第三話 水面下の抗争 1

 中間考査最終日の夜の事。試験の手応えなど早々に忘れた秀彰が自室のベッドで寝転んでいると、滅多に鳴らない携帯電話へぶっきらぼうな内容のメールが届いていた。


『時間は明日の朝七時、場所は校門前。来ないと殺す』

「…新手の殺害予告か?」


 一目見ただけで差出人の判る文章に秀彰はうんざりしながらも、若干の期待を抱きながら『了解』と返信する。つい数日前には自分を殺人犯扱いした暴力女教師が、今や痕印者の師として指導してくれるとはつくづく数奇な運命だな、と秀彰は苦笑した。


(そんじゃ、真田センセのご指導ご鞭撻を賜るとしますか)


 明日に備えて早めに就寝準備に入ろうと試みる。無意識のうちに肩口の痕印を触りつつ、心地よい眠りに身を委ねた。


 そして明くる日の早朝、秀彰は指定通りの時間に指定通りの場所へと訪れたのだったが――。


「はぁ……はぁ…っ」


 息を切らし、肩を上下させながら、彼は今、新緑豊かな山麓行路を歩いている。否、歩かされている。道の先を往くのは登山用と思しきワークキャップを被った女教師、真田煉華さなだれんか。宿直明けらしく、上下ともジャージ姿のままだ。


「おっそーいぞ、赤坂ぁ! ちんたら歩いてないで、さっさと来ぉーーい!!」


 空は快晴、麗らかな春の蒼空に吸い込まれる国語教諭の煽り声。ギリギリまで採点業務に追われていたと嘆いていたのが嘘のように馬鹿元気だ。これが痕印者のための特訓だと言われていなければ、秀彰はとっくのとうに帰宅していただろう。


「こんくらいでへばってちゃ稽古なんて付けられないわよ~~!」

「ぐぅ……んなこと分かってるっての……っっ」


 バチンと自分の膝を叩いて秀彰は気分を奮い立たせる。彼が顔を上げた先で真田は垂れ下がった枝葉を器用に避けつつ、奥へ奥へと進んでいく。鬱蒼と生い茂った山道は足場の悪い場所ばかりで、視界もイマイチだ。なのに彼女はまるで野生児のように軽々と踏破していくのだから、正直圧倒される。


「すげぇな、畜生……っ」


 思わず漏れてしまった感嘆の声に、秀彰の中の負けず嫌いが顔を覗かせた。奥歯を噛み締め、さらに意志を強めると、お気に入りのジーパンの裾が破けるのも構わず駈け出した。


 山路を進むこと二時間。ようやく拓けた景色が見えたところで秀彰の疲労が限界を迎えた。ちょうど足元にあった切り株に腰を下ろし、薄くなった酸素を必死で取り込もうとする。


「あーあー、もーだらしないわねぇ。あとちょっとで到着だってのに」

「……はぁ……はぁ……っ」


 言い返す気力すら無いと秀彰は無言で顔上を睨む。腰に手を当て前身を屈めながら見下ろす真田の顔には疲労の色どころか汗一つ浮かんでいない。身体能力向上の魔法でも掛かっているんじゃないかと疑いたくなるレベルだ。


「ほら、あの建物がアタシ達の目的地よ」


 そう言って真田は先の景色を指差した。額に浮かぶ大粒の汗を袖で拭ってから、秀彰は重い腰を上げて立ち上がる。そして、絶え絶えの息を何とか繋ぎながら、切り開かれた視界の先を見た。


「な……なんだこれ……?」


 そこに広がっていたのは、蓄積された疲れを忘れてしまう程の異様な光景だった。四方の木々を伐採し、均整の取れた長方形に区画されている土地は、それまで続いていた自然豊かな山道から一変して近代的な雰囲気に包まれている。


 何より秀彰の目を惹いたのは、土地の中央に設置されたドーム型の怪しい建造物だった。面積はおよそ学校の体育館の二倍ほどだろうか。建物の周囲の壁面にはソーラーパネルのような謎の黒い板が貼り巡らされており、中の様子は窺いしれない。まるでSF映画に出てくる秘密基地か研究施設のようだ。


「ここは特行が保有する科学研究技術の粋を凝らして作った、痕印者のための訓練施設よ。施設内には痕印者が能力として使役するためのありとあらゆる媒介と実戦を想定した様々な地形が用意されているわ」

