moonlit -月明かりに照らされて-

5

 除夜の鐘が、新年早々の夜風に乗って鳴り響いている。

 もうすっかりと冷え込んでしまっている空気を、山瀬は心地よく感じていた。山瀬は冬が好きだ。その理由は、冬の女子のマフラー姿が限りなく可愛い、という単純なものだった。毎年冬になると、男子の間ではそんな話題が必ず出る。

 今年の新年に雪は降らなかった。昨年は一月の中旬まで大雪で、山瀬の住む地域は悲惨であった。車を走らせることは出来ないし、自転車は転ぶ危険性があるので母親から止められていた。山瀬は駅まで徒歩で通う事になり、毎朝必ずため息をつくようになった。駅に着いても電車が走っているとは限らないので、いつもより一時間も早く家を出発する必要があった。

 今年はそんな心配をしなくていい事に、山瀬は深く安堵していた。

 近所の神社には、多くの人が参列していた。小さな子供も、目を擦りながら、親に手を引かれて懸命に歩いている。歩くことだけに一生懸命になれば良い彼らを、山瀬は少しだけ羨ましく思う。

「解、前向いて歩かんと危ないよ」

 母親の声に、山瀬はハッとする。

「ごめんごめん。気をつける」

 山瀬の母親は、三十歳の時に山瀬を産んだ。その三年後に妹の月衣(るい)が誕生する。

 月衣はお兄ちゃん子である。ブラザーコンプレックス、いわゆるブラコンだ。そんな月衣を、山瀬は可愛く思っている。

 例年神社に来ることはなかったが、今年は兄妹揃って受験生のため、願掛けをしに来たのだ。前回来たのは、山瀬の高校受験の年であった。

「お兄ちゃん、喉渇いてない?」

「何が言いたい」

 月衣は嬉しそうにニコニコしている。山瀬は、月衣の言葉の意味を理解していながら恍けていた。

「分かったよ。飲み物を買いに行こう」

 月衣は軽く跳ねて喜ぶ。ショートボブの髪の毛がフワフワと歓喜を表現していた。それはまるで天使の羽のようであり、月衣が飛んでいってしまいそうだと、ありもしないことを感じさせられた。

 月衣はオレンジジュースを選び、山瀬はエナジードリンクを選んだ。

 山瀬家では、新年は毎年朝まで起きている文化があるため、眠気を殺さなければならなかった。今年も、カードゲームでもして新年を過ごすのだろう。「新年くらい勉強しなくてもいいじゃない」という母親の言葉を、兄妹は素直に受け入れていた。

 月衣は兄に買ってもらったオレンジジュースを、美味しそうに飲んでいる。その横顔を見て、大きくなったなあと親戚の叔父さんの様なことを山瀬は思う。

「何見てんの?」

 月衣は山瀬の視線に気づいて、不思議そうな顔をした。

「僕の妹って可愛いんだなって思っていただけだよ」

「あら、嬉しいこと言ってくれるのね、お兄様」

 月衣は悪戯に笑う。その可愛らしい笑顔は、自分の笑顔とは真っ逆さまだなと思った。

 山瀬は、幼い頃こそ屈託のない笑顔をしてみせることは容易かったが、いつ頃からだっただろうか、笑うということに苦手意識を覚えていた。写真を撮る時、心から笑っていれば問題ないのだが、作り笑いをするとなると、なんだか引きつった笑顔になってしまうのだ。

 しかし、写真を撮るという機会は少なくない。家族写真やらクラス写真やら、記念写真やら。どうにか自然に笑えれば、などと思うのだが、やはり山瀬には難しいことであった。そのような自分の笑顔への失望から、人前で笑うことに抵抗を感じるようになったのだった。


 鐘を鳴らしたい人々の列に並んでいると、山瀬のすぐ横を、黒色のニット帽を被った男性が通り過ぎる。どこかで見た覚えがあるなと考えていると、隣で笑っている女性に目を惹かれた。白色のニット帽を被った女性は、何かを楽しそうに男性に話しかけている。暗くてはっきりとは見えないのだが、どうだろうか、山月に似ている気がした。

