第二話 痕印者 2
五月も半ばだというのに、夕暮れ時の第二グラウンドには未だ冬の残り香を思わせる冷たい風が吹き込んでいた。
「寒いからさっさとやっちゃってよ」
秀彰の背後から監視役の真田が催促の声を飛ばしてくる。相変わらずの高慢ちきな言い方に、秀彰は多少ムッとした声で返事を投げた。
「言われずとも始めますって」
ともあれ早く終わらせたいのは彼も同じだ。片目を伏せ、ゆっくりと右手を掲げながら、肩口に刻まれた痕印へ意識を集中させる。
(……来た、『通電』だ)
すぐさま、ピリピリと微弱な痺れが幾何学模様の傷痕をなぞるように走った。同時に、秀彰を中心とした半径数メートルにある物体への認識力が鋭さを増す。空間把握能力の向上とでも言うべきか。付近に存在する媒介の位置が秀彰には手に取るように分かる。
秀彰は無数に存在する周囲の砂礫や石片の中から今回扱うべき媒介を見定めると、そこへ強烈な念を飛ばした。彼が『動け』と命じると、まるで思念の糸に引き寄せられたかのように、一つの石がフワリと浮かび上がる。
「――ふッッ」
その瞬間、秀彰は内丹術で云うところの下丹田に力を込めつつ、肺に溜め込んだ空気を一気に吐き出した。狙いは昼休みと同じく、大木の幹。撃ちだされた石弾は昼間にあけた穿孔跡のすぐ横を再び抉り抜く。
ドン、と鈍い衝突音を響かせた石はそのままコロコロと地面を転がり、やがて草むらの一部と化した。もしこの標的が人体だとしたら今頃は拳大の穴が空いていただろう。
「……」
「ざっとこんな感じです。どうですか?」
秀彰はじんわりと額に浮かんだ汗を拭き取りながら、寒がりの監視官に向かって尋ねてみる。これでも上手くいった方だ。一部始終を無言で見終えた真田は腕を組み、何やらひとしきり考え込んだ後、秀彰の方へと近付いてきて、一言だけ。
「アンタ、それ本気?」
完全に秀彰の事を馬鹿にしたような声で聞いてくる。辛辣で、舐めきったような言葉は、逆に彼にとって待ち望んでいた答えでもあった。
「こんな投石まがいの攻撃じゃ、いくら老いぼれの婆さん相手とはいえ命中するとは思えない。これで狙えるのは田んぼのカカシか、無抵抗の自殺志願者くらいでしょうね」
「……そこまで酷評しなくても」
もしも真田がれっきとした痕印者であるなら、変に言葉だけで説明するよりも己の未熟さを見せたほうが手っ取り早く済むだろう。そう考えて、秀彰はこの辺鄙なグラウンドの隅で痕印能力を披露して見せたのだ。
極めて正当な評価なだけに反論も出来ないが、いくらアリバイ証明の為とはいえ、こうド直球に無能だと言われるのは結構ツライものがある。秀彰は心の中でひっそりと涙を流した。
「ま、けどこれで納得したわ。アンタが林の婆さんを殺した犯人じゃないってコトをね」
「分かってもらえて何よりです」
一先ず無罪を勝ち得た所で、秀彰はふっと安堵の溜め息を漏らした。だが、同時にその事実は真田にとって新たな仇が生まれたことを意味する。何気なく逸らした視線の下で、握りしめた彼女の右拳が小さく震えているのを、秀彰は否応なしに目にしてしまう。それが今の真田の偽りなき本心だろう。
「改めて言わせて頂戴。一方的に疑ったりして、本当に申し訳なかったわ。もしアタシに出来る範囲のことで償えるなら、何でも言って」
「何でも、ですか?」
「あ、けど公序良俗に違反することはナシよ。金銭要求とか、えっちぃのとか、そういうのはダメ。さすがにほら、教師として良くないことだと思うし」
「はぁ……」
真田はやや食い気味に言い放つと、両指でバッテンを作ってみせた。言われずとも、そんな低俗な要求をする気など無い。という意味で秀彰は溜め息を吐いてみせたのだが、これが見事に誤解された。