「訓練施設……これが……?」


 驚きに目を見開いたままの秀彰を置いて、真田はドームの入り口らしき場所へと歩いて行く。慌てて秀彰もその後に付いていった。


「それにしても辺鄙な場所に建てましたね、特行も」

「仮にも秘密組織だからね。人目の付く場所には置いておけない事情があるのよ」


 真田は眼鏡の中央をクイッと持ち上げながら、自慢気に語っている。


「聞いた話じゃこの施設を構成する建材には特殊な施工がされていて、痕印の残滓が外部に漏れないよう、遮断する仕組みになっているらしいの。だから中でドンパチやっても外部から察知される心配がないし、おまけに頑丈さも折り紙つき。痕印者の修練場としちゃ最適の環境でしょうよ」


 真田の話振りから察するに、特行は相当の技術力と資金力を備えているらしい。さすがは政府直属の痕印者組織だな、と秀彰は素直に感心した。一方で、無関係な自分が間借りするのはやや荷が重い気分もある。


「そんな重要な施設を、俺みたいな部外者が使っても良いんですか?」

「さぁね。アタシはもう退職した身だし」

「おいおい……」


 無関心な真田の言葉に、秀彰は一抹の不安を覚える。OGの特権か何かでやんわりと許可を取っているのかと思いきや、まさか無許可とは。不安で眉が下がってきた秀彰を見て、真田は胸を張って諭した。


「大丈夫だって、要はバレなきゃいいのよバレなきゃ。もしかしたら赤坂も将来は特行に入って八面六臂はちめんろっぴの大活躍をするかもしれないじゃない。そう考えたらここでの経験は、言わば未来を担う若者への先行投資ってヤツよ」


 などと適当かつ脳天気に言い放った真田は、扉の前で右手をかざした。数秒後、ピピッと短い電子音が鳴り、厳重なドアロックが解除される。


「ほれ、退職者にも優しい作りになってらっしゃる」

「単にセキュリティがザルなだけじゃ……」


 有無を言わさぬ真田の張り手が秀彰の背中へと命中する。


「細かいことは気にするなっ!」

「ぐぉっ」


 半ば施設に押し込まれるように入場した秀彰は、内部に充満していた空気に鼻をスンスンと鳴らす。


(……埃くさいな)


 出迎えたのは、錆と埃の混じったような不快な臭いだった。長期間利用されていないのか、内部の清掃事情はかなり杜撰なようだ。壁と通路の隙間に多数の蜘蛛の巣が張り巡らされていて、お世辞にも綺麗とは言い難い。


 秀彰は顔をしかめつつ、狭い通路を真田の後に続いて歩いた。格子状の床を踏みしめる度、キィキィと嫌な金属音が反響する。気紛らわせの意味も込めて、秀彰は真田の後ろ姿に声を掛けた。


「特行は普段からこの施設を利用して訓練しているんですか?」

「いんや、ここはもうお役御免の場所よ。特行では月に一回、近隣支部と合同で大規模な演習を行うんだけど、その時はもっと広くて、新しい設備の訓練施設を主に使ってるみたいよ。機器の調整やら何やらが色々と面倒で使いづらいって理由で、こっちは形骸化しちゃってるワケさ」


 だからこうして自由に使わせてもらってるんだけどね、と真田が皮肉混じりに口にする。


「他にも、ここと同じような訓練施設は幾つか存在するんですか?」

「えぇ、特行の支部に帯同する形で全国各地に点在しているわ。中でも凄いのは、無人島を丸ごと訓練場に改造している所で……」


 言い掛けたところで、真田は「しまった」といった表情で慌てて口元を押さえた。


「い、今の話は聞かなかった事にしてっ」

「センセって、まさか情報漏洩で特行を首になったんじゃ……?」

「それは断じて違うからっ! いや、ホントに! マジで!!」


 秀彰がやんわりと指摘すると、真田はふてくされたように先を急いだ。秀彰は肩を竦めつつ、スニーカーの先をトントンと叩いてから、その後へと続く。


 通路は施設の内周をぐるりと廻るように配置されていた。備え付けの照明は色褪せて切れかかっており、狭い通路がさらに窮屈に感じる。


「着いたわ、ここが訓練室よ」


 先導していた真田の足が止まると、脇に訓練室と書かれた部屋の扉が現れた。他の小部屋と違って扉の造りも重厚で、厳かな空気を醸し出している。


「言っておくけど、ここでの出来事は全て自己責任だから。大怪我したり、心に深いキズを負ったりしてもアタシのせいにしないこと」

「えぇ、分かってます」


 言質を取り、軽く頷いた真田は、壁に備え付けられた認証端末に顔を近づけた。認証完了と同時に、電力源と思しき巨大なモーターの駆動音が施設全体に響き渡った。無音から一転して騒がしくなり始めた部屋の内部を魅せつけるが如く、厳重な二重扉が左右に開いた。