 袖を引っ張られる。月衣だった。何だか不安そうな顔をしている。

「どした?」

 山瀬がそう聞くと、月衣は人差し指で小さく前方を指差した。

「あそこにいるおじさん分かる?」

 月衣は、鳥居の下に立っている中年男性を指差していた。黒色のダウンコートを身に纏い、お世辞にも整えられた髪型とは言えないような、とても汚らしい男性であった。

「ああ、見つけた」

「あの人、この前も電車にいたの。学校行く時にさ」

 月衣の不安そうな顔を見て、山瀬は気づいた。

「ストーカー?」

「分かんないけど、さっきからこっち見てる」

 山瀬は、冷静な判断をしなければならないと責任を感じる。もし、妹に何かあってはならない。

「ストーカーかもしれないね。でも、まだ断定は出来ないから様子を見よう。僕も気にしておくよ」

「頼りになるね」

 月衣は可愛い顔をした。兄への愛を感じているのだろうか。山瀬は、格好つけて少し眉をひそめた。

 神社から家までは徒歩十五分だ。この間、山瀬は月衣を守らなければならない。兄としての責務を全うしなければならない。

「そんな不安な顔をするな」

 だって、と月衣は何かを言いかけたが、すぐに言葉を閉ざしてしまう。

 山瀬は月衣の手をぎゅっと強く握る。両親にバレないように。月衣の小さな手は震えていた。月衣も兄の手を強く握り返す。

 家までの夜道は、不気味に静かだった。神社の屋台でビールをたらふく飲んだ父親は、呑気に歌を歌っている。【安全地帯】の【碧い瞳のエリス】だった。母親は、そんな旦那を愛おしそうに見ている。山瀬の両親は、他の家庭の夫婦より格段に仲が良い。山瀬は、そんな両親のことが好きだった。

 父親とは言っても、実父ではない。母親の再婚相手であった。実父は、山瀬が五歳、そして月衣が二歳の頃に病気で亡くなっており、その八年後、つまりは山瀬が十三歳で月衣が十歳の時に、突然母親が再婚をすると言い出したのだった。

 やはり初めの頃は気まずいものであった。しかし、義父は山瀬と月衣を実の子供のように愛してくれた。そんな義父の愛を感じ、次第に家族として受け入れ始め、再婚、同居を始めてから一年が過ぎた頃、山瀬は彼を「父さん」と呼んだ。山瀬は父親を好きになった。

 家の門を開ける。キィーと嫌な音を立てながら父親の手で開けられる門を、山瀬と月衣はじっと見ていた。しかし月衣は、心ここにあらず、といった感じであった。

 庭を歩き、玄関に到着する。山瀬と月衣は緊張が解れる。安全だ、と山瀬は月衣の耳元で囁いた。月衣は心底安心したようで、山瀬の肩に寄りかかった。

「何してるの? お兄ちゃんにくっついちゃって」

 母親は穏やかな顔をしている。

「月衣、疲れたみたい」

 山瀬はそう言いながら、月衣の頭を撫でてやる。

「あんたたち、最近仲良いわね」

「前から仲良しだろ」

 山瀬は当然のように答え、月衣もうんうんと首を縦に振って同意した。月衣の震えは止まっていた。


 テレビをつけると、芸人がコントをしていた。片方は背が高くて細く、もう片方は背が低くて太っている。典型的なコンビ、といった感じであった。共演者や観客たちは大いに笑い、父親と母親もクスクスと肩を震わせていた。

台所で風呂上がりの水を飲んでいる月衣に、山瀬は声をかける。

「月衣の好きな芸人さん出てるよ」

 山瀬はとびっきり優しい声で言う。

「お兄ちゃん、コーヒー飲む?」

 月衣の肩には青いバスタオルがかけられており、髪を一つに束ねていた。

「いや、今は大丈夫かな」

 山瀬は優しく言う。

 山瀬は、普段から優しい言葉を紡ぎ出すようにしていた。今の、コーヒーがいるかどうかに対しての返答であっても、「いや、いい」と答えるのと「今は大丈夫」と答えるのでは大きく違ってくる。多くの人は気づかないうちに前者を使っているのではないだろうか、と思う。山瀬の祖父はそういう人だった。だから、祖父母の会話を聞いていると、何だか祖母が可哀想に思えてくるのであった。そういった配慮に欠ける言葉たちを使っていると、本人はそうでなくとも周りの人間が疲れてしまう。人生に。山瀬は身近の人生に疲れてしまった過去の経験から、言葉への配慮は知っているつもりである。

 フォー、と音がする。水が沸騰した合図である。月衣はコーヒーキャニスターの蓋を開けて粉を掬い出し、フィルターの上に敷いていき、コンロの上で待つポットを手に取り、渦を描くように丁寧に注ぎ込んでいく。二回、三回と注ぎ分けると、ドリッパーからサーバーに、ポタポタとゆっくりコーヒーが出来上がっていく。コーヒーの良い香りがリビングに充満し、山瀬の鼻にも通った。

 月衣がコーヒーの入ったマグカップを手に、山瀬が座っている二人がけのソファに腰を下ろした。風呂上がりの良い香りが、フワッと山瀬の鼻に漂ってくる。ボブヘアの髪の毛は、まだ微かに濡れていた。