「ありゃ、そんなに残念がらなくてもいいのに」
「残念なのはアンタのあた……」
九割九分出掛かったが、何とか最後の尾だけは付け加えず喉元で留めてやった。真実は時に人を傷付けるものだ、という悪友の言葉を秀彰は思い出す。
「いや、何でもありません」
「アタシと喧嘩したいってのがアンタの望みってコトかしら?」
ギラついた目を向け、挑発的な態度を取る真田。固く握られていた拳はいつの間にか解かれていた。コロコロと変わる豊かな表情は、さながら万華鏡のようだなと、秀彰は口に出さず感心した。
「まさか。中指突き立てればいつでも実現可能な望みなんてわざわざ叶えて貰う価値は無いですよ」
「あはは、言えてる」
真田はその場でくるりとターンを決めてみせると、秀彰の顔を悪戯っぽく覗き込みながら、尋ねてきた。
「んじゃ、アンタの望みは何なのさ?」
そんなもの最初から決まっている。そう言わんばかりに、秀彰は即答する。
「痕印者として生きていけるだけの情報と技術を俺に教えてください。見ての通り、俺は痕印者に成り立ての未熟者で、能力の使い方も知識も何も知らない」
「ハッ、知ってどうする。正義の味方にでもなるつもりなの?」
真田の言葉にはあからさまな蔑みが含まれていた。もしかすると、自嘲なのかもしれない。それを判別するには、秀彰はまだまだ彼女のことを知らなさ過ぎた。
「正義だろうが悪だろうが、そんなのはどうだっていい。他の痕印者と戦う事、それこそが今の俺の望みです。無論、ただ強敵に立ち向かって死ぬのが勇ましいとは思わない。命がけの駆け引き、その先にある勝利の愉悦を味わうことが、俺にとっての生き甲斐だと感じるんです」
「随分と自己中心的な思想ね。闘争本能の赴くままに暴力を振るえればそれでいいだなんて、まるで獣じゃない」
真田は口元に手を当て、秀彰の瞳を一心に見つめている。思わず秀彰は視線を逸らしたい衝動に駆られたが、何故だか出来なかった。瞳に魅入られるとはこういうことなのかと、一人納得する。
「多感な年頃だしさ。痕印なんて不条理で非日常な能力を手にしたら、それにのめり込んじまうってのも良く分かる。だけどさ、この世界はそんな甘い覚悟じゃ生きていけない。失うモノも沢山あるだろう。アンタ一人の命では到底賄えないような、辛い代償を求められるコトだってある」
「……っ、それでも、俺は――」
反論しようと前に出る秀彰を、突き出された手の平が制す。ピンと伸ばされた指先は『分かっている』とでも言いたげに、彼の口を封じた。
「アタシはそんな無謀者の生き方なんて歓迎しないし、応援だって真っ平御免だ。けれど未熟なまま、この社会の理すら分からないまま、ただ死んでいくのを見送るのはアタシも忍びない。だからせめてアンタの望む通り――教育だけはしっかりとしてあげる。赤点取らないくらいにはね。それが一指導者としての…いや、アタシ個人の
「真田教諭……」
どこか不器用な、それでいて温かみのある彼女の言葉に、秀彰は深い感銘を受けながら聞き入っていた。するとパチンと鋭い打音が鳴り、無防備だった額に痛烈な痺れが走る。眼前には真田が曲げた指を携えつつ、ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。どうやら不意打ちでデコピンしてきたようだ。
「っつぅ……こ、この暴力女が……っ」
「ほら、言ったそばから油断しやがって。呆けた顔してんじゃないわよ」
丁度その時、夕闇のグラウンドを一陣の風が吹き抜け、一つ結びにした真田の長い黒髪を大きく靡かせた。やや童顔の気のある女教師の表情は、いつにもまして穏やかだ。
「話の続きは宿直室に戻ってからにしましょうか。こんな場所じゃ寒いし、暗いし、やるせないし」
