第三話 水面下の抗争 2
「なんですって?」
真田からの衝撃的な報告に秀彰は思わず聞き返す。聖痕民団という単語に聞き覚えはないが、政府直属の特務執行機関である特行の痕印者を殺害し得るだけでも相当危険な組織だと想像がつく。
「前に宿直室で話した通り、林の婆さんが殺された一件は他の類似事件と併せて、痕印者による連続怪死事件として特行が捜査しているの。今回犠牲となった職員はまさにその事件の担当だったらしいわ」
「聖痕民団とは一体どういった組織なんですか?」
好奇心に急かされるまま秀彰が尋ねる。真田は一瞬だけ言葉を紡ぐのを躊躇したが、やがて一段と顔を険しくさせると包み隠さず情報を伝えた。
「ここ近年で急速に勢力を拡大してきた犯罪者集団よ。『聖痕』という名前の通り、中枢メンバーだけでなく末端構成員の中にも痕印者が数多く紛れている、言わば能力者達のテロ組織ね。特行も要警戒勢力として動向を注視していたのだけれど、まさかソイツらから仕掛けてくるとは」
「特行所属の痕印者が殺されたのは今回が初めてなんですか?」
その問いに、真田はすぐさま首を横に振った。
「いいえ、今までも公務遂行中の特行職員が殉職することは何度かあったわ。けれどそれは経験が浅い新人だったり、不足の状況での一対多数の戦闘だったり、要は油断や事故に近い事例が殆どだったの。けれど今回は違う――経験豊富な特行職員が入念に準備した上で、無惨にも殺された。公安組織の顔に泥を塗られたのよ」
静かに話を続ける真田だが、その表情は複雑だ。かつて所属していた組織の一員として敵を憎む気持ちがある一方で、今は離れた身である故に深入りは出来ずただ俯瞰して双方の組織を眺めるしかない憂いの気持ち、その両方がせめぎ合っているように秀彰には見て取れた。
「赤坂も知っての通り、痕印の力を手に入れた者が犯罪を犯すのは至極当たり前の流れなの。だって突然自分が世界の中心に居るかのように錯覚するくらいの凄い力が授けられたら、何だってするでしょう?」
「そう、ですね…」
秀彰の頭に浮かぶのは入学式の日にファーストフード店で暴れた自称痕印者のパーカー男。そしてもう一人、痕印が刻まれた数日後に校門前で無差別に能力を発動させようとした過去の自分だ。
「だけど何の前知識もない生まれたての痕印者が暴れたところで、出来ることと言えばたかが知れてる。大抵が単独犯による通り魔で、中には徒党を組んで組織的な犯罪を行う者らもいるけれど、それでも日頃から対痕印者向けの訓練や戦術を積んでいる特行にしてみれば敵と名指しするにも至らない存在よ」
「けど、その聖痕民潭という組織はあえて特行所属の痕印者を狙い、殺害に至ったと?」
わざわざ虎の尾を踏むような真似をする行為にどんな意味があるのか秀彰には想像が付かなかったが、どうやらそれは真田も同じ意見だったらしい。
「えぇ、どうやら特行も随分と舐められているみたいね。だからこれは前例のない事実上の宣戦布告になるわ。特行側としても今までみたく生温い捜査なんかじゃなく、公安組織としての威信を懸けて全力で対策に乗り出すでしょう」
勇壮な口調とは正反対に、真田の眼差しはどことなく寂しげに映る。
「だけど……出来ればこうなる前に捕まえたかったな」
真田は噴水の水面に手を伸ばし、ちゃぽんと手の平を浸けた。波紋に揺れる水鏡には、彼女の誤魔化し笑いのような顔が映る。秀彰は無言のまま、訓練室内の無機質な環境音を聞いていた。
敵対勢力と表立って抗争が始まれば、彼女の復讐は有耶無耶になるだろう。誰かが仇を取るかもしれないし、闇に紛れて生き延びるかもしれない。どちらにせよ、退役した部外者がコソコソと動き回れる機会はもう訪れないのだ。弾んだ水滴に映る彼女の瞳は、執着と付託との狭間で儚く揺れている。
暫しの沈黙の後、噴水の水しぶきに前髪を濡らされた真田が、苦笑しながら口を開いた。
