第二話 痕印者 3
チェック柄の赤いキャスケットを目深に被った彼は、道行く者には目もくれない。だが、時々思い出したようにつばを弄っては、遥か頭上の景色を物欲しげに見上げている。
ちょうど雲が切れ、半隠れだった月が顔を覗かせた時だった。少年はニカリと白い歯を浮かせると、童女のように高らかな声で叫んだ。
「あはは、綺麗なお月様ぁ!」
突然の叫声に、傍に居たサラリーマンは驚いて下を見るが、少年の純朴な笑顔を見ると何も言わずに立ち去っていく。偶然居合わせた派手な化粧をした水商売風の嬢も、声の主が場違いな子供と分かると、やはり素知らぬ顔で立ち去っていった。
少年は、月夜を眺めるのが大好きだった。深海のように暗々と広がる空も、濃煙が棚引き流れる雲も、目に映る情景全てが彼の心を踊らせ、彼の歪んだ創作欲を育む師となった。
まるで月が持つ底知れぬ狂気に誘われるように、彼が動き出す日は決まって『満月』だった。
「まぁるいまぁるいお月様~、今夜はとってもいい気分~♪」
変声期前特有のソプラノボイスで、思いついたメロディを歌い出す。お世辞にも上手いとは言えない歌唱力だが、外れた音程が逆に聞く者の耳に残る、独特な音色を奏でていた。
「おっしごと、おっしごと、楽しいな~♪」
スキップに合わせ、頭のキャスケットがぱたぱたと弾む様は、かつて先人が月の模様に幻視したと言われる、兎そのものだった。
だが、その正体は人畜無害な小動物などでは決して無い。知る人ぞ知る超法規的機関『公安特務執行部』が追いかける連続怪死事件の実行犯にして、悪逆非道の犯罪者集団『
名を――
殺戮兵器が服を着たような存在の彼を、此の町の住人は無意識の内に避けていた。酒と女に溢れ、暴力沙汰も日常茶飯事の夜の街では、必然的に危険なニオイに敏感になるのかもしれない。
しかし悲しいかな、中には生まれ持ってそのニオイに鈍感な者も居た。
「おい、小僧!」
頼りない人工灯で照らされた細い裏路地に踏み入った途端、背後から粘着質かつ威圧的な声が響き渡った。少年は期待を込めた表情でゆっくりと振り返るが、一瞥しただけですぐに嫌悪まみれの渋面へと変わる。
サイズの合っていないズボンに、黒ずんだ防寒ジャンパー。無精髭に伸びっぱなしの長髪をした、小太りの中年男。恐らくはホームレス生活の浮浪者と思しき存在がそこに居た。
「お前……ここで何してんだ? ここら一帯はおいらの縄張シマだぞ!!」
中年男は錆びた銅製の棒をブンブンと振り回しながら、少年をこの場から追い出そうと威圧している。一見すれば気の触れたように見える男ゆえ、常人ならばトラブルを嫌って逃げ出すだろう。
「飯が欲しけりゃ他ん所行けっ、ぽっと出の新入りがぁ! 人の大事な物資を勝手に横取りして良いとでも思ってんのか、あぁん?」
この時、瀬能の後ろには棄てられて間もないゴミの袋が集積していた。中年男にしてみれば、長年温めてきた回収場所をどこの馬の骨とも分からない無作法者に盗られまいと必死なのだろう。
「帰れっ、さっさと帰れっ、クソガキっ! どうせお前には帰る家があるんだろぉ? そんな半端な気持ちで、おいらの邪魔なんぞするんじゃねえよぉ!!」
まるで野犬を追い払うように、中年男は棒で『しっしっ』と合図を送る。すると少年は言い返す風でもなく、余り気味の服の袖で鼻元を覆い隠しながら、投げやりに呟いた。
「……汚い」
「なんだとぉ?」
少年がボソッと呟いた言葉を、中年男は耳聡く拾った。
「はは、お前ぇ、自分がガキだから何言っても見逃してもらえるって思ってんな? 甘んめーよ、そやってガキばっか甘やかすからこの国の景気は良くならねぇんだよっ!」