 先に真田が入室するのを待ってから、秀彰も一歩を踏み出した。それまでの通路での暗がりが嘘のように、目の前には昼間の明るさが戻ってきた。爽やかな風と土の薫りを肌で感じとった秀彰は、訓練室内の異質さに眉を顰めた。


「意外と変わってないものね」


 久々に訪れた地元の景色を懐かしむような感慨深い声だった。屋外とも屋内とも違う、独特の景観を見て、真田は大きく伸びをしてみせる。


 テニスコート程の広さの室内には土と芝生、それに小規模の噴水が設置されており、地面の上には瓦礫や鉄パイプ、断面を曝け出した電線など脈絡のない要素が散見する。


 天井からは複数本のダクトが伸び、そこから温風涼風が交互に送り込まれている。故に屋内に居ながら、まるで森林公園の中にいるような感じを覚える。


「使えそうな物が無ければ備品庫からテキトーに引っ張ってくるけど。どうする?」

「いえ――」


 それまでグルグルと訓練室内を歩き回っていた秀彰は一旦足を止め、今一度周りの景色を見渡した。噴水側の砂場、レンガ、そして室内全域に広がる土。これだけあれば十分だろう。


「――問題ないです」

「おーけー、なら訓練開始といきましょうか」


 含みのある笑みを浮かべた真田に、秀彰も不敵に笑ってみせる。


「痕印者として生きていく上で最重要な能力とは何か、それは状況判断能力だ。戦いというものは必ずしも勝つ必要は無いけれど、次に繋がらない負けだけは避けなければならない。ま、要するに犬死にだけはするなって事だ」


「どんなに強力な痕印能力にだって短所はある。だけどそれを戦いの最中で見つけられるか、有効的に突けるかは当人のセンス次第さ。だからこそ、いついかなる場面で敵意を持った痕印者と遭遇しても、最低限自分の身だけは守れるようになりなさい」


 真田の独白に、秀彰は黙って頷いた。


「そのためにはまず、自身の能力を十二分に把握しておくことが肝要よ。すなわち、何が出来て何が出来ないのか。利点と不利点を正しく認識しておく事」

「認識の差が能力の優劣以上に状況を左右するって意味ですか?」

「その通り。常に最高のパフォーマンスを発揮するためには自分の能力だけでなく、相手の能力、行動、心理までを読み取りながら立ち回らなくてはいけないの」


 凛とした声で言い放った後、すぐに真田の表情がにへらと砕けた。


「って、口で言うのは簡単だけどさ、こればかりは実戦の中で身に付けるしかないのよね。どちらかと言えば基礎を押さえた上での応用編って感じだし」


 言いながら真田は部屋の隅にあったスーツケースをごそごそと漁り始める。


「つーわけで、今日はもっと初歩的かつ、単純明快な脅威への対策法を教えてあげるわ。携帯に便利で、多少の指導を受ければ誰でも扱える凶器と言えば――コイツよね」


 そう言って真田が取り出したのは、映画や刑事ドラマでよく見かける黒い筒。


(け、拳銃……!?)


 それが何かを理解した途端、弛緩していた秀彰の肩の筋肉が一気に緊張する。


「あはは、そう怯えなさんな。入ってるのは実弾じゃなくてゴム弾だから」

「なんだ……驚かせないでくださいよ」

「ま、ゴム弾と言ってもこれくらいの威力はあるんだけど」


 真田はおもむろに拳銃を構えると、近くに転がっているレンガへ照準を合わせて引き金を引いた。バシュゥと大きな射出音を残し、目標物のレンガを軽々と吹き飛ばす。


 真田はくるりと身を翻し、その威力を笑顔で誇示した。


「ね?」

「いや、『ね?』って言われても……」


 試し打ちを終えた真田はゆったりとした歩幅で秀彰の側から離れた。確かに実弾と比べれば殺傷力は劣るだろうが、当たりどころによっては病院送りもやむなしだろう。


 これから起こる訓練に若干の不安を感じ狼狽している秀彰に対して、真田はさも自然な動作で彼の方へと銃口を向けた。


「さて、ここからが本題よ。今からアタシが赤坂に向けてゴム弾を撃つから、アンタはその場から動かず、痕印能力だけを使って防いでみせなさい。ただし、能力を発動させていいのはアタシが引き金を引いてからよ」