「そうですね」
「……と思ったけどさ、その前に一つ、赤坂に注文付けていい?」
「なんですか、真田教諭」
聞き返した途端、真田は秀彰の顔に向け、ビシっと力強く指を差した。
「それよ、ソレ。前々から気になってたんだけどさ、その『真田キョウユ~』って変な呼び方、やめてくれない?」
「いや、そんな間抜けな語尾の伸ばし方してませんけど……気に入りませんか?」
「気に入る、気に入らないの問題じゃなくってだなぁ」
真田はしかめっ面を浮かべながら、首の後ろをポリポリと掻いている。
「別に間違っちゃいないけどさぁ、なんかこう堅苦しいっつーか……聞いてて首の後ろがむず痒くなるのよねぇ」
「はぁ」
「普通にセンセイで良いわよ。てか、そう呼びなさい。真田先生と」
面と向かって止めろと言われれば、従うしかない。密かに教諭という呼び方が気に入っていた秀彰は、少し残念そうな顔を浮かべている。
「じゃあ……真田センセで」
「ん? まぁ、いいや。今度からそう呼びなさいよ」
微妙なアクセントに首を傾げつつも、真田は秀彰を伴って宿直室へと歩きはじめる。
「はー、それにしても寒いわねぇ。カーディガンでも羽織ってくればよかったわぁ」
旧校舎へと向かう道すがら、寒がりの吐息は暗転し始めた春空の下へと還っていく。
「年を取ると足腰が辛いと言いますからね」
「アンタ、もっかい組み敷かれて関節極められたいの?」
鋭利な犬歯を剥いて威嚇する彼女の相貌は、既に普段の炯々とした輝きを取り戻していた。食いかかられそうな勢いに負け、秀彰が両手を上げて降参のポーズを取ると、真田はふんと鼻息を鳴らして早歩きで先を急いでいった。
「…………」
グラウンドの砂利を踏みつつ、秀彰は悟られぬようひっそりと立ち止まる。そして、自分と同じくらいの背中に向けて、深く静かに頭を下げた――。
※
「うぅ~、寒かったぁ」
宿直室に戻るや否や、真田は真っ先に給湯場へと駆け込み、真鍮製のヤカンに火を掛け始めた。バタバタと忙しない足音にどこか既視感を覚えつつも、秀彰も靴を脱いで畳へと上がった。見たところ、室内には暖房器具らしき物はない。彼女のような生粋の寒がりには過酷な環境だと言えよう。
「赤坂の分も珈琲でいい?」
「お構いなく」
「あ、その間に
「……炬燵?」
どこにそんなものがあるのかと、秀彰は軽く周囲の備品を見渡してみるが、狭い室内にあるのは少し大きめの丸机と寝具一式くらいだ。
ふと、奇妙な物が壁に立て掛けられている事に気付き、近寄ってみた。それはちょうど机と同程度の大きさの丸板で、上から被せようと思えば被せられるくらいの、絶妙な形状をしている。
「まさか、コレと机の間に毛布を挟み込んで、炬燵代わりにするんじゃないですよね?」
「ぴんぽーん、大正解!」
「なんつー侘しい炬燵だ……」
丸机の上にある使用済みの珈琲カップを回収しながら、真田がにこやかな顔で答える。『質素倹約を志し、豊かな人材を育む』とは入学式での校長の言葉だが、こういう生徒の目に付かない部分にまで訓示の通り実践しているとは驚きだ。秀彰は少しだけ、真田のコトを見直してしまいそうになったが――。
「いやー、元はちゃんとした炬燵があったんだけどね。机ひっくり返して麻雀卓に使ってたら、後日教頭にバレちゃってさぁ。すぐに没収されたってワケ。全く、酷い話よねぇ」
「……」
「あ、あはは」
「…………」
すぐに前言撤回することと相成った。
「っと、そろそろお湯が湧きそうだっ!」
気まずい沈黙から逃げるように、真田はコンロの元へと立ち戻っていった。秀彰は軽い徒労感を覚えて溜め息を吐くと、仕方なく簡易炬燵の設置に取り掛かることにした。
(こんなんでいいのか……?)