ガィン、と短い金属音が裏路地に響く。中年男が手に持った銅製の棒で壁を殴りつけたのだ。
「畜生っ、チクショーっっ、ホント、どうなってんだよこの国はよぉ! おいらだって、毎日死ぬ気で生きてんのに、誰も助けちゃくれやしねえ。不平等だっ、理不尽だっ、なーにが弱者救済だよ、くそがあああああああああっっ!!」
嘆きは叫びへと変わり、表通りに響くまでの大声となるが、誰一人として心配して駆け寄ってくる様子はない。ガン、ガンガン、ガン、と不規則で不快な打音が裏路地に虚しく木霊する。
その間も少年は微動だにせず、中年男の奇行をじっと見ている。人を見る目ではなく、珍しい動物を見るかのような、冷めた目で。
やがて体力を消耗し切ったのか、中年男はふらふらと足元を揺らしながら少年の方へと歩み寄っていく。
「はぁはぁ……、ひひ、ビビって動けねぇかぁ? んんぅ? 今ならオジサン優しいから、見逃してやるぞ。あっ、財布は置いてけよ! 絶対だからなっ!」
キシシシ、と気味の悪い笑い声を発する中年男。それを見て、少年の口端が邪悪に蠢く。潰れろ、ゴミムシ。と、紅い舌が囁いた。
不意にパキリと音が鳴る。二人の頭上にあった街灯が砕け散った音だ。周囲の明かりが一段と暗くなり、数多の破片がぱらぱらと落下していく最中、中年男が怪訝そうな声を上げる。
「…………あ?」
見上げると、二つある街灯の内一つが粉微塵に破壊されていた。それが目下に居る少年の仕業だとは気付くはずもなく、中年男はただ奇妙な胸騒ぎだけを抱いてボゥとしていた。
「な、なんだいきなり……、何が起こったァ?」
その直後、再びパキリと破砕音が鳴ると、辺りは暗闇になった。さすがに異変を感じた中年男は、その場から逃げ出したい衝動に駆られるが、せっかく見つけた金蔓を手放す訳にはいかない。
「お、おいっ、逃げるんじゃねえぞクソガキっ! ちっ……なんなんだよぉ、こんな時に、ついてねぇ…っっ!!」
視界を失った中年男は、少年が逃げたと思い込んで前後左右に叫んだ。
「出てこい、おらああああっっ!! 大人を馬鹿にするとどうなるか、教えて――」
「へぇぇ、ボクに何を教えてくれるって?」
威勢良く吠えた刹那、中年男の腹部辺りに青白い光が現れた。ゆらり、ゆらりと左右に揺れ動きながら闇夜を漂っている。
「うひぃっ!?」
人魂を連想させる不気味な光に驚いた中年男は、甲高い悲鳴を発するとよろけながら後退し、ゴミ袋の上で腰を抜かした。
「な、なんだこりゃあ!?」
「汚いゴミがさぁ、喋ってるってだけでも気持ち悪いのにぃ、止めてよねホントさぁ」
少年の声を耳にし、中年男は定まらない視線をどうにか光の方へ合わせた。額を青く光らせた瀬能は軽蔑した瞳で、ゴミ袋に腰掛ける中年男の慌てぶりを見ている。
光の正体が自分より立場が下の少年だと分かった中年男は、たちまち顔をニヤつかせ、僅かばかりの自信を取り戻した。
「へ、へへっ、びび、ビビらせやがって! どど、どうせくだらない手品か何かだろっ? も、もう許さねぇぞクソガキが……死ねよなぁぁ!!」
そう言い放つと、中年男は地面に座ったまま、銅製の棒を投げつけた。横回転を掛けて襲いかかる凶器は、瀬能の顔面目掛けて進んでいく。そのまま幼い鼻先に突き刺さると思いきや、棒は空中で不自然に停止した。
「無駄だよ、こんなんじゃ死なないってば」
瀬能はにこやかに微笑みつつ、掲げた手のひらを徐々に拳へ変えていく。指を折る度、棒はギチギチと金属が圧し曲がる音を立てながら、粘土のように変形していき、やがては床へと落下した。
「……は、はああああぁぁ??」
