3

「どうしたの?」

 目の前に山月の顔がある。山瀬は心底驚いてしまって、足元がぐらっとした。大丈夫か、と心配そうな顔をする山月の前髪は無造作にセットされている。

「前髪、良いと思う」

「へ?」

「あ、いや、何でもない」

「前髪? これ風でぐちゃぐちゃになっただけだよ」

「あ、そうなの。ごめん」

「別に謝って欲しいわけじゃないんだけど」

「ごめん」

 山月は深くため息をついてから、何かを決心したような顔をした。そして、それは何だか嫌な予感がした。

「これから、無意味なごめんを言ったら、結にジュースを奢ることにしよう」

 山月はやけに楽しそうなリズムで言う。心做しかスキップしているようにも見えた。

 昨日の夜、山月には見られてはいけないものを見られてしまった。そのことを話さなくてはならないのに、どうしてか話を切り出すことが出来ずにいた。

 手には尋常ない程の汗をかいている。もう真夏ではないのに、山瀬の周りだけは摂氏三十度に感じられた。

 世界のほんの一部であるこの一本道には、登校する生徒たちが溢れかえっていた。

 両脇にそびえ立っている紅葉を身に纏った木々たちは、気持ち良さげに微風に吹かれている。

 この木々たちは何か悩みなどあるのだろうか。山瀬はそんなことをふと考える。

 山月も何の悩みも無いみたいにスキップなんてしている。いや、悩みなど無いのだろうか。悩みのない人間なんてものは、存在するのだろうか。

 風に吹かれるように、自然に、山月は山瀬の方を振り向く。

「なに、難しい顔してんのさ」

「嫌な事でもあった?」

「目の前でそんな顔されちゃったら、私の涼やかな朝が台無しだよう」

 山月は立て続けに言葉を並べた後、頰を膨らました。その顔が好きだ。

「いや、何と言うか」

 山瀬は言葉に詰まってしまう。言いたい事がサッと言葉に出来ない。人間はなんて不器用な生き物なのだろうか。いや、山月はそんな風には見えないから、〈人間〉って一括りにしてはいけないのかもしれない。

 山月は、山瀬が何か言い出すのを待っていた。

「えっと、そんなに〈待っています〉みたいな顔をされると、話し出しづらいな」

「ええ? そんな重大発表なの?」

 山月は大袈裟に驚いてみせた。少なくとも、山瀬にはそう見えた。

「昨日の事なんだけどさ」

 山瀬がそう話し始めると、山月は山瀬がこれから話す事を察したのか、彼にしか分からない程度に微笑した。

「煙草のこと?」

「ちょっと、声が大きい」

「ごめんごめん」

 山月は両手の掌を合わせて、軽く頭を下げた。

「そのことなら誰にも言わないって言ったじゃん。それともまだ何かあるの?」

「いや、口外しないならいいんだ」

 山瀬は続ける。

「ただ、僕って性格が悪いのか、簡単に他人を信用することなんて出来なくて」

「そんなの当たり前じゃない?」

 山月は呼吸をするように言った。素直な意見だった。

「そっか。それなら良いんだ。この件に関しては、山月を信用することにする」

「なんだよ、その上から目線は」

 山瀬は、山月が怒ったのかと不安になったが、そんな心配は不要だった。山月は楽しそうに笑っていた。本当に、笑った時の笑窪が可愛い。

「やっぱ最終確認するけど」

「しつこいよ」

 山月は山瀬の言葉を遮るように、少し大きめに声を出した。

 下駄箱のロッカーを開けると、そこには一通の手紙が置いてあった。ラブレターだ、なんておちゃらける山月に勘違いされないよう否定する。

 差出人名の無い手紙の正体を確認することなく、山瀬は気恥ずかしそうにリュックに突っ込んだ。

 教室に入り自分の席に座ると、知らない男子に声をかけられた。

「山月さんと一緒に登校してきたの?」

 一度も声を交わしたことの無い男子に話しかけられ、山瀬は少し戸惑う。

「まあ、そんなところ」

 えええ、と大袈裟に驚く男は、嬉しそうな顔で友達らしき数人に目配せをした。名字しか知らない男子達が山瀬に駆け寄る。どんな関係だとか、付き合ってるのかだとか、やっぱ良い匂いするよなだとか、最終的には山瀬を置いてきぼりにして盛り上がっていく。

