4
バス停には行列が出来ていた。高校の目の前にあるバス停だ。
山瀬は授業が終わると颯爽と走り出し、一目散にバス停へ向かったので、前から三番目に並ぶことが出来た。
暇つぶしにスマホでシューティングゲームをしていると、左肩を強く叩かれた。
「よっ」
山月の笑顔がそこにはあった。バスの到着が三分後だからか、急いで来たみたいだった。額にはきれいな汗をかいており、胸元のボタンを開け、カッターシャツの襟元で風を扇いでいる。
何してんの、と山月がスマホの画面を覗いてきたので顔の距離が近くなる。山瀬は無駄に緊張をしてしまった。もう冬だというのに、汗が止まらない感覚に陥った。
「もう冬なのに、なんでそんなに汗をかいているの?」
山瀬は、山月の胸元を見ながら言った。
「結、代謝良いのかも」
山月はまだ風を扇ぎ続けている。そのダウンコートを脱げばいいのに、と山瀬は思う。
「バスに乗り遅れたらやばいからさ」
「この後、何か用事でも?」
山瀬は、自分で尋ねておいて、余計なことをしてしまったと後悔をした。
「あー、彼氏と待ち合わせしてるんだよね。駅で」
嫌な推測が当たってしまった。聞かなければ良かったなんて、もうすでに遅い後悔をする。
「そうなんだ。それは楽しみだね」
山瀬は、心に思ってもいないことを口にする。好きな人が好きな人と時間を過ごす事も嫌だったが、一原から聞いた話が頭を過ぎったからだ。
「まあ、そうだね。うん、楽しみ」
「あまりそうは見えないけれど」
「そう?」
山月は、山瀬が自分の事情を知っているなんて思ってないだろう。
バス停にバスが到着し、次々に学生達が乗り込んで行く。山月は横入りだけれど、山瀬が三番目にいたので余裕で席に座ることが出来た。
山月に窓側を譲り、山瀬は通路側に座った。山月は何だか嬉しそうな顔をしている。山瀬は少し照れてしまって、右手で握っていたスマホに視線を落とす。山月はそんな事に気づいていないのか、気づいていないフリをしているのか、窓の外を眺め始めた。
二十分、長くて一瞬の沈黙が流れていた。山瀬は何を話そうかずっと悩んでいた。山月は相変わらず窓の外を眺め続けている。
山瀬は、イヤホンの片耳を山月の目の前に突き出した。山月は驚く事もなく、山瀬の顔を少し見つめた後、右の眉毛を微かに動かした。山瀬の意図を汲み取ったらしく、突き出されたイヤホンを右耳にはめ込んだ。
山瀬はお気に入りの曲を流す。「My Hair Is Bad」の「戦争を知らない大人たち」という曲だった。
山月はこの曲を知らないみたいだったが、首を動かしてリズムに乗り始めた。そして、窓に寄りかかって目を閉じた。山月の睫毛は、山瀬の気持ちを乗せれてしまう程に長かった。四分二十九秒の曲が終わるまで、山瀬は好意を寄せている相手の綺麗な横顔から目を離せないでいた。
バスが駅に到着すると、山月はそそくさと降りて去っていった。山瀬は何も言うことが出来なかった。恋人の話を聞くつもりでいたが、山月が話さないのならば自分から聞くのもおかしなことだろう、と考えたのだ。
山瀬は急に腹が空き、何かを食べようと屋内に向かう。ラーメンにパスタ、お洒落なカフェで軽く食べてもいい。蕎麦やうどんが食べたいような気もしてくる。しかしどれもが決して安くはない。山瀬は悶々と考えていたが、一階のドーナツ屋が目に入り、お金の節約にもなるしと入店する事にした。
自動ドアを通ると、ドーナツの甘い香りが鼻腔をくすぐる。ドーナツの気分だったわけではなかったが、その香りを嗅いでしまっては、ドーナツに心が奪われてしまうのだった。
ディスプレイに様々な種類のドーナツがずらりと並んでいる。スタンダードなものから、マニアックなものまでたくさんあった。山瀬は長い間悩んだ挙句、一番定番のドーナツを購入した。何かお飲み物はいかがですか、という男性店員の誘惑に負け、メロンソーダも購入してしまった。
残金五十円の財布を茫然と眺めていると、商品がトレイに乗って運ばれてくる。ごゆっくり、と微笑む女性店員の鼻を見ながら、ありがとうございます、と返した。