 教科書の文例を読み上げるように、真田が淡々と指示を出す。無茶だと、そう直感的に判断した秀彰だが、ここで引き下がる気はない。


「いいですよ、受けて立ちます」


 秀彰はゆっくりと右手を掲げ、周囲の土に意識を集中させていく。準備が整ったと判断した真田が引き金に指を掛かる。


(猶予は一瞬だけだ。疾く疾く、一瞬の内に能力を展開させて――)


 精神を研ぎ澄まし、痕印の刻まれた肩口へと指示を飛ばす。通電が始まり、足元の土が浮き上がる。手応えは良好、これまでの自主練以上のタイムが出たのは間違いない。


 しかし――。


「ぐぅ……っっ」


 集約した土が壁を形成するよりも早く、撃ち込まれたゴム弾が秀彰の右手に命中した。猛烈な痛みに膝を屈した秀彰を睨みつけながら、真田は弾み返ったゴム弾丸を踏みしめて、一言。


「遅い」


 期待に応えられなかった生徒を容赦なく切り捨てるような、冷ややかな眼差し。発現途中だった痕印能力の残滓が、秀彰の周りで虚しく雲散していった。


「全っ然、ダメ。これが実弾なら、今頃アンタの手には風穴が開いているわよ。もっと危機感を持ちなさい」

「……はい」


 痛み以上に叱責の言葉が酷く秀彰の心に突き刺さる。自分でも能力発動が遅いのは分かっているが、そう易々と改善出来るものでもない。成功する未来像が見えているだけに、消化不良な歯がゆさが彼の唇を忌々しく歪めた。


「痕印の発現パターンの最適化は人それぞれだ。一切訓練せずとも、それこそ息を吐くように迅速に発現出来る者もいれば、そうでない者もいる。手荒いやりかたが嫌なら、いっそ座禅でも組んでみるかい?」


 くるくると、真田の指先で拳銃が廻る。腫れた右手の痛みからか、秀彰にはその仕草がやけに挑発的に見えた。


「いえ、このまま続行してください。不出来な生徒はもっと身体に覚え込ませた方が、指導する側としても溜飲が下がるでしょう」

「人を体罰好きな暴力教師みたいに言わないでよ……まぁ、否定はしないけど」


 皮肉交じりに吐き捨てつつ、秀彰はおもむろに立ち上がる。口元には敢えて、小馬鹿にしたような笑いを含ませながら。


「ここで怪我したからって、後で親御さんに泣き付かないでよね」

「センセこそ、下手に急所を外そうとしなくて構いませんから。それとも大事な教え子に傷を付けるのは忍びないですか?」

「ハッ、相変わらずクソ生意気な教え子だこと!」


 ギラギラと真田の瞳が炎のように燃え上がる。再び銃口を向けられ、秀彰は真っ赤に腫れ上がった右手を突き出して、応えた。


 先程よりも神経を尖らせ、媒介を一点に集中させる。無駄な思考、手順を踏まず、最短経路を辿るように……。


「うぐ……っ」

「まだまだぁ、気合と根性が足りてないぞ赤坂ぁ!!」


 続けて失敗し、今度は左手を撃ちぬかれる。痛みよりも何よりも、大口叩いて見返せない自分に腹が立つ。


「くぅ……もう一度、お願いします……っ!」

「頼まれずともくれてやる、歯ぁ食いしばれっ!!」


 言われた通りに歯を食いしばりつつ、次なる銃撃に備える。失敗を続ける度、秀彰の反応速度は上がっていく。通電間隔も短くなった。


「ぐ、ぐぐ……っっ」


 だが、足りない。辛うじて集積した土の壁はゴム弾の威力で呆気無く破壊された。ハリボテの壁を破り、膝下へゴム弾が着弾する。失敗だ、またもや失敗した。

 気付けば秀彰は全身を撃ち抜かれ、アザだらけになっていた。にも関わらず、未だ一つとして銃弾を防ぎきれていない。


「はぁ……っっ、……は……ぁ……っっ」

「ふー……」


 真田が大きく息を吐く。それは単なる吐息だったのか、はたまた諦めの混じった溜息だったのか。秀彰には判別が付かない。


「アンタの気迫と根性は認めるよ。最初の頃とは比べものにならないくらい、上達してる。けど、今更煽った本人が言うのもアレだけどさ、焦り過ぎだ。この訓練は特行所属の新人でもそうそうモノになる技術じゃない。今日の所はここまでにして、一旦休憩を取ろう、な?」