「そんなんじゃない」

 山瀬は強く否定する。男子達にバレないように山月の方を見ると、山月は山瀬の方をじっと見ていた。ドキッ。恋心からなのか、山月が自分を見ているとは思っていなかったからなのかは分からないが、ドキッとした。

 山月を見ながら呆然としていると、彼女は目を逸らした。

「なあ、お前好きなの?」

「は?」

 雑音と化していた男子達の会話が急に響いてきて、とっさに怪訝な顔をしてしまった。しまった、と山瀬は思う。

「山月のこと好きなのかって」

 山瀬の予想とは裏腹に、男子達は山瀬の失敗を気にしていないようだった。山瀬は心底安心した。そんな感情が顔に出る。

「なに、その顔」

 この顔には反応するのかよ、と心の中で叫んだ。

「好きだにょ」

 しまった、と山瀬は再び思った。言おうとしてない事を口走る自分に驚いて、語尾が突然変異してしまった。好きだにょ、なんてコメディアンかよ。いや、コメディアンでも言わないだろ。山瀬は心の中で、自分につまらないツッコミをした。

 男子達は、山瀬の可笑しな発言に対してガハハハと笑った。教室の雑音を一瞬で消してしまうような大声で。

「やめてよ、恥ずかしい」

「緊張してるのか」

 山瀬はムッとする。

「してない」

「いやでも、山瀬が山月の事が好きなのは分かったわ」

「いや、それは違うって」

 側から見たら、仲の良い男子グループに見えなくもない。廊下から見ていた茂田は、少し不機嫌そうだった。



 校舎の中庭には、昼食を済ませた生徒達が行き来していた。カップルらしき男女や、男子グループに女子グループ。男女混合の少人数グループもいた。

 山瀬は、ああいう輪とは無縁だろうなと思う。何せ、会話が弾むような異性がいないからだ。そんな事を考えながら、山月の顔がふと浮かんだ。

「あいつら友達?」

 茂田が変な顔で言う。あいつらとは、朝に教室で話していた男子達のことを指しているのだろう。

「そんなんじゃない」

 山瀬は、たこさんウインナーをかじりながら答えた。たこさんウインナーは足だけになってしまって、こいつからしたら悲劇だろうなと思う。

「今日、山月と一緒に登校したんだって?」

「なんでそんなこと知ってるんだよ、怖っ」

「そんな情報なんてすぐ回ってくるぞ。何せ、相手はあの山月だぞ?」

「あのって、どういう意味?」

 茂田は怪訝そうな顔をした。

「罪な奴だな、お前」

 山瀬にはその意味が少し分かった気がした。

 山月は、誰が見ても可愛らしい顔をしている。どの学年からも人気があるのだろう。実際、文化祭の時も先輩に告白されたらしい。

「でも、山月って彼氏いるよな?」

 ——え?

 山瀬の心臓が、いつもより大きく鼓動した。そんな話は聞いた事がない。

「そうなんだ。知らなかった」

 山瀬は、あたかも平気だと言わんばかりの顔をした。

 茂田とのんびり話していると、唐突に山瀬が、ヤバイ! と言った。茂田は、山瀬のその大きな声に驚いて、飲んでいたお茶を吹き出した。

「おい、急に大声出すなよ。おかげでお茶でビタビタだろ」

「それはごめん。呼び出されてるの忘れてたんだ」

「誰?」

 茂田は不思議そうな顔をした。お前に親しい奴なんていたっけ、と言いたそうな顔だ。

「お前に親しい奴なんていたっけ?」

 ザッツライト。

「いや、親しくはないというか、全く知らないというか」

「誰なんだよ」

「それが分からないんだ。手紙が下駄箱に入ってたんだよ」

 茂田は、また不思議そうな顔をする。手紙見せてみろ、と言いたそうだ。

「そっか」

 オーマイガッシュ。その反応は山瀬には予想外だった。

 茂田は急に興味がなくなったように、教室戻るわと言い残して去って行った。その後ろ姿を眺めながら、山瀬は眉をしかめた。

 山瀬は急いで体育館に向かう。なるべく人に見られないように、日陰をこそこそと歩いた。

手紙にはこう書いてあった。



 山瀬さとる君へ


 突然の手紙、驚かせてごめんね。

 三年一組の一原と言います。知ってるかな?

