6
視界の下から上へ、副流煙が立ち昇っていくのが見える。左手の人差し指と中指の間には、一本の白い煙草が挟まれていて、その先では赤い微光がジジジッとゆっくり燃えている。何も考えずにその微光を見ていると、時間の流れがいつもより遅く感じるのだった。
真っ白な煙はどんどん上へと消えていく。闇に飲み込まれるように、上へ行くほどその色は薄くなっていき、次第に完全に消える。
今日は月が見えず、星さえもが姿を見せていなかった。それとも、コンビニが放つ光が強すぎて、何万光年も先の光が見えなくなっているだろうか。そして、いつものことながら、信号機の三色の光は誰のためでもなく働き続けていた。
「お兄ちゃん」
山瀬はその声に鳥肌が立つ。煙で濁った視界の先には、月衣が立っていたのだ。山瀬は焦りに焦り、自分は別人だと振る舞おうなんて、意味のない考えなども頭をよぎったのだが、やはりそんなことは出来ようもなく、愛する妹に降参することになってしまった。
「煙草、吸ってたんだね」
月衣の声には、悲しさや寂しさ、軽蔑の意味は含まれていないように感じた。ただ、その事実の確認、といったところだろうか。
「うん。内緒にしてたんだけどね」
「お父さんとお母さんも知らないの?」
「もちろん知らない。これからも言う予定もない。というか、多分父さんと母さんが知ったら、めちゃくちゃ怒られるだろうね」
山瀬は怯えた顔でその状況を想像してみると、なんともそれは、世界の終わりのように感じられた。
「月衣は言わないよ」
「それはありがたい」
月衣は、心做しか得意満面であった。私は味方だよ、なんて月衣の横顔を見て、山瀬は心深く安堵したのだった。
二人して固定式バリカーに腰掛け、人気の無い通りを只々見つめていた。出来るだけ月衣に煙がかからないよう、月衣とは反対方向に息をはき、妹の寿命を縮ませないよう努めた。
「そういえば、何でこんなところいるんだよ」
「お父さんとお母さんがもう寝たから、暇になって、お兄ちゃんはどうせコンビニだろうなと思ったから」
「さっき、危機感が無さすぎる話をしたように思うんだけど」
月衣は部屋着の上にダウンコートを着て、外に出てきたようだった。分厚いダウンコートの下からは、細くて白い足が見える。
「ここまでに変なやつがいたら危ないだろ」
「いなかったよ」
「それはたまたま運が良かっただけなの」
山瀬が月衣を叱る理由の大半は、これだった。心配するあまり、月衣の自由を奪いかねないと思いつつも、やはり心配なのは変わらなかった。しかし、月衣からしてみれば心配性の兄を持ったな、というくらいのことであり、自分が危機感を持っていない、という認識は薄かった。
「変な奴に出くわしても知らないからな」
山瀬は、敢えて意地を悪くして、突き放すように言う。
「えー、それはお兄ちゃんが守ってよ」
山瀬は月衣のこういうところに弱い。わがままで甘え上手な、そんなところに弱く、そしてそこが愛おしかった。
「まあ、それは当然、僕もそうするさ」
山瀬は少し照れながら、しかし確実な言葉を返す。
「世界一の兄ですなー」
三つしか変わらないこの妹は、これまでも、そしてこれからも自分が守っていかなければならないと、やはり今までも思ってはいたのだが、改めてそう思ったのだった。
「さあ、帰ろうか」
うんと言った月衣は、両手をポケットに突っ込んだまま小走りした。
「おい、置いてくな」
そう言う山瀬を背に、月衣はコンビニの敷地から出た。月衣はそこで立ち止まり、くるっと回転して山瀬の方へ振り返ると、大好きだぞ、と兄に向かって愛を呟いた。
「なんか言った?」
山瀬は上手く聞き取れなかった。
しかし月衣はまた、くるっと回転して背を向けると、ゆっくりと歩き出した。
「何でもないよー」
歩く振動で、月衣の髪がふわふわとリズムを刻んでいる。山瀬は月衣に駆け寄り、隣を歩く。やはり、浮かない顔などしていなかったよなと山瀬は思い、自分の隣を歩く平和を優しい目で見つめるのだった。
風はいつの間にか止んでいた。寒いねと言いながら歩いていると、自販機の場所まで戻ってきていることに気がついた。山瀬は、ふといなくなった猫を思い出す。買ってしまった餌をどうしようかと考えていると、月衣がお腹すいたと声を漏らした。
「帰ったら何か食べるか」
山瀬は月衣の期待に応えるように、何か作ってやるという意味を込めて言った。
「やった」
月衣は嬉しそうにスキップをしてみせた。さっきよりも激しく、月衣の髪はリズムを刻んでいる。
新年を明けた山瀬は、とても気分が良かった。
雲は無くなっていて、月がよく見える夜となった。星も次々と顔を出し、暗かった空が明るく見えた。それは、月衣のおかげかもしれないと、そう強く思ったのだった。
ツマミを左に回すとカチッと音がした。チチチチチチ。ボボッ。