 真田は近くの噴水前に腰掛け、秀彰に近寄れと合図をする。彼女には珍しい心配りに秀彰の心が一瞬だけ揺らぎかけた。山登りの疲労と痕印行使の消耗で倒れそうなのは事実だったから。


(息遣いすら苦しい、喉もカラカラだ。けど、もう少し、後一歩のところで答えが……手応えが見つかりそうなんだ)


 シャツの裾を絞ると、濡れ雑巾のように汗が滴った。極限状況下ゆえの高揚感が、気力だけは有り余っている。


「後一度だけ、お願いします、センセ」

「……アタシの話、ちゃんと聞いてた?」


 無謀な秀彰の答えにやれやれと呆れながらも、真田は立ち上がって準備を始める。


「ったく、これで最後だからね。」

「じゃあ……最後の一発はここにお願いします」


 そう言って、秀彰が自分の額を指差すと、ちょうど空調のウィングが下がり、ぶぅぅんと鈍重な運転音が鳴った。場には一寸の沈黙が流れる。


「えーと、赤坂クン? そこ、アタシの目にはアンタの頭に見えるんだけど……?」

「はい、頭でお願いします。出来れば額の中心を狙ってください」


 困惑した顔で聞き返す真田に秀彰が丁寧に要望を伝えると、彼女は烈火のごとく怒り出した。


「アンタ、バカなの!? んな要求、応えられるワケがないでしょ。ただでさえ訓練で疲弊し切ってるってのに、失敗すれば怪我じゃ済まないわよ」

「だからこそ、狙ってください。じゃなきゃ意味が無いんです」


 当然、秀彰も引き下がりはしない。


「俺が短時間でここまで成長できたのは、真田センセの追い込みのお陰です。防がなければやられる、そんな緊張感の中で痕印を発動させたのは今回が始めてですから。けど、足りない。まだ足りないんです。心の内の何処かで甘えが残っている」

「甘え……ですって?」


 真田の苛立ちが具現化したかのように、周りの空気に揺らぎを生む。まさに強者の威圧に晒されながらも、秀彰の口が閉じることは無かった。


「真田センセ、貴方は俺が思っていた以上に優しい人だ。怪我で済むようにと同じ部位は狙わず、急所も外してくれた。でも、俺が本来背負わなければいけないリスクは怪我なんかじゃない。命だ」


 真田は拳銃を握ったまま、しかし構えようとはしない。それまで涼しげにしていた顔には焦りの汗が浮かび、苦悶の表情が見え隠れする。


「林教諭の事件への協力、認めてくださったのは感謝しています。だからこそここで、もう一度、俺の覚悟を試してみてはもらえませんか?」


 秀彰は懇願する気持ちで真田を見た。それを彼女はかぶりを振って嫌がる。卑怯な事を強要しているのは秀彰にも分かっている。一歩間違えれば真田は加害者になるだろう。


 二人の間に暗雲が立ち込めようとし始めた頃。ずれた眼鏡を指先で調整した真田は、唇を震わせながら問いかけた。


「……失敗しないって、保証はあるの?」

「ありません。けど、今なら成功出来る予感がある。それに、ここで試さなければ俺はいつか後悔します。だから――」


 秀彰が頭を下げて頼もうとした寸前で、真田が銃口を向けた。角度は先程よりずっと上、離れた位置からではあるが確かに頭部を狙っている。


「おーけー、もういい。アンタの覚悟は分かったよ。だったら最後にさ、親御さんに伝えたい言葉があれば教えて」

「夕飯はカレーが食べたいと伝えてください」


 あっそ、と真田が投げやりに吐き捨てる。銃口を向ける者の瞳から苦悶の色が消え失せ、迷いなき眼光に変わる。それが彼女の覚悟だと秀彰は受け取った。


「――っっ!」


 引き金に掛けた指が動く。それと同時に、秀彰の右手は自然と動いていた。痕印に意識を向ける刹那、脳裏に浮かんだのは自分の斃れた姿だった。白昼夢、それも予知夢という奴だろうか。


(それでもいいさ。その時は、その時だ)


 決意を固めた秀彰は、脳裏に燻る敗者の幻影に決別を送る。ぷつんと何かが切れた感触がして、周りの音が一切聞こえなくなった。音だけではない、目に映る世界からも濃淡が失われてモノトーンカラーに染まり、全ての動きがストップモーションのようにコマ送りとなった。


(……今なら、いける)


 成功を確信し、痕印から能力を引き出そうとするが反応はない。暫く名前を呼んでやらなかったせいで拗ねているのか。模様の癖に女々しいヤツだと、秀彰は心の中で失笑した。


 ならば呼んでやろう。叫んでやろう。心の中で、あらん限りの声量で。


(いくぞ相棒、俺を守りやがれ――)


 瞬間、停滞していた時間の感覚を秀彰は一気に取り戻す。


(――『ワイナルト』ぉぉぉぉ!!!)