丸机の上に毛布を敷き、さらにその上から薄い木板を被せる。見た目は炬燵っぽくなったものの、毛布の厚みのせいで妙にゴワゴワしていて不格好だ。
そもそも今は五月中旬。いくら季節外れの寒冷風で外は寒いと言えども、家の中まで暖房具が必要とは到底思えない。秀彰が一抹の不安を抱えながら上蓋の位置を整えていると、背後からご機嫌な声が響く。
「お、良い感じにセッティング出来てるじゃーん♪」
トレイに淹れたての珈琲を載せて運んできた真田は、歓喜の声を上げながら意気揚々と簡易炬燵へと潜り込んでいく。雑な配膳のせいで、危うくカップの中身が服に引っ掛かりそうになっている。まるではしゃぐ子供だ。
「何遠慮してるのよ。赤坂も早く入りなって」
「はぁ」
電気の点かない炬燵に違和感を覚えつつも、秀彰は誘われるがまま足を入れてみた。ひんやりとした畳の感触と毛布の柔らかさがズボンの上から伝わってきてなんとも言えない。が、思っていたよりは悪くなさそうだ。
しかし、それにしても狭い。まっすぐ足を伸ばすと、対面に腰掛けている真田の足に当たるので、止む無く斜めに位置度ることにした。お陰で左足の指先は毛布の外へとはみ出てしまっている。炬燵特有の安らぎはどこへやら。
「ほれ、珈琲淹れてきたから飲みな」
「どうも」
差し渡された花がらの珈琲カップに砂糖とクリープを並々と混ぜ入れながら、秀彰は会話の口火が切られるのをじっと待った。
「ずずず……さて、それじゃボチボチ本題に入ろうかしらね」
湯気立ち昇る珈琲を一口啜った後、真田はこんもりと盛り上がった丸机の上に肘を付いて秀彰を見ながら、口を開いた。
「兎にも角にも相手の事情が分からなきゃ、何から説明して良いのか分かったもんじゃない。という訳でだ、一年二組の赤坂秀彰クン。まずはアンタが痕印者という存在をどこで知ったのか、その経緯から詳しく説明して貰おうか」
「分かりました」
秀彰は軽く頷いた後、真田の要求通りに事情説明を始めた。
先月初めに執り行われた入学式の後、友人と二人で立ち寄ったファーストフード店で、他校の不良と喧嘩騒ぎを起こしたこと。その後、突然乱入してきたパーカー男が不可思議な能力を用いて、店の中を滅茶苦茶に荒らし回ったこと。そして、その男が自らを『痕印者』と称したことまで。
話し終えると、何故か真田は肩を震わせつつ、込み上げてくる笑いを堪えるように口元に手を当てていた。
「く、くく、そりゃ災難だったわねぇ」
「……何がおかしいんですか?」
自分の痕印者としての生い立ちごと馬鹿にされたような気分になった秀彰は、不機嫌さを隠さず聞き返した。すると彼女の顔からふっと笑みが消え、どこか冷めたような視線になる。
「何がって、そのパーカー男の言動全てがよ。くだらない選民思想に心酔し、自らの特異性すらあけすけに放言しちまうなんて、迂闊にも程があるっての。馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうわ」
「その油断と慢心のお陰で、こっちも何とか対処出来ましたけどね」
「対処……って、アンタまさか生身でその痕印者とやりあったっての!?」
無言で頷いた秀彰に対し、真田は大きく溜め息を吐いてから、ジト目で睨む。
「はー、あっきれた。やっぱ赤坂って早死するタイプの馬鹿だわ」
「よく言われますよ」
眉間に皺を寄せた秀彰が真田を睨み返す。褒められるとは思わずとも、こうまでなじられるのも彼にとって予想外だったらしい。仮にも教師なら、もう少しオブラートに包んだ言い方をしてもらいたいと、鋭い眼光を煌めかせて反抗した。