ドーナツを一口頬張ると、こびり付いた砂糖が口の中で溶けていくのが感じられる。甘い、と言葉をこぼしてから、メロンソーダを一飲みする。シュワシュワと炭酸が弾ける感覚が、口の中を侵す。
山瀬は、すぐ食べ終えるのも勿体無いと感じ、ゆっくり食べる事にした。特にする事もないので、英単語帳を開く。そういえば二ヶ月後に受験があるな、なんて呑気なことを考えながら、英単語を読み進めていく。
店内には女子高生がやけに多かった。やはり、女子という生き物は甘い食べ物が好きなのだろうか。それとも、この店が長居を許してくれるから来るのだろうか。
様々な思考が脳内を巡っている時、一組のカップルらしき男女が視界に入った。山瀬の席からは彼女の方の顔を伺うことは出来なかったが、彼氏の顔がやけに真面目な顔をしている。二人の周りの空気は、心做しか暗く、重く感じた。別れ話でもしているのだろうか。
山瀬が不自然に長い間見ていたからか、彼氏と目が合ってしまった。彼氏は顎で彼女に何かを訴え、彼女が山瀬の方を振り向く。その端正な顔立ちをしているのは、山月だった。
ピコン、とスマホが通知を知らせる。待ち受け画面には【山月結】と表示されていた。
【後で時間ある?】
山月からの文章に、山瀬はドキっとした。好きな子にこの後の予定を聞かれた嬉しさもあったが、やはり、良くない問題がそこにはあるのだと確信したからだ。あるよ、と返した。
ドーナツは既に食べ終えてしまっていた。山月はまだ時間がかかりそうだったので、もう一つ買ってしまおうと席を立つ。ドーナツを選んでいると、ふとお金がないことを思い出す。今週一番の落ち込み案件に登録しよう、なんて気分をコメディな感じで和ませる。
メロンソーダは炭酸が抜けてしまって、単なる緑色の砂糖水になってしまっていた。こんなもの飲めるか、とメロンソーダを睨み付ける。
英単語帳は半分まで進んでいた。赤シートで日本語の意味を隠して、心の中で解答していった。山瀬の英単語帳には、付箋がたくさん貼り付けてある。付箋が多い程、勉強をしている様に見せかけることが出来るからだ。しかし実際のところ、付箋が多いということは、分からない単語が多いということ、という事実に山瀬は気づいていなかった。
午後六時を回った頃、山月の彼氏が席を立つのが見えた。山瀬には聞こえないが、何かを山月に言ってから店を出て行った。
山瀬は窓越しに彼氏を見送ってから、山月の方を見る。山月はリュックをひょいと肩に掛けて、山瀬の方に向かって歩き出す。山瀬はその行動を目で追う。
膝丈のスカートがひらひらと踊っている。ほとんどが女子高校生で賑わっているこの店内の、わずか数名だけぽつぽつと存在する男どもが、その踊るスカートに目を奪われていた。山瀬は、ムッとした。視線だけで殺せてしまいそうな程、山瀬がその卑猥な男どもを見る目力は強まっていたのであった。
山月は席に座ると、深いため息をついた。前髪が少し乱れている。
「ごめんね。待たせたね」
山月は、しんみりした顔で山瀬を見た。
「僕は全然大丈夫。それより、山月は大丈夫?」
「なんてことないよ」
山月は口角を上げて見せたが、目元は潤っていて、目は赤かった。
「何かいる? 待たせたお詫び」
「さっき、追加で注文しようとしたけど、お金が足りなくて断念したんだ」
「ほうほう」
「だから、今度ちゃんと返すから、貸してくれると嬉しい」
「ノープロブレム」
山月は健気に笑った。
「サンキュー」
山瀬も応えるように笑ってみせた。
山月は、自分のドーナツと烏龍茶、山瀬のドーナツとメロンソーダを運んできた。山瀬は、ありがとう、と軽くお辞儀をする。
山瀬のドーナツは、さっきはプレーンだったが、今回はチョコレートであった。
店内の客の声が、曲の間奏のように山瀬には感じられた。山月は何も言い出さない。これは、自分から話し始めなければならないと変な義務感を背負う。
「何か話したいことがあるの?」
山月は少し迷った顔をしたが、安心したように話し始めた。