「さ、帰るわよ赤坂ぁ。あんまり長居してると不法侵入罪で捕まっちゃうかもしれないし」
「さっき電話で『許可貰ってる』って言ってませんでしたっけ?」
「あー、ありゃただの方便よ。知り合いの名前出して時間稼ぎしたかっただけ」
真田は右手をヒラヒラと揺らし、冗談めかして否定する。どうやらいつもの調子に戻ったようだ。秀彰も今回ばかりは溜め息を吐かず、事情多き師に生暖かい視線を送った。
「それじゃ特訓も今日までって事ですかね」
「なーに言ってんのさ。勿論明日もやるわよ」
砂埃で汚れたレンズを拭きつつ、真田がジト目で秀彰を見る。眼鏡越しでも十分ツリ目だが、取るとさらに目付きが悪くなるようだ。数字の3みたいな形になれば可愛げも上がって面白いのにと、秀彰は心のなかで呟く。
「アンタを一人前の痕印者として指導するのが条件だったでしょ。多少事情が変わったからって契約不履行にはしないわよ。あ、それともなにさ、昨日の今日でアタシに嫌気が差したとか?」
「いえ、そういう事では無いですけど……」
「ふん、だったら明日も同じ時間に学校の前まで来なさい。まだまだ教えることは山ほどあるんだから、覚悟しておいて」
真田はそう言うと眼鏡をかけ直し、ややムスッとした顔で秀彰の方へと近付いてくる。さり気なく痕印の気配漂う右手を突き出して威嚇しているのが恐ろしい。
「真田センセは、特行に戻る気は無いんですか?」
「無いよ。あったとしてもそう簡単に戻れる場所じゃないから」
真田はきっぱりと、振り切れた顔で即答する。
「今アタシが必要とされているのは特行じゃなくて学校だからさ。教員として働ける限りは働きたいの。若人たちの青春模様を間近で見るのだって、楽しいものよ」
「青春、ですか」
急に青春という難解なワードを出されて、秀彰は少し困惑した。教え子の眉がひそまるのも意に介さず、真田は自分を語り続ける。
「アタシも学生時代は何の枷も無く、好き勝手に遊んでいたんだけどね。気が付けば大人になって、自由の利かない立場になってさ。赤坂達が青春してるのを見てると羨ましいなーって、つい思っちゃうのよ」
「はぁ」
「あっ、今『コイツ面倒な事言ってるな』って顔したな?」
「違いますよ。そうじゃなくて……分からないんです」
秀彰の答えを聞いて、今度は真田の表情に困惑の色が浮かんだ。考えが理解されないことは秀彰も分かっていたが、それでも言葉を止めることは出来なかった。
「部活にしても勉強にしても将来の夢にしても、そこに割くべき熱意が俺には全然湧いてこない。放課後の校庭で汗を流す姿を見ても、何だか遠い世界の事にしか思えないんです。一つの事に夢中になって全力を注ぐってのが青春なら――俺に青春という季節は来なさそうです」
秀彰は柄にもなくベラベラと、思ったことをそのまま口にしてしまう。すると真田は目を丸くしたのち、ゲラゲラと大口を開けて笑い始めた。
「は、あははっ、赤坂ってさ、たまに馬鹿なフシが出るよねぇ。真面目系馬鹿ってヤツ? く、くふふ……ダメだ、教え子が真面目な話をしてるのに、笑いを堪えられないなんて教員失格だ、で、でも…ひ、ひひっ、オカシイよぉ…っ」
「……あぁくそ、やっぱり喋るんじゃなかった」
秀彰は鬱陶しげに目を伏せ、後悔の念を吐く。自分でもおかしな事を話している実感はあったが、ここまで笑い転げられると屈辱的だ。せめて一つくらい言い返そうと顔を上げた瞬間、真田の携帯端末が正午を知らせた。
「って、ああぁ、もうこんな時間じゃない! 土曜のランチは駅前の生パスタ屋でって決めてるのよ! そんなワケで赤坂ぁ、また明日も特訓に励みましょう。って事で、あでゅー!」
「え……ちょ、ちょっと真田センセっ!」
言うが早いか、真田は訓練室の地面を蹴り上げながら入り口目掛けて疾走していく。行きの山麓行路を踏破した時と同様、その足取りは野生じみて早い。
