃべしゃと不快な音に苛立ちながらも、山瀬は最寄駅に向かって歩いていた。土と混ざり合った、見るからに汚い水に濡れないようにズボンの裾をいつもより一回多く折ったものの、白い足首がやけに目立ち、それが山瀬の苛立ちをより強くしていた。
昨晩、茂田から【明日、一緒に登校しようぜ。七時半に駅集合な】と連絡があった。最寄駅に到着したのは、七時半の少し手前であったため、少し余裕を持って行動できたことに小さな幸せを感じていた。
付箋が多く貼られた英単語帳を、寒さで悴んだ指でゆっくりと捲っていく。冬休み中も勉強したから多少は付箋の数が減ってはいるが、やはり他人と比べるとその量は明瞭であった。
七時三十五分になると、電車が停車した。まだ茂田は来ていない。まあ、もう少し待ってやろうと、この電車は見送ることにする。英単語の復習もキリが良くなかったから、特に気にしてはいなかった。
次の電車がやって来たのは、七時五十分だった。まだ茂田は来ていなかった。しかし、この電車を見送ってしまうと自分がホームルームに間に合わなくなってしまう。山瀬は茂田への苛立ちと少しの心配を駅のホームに残して、電車に乗り込んだ。
朝のホームルームでは、担任教師が今月末の試験について、説教じみた話をしていた。
寒くて苛立つし、試験が近くて苛立つし、眠いから苛立つのに、朝から教師のつまらない話を聞かされている生徒たちは、みな辟易していた。
茂田は間に合ったのだろうか。
一限目の剣道を終えたあとの、国語の授業の眠さといったら、それは何とも言いようがないものだった。クラスの九割は、死んだように机に伏せて寝ているし、教師も起こす様子はない。山瀬は起きていたのだが、睡魔に勝てるわけもなく、しかし負けることもなく、頭を前後に揺らしながら、どうにか寝まいと葛藤し続けていた。
五限までの授業を、全て睡魔と戦いながら無事に終え、下駄箱からスニーカーを取り出す。すると、後ろから自分の名前を呼ぶ声が近づいてくる。その声の主は、マフラーを手に持ち、大きなリュックを右肩に引っ掛け、バタバタと忙しそうに走って来ていた。
「朝はホントにごめんー」
走ってくるなり、茂田は頭を深く下げた。
「いいよ、別に。まあ、多少イラッとしたけどね」
周りの生徒たちは、何事かと目を丸くしている。
茂田は、学校から駅までの間、自分が決めた集合時間になぜ遅れたのか、その理由について早口に話した。昨晩は遅くまで起きていたこと。朝はアラームの音に気付かずに眠りこけていたこと。急いでいるのに、母親が大量の朝食を作ってしまっていたこと。一度家を出たのに、すぐに母親から、妹が弁当を忘れたから取りに帰ってこいと連絡があったこと。途中で重そうな荷物を持った老婆の手伝いをしたこと。たくさんの理由を、次から次へと、申し訳なさそうな顔を添えて述べた。最後の理由については、嘘か本当かの審議はしないでおいた。
昼休みに、教室の隅で弁当を食べていると、山月が近づいてくる。「ねえ」と声をかけてきたが、正直どういう顔で話せばいいのか分からなかった。
山瀬は弁当から目を離さないまま「ん」と、反応したくないけれど反応しなかったらもっと距離が遠くなるようで、もちろんそんなことになるのは嫌だ、という反応をする。
「やっぱ気まずい?」「そんなことない」
考えるよりも先に、言葉が出てしまった。
山月の顔を見れないから、彼女がどういう表情をしているのかは確認できなかったが、おそらく驚いているのだろう。いや、もしかしたら、安堵しているのかもしれない。
山月の反応を知ることもないまま、山瀬は、冷めた卵焼きを、まだたくさん入っている口の中に押し込んだ。
「それなら良いんだけど」
山月の声は、寂しさを含んでいるように思えた。そう聞こえてしまうのは、思い上がっているだけかもしれないのだが、確かに、山瀬にはそう思えた。
「あの、さ。山瀬さ。やっぱり、結のこと避けてる?」
ここで、ついに山瀬は山月と目を合わせることになった。