「んで、その後は? 他の痕印者との接触は無かったの?」
「えぇ、暫くしたら刑事のような格好の男がやってきてあれこれ訊かれましたけど、それ以後は他の痕印者らしき人物とも遭遇は――」
「ちょっと待った、ストップ、ストーーップ!」
突然、真田が両手の平を突き出して、秀彰の発言を制した。話の骨を折るなよと言いたい気持ちをグッと堪えつつ、その真意を尋ねる秀彰。
「なんですか、突然」
「その刑事っぽい格好をした男ってヤツの特徴、詳しく訊かせてくれる?」
やけに熱の篭った眼差しを向けられ、続きを催促された秀彰は、そのただならぬ様子に圧倒されながらも、言われた通り記憶を掘り起こしてみる。
「黒いスーツの上からトレンチコートを羽織った男です。歳は三十代か、もう少し前か。オールバックと額に傷のある威圧的な顔付きで、始終煙草を吹かしながら周囲の状況を観察していました……って、どうしたんです?」
珍しく、真田がポカンと大口を開いた間抜け面で見ていたので、秀彰はつい気になって聞いてみた。
「いや、よく特徴覚えてんな~って感心しちゃっただけよ。赤坂って記憶力良いのね、素行不良のくせに」
「素行不良は関係ないでしょう」
悪い悪い、とまるで誠意の感じられない真田の謝り方に、秀彰は呆れながらも言及はしなかった。
「それでその男がどうかしたんですか?」
「今アンタの言った特徴にさ、まぁ見事に合致する知り合いが一人居てね。名前は
「公安……? 執行部……?」
聞きなれない組織名に困惑する秀彰を見て、真田は柔和な笑みを浮かべた。どうやら彼の反応は期待通りのものらしい。
「公安特務執行部――通称”
「初耳ですよ。そんな組織が存在していたなんて」
「社会的には伏せられているからね。もとい、痕印者自体がこの世の中じゃ秘匿事項だし」
さらりと真田が重大な事実を口にする。それは、これまで幾度と無く秀彰の頭の中に疑念となって沸き出てきた事柄だった。何故、他の誰も痕印者の存在を認識していないのか。その答えを目の前の女教師は知り得ているらしい。
昂る好奇心に突き動かされるまま、秀彰はさらなる質問を飛ばしていた。
「公表しないのは、痕印者に対する偏見や迫害が発生するからですか?」
「それもあるし、何より特行側としても動きづらくなるからね。悲しいことに、この世では性善説よりも性悪説を信じて行動した方が生きやすいっていうかさ。例えばふとしたきっかけで便利な力を手に入れた人間が、その後も真っ当な人生を送る保証なんてどこにもないじゃない?」
真田の喩え話を聞いて、秀彰の胸の奥がチクリと傷む。今朝方、校門まで無差別に能力行使しようとした自分と重なり合ったせいだ。事情を知らない信吾にも戒められたが、やはりあれは浅はかな行為だったと自分を戒めた。
「じゃあ俺が接触したその真道という男も痕印者なんですか?」
「えぇそう。というよりも、特行の殆どが痕印者で構成されていると思ってもらった方が良いかもしれないわね」
「……真田センセも?」
二重の疑惑を含めて訊いてみるが、真田は至極あっさりと答えた。
「そ。アタシも痕印者よ。前は真道と同じ部署……つまりは特行に居たんだけど、今は退職して現場から離れているわ。赤坂が痕印者だと確信したのも、当時の経験が活きた証ってヤツ」
「なるほど」
どうして特行を辞めたのか、その理由についても気になったが訊かない事にした。込み入った事情にはなるべく首を突っ込みたくはない。