ゴロンと足元に転がる∪字状の棒を見て、中年男は大口を開けて叫んだ。何が起こったのかまるで分からないが、背筋にゾクゾクと走る悪寒が死の前兆であることは本能で理解した。絶望に染まりゆく獲物の顔に愉悦を浮かべながら、瀬能はキャスケットのツバを後ろに回す。
「ほら、手品だよテ・ジ・ナ♪」
「ば、ばば、ばけ、化け物ぉっ!!」
怯えた声を上げ、手当たり次第の物を投げつけて必死に応戦するが、力の入らない手では瀬能の腰元にすら届かない。
「あははっ、そうだよ! それそれ! その顔が見たかったんだよ! ゴミはゴミらしく、無様な顔で死んでくれないとさぁ、ボク的にもつまんないんだよねぇ!」
「あ、あひいっ、や、止めっ、止めてくれぇっっ!!」
中年男もついには抵抗する意志すら投げ捨て、地面に顔を付けるように崩れ落ちる。
「止める? なんでさ。この世界に絶望してたんでしょ? なら潔く、次の人生に期待すればいいじゃん。ボクがその手助けをしてあげるよ」
「い、命だけは助けてくれぇ!! このっ……この通りだ!」
涙で滲んだ泥状の土床に、鈍く悲痛な摩擦音が響く。大の大人がプライドを投げ捨て、懇願する様に瀬能は邪悪な笑みで応える。
「くひひ、やーだね――『グラシャラボラス』」
「ひぎっ!?」
痕印の名を呼びつつ、瀬能が右手を高々と掲げると、中年男の身体はまるでワイヤーロープで吊られているかのように浮き上がった。
「嫌だぁぁぁっっ、死にたくないいいいいいい!!」
「あーもー、うっさいゴミだな。
「へきゅっ」
瀬能が右手に力を込めると、柔らかい破砕音を奏でて中年男の喉が潰れた。細かい血飛沫が広範囲に飛び散り、文字通り血の雨が降り注ぐ。白目を剥き、舌をだらりと垂れさせているが、息はまだある。
「あはは、潰れかけの虫みたいにピクピクしてて面白いなぁ。そーれこねこねー、こねこねー♪」
「……っ、……っっ」
口ずさむリズムに合わせて、瀬能がおにぎりを作るように両手を握り合わせる。ギュッギュと手の平に力を込める度、中年男の身体が小さくなっていく。本人の意志とは無関係に、手足を無理やり身体の内側へ押し込められているようだ。
「よっ、よっ、こんなもんかな?」
瀬能が手を止める頃には、元は中年男だった身体は直径四十センチほどの不恰好な肉塊のオブジェへと変貌していた。
「ふぅ、いい汗掻いた~。どうせ殺るならこれくらい遊んどかないとね」
握っていた両手を離すと、宙に浮いていた肉塊は重い水音を立てて、血溜まりの地面へと落下した。多量の返り血を浴びた瀬能はポケットから飴を取り出し、それを口に含む。涼し気な顔には罪悪感など微塵も無い。
「ん?」
ふと、首を後方にかしげると、それまで遠い喧騒の漏れ声しか届かなかった裏路地に、何やら慌ただしい足音が近づき始めた。
「もしかして、おかわり?」
興味を惹かれた瀬能はバリボリと飴を噛み砕いてから、通りに向かって歩き出した。裏路地から顔を出した直後、一際強い光が彼の顔へと浴びせられる。
「――こんな夜中に子供一人で何をしている?」
「っ、なんだよ急に、眩しいじゃないか」
瀬能に声を掛けたのは、白いヘルメットと防弾衣に身を包んだ警官風の若い男。両手にはめた手袋には幾何学模様に剣をあしらったデザインが施されており、それが彼の所属――公安特務執行部の痕印者であることを示していた。
付近で感知した痕印能力の出処を探れと、支部長から連絡を受けた直後の遭遇だった。周囲に漂う血臭と痕印残滓を察知して、少年に警戒の念を強める。
「その顔にへばりついた血はなんだ。獣の解体でもしたのか?」
「え? これはほら、鼻血だよ。暗いから転んじゃって……」