「ほらほらー、閉じ込められたくなかったらアタシに追いついてみなさいなー」
「じ、自分勝手なコトばっか言いやがって……!」
秀彰は奥歯をギリギリと噛み締めながら、真田の後ろ姿を追いかける。あれだけ疲弊していた体力がいつの間にやら元通りに戻っていた事に、その時の秀彰は不思議と違和感を覚えなかった。
それから一週間が経過した。聖痕民団による特行所属の痕印者殺害事件が発覚したことを皮切りに、半ば抜き打ち的な形で警察庁推進による暴力排斥運動が実施され、町中では治安維持を目的とする警察官の姿が多く見受けられるようになった。
幾つかの暴力団では運悪く取引現場を押さえられた売人や小競り合いを起こした小悪人が逮捕され、平和な街づくりを望む市民からは概ね賛同する声が多数寄せられた。
この機に乗じる形で――無論、組織の上層部からしてみれば計画通りだが――特行も動き出す。本部から各地へ実力者たるメンバーが派遣され、聖痕民団の動向に目を光らせていた。
だが上層部の目録は外れる。事件発生以後、聖痕民団に表立った行動は無かった。過去に報告された拠点アジトへの強襲も試みたが『もぬけの殻』状態となっており、捕縛出来たのは聖痕民団とは名ばかりの末端構成員のみに留まった。組織運営に関わる幹部やその息のかかった部下達は皆、一様に鳴りを潜めていた。
不気味な沈黙が続く中、特行は計画の変更を余儀なくされる。手薄になった本部の防衛力を取り戻すため、一人、また一人と派遣したメンバーを回収し始めたのだ。
かくして、二大勢力の抗争舞台は水面下へと移行する――。
※
空は曇天、草木も眠る丑三つ時。市街を流れる川の畔には白壁の屋敷や歴史ある酒蔵が立ち並び、時代の足跡を今に残している。伝統的な景観の残るこの地区の一角には、『豊穣庵』という老舗の和菓子屋があった。営業時間はとうに過ぎているが、蔵造りの大きな屋内には薄い明かりが灯っている。
店の前には若草色の羽織袴を着た男が提灯を片手に佇んでいた。彫りの深い顔立ちと褐色の肌は一昔前の映画スターを思わせる端正な相貌だが、顔の至る所に刻まれた切り傷が裏稼業としての彼の存在をそれ以上に際立たせている。
夜風が通りぬけ、柳並木がしなだれて波を打つ。静まり返っていた細道に複数の足音が近付いてくるのを感じ取ると、男は柔和な笑顔を作って出迎えた。
「ようこそお出で下さいました、
「出迎えご苦労。噂通りの景勝地ではないか」
その数、四名。鳳と呼ばれた風格漂う男の両脇をスーツ姿の男女二名が隙なく固め、やや後方には紋付羽織袴の老人が周囲の気配を窺っている。聖痕民団のトップと、彼に従う忠実な幹部達だ。
「それはそれは、お気に召されたようで何よりです。故に今宵の空模様は少し残念。曇天ではなく満月であればまた違った味わいを楽しんで頂けるのですが」
「……満月か」
すると急に鳳の顔色が険しくなり、睨むように天を仰ぎ始めた。何事かと訝しんだ男を見て、老人が下卑た笑い声を響かせる。
「くっくく……、なぁに気にする事はないぞぇ。吉田の。今の鳳様はすこぉしばかり、お月様の顔が気に食わないだけじゃて」
「左様で、ございますか……」
発言の意図は分からなくとも客人に失礼があってはなるまいと、吉田は恭しく頭を下げた。それを見て、鳳は部下の老人に鋭い視線を向けた。
「余計な事を言うな、柳」
「ふぉっほほ、儂を睨まれても困りますわい。そもそも、元はといえばあの小僧のヘマのせいで――」
「黙れ、と言われたのが分からないの?」
動いたのは鳳ではなく、スーツの女だった。影すら追わせぬ速度で携帯していた拳銃を抜き取ると、柳のこめかみに躊躇なく突きつけた。
こと拳銃の扱いにおいては、聖痕民団の中でも彼女に敵う者は居ない。常々不敵な笑いを張り付けている柳だったが、この時ばかりは口元をひく付かせていた。