「どう? ここまでの話、理解出来たかしら?」
「えぇ、何とか」
脳内でメモを取りながら、秀彰は今回仕入れた新情報を反芻する。痕印者の秘匿事情、特行の役割、そして真道龍一という俺が知らぬ間に接触していた二人目の痕印者の存在。まだまだ噛み砕けてはいないが、未知の大海だった見識が僅かに輪郭を得た気がした。
「なら、本日の課外授業はここまでにしましょうか。外も随分暮れちゃったし、さっさと帰って来週の中間考査に向けた勉強もしておきなさい。アタシの教科で赤点なんて取ったらタダじゃおかないから」
「今は試験勉強なんて気分じゃ――」
それよりもっともっと痕印についての情報を知りたい。そんな態度が顔に出ていたのか、真田は秀彰を窘めるような口調で続けた。
「焦るなよ、少年。物足りないのは分かるけど、今はもっと日常を大切にすべきだ。どうせその内、闘争の渦中に身を置くことになるんだろうからさ」
「……はい」
「うむ、良い返事だ。んじゃ、もう外は暗いから気をつけて帰りなよ」
秀彰が頷くと、真田は使用済みのマグカップ二つを御盆に乗せ、流し場まで運び始めた。室内には水道水の流れる音が響く中、秀彰は手提げ鞄を拾い、そのまま退室しようと立ち上がる。
だが――。
「真田センセ――センセにとって林教諭とは、どんな存在だったんですか?」
「…………」
込み入った事情には立ち入らまいと自重したばかりだというのに、つい、余計な問い掛けをしてしまう。食器を洗う水音にかき消されたなら、それはそれでいいとも思った。らしくもない、軽率な振る舞いであることはすぐに自覚した。
キュッと蛇口の捻る音が鳴り、水音が止む。タオルで手を拭き、真田は秀彰の方へゆっくりと振り向いた。
「……少しだけ、アタシの愚痴でも聞いてくれるかい?」
ボソリと、弱々しい声色で呟いた真田に、秀彰は無言で頷いて見せた。
「林の婆さん――林先生はさ、高校時代からのアタシの恩師なんだ。 色々あって特行辞めてから、偶然この学校で同じ教師として再会してさ、 半人前だったアタシをあの人は快く迎えくれて、色んな事を教わったんだ。そりゃ普段は怒りっぽくて、口も悪けりゃイビリも激しい鬼婆だったけど、誰よりも学校のことを思ってる、アタシにとっちゃ教師の教師みたいな人ね」
自然と真田の視線が上向いていく。染みだらけの天井を見上げたまま、彼女はポツリポツリと思いを語り続けた。
「それがある日、何の前触れも無くパーっと居なくなっちまって。空虚って意味が、その時初めて分かったよ。あ~喪失感ってこういう気分なんだ~って、空っぽの心で納得した。けど、そうやって停滞してたのはアタシだけ。三日も経てば、他の教師達は普通に受け入れちゃっててさ。それがオトナの正しい姿だってのは、馬鹿なアタシにも分かるさ。分かるけど……」
はぁぁ、と真田が特大の溜め息を吐く。
「いくら嫌われてたからって、ついこの間までは同僚であり仲間だったろ? なのに……少しの恩も、感謝の言葉すら出てこないなんて……っ」
しばらくの間、真田と真田との間に沈黙の時間が流れる。いつの間にか、真田の一つ結びの髪は解けていた。
長く垂れた横髪が頬を隠し、そこにある表情は読み取れない。秀彰はただ、目の前の教師が落ち着くのを待った。
「アタシの望みは唯一つ。犯人への復讐だけ。もう既に特行には事件の調査は依頼しているけど、その後の状況はどうにも芳しくないみたい。恐らく、実行犯の背後には厄介な組織が控えているんでしょう。けど――」