 月衣は山瀬の顔を一目見たが、何を言うわけでも無く、テレビに視線を移す。山瀬は少し濡れている髪を撫でてやる。月衣は特に反応を示さなかったが、山瀬に見られないように綻んでいたようだった。

 月衣は、もう冬であるのにも関わらず、足を露出した部屋着を着ている。今は家族しかいないから良いものの、危機感が足りていないのではないかと不安になった。

「月衣、少し危機感が足りないよ」

 月衣は、何の話、と答える。

「そんなに足を出してるけど、男の前であんまりするなよ、そういうこと」

「心配性過ぎない?」

「心配して何が悪いんだ」

「考えすぎだって」

「考えすぎなくらいが丁度良いの知らないの? この前も、一緒に買い物へ行った時に足の露出した服を着て、僕が目を離したら知らない男に話しかけられていたじゃないか」

「それは月衣が可愛いからじゃない?」

 月衣は、子供のようなあどけない表情だ。無邪気に笑っている。

「それはそれとして、無防備過ぎるって言ってんの」

「あ、月衣が可愛いっていうことには反論しないんだ」

 山瀬は、ハアと深くため息をつく。やってられない、という顔をしながら、するわけないだろと言った。月衣は驚いては無かったが、気恥ずかしそうであった。


 案の定、時は既に午前三時を回っていた。未だ山瀬家は家族総出でバラエティ番組を観ており、誰しもが、眠くないと言わんばかりの顔をしていた。新年、なんだかとてもその雰囲気が出ているリビングに、山瀬は平和を感じていた。

「外の空気吸ってくる」

 山瀬はそう言い残し、リビングを後にする。玄関にしゃがみ込み、靴を履いてまた立つ。靴箱の隣にある全身鏡に写る自分を見てみると、平和ボケした顔をしていることに気がつき、なんだか気持ち悪くなってしまった。

 鍵を外してから取手を押し込み、扉を開けると、ギィと小さな音が鳴った。山瀬家の玄関の扉は少しだけ設計をミスしてしまい、扉の下の部分が床に擦れてしまうのだった。ギィという音はその音であった。

 山瀬は深呼吸をする。深く深く息を吸い、この真っ暗な夜空の雲を全て吹き飛ばしてしまうように、強く強くはいた。新年早々の空気は澄んでいて、鼻をよく通り、山瀬の肺の中の良くないものを一掃してしまったかのように感じた。やはり、夜風が好きであった。程よく肌を撫でるこの風は、なぜこれほどまでに心を落ち着かせてくれるのだろうか。草木は眠る深い夜に、山瀬は歩き出したのだった。

 いくつもの街路灯の下を進み、自販機を通り過ぎ、小さな石を蹴りながら歩み進めていくと、いつものコンビニに辿り着いた。眩いほどに強く光る店の明かりを憂鬱に感じながらも、山瀬は店内に入っていった。

 いらっしゃいませー、と店員の声がする。その声はつい最近のこと、学校の体育館で聞いた声であった。

「一原、おつかれ」

 山瀬は親しげに声をかける。レジの端っこで作業をしていた一原はグッと肩を上げ、振り向くと同時に、びっくりしたーと言いながら安堵しているようだった。

「どうしたの? 買い物?」

 一原は大きな目で山瀬を見ながら尋ねた。いつもは髪を下ろしているのだが、今日は団子結びというのだろうか、後頭部の上の方に球を作っていた。「ううん、特に買うものはないかな」

「いつもの暇つぶし?」

「そんなところかな」

 山瀬は少し困った顔をした。

「なんか浮かない顔してるね、山瀬君」

「そう?」

 山瀬は自分がそんな顔をしているとは思わなかった。なんせ、さっきまで平和な空間の中にいたのだから、浮かれた顔をしているというのが、人間なのではないだろうか。

「浮かれた顔ではなくて?」

 一原は、うーんと唸り、山瀬の言葉の意味を考えた。

「そうだなぁ、浮かれた顔ではないかな」

 それでは、山瀬は人間でないことになってしまう。

「新年早々に浮かない顔するやつなんている?」

「私の目の前にいるよ」

 一原はクスクスと笑った。山瀬もなんだかおかしくなってきて、一緒に静かに笑った。

 話題に終止符が打たれ、二人の間には沈黙が流れた。山瀬は店内を見渡して、やっぱ買うものないなと呟くと、一原は、そっかと反応をした。

「じゃあ」

 山瀬はそう言って店を出ようとした。煙草も吸いたかった。

「あっ」

 一原の大きくて一瞬のその声に、山瀬は思わず振り向く。

「煙草、買わなくていいの?」

 一原は、尋ねていいのかどうなのか、考えが定まっていないまま尋ねてしまった、というような少し不安げな顔をしていた。

「あー、まだあるから大丈夫」

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