「しらばっくれるな。お前が痕印者だという事は分かっている」
「へへ、だったら何だって言うんだいオジサン?」
カシャンと鉄の擦れる音が鳴り響き、瀬能の眼前に銃口が現れる。過去に機動隊で支給されていた旧式の自動拳銃、いわゆるお下がりだが、この近距離で銃弾を撃ち込まれれば痕印者だろうが殺傷可能だ。
「妙な真似さえしなければ丁重に”保護”してやる。さもなくば――」
「おー怖い怖い。そんな危ないモノ、子供に向けないでよぉ」
瀬能は柔らかそうな両手を天に向けて掲げ、敵意が無いことをアピールする。それを見た特行所属の男は左手で懐中電灯を持ったまま、器用に無線機のスイッチを入れた。
「こちら丸山。相楽班長、応答願います。●●町三丁目の裏路地にて痕印者の少年を発見しました」
「ところでさ、その格好……もしかしてオジサンってトッコーの人間?」
瀬能の問いかけには答えず、特行所属の男――丸山は手持ちの懐中電灯で周囲の状況を観察し始めた。立ち込める血臭に不快さを覚えながらも、丁寧に現場を洗っていく。やがて、懐中電灯の光が地面に転がっていたおぞましい肉塊を捉えた。
「……っっ、う…ぐ…こ、これ…は……」
猛烈な吐き気に襲われた丸山は無線機での報告を断念し、思わず口元を押さえ込んでしまった。肉塊に埋没していた、人の顔らしき物体と目が合ったのだ。
『どうした、丸山。応答しろ!』
無線機から響く上司の声で我に返った丸山は、意志を奮い立たせて応える。
「し、死体です、グチャグチャにされた死体が――」
だが、それ以上の言葉を続けることは出来なかった。気が動転していたとはいえ、被疑者から目を離したのは愚行中の愚行だった。ちゃぷちゃぷと血溜まりを走る音を耳にし、丸山はすぐさま背後を振り返るが、小さな悪鬼は既に眼前まで迫っていた。
「み ぃ ち ゃ っ た ぁ♪」
「……っ!?」
口元を三日月のように釣り上げ、嗤う瀬能。殺気を感じ取った丸山は素早く銃口を向け直したが、そこから銃弾が放たれることはなかった。被疑者の幼い顔付きに躊躇したのか、それとも別の理由があったのか。真実が彼の口から語られる機会は、永遠に失われる事になる。
「く……ぎ、『ギガント――」
代わりに丸山は痕印名を叫ぼうと試みた。しかし、極度の緊張で心拍数が上がった状態では、能力発動に時間が掛かる。肉薄する間合い、二者の視線が交錯する。動揺でチカチカと点滅を繰り返す丸山の瞳に対し、瀬能の瞳は黒一色、開ききった瞳孔が淀みない純の狂気を示していた。
「……っ!?」
瀬能は右手で手刀の形を作ると、走る勢いそのままに丸山の腹部へと突き刺した。指先に迸った高重圧の波によって、丸山の着る防弾衣には拳大程の穴が空き、抉った中身はトコロテン式に背中のさらに後方へと捻り出された。
「ぐぶ……っっ」
無駄のない、鮮やかな一撃だった。発動に間に合わなかった痕印能力の残滓が、丸山の身体から霊魂のように抜けていく。
「ぶば……ぁ……ぐっ…!」
「遅いよ、オジサン。痕印を使うのにそんな時間掛かっちゃ勝負になんないよー」
腹部を貫かれた丸山の口から、泡の混じった鮮血が溢れ出す。誰が見ても明らかな致命傷だ。ガ、ガガと、耳障りなノイズが辺りに虚しく響く。
「ぐぶっ…つ、強いな……お、前……」
「んへへー、まーね。ていうか、オジサンが弱すぎるんだよ。そんなんでボクら聖痕民団に勝てるとでも思ってるの?」
そのキーワードに、丸山はピクリと眉を動かした。
「…せ、聖痕民団……だと。で、では……今までの怪死事件は……、やはりお前らの…、し、仕業……だったのか…?」