 真田の放った灰色のゴム弾は彼の額を目掛けて飛来する。それが到達するより早く、猛烈な勢いで巻き上がった砂の大群が盾の形状を取った。


 秀彰の視界を遮っていた砂埃が晴れると、訓練の結末がようやく露わになった。厚さ5センチほどの土の盾の中心には撃ちだされたゴム弾が深くめり込んでおり、防ぎきった事を示している。


「ふぅ」


 安堵の溜め息を吐き、めくれ上がった地面を靴裏でなぞる秀彰。だらりと血液が顔の表面をなぞる感触に気付き、慌てて額に指をやったが何もない。鼻先のむず痒さにそれが鼻血であると分かった。勿論、ゴム弾による負傷ではない。興奮状態に陥ったゆえの産物だろう。


「どうやら加害者にはならずに済んだみたいですね、真田センセ」

「……そいつぁ良かったわ、ねっ!」


 最初は罪悪感にまみれた顔の真田だったが、秀彰の笑顔を認識すると彼の腹部へ強烈なブローを食らわせてきた。


「ぐえっっ……、な、なに……すんだ……暴力教師…っ!?」

「ふん、命を粗末にした罰よ。そのまま地面に寝っ転がって日向ぼっこでもしてなさい」


 手についた土埃をパンパンと払いながら、真田は恨めしそうな目で秀彰を睨んでいる。せっかく訓練が成功したというのに、何故こんな理不尽な処遇を受けねばならぬのか。起き上がって文句を言おうにも、疲弊しきった身体は言うことを聞かず、ドーム上部の人工灯を見上げながら、秀彰は諦めて大の字に寝転がった。


「それで、コツは掴めたの? まさかマグレなんて言わないでしょうね?」

「そうですね……」


 真田は噴水前の石段に腰掛け、唇を尖らせてこちらを不機嫌そうに見ている。秀彰は地面に寝転がったまま、右手を高らかに上げてみせた。そのまま痕印に意識を集中させると、真田が座る石段がごっそり宙に浮き上がった。


「きゃあっ!?」

「能力発現までのラグも無くなり、今まで動かせなかった媒体もこの通り使役出来ますので、成果は上々と言ったトコロですかね」

「いいから早く降ろせっ、あ、アタシは高い所苦手なんだよっっ!?」


 たかだか2・3メートルほどしか浮かせていないというのに、真田は狭い石段にペタンと膝を付いて女の子座りの格好で嘆いている。面白い光景にほくそ笑む秀彰は、このまま遊んでやろうとも思ったが、不意に響き渡った聞き慣れない電子音に、その気を奪われた。


 ―――ピリリリリ。


「あ、アタシのだ」


 下降する石段から地上に降り立ち、真田は内側のポケットへと手を伸ばす。そして若干古めの携帯電話を取り出すと、液晶パネルに表示された文字を見て露骨に顔を顰めた。


「……はい、真田です。施設無断使用の件ですか? それなら事前に真道から特別許可貰ってますから、文句があるなら先にあの若ハゲをコンプライアンス違反で処罰してからに……、え、その話じゃない? な、何の話かって、あー、いえ、お気になさらず、えへへ、ちょっとした勘違いで――」


 いきなり強気に出たかと思えば、愛想笑いで誤魔化しながら会話している。大人の世界とは複雑なのだろうと、関心しながら聞いている秀彰だったが、続く会話の中で真田の面持ちが変わった。


「……っ、そうですか。いえ…こちらの方でも特に変化はありません。捜査への協力も今は難しいかと…すみません。それでは、また」


 通話が終わると、真田は忌々しげな表情で天を仰いだ。秀彰も釣られて起き上がる。まだ多少の痛みは残っているが、休息を取っている場合ではない。


 彼女の纏う重苦しい空気が、凶禍の訪れを告げていた。


「何か、あったんですか?」


 秀彰の問い掛けに真田は視線を戻すと、絞り出すように言った。


「昨晩のうちに特行の痕印者が一人殺されたらしい――『聖痕民団』を名乗る輩によってね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る