「いや、全然。ホントに全く、避けたりなんかしてない」
本当のところ、山月のことを避けていたのかもしれない。しかし、避けたくて避けている訳ではなかった。どうしたら良いのか、どんな話をすれば良いのか、ただただ分からなかっただけだ。
「ホント?」
「うん、マジで」
「ホントにホント?」
「うん、マジでマジで」
確認と証明のぶつけ合いが、暫く続いた。
「お茶でもしてかない?」
山月の提案により、放課後に駅近くのカフェで待ち合わせることになった。学校から一緒に向かっても良かったのだが、また周りの生徒にあーだこーだ言われるのを避けるために、現地集合ということになった。
カフェに向かっている途中、「カフェ」という言葉について考えていた。「カフェ」は英語で書くと「café」となる。そして、カフェで飲むものと言ったらコーヒーである。「コーヒー」は英語で書くと「coffee」となる。これを発音良く言うと、「café」の発音と似ていることに気が付く。
結論は出なかったが、歩きながら「café」「coffee」と呟く変態になることはできた。
カフェに到着すると、山月は先に席に座っていた。店員に「何名様ですか?」と聞かれたが、「あ、もう連れがいます」と答え、椅子を引いた。
「何か頼んだ?」
「ううん、待ってた」
山月は首を横に振った。程よい長さの髪が、少し遅れて左右に揺れた。
やはり、予想していた通り、静かな時が流れることとなった。小さくお洒落な音量で流れるBGMが、やけにうるさく感じた。
ホットコーヒーは、湯気を立たせることを止め、二人と同じように、静かにそこにいた。どちらかが動いた拍子に、微かに揺れ、波打っていた。
山瀬は、沈黙に耐えられなくなってきていた。落ち着いたカフェで、落ち着かずにいるのは、山瀬だけのように思えた。その孤独感が、さらに山瀬をそわそわさせた。
山月が咳をすれば、山瀬は小さく驚く。山瀬がゴソゴソとリュックを、意味もなく漁ってみれば、山月はその行動を目で追った。
淡く燃える夕日はいつの間にか眠りにつき、薄暗く、鬱のような空がゆっくりと目を開ける。
「なんか、話が、あった?」
おしぼりを指で引っ張ったりつまんだりしながら、いつもより少しだけ高い声で尋ねてみる。
「あー」
山月は、いつもより少しだけ低い声だった。
「特にないかなー」
未だにおしぼりに構っていた。窓の外からの光で、青白く染められたおしぼりに視線を落としながら、「特にないかなー」に対する答えを探る。
山月の目を見る。
「じゃあ、なんで」
「なにが?」
「この時間……?」
「理由が必要?」
「いや、必要っていうか、単純になんでだろうなーって」
「つまんない?」
「いや、違くて。そうじゃなくって」
「なに?」
「怒ってる?」
少しだけ低い声と、質問ばかりの山月の発言に、山瀬は恐れざるを得なかった。
「全然怒ってない」
「え?」
「全然、怒ってない」
「いや、聞こえなかったんじゃなくて」
「あー。なんでカフェに誘ったのかって?」
山瀬は、うんうんと大袈裟に頷く。
「それは」
「それは?」
「君と居たかっただけ」
スッ。今、山瀬の背筋がスッとなった。そして、一瞬、ほんの一瞬だけ時間が止まったように山瀬には感じられた。
時間は確かに止まっていた。けれど、何故だか山月からの甘い香りだけは感じることができた。
「そっ、か」
山瀬は、語尾を濁らせた。
色々なことを山月に尋ねたい。でも尋ねられない。なぜ尋ねられないのかは分からない。単に格好をつけたいだけなのかもしれないし、山月の気持ちを考えてのことなのかもしれない。自分の気持ちとか考えとか、そんなものは自分にしか分かりっこないはずなのに、どうしてか山瀬自身にも分からなかった。
ついに、歪に欠けた月だけが寂しそうに浮かんでいた。
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