「『カイシジケン』? んー、よく分かんないけど、オジサンみたいなゴミを処理してたのは、このボクだよ」
自身の胸に親指を向け、勝ち誇る瀬能。
「ふ、ふふ……なるほど、な……、子どもだからといって油断したよ…、良ければ名前を……教えてくれないか?」
「えー、どうしよっかなー」
ガクガクと手足を震わせながら、丸山が問い掛ける。
「どうせ俺は……このまま死ぬんだ…、な、なぁいいだろ……?」
「仕方ないなぁ。じゃあ特別サービスで教えてあげる。ボクの名前は瀬能亮太。もうすぐ幹部になる予定の超々優秀な痕印者だから、あの世へ行っても覚えておいてね!」
「そ、そうか……」
瀬能の自己紹介を聞いた丸山は、口元に手繰り寄せていた無線機に向かって、力の無い声で最後の報告を送る。
「そ、そういう事……らしい、です、相楽、班長……っ。後は……よ、宜しく……た、頼み…ま……すっ」
『……良くやった、丸山。後は俺達に任せろ』
「…………へ?」
路地裏に漏れ広がる悔恨強い声に、キョトンとする瀬能。だが、すぐに自分の失態に気がつくと、顔を真っ赤にして怒った。
「お、お前もかっ、くそっ!! ……死にぞこないの癖に余計な事しやがって……っ!」
「――ッッ!?」
瀬能が丸山の腹部を貫いたまま、拳に力を込める。一際強い痕印能力が発現し、空間が歪み、穴の直径はさらに拡大した。大部分の臓器を失った丸山は、糸が切れた人形のように地面へ倒れ伏し、絶命した。
しかし、その横顔は絶望ではなく、達成感に満ちていた。
「く、っそおおおお!! こんなものっ、こんなものぉっっ!!」
なおも耳障りな雑音を鳴らす無線機を睨みつけ、能力を使って粉々に押し潰したが、瀬能の苛立ちは消えない。
「あー、もういいよっ! 特行だか何だか知らないけど、ボクが纏めてぶっ殺してやるよ!!」
瀬能が怒りに任せて壁を叩くと、彼の拳を中心として蜘蛛の巣状のひび割れが生じた。衝撃の余波で血溜まりに落ちた懐中電灯が、カラカラと転がる。
「クソっ、ボケっ、カスっ! ゴミムシのくせにっ!! ボクの邪魔ばかりしやがって…っ!!」
それでも怒りは収まらず、瀬能はありったけの能力をぶつけて路地の幅を無理矢理に広げていく。やがて成人男性ほどの大穴が路地裏の壁に空いたと思いきや、嗄れた男の声が瀬能の周囲に反響する。
「ひっひひ、やってしもうたのぉ。瀬能の」
「……見てたのなら手伝ってくれてもいいじゃん。相変わらず、柳のじっちゃんは意地が悪いよ」
それはさながら影の中から出てきたように、瀬能の背後に新たな人物が出現した。声の主は瀬能と変わらないほどの小さな背丈をした、白髪の老人だった。紋付羽織袴を身にまとい、腰には胡蝶蘭を模した鍔の日本刀が携えられている。
老人の名は
「よく言うわい。儂が手を出せば、散々文句を垂らしていただろうに」
「うー、まぁ……そうだけどー……」
「それにしても、まさか特行の連中にまで手を出すとはの。お主の頭の中にはどんな色の味噌が詰まっておるのか、一度開いて見てみたいわ」
「ふん。なにさ、トッコートッコーって皆して怖がってるけどさー。全然大した事無かったよ。ボクらから見りゃ、あんなのザコの集まりだって」
柳は骨身同然の手で自分の顎を擦りながら、瀬能の顔をジロリと睨みつける。そこにはやんちゃな部下を咎めるというよりも、組織の癌細胞にうんざりしているというニュアンスの方が強く窺えた。
「ほお、末端の者を一匹潰したくらいで大した事無いとほざくか――この戯けが」
剃刀のように鋭く研ぎ澄まされた眼光に当てられ、瀬能は押し黙った。現幹部と幹部候補、近しい地位に見える両者だがその間には埋めがたい格差があった。