フライパンをコンロの上に置いて油を垂らす。フライパンをくるくると回して全体に行き渡らせ、フライパンも油もある程度熱したところで豚肉を優しく置く。豚肉が色づいて来たのを確認し、ざく切りしたキャベツ、ニラ、細切りにした長ネギ、薄めに短冊切りした人参を合わせて炒める。塩胡椒を適当に振る。野菜がしんなりしてきたら、出汁、調理用酒、醤油を入れて、最後にうどんを加える。
食器棚から皿を二つ。月衣にコップや箸を用意させて、お茶を注いでおいてもらう。均等になるように皿に盛り付ける。ここで、ハッとする。山瀬は右側の皿から左側の皿に適量移した。出来たよー、と声をかける。月衣は嬉しそうにニコニコしている。山瀬は、多めに盛り付けた方の皿を月衣の前に置いた。
「焼うどん!」
興奮した様子の月衣はコップのお茶を飲み干した。
「月衣、好きだもんね」
「うん!」
両親はもう眠っている。山瀬と月衣、二人だけの時間に山瀬は嬉しさでいっぱいになっていた。
「いただきます!」
「いただきます」
月衣は一口食べると、口をいっぱいにしてこもった声で「美味しい!」と大袈裟に褒めてくれた。いつも褒めてくれる。出来の良い妹だ。
なんだか静かすぎるので、テレビの電源をつける。まだバラエティ番組は続いていた。若手芸人! とテロップが出ているけれど、良い歳をしたおじさんを若手と呼んでいいのだろうか。
「お兄ちゃん」
口にうどんをいっぱい詰め込んでいる。
「ん?」
「お兄ちゃんってシスコンなの?」
「は?」
「だってね。この前学校でさ、お前の兄貴シスコンだもんなって言われた」
目をまんまるにしている。そう言われたからといって、嫌というわけではなさそうだ。純粋な質問なのだろう。
「うん、シスコン」
「やっぱ!」
へへ、と笑った。あどけない妹は無敵だ。ちょっと微笑むだけで、これほどまでに兄の心を揺さぶるのだから。
「でも、月衣もブラコンでしょ?」
「そだね」
あっさりと認めた。こんなに幸せな兄妹っているのだろうか。月衣の笑顔のおかげで、焼うどんはさらに美味しく感じる。
「あのさ、月衣」
「なに?」
山瀬はお茶を一口飲む。それから月衣の目をじっと見た。
「ありがと」
月衣はまばたきをした。兄からの唐突な感謝には、さすがに驚くのだろう。山瀬は恥ずかしくなってしまった。
「深い意味はない。いつも感謝してるだけ」
「何に感謝してるの?」
「はあ? 言わせんなよ」
「言ってくれないと分かんない」
月衣は意地の悪い顔をしている。分かっていて言っているのだ。前言撤回。全然出来の良い妹じゃない。
「いつも、おかえりって言ってくれてありがと」
気恥ずかしい兄は、やけくそに言った。妹はご満悦のようだ。
「へへ、良いってことよ」
したり顔をする月衣を見て、山瀬は目を逸らした。バラエティ番組は既に終わっていた。
月衣が生まれた時のことを思い出した。髪のない頭、小さな手、小さな足、消えてしまいそうな寝息。幼いながらに覚えている。母の手にぶら下がるようにして月衣の顔を覗いた時、衝撃が走った。雷が自分に降りかかったような感覚だった。大事にしよう、そう思った。
月衣の小学校の入学式。山瀬は母親に頼み込んで同席することになった。どうしても、可愛い妹の入学を祝いたかったのだ。
初めてのランドセルを背負った月衣。実際のところ、ランドセルが月衣を背負っているようにも見えたけれど、そこが可愛かった。
「ランドセルに背負われてるね、月衣」
母親を見上げる。母親の後ろで入学生を照らす太陽がとても眩しかった。
「あんたもそうだったよ」
「うっそだあ。僕はもっとかっこよかったでしょ」
「あんたもちっちゃかったの」
「もう大人だし」
「どこがよ」
母親は嬉しそうに笑った。山瀬は何が面白いのか分からなかった。いつまでも子供扱いは辞めてほしい。僕だってもう大人で、ちゃんと月衣のお兄ちゃんできるんだ。
「大人だから、月衣のこと守れるもん」
「頼もしいなあ。じゃあ月衣のこと頼むね、お兄ちゃん」
「任せとけ!」
教室から出て来た月衣が走ってくる。泣きそうな顔をして、山瀬に向かって全速力で走っている。その小さな体を大きく振って。その勢いのまま兄にしがみついた。
「お兄ちゃーん」
初めての場所が怖かったのだろうか。他の子がもう友達を作って楽しそうに話している中、月衣は山瀬にべったりだった。
しかし、入学式では怯えていた月衣も、一ヶ月ほど経った頃にはようやく友達もできて楽しい学校生活を送った。それでも、廊下で山瀬とすれ違うと、友達を放ったらかしにして兄に抱きつく始末だった。甘えん坊な妹に困ってしまう山瀬だったが、決して嫌ではなかった。友達の前で妹に抱きつかれようと、それを見た友達にからかわれようと、妹がこの世で一番大好きな山瀬にとってはむしろ自慢であった。