 山瀬君がよく来るコンビニでバイトをしているんだけど、覚えてないよね。

 そんなことはどうでも良くて、結と仲良くしてるって聞きました。最近のことなのか、前から仲良くしているのか聞いてないけど、結は楽しそうに山瀬君の事を話してくれました。昨日の夜に聞いたんだけどね。

 コンビニの外でも、何か話していたよね。

 私、結とは幼稚園の頃からの親友で、結が本当に大事なの。

 そこで、一度山瀬君と話してみたいなって思って、手紙を書くことにしました。

 知らない人から呼び出されても迷惑だとは思うけど、どうかよろしくお願いします。

 今日の昼休みに、体育館で待っています。


           一原湖花うみか



 体育館に着くと、一原はステージ前の階段に座っていた。スマホを素早く操作している。

 ショートボブの髪の毛は、山月よりもサラサラなんじゃないかと思えた。

 一原が座っているところまで歩こうとすると、上履きが床に擦れて嫌な音を立てる。

 その音で、一原は山瀬がいることに気が付いた。

「来てくれたんだ。ありがとう」

 一原は心底嬉しそうな顔をしている。山瀬は、この人は良い人なんだろうなと思った。

「うん。山月の話でしょ?」

 そう、と言って頷く一原の顔は何だか悲しそうに見える。

「単刀直入に聞くけど、山瀬君は結のことが好きなの?」

 単刀直入すぎて、山瀬は滅入ってしまった。もう失敗は出来ないと、自身の心に深く言い聞かせる。自分の山月に対する気持ちなど、安易に言いふらすべきではないと。

「好きだよ」

「やっぱそうかあ」

 一原は嬉しそうな顔をしてみせ、山瀬は心底悔しい顔をした。

「結さ、今、彼氏いるんだよね。でも、その彼氏があまり良くない人で。私は相手のことをよく知らないからあまり悪く言えないんだけど、結は何だか悩んでるみたい」

 一原は悲しそうな顔で話し始めた。山瀬は、山月に彼氏がいるという話に確証が出てしまったことに、悲しくならずにはいられなかった。

「そんな時に山瀬君の話が出たんだよ。結ってば、すごく楽しそうに山瀬君の事話すんだもん。好きなのかなって」

「そんなことはないと思うけど」

 否定しておきながら、内心嬉しかった事は墓場まで持っていくことにした。

「山瀬君にお願いがあるんだけど」

 山瀬は唾を飲み込んだ。自分の唾は味がしなかった。

「結のことを支えて欲しいの。こんなこと山瀬君に頼むのは何だか違う気もするけど、私には出来ないから」

「なんで、一原さんには出来ないの?」

「それはまた今度話すね」

「そうか」

「お願いできる?」

 一原は、君しかいないんだと訴える目をしている。何故自分がこんな頼み事をされているのか分からなかったが、好きな人が悩んでいるのであれば助けなければならないと思った。

「なんだか話が読めないけど、僕に出来る事があればやらせてもらう事にするよ」

 一原は、ありがとうと心から嬉しそうに微笑んだ。

 気のせいかもしれないが、彼女の目元には涙が光っているように思えた。

 体育館は静かだった。木々が揺れる音さえも聞こえてくる。一原の鼻をすする音が微かに聞こえているが、山瀬は聞こえていないフリをしていた。

 今日は曇りのようで、太陽の声は聞こえない。空も校舎も木々も山瀬も一原も、何もかもが灰色に染まっていた。

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