真田は迷いを振り払うように、首を強く横に振った。美しい長髪が靡き、あらわになった素顔の奥にある双眸は、少しだけ赤く充血していた。
「だからって、アタシは退かないし、諦めない。相手がどんなヤツだろうが、絶対に
「なら俺にも、林教諭を殺した犯人探しを手伝わせてください」
真田は充血した瞳を隠そうともせず、睨むように秀彰の顔を見た。鬼気迫った表情だが不思議と恐怖は感じない。故に秀彰も物怖じせず、真っ向から彼女の思いと対峙する。
「ハァ、それで同情してるつもり? 半人前が出しゃばっていい事件じゃないのよ」
「同情なんてこれっぽっちもしてませんし、自分が半人前以下なのも自覚してます。でも、そんな俺から見ても今の真田センセは危うい」
ピクリと真田の眉が釣り上がり、怒りの反応を示す。それでも秀彰は言葉を止めない。
「危うい、ですって? どの口がそんな生意気なコト――!!」
「林教諭の無念を晴らすのなら、ましてや確実に復讐を成し遂げる気概があるのなら、それこそ感情で行動を左右されては駄目ですよ。使える駒はなんだって使う、それくらいの非情さも必要です。それがセンセに出来ますか?」
無言の重圧の中、秀彰と真田は暫し睨み合った。時計の針の音すら無い室内で、微かな呼吸音だけが行き交う。
「……ふん、ならそうさせてもらうわ。訓練すれば弾除けくらいにはなるでしょうし、飽きたらすぐ特行に放り捨ててやればいいだけ、そうよね?」
不意打ち気味にドンと肩を押され、秀彰の身体が少しよろめいた。フラフラとした足取りのまま、もう一度真田の顔を見ると、頬を膨らませ、鼻先まで赤くしていて、思わず苦笑してしまう。
「……何よ、文句あるの?」
「まさか」
即座に否定する秀彰。不覚にも可愛いと思ったなんてことは、口が裂けても言わないだろう。
「ここまで互いの利益が明確なら、なおさら好都合ですよ。俺から見れば痕印者と戦うための訓練が出来て、あわよくば相手も準備してもらえる。素晴らしい、最高の条件じゃないですか。これで一体、何が不満だって言うんです?」
「赤坂ってホンット……馬鹿なのね」
そう言うと、真田はクシュンとくしゃみをした。これまたキャラに似つかわしくない、可愛い声で。
「勘違いしないでください。俺は俺の利益のために動くんです。本音を言えば、俺は林教諭の死に対して特別な感情を持っちゃいない。自分が痕印者として成長すればそれでいい。それ以外の理由は全部建前だ」
「…………」
「真田センセ――俺だって、そんな人間ですよ」
壁に掛けてあったカーディガンを何故か頭の上から被った真田は、その隙間から真剣な瞳で秀彰を覗いている。
「それじゃ、また来ます」
秀彰はトントンと靴先で床を叩いてから、宿直室を出ようとした。が、やはり立て付けの悪い扉は中々開かず、ガタガタとやかましい音を立てるばかりだ。
「こら、乱暴にするな。壊しても修理費出ないから自腹なんだぞ?」
「え……マジですか」
「経験則に基づく確かな情報よ」
そう言って真田は慣れた手つきで扉を開ける。礼を言おうと振り返る秀彰だが、そっぽを向かれたまま視線が合わない。
(ま、いいか。さっさと帰ってしまおう)
首をかしげながら、秀彰が廊下へ一歩踏み出した時だった。外気からひゅるりと風が走ったと思いきや、彼の背後から風の音にかき消されそうな声量で呟き声が聞こえる。
「……ありがと」
秀彰は振り向かず、ただ春の風の悪戯だと思うことにした――。
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