「御客人の前ぞ、世良の。儂の濁った血と脳漿をこの場でぶち撒けても良いと言うのか?」
「…………」
世良は答えない。ただ、主の命令だけを待っていた。機械じみた眼光に射竦められた柳の額には、じっとりと脂汗が滲みだす。
「銃を下げろ、世良。折角の会談を台無しにするつもりか」
「はい」
鳳の一言で世良は速やかに拳銃を収めた。柳もホッと息を吐く。
「柳、お前も大概にしろ。組織の品格を下げるような真似をすれば、幹部失格と見なすぞ」
「ほほ、こればかりは儂の性分ですからなぁ」
だがさすがに懲りたのか、その後は軽口を叩くことはなかった。
「手間を取らせてすまなかった。今宵の場所まで案内してもらおう」
「承知致しました。では皆様、こちらへ……」
吉田は提灯を掲げ、四人を先導して屋内へと案内した。幅の広い木製階段を登り、龍の模様が刻まれた襖を引いて奥へと入る。そこは張り詰めた空気が支配する任侠者達の空間だった。屈強な男衆が膝を付き、背筋をピンと正した姿勢で待ちかねていた。港湾荷役の管理を主なシノギとする指定暴力団、吉田組の面々である。
独特の色合わせをしたスーツと猛禽類の如き風貌は、見る者に強烈な威圧感を与えている。可視化された暴力こそが彼らのビジネスを進める上での基盤であり、交渉手段でもあった。ただしそれが通じるのは銃や刀で命を奪う事が可能な『人間』の範囲内に限られるが。
「組長、鳳様をお連れしました」
「おぉ、ご苦労じゃったな、直邦」
送迎役を任された若頭、
だがその程度の示威行為、異能力者たる鳳以下三名が特に気にする様子もなく、平然と本来の会談対象である初老の男へと向き直った。
「わざわざ呼び出してすまんの、鳳殿」
「構わんよ、今は拠点に居た方が落ち着かない有り様だからな」
吉田組現組長、
「っぷはぁ……ここ連日、警察のマークがねちっこくなってな。あんだけへっぴり腰だった腐れ警官どもがよ、今じゃ取引現場にも平然と踏み込んでくる。おかしな事じゃて。ワシも気になって調べたわ」
「ほう」
注がれた酒を組長は茶でも飲むかのようにあおり、喉を潤していく。周りの子分らは膝に拳を当てたまま動かず、鳳達も用意された料理と酒には手を付けない。
結果、組長の鯨飲する音だけが室内に響いていた。
「そしたら分かったのよ。烏合の衆だと思うとった中に一人、化け物がおった。
「毒には毒を以て制すという訳か」
「あぁ、誠に情けない話じゃがな。余所者の手を借りたと知れれば組の名も落ちる。自明の理じゃ。それでもワシはこれ以上組のモンが捕まるのを見とうない。同じ人間ならまだしも、化け物なんぞにしょっ引かれるのは到底我慢できん……!」
組長は忌々しげに拳を震わせ、鳳とその一行に鋭い眼力を飛ばした。まるで彼らも同族、同罪であると言わんばかりのニュアンスだ。あからさまな痕印者蔑視を受けて、世良は露骨に眉を顰め、柳は声に出さず嗤っている。一方で鳳は依然飄々とした態度を崩さない。
「いいだろう、力を貸してやる」
「おぉ、協力してくれるか、さすがは鳳殿じゃ!」
パチンと扇子を叩き、喜色の笑みを浮かべる組長。張り詰めた空気が少し和らぐ。厳しい表情を続けていた若頭も、ようやく安堵した顔を見せた。
「だが、派手に立ち廻ることは出来ん。任務はあくまで取引最中の護衛、用心棒だ」
「それで十分じゃ。ワシらも他の組や警察とドンパチしとうて頼んどる訳じゃない。先代から受け継がれてきたシノギが守れれば、それでえぇ」
一瞬、若頭の表情がピクリと動いたが、他の誰もが気に留めることはなかった。
「ならば使うがいい――”
鳳がその名を呼ぶと、豊穣庵の外から野犬の遠吠えのような声が轟いた。
『…………ぉぉぉぉ!!』
吉田組の幹部らの顔色が豹変し、室内には慌ただしい空気に包まれる。
「お、鳳様、この声は一体……?」
「外を見てみろ。あれがお前たちを守護する者の姿だ」