「あのね、さっきの彼氏なんだけど」
「何となく分かった」
「それでね、彼氏は大学生で、やっぱり、大学には綺麗な人がたくさんいるみたい。高校生には勝てっこなかったよ」
「つまりは、そういうことだよね」
山月は、何かを決心したように顔を強張らせた。
「そう。浮気されてたの。何なんだろうね。もう一年もの付き合いなんだよ」
「それは長いね」
山瀬は何を言っていいか分からなかった。自分が恋愛経験に乏しいだけでなく恋愛相談をされた経験さえもないため、良い言葉が思いつかなかったのだ。
「どう思う?」
「どう思うって聞かれてもなあ」
山瀬は心底悩んだ。好きな子が困っているのだから、どうにか心が安らぐことを言ってあげたいと。
とりあえず、ストローを咥えてメロンソーダを飲む。細いストローの中を次々にメロンソーダが通り、そして山瀬の口内へ流れ込んでくる。
考えながら飲んでいたら、すぐに飲み終わってしまった。考えは特別何も定まっていなかったが、山月は山瀬の言葉を待っている。とにかく、何か言おう。
「僕が思うには、だけどね。彼氏が浮気していようがしていなかろうが、山月が好きなんだったら、想うべきだと思う」
山瀬は言葉に詰まった。山月の目があまりにも真剣だったからだ。他人からこれほどの真剣な目で見つめられたことが無かったので、山瀬はたじろいでしまった。そして、山瀬は続ける。
「僕は山月の彼氏のことを知らないから、悪く言うことは出来ない。でも、ロクな奴ではないことはよく分かる。でもね、山月。人を好きになるってそう簡単に出来ることではないと思うんだ。だから、好きなうちは好きでいれば良いと思う。例え、周りの人達がしつこく反対したとしても」
山月は微動だにすること無く静かに聴いていた。しかし、山月の頭の中はぐるぐると回っているのだろう、と山瀬は感じていた。山瀬の頭の中も、先程からずっとぐるぐるしている。
「質問の答えになっていなかったらごめん」
ううん、と山月は首を横に振る。そして、そっか、と言った。
「すごく真剣に考えてくれてありがとう。なんか元気出たかも」
「それは良かった。でも、何で僕に聞くの?」
それは、と山月は言いながら目線を逸らす。
「君が私のことを見てくれているからかな。違ったらごめん」
山瀬は驚く。そして、反射的に言葉を返す。
「見てるよ。好きだから」
山瀬は山月の目を真っ直ぐ見たが、山月は逸らしてしまう。故意に。不自然に。
「でも、ごめん」
確かに、想い続ければ良いと助言しておきながら告白するのはお門違いだけれど、いざ言葉にされるとキツイものがあった。
山瀬の脳内では「でも、ごめん」が反復していた。目の前の山月は、申し訳なさそうに苦笑いをしている。引きつった顔で、気まづそうに、そして悲しそうでもあった。山瀬は、何ともないよ、と微笑み返す。心の中は混乱していて、よく分からなくなっていた。
「僕も僕で、山月を好きで居続けるよ」
格好つけたことを言ったが、山月の顔を見ることは出来なかった。しかし、その言葉は本心である事に間違いは無かった。山瀬は、本当に山月のことが好きなのだ。
「これからも見ているよ」
山月は、山瀬のその言葉を素直に喜べなかった。それどころか、少しだけ、ほんの少しだけ恐怖を感じてしまった。山月の、山瀬は良い人だという思考フィルターが、その恐怖を薄めてくれた。
ドーナツ屋で賑わっていた客たちは、いつの間にかいなくなっていた。
ドーナツはまだ半分以上残っている。山瀬はもう食べる気はしなかったが、山月はドーナツを頬張っていた。いつもなら、山月の食事中の表情は愛おしく思えるのだが、何だか腹立たしく思えてしまった。その腹立たしさが、少しだけ愛おしかった。
時刻は午後八時を回っていて、空は完全に闇と化していた。雲はちらちらと、その闇から顔を覗かせている。
山瀬はその空を見て、ああ、と声にならない声で唸った。
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