月衣が小学校高学年になっても、中学生になってからも、月衣の態度は全く変わらなかった。周りに「珍しい兄妹」と噂されることもあったけれど、山瀬は存分に月衣を甘やかし、可愛がり、愛情を注いだ。叱ることはあっても怒ることは決してせず、優しい笑顔で話を聞いてやる。当たり前のようにしていたことなので、両親に「解は優しいね」と言われた時は首を傾げた。
月衣のお気に入りは焼うどんだった。幼い頃から定期的に焼うどんをせがまれ、山瀬の焼うどんスキルは上がる一方だった。
兄にゾッコンな妹に恋人はできるのかと不安になることもあるけれど、できたらできたで嫌でもある。恋愛相談なんか乗ったこともないし、されたこともない。月衣の昔からの口癖は「お兄ちゃんがいるもん」だった。山瀬は、もし自分が恋人を作ったら月衣はどう思うのか、という悩みを抱えた。妹のことは好きだが、もちろん好意を寄せる異性は少なからずいた。今だって、山月という好きな女性がいる。月衣は応援してくれるだろうか。
焼うどんを食べ終わった月衣は、リビングのソファに寝転がっている。山瀬は洗い物を済ませてから、ソファを背もたれにして床に座った。
「お兄ちゃんもソファ座る?」
頭の後ろから月衣の声がした。掠れなんて全く感じない、限りなく透き通った声。
「いや、僕はここで大丈夫。月衣が使いな」
「りょーかい」
しばらく、ニュースをぼんやりと眺めた。月衣はスマホをいじっている。
空が色を付け始めている。部屋が薄い青色に包まれていき、冷たさを感じた。暖房は付いていて充分に暖かいのだけれど、部屋の色が冷たいと寒さを感じてしまう。
他人事とは思えない殺人事件のニュースを見つめる。新年早々、こんな酷いニュースを流してもいいものなのか。
四十代男性 女子高校生を殺害。
塾帰りの女子高校生を待ち伏せ。
性的暴行を加え、のちに殺害した模様。
『殺すつもりじゃなかった』と供述。
『気持ちを伝えたら、キモいと言われたから』
『気づいたら死んでました』
犯人の言い訳。
『明るい子でした』
近所のA子さん。
『死んじゃったなんて、信じられないです』
同級生のCさん。
顔が隠された被害者を知る人達へのインタビュー映像が、次々に映し出される。
『ストーカーしてたなんてねえ。人は見た目に寄らないですね』
加害者が住むアパートの大家さん。
『人を殺すようには思えなかったです。信じられない』
加害者の同僚のBさん。
首から下だけが映されている加害者の知人たち。
「人は見た目に寄らない」という言葉に、山瀬は引っかかった。どういう意味だろう。人を殺すように見えない容姿。人を殺すように見える容姿。前者なら殺人を犯した時に「信じられない」と言われる。後者ならなんと言われるのだろうか。「やっぱり」? 「いつかすると思った」?
人間というのは、見た目で判断されてしまう。中身なんて、あまり重要視されない。「顔が良くて性格が悪いか、顔が悪くて性格が良いのどっちがいい?」というよくある質問に、後者と答える人は本心なのだろうか。顔が良くないと性格を知ろうと思わないんじゃないか。ただ、そんな究極の二択で判断できる人間がいるとは思えないけれど。
スマホの電源を入れてTwitterを開くと、たった今流れていたニュースがトレンド入りしていた。#女子高生の性被害殺人事件 と書かれた欄をタップする。匿名のユーザーたちが、様々なツイートをしている。
可哀想。殺した奴が死ねばいいのに。じじいキモ。若い命がまた一つ消えてしまった。レイプとかあり得ない。夜道歩いてた方が悪いんじゃね。誘ってると思われても仕方ない服着てたんだろ。同い年じゃん、こわ。殺された子、友達です。可愛い子じゃん。夜道歩くのやめよっと。
同情の言葉、誹謗中傷、弔いの言葉、意思表示、知り合い自慢、加害者への心ない言葉。数え切れないほどの言葉が吐き出されている。こんなの、軽い気持ちで投稿するもんじゃない。山瀬は頭が痛くなった。
そんなことを考えていたら、いつの間にか月衣は眠ってしまっていた。山瀬はテレビの電源を落として月衣を起こさないように抱え、大きな音を出さないように階段を上がり、どうにか月衣の部屋の扉を開けて妹をベッドに寝かせた。
細くて白い足が並んでいる。やはりこんな格好をさせるべきではない、と山瀬は改めて思った。露出しているから性被害に遭っても仕方がない、ではない。誘っているような格好をしているから自業自得だ、ではない。犯されて良い理由なんてものは存在しない。守るべき者が、守られるべき者を犯罪から救ってあげなければならない。
山瀬の動悸が激しくなっていく。月衣だけは守らないといけない。
鳴り止まない鼓動と酷い不安に駆られ、山瀬は月衣の隣に寝転んだ。楽しい夢を見ているのか、月衣が笑っているように見える。
んぅ、という月衣の寝言を最後に聞き、山瀬は眠ってしまった。
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