若頭は素早く窓辺へ移動すると、閉め切っていた障子窓を一気に引き開けた。星の見えぬ曇空から微かに降り注ぐ月光が、柳並木の傍に立つ男の姿を映し出す。筋骨隆々とした巨躯と獅子のように逆立った髪。何より全身を包む赤い
「ほほぉ~~、こりゃまた強靭そうな御方じゃのう!」
組長を始め、吉田組の面々は強力な助っ人の登場に歯を浮かせて喜んでいたが、ただ一人、若頭だけはその存在を信じられずにいた。あの体躯、あの存在感の大男を送迎役の自分が見落とすことなどあり得ないはずなのに、と。額に滲んだ脂汗が彼の動揺を如実に表していた。
「では我々はこれで失礼する」
「あ……鳳様、お待ちください。伝え忘れたことが一つ」
席を立ち、その場から立ち去ろうとする鳳を見て、若頭が慌てて制した。羽織の袖下から書簡と数枚の写真を取り出すと、それを鳳に手渡す。
「例の痕印者の情報です。私どもには異能の力など把握しかねますので、身体的特徴や名前程度を纏めておきました。ご参考までにどうぞ」
「ふむ」
鳳は受け取った写真をパラパラと捲ると、さして興味無さそうに世良へと渡す。世良もひと通り目を通すが、詳しい吟味は拠点で行うのが通例だ。資料を鞄へと詰めようとした彼女だが、ふと隣に居る幹部の様子がおかしいことに気付く。
「どうした、
「この男……真道という名と顔に……覚えが、ある」
それまで無言を貫いていたスーツ姿の男――狗飼がポツリと呟いた。見た目こそ重厚なサングラスにオールバックといかついが存在感は空気のように薄く、加えて極度の寡黙症のため、幹部連中ですら肉声を聞くことすら珍しい。
「ほう、お前が反応を示すほどの存在とは珍しいな」
「…………」
鳳の問いかけにも狗飼は答えず、隠し撮りされたと思しき顔写真を凝視している。
「その男はお前よりも強いのか?」
狗飼はサングラスに隠された瞳を鳳に向けながら、独自の思考回路で答えを模索し始めた。やがてピクリと肩を震わせると、腹に響く低音で主に告げる。
「腕か脚……どちらか二本と引き換えなら、斃せる」
「なんだと、正気か狗飼?」
世良が思わず狗飼に詰め寄った。得手不得手はあれど、幹部同士の実力は伯仲している。中でも狗飼は単純な戦闘力なら上位に入り得る存在だ。それが素直に互角と認めた相手となれば、彼女の心中も穏やかでは居られないのだろう。
「そうか、ならば尚更戦鬼を差し向けておいて正解だったな。あの男――もといあの生物には油断という言葉はない。防衛任務に限ればあれ以上の適役はおらんよ」
「鳳殿、本当に大丈夫なのか? ワシらに万が一という事があればお主らもただでは済まんぞ」
ギロリと目玉を剥いて威圧する組長だったが、やはり鳳は動じる様子を見せない。
「心配無用だ。下手に人数を増やせば向こうも警備を増員してくるやもしれん。それに余所者の手はなるべく借りたくないと、つい数刻前にそちらも仰っていたではないか?」
「む……ぐぐ……ぅ」
焦りを見せる組長に鳳が釘を差す。組長は苦々しく口元を歪めると、またもヤケ酒をあおった。吉田組の幹部らは鳳に対して鋭い視線を向けているが、誰一人として食って掛かる者はいない。
交渉成立と見た鳳は立ち上がり、襖の前へと歩み出た。退室する間際、複雑な表情を浮かべている若頭に対し、悪辣な笑みを零す。
「そんなに不満なら、いっそその刀で試し斬りをしてみてはどうかね。戦鬼でも私でもどちらでも構わんよ」
「……いえ、とんでもない」
「そうか、なら今日はここで結構。夜道は危険なのでな」
後ろ手で刀を構えていることを看破された若頭は、呆然と立ち尽くす。それを押しのけるようにして鳳一行は豊穣庵を後にした。向かうは新たな潜伏先。特行の手が届かない、水面下のさらに下へ――。
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