「うぐ……っっ」
「良いか、瀬能の。今の我等は
徐々に語気を強める柳が日本刀の柄に手を伸ばした瞬間、彼の姿が狭い裏路地から忽然と消えた。瀬能は慌てて右手を掲げ、迎撃の構えを取る。姿は見えないだけで、瀬能には柳の存在が知覚出来ていた。
ただし、その出処は――周囲を覆っている暗闇全体からだが。
「小物を狩るのはお主の自由よ、好きにすればええ。ただし、儂に狩られても文句は聞かぬぞ。儂とて、"小物狩り"は好物の一つじゃからのぉ……ひっひひ」
「ぐ、ぐぐぐぐぐぅぅぅ……っっ!!?」
闇夜の裏路地に、柳の嗤い声が響き渡る。逆に追い詰められた瀬能は、悔しげに唇を噛むことしか出来ない。
瀬能の痕印能力は範囲が狭い代わりに凶悪な威力を誇る。裏を返せば、相手の姿が見えない状態では真価を発揮できないのだ。それを熟知している柳は、自らの得意とする環境へと巧みに誘い込み、優位を保っている。
「はぁ……はぁ……ひぐっっ!?」
「分かったか。所詮、お主の実力なんぞこの程度に過ぎんのだ」
瀬能が小さな悲鳴を上げる。いつの間にかその細白い首筋には冷たい刀身があてがわれていた。背後を取った柳がこのまま刃を引けば、少年の首は容易く飛ぶだろう。
「えっと、冗談……だよね? 本気でボクの事、殺そうとは思ってない、よね?」
「さぁて、どうかの」
質問に答える代わりに、柳はほんの少しだけ刃を食い込ませた。プツリと肉が切れる音を立て、瀬能の柔肌に鮮血の水玉が浮かぶ。
「か、勝手な事をしたのは謝るって! ごめんなさいっ! 今度からは良い子にするから、ねっ、ねっ??」
目尻に涙を浮かべながら、瀬能は必死に命乞いを始めた。瞳から狂気の色は抜け、歳相応の無垢な少年の顔に戻っていた。それでも、柳は無表情に徹している。
「……と言っておるが、どうするのじゃ。世良の」
「個人的な意見で言えば、そのまま喉元掻っ切って欲しいのだけれど」
柳が闇夜に問いかけるとさらにもう一人、裏路地の入り口から登場した。丸く纏めた後ろ髪に、ストライプの入った黒のビジネススーツを来た女だ。その瞳は、この場の誰よりも冷徹な色をしている。
名前は
「鳳様が目を掛けている手前、勝手に処分することは許されないわ。一度拠点に戻って、あの御方の裁量に任せましょう」
「ふむ、ワシも相違無いわい」
頷いた柳は刀を収めると、自由になった瀬能を世良の方へ突き飛ばした。そのまま抱きつこうとする瀬能の顔を、世良は脇に抱えたカルテの裏で受け止める。
バシン、と強めの打音が脳天に響くが、当の瀬能に気にする様子はまるでない。
「えへへ、世良って意外と優しい所もあるんだね。ボク、見直したよ!」
「勘違いしないで。たとえ鳳様から恩赦が得られたとしても、私の忠告を無視して行動したことは立派な規律違反よ。暫く陽の目は見られないと覚悟しなさい」
瀬能のキラキラとした視線を、世良はキツイ言葉で遮った。傍で見ていた柳は心底可笑しそうに引きつり嗤いを浮かべている。
「そんなぁ……」
「地下房行きか。それもまた一興よ、ひっひひ」
「何をノンビリしているの。一刻も早く、この場から離れるわよ。どっかの間抜けが情報を漏らしてくれたお陰で、特行が動き出している。今回ばかりは後始末する時間なんて無いわ」
冷たく言い捨てた世良は後ろを振り返ることなく、颯爽と裏路地を歩く。瀬能は俯きながら、柳は不気味に嗤いながら、彼女の先導に従った。さながら冥府の狗に食い破られたかのような無惨な残骸を残して、彼らは深き闇へと消えていった――。
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