第二話 痕印者 1

 所々が黒ずんだ年季入りの木床を踏みしめる度、ギィコギコと頼りない音が反響する。木造校舎特有のニオイは不快とまではいかないにしても、やはり多少は鼻を付くものだ。これを嫌う生徒が多いというのは、青春に疎い秀彰にも自ずと理解できた。


 旧校舎一階廊下の最東端。生徒手帳付属の校内地図によれば、目的の場所はこの辺りにあるらしい。文芸部に書道部、手芸部に軽音楽部といった文化系の部室をいくつか通り過ぎた先、一層古ぼけた字で『宿直室』と記された部屋を見つけた。待ち合わせ場所はここで間違いないはずだ。


 煩い心拍音を深呼吸で整えてから、秀彰は宿直室の扉をコンコンと叩く。


「真田教諭はいらっしゃいますか。一年二組の赤坂です」

「ど~ぞ~」


 すぐに室内から間延びした応答が返ってくる。真田の声だ。


「失礼します」


 一拍置いて、秀彰は老朽化した取っ手に手を掛けた。だが、立て付けが悪いせいか中々開かない。ガタガタと大きな音を立てつつ何とかこじ開けると、敷居を跨いで宿直室の中へと入った。


(思ったよりも清潔に保たれているな)


 外観のオンボロ加減とは裏腹に、内観の様子は生活感の溢れる小ぢんまりとした部屋という印象だ。六畳一間の中央にはレトロな装いの丸机が置いてあり、その上には積み上げられたプリントの束とティーカップが並んでいる。宿直制度という現代では珍しい制度が続けられているのも納得の空間だ。


 しかし、秀彰がいくら見渡せど肝心の部屋主の姿が見当たらない。


「……真田教諭?」


 再度名前を呼んでみるが、今度は返事がない。玄関には真田が履いていたと思しき靴があったので、逃げた訳ではなさそうだ。奥で来客用の茶でも用意しているのか。仕方なく秀彰は上履きを脱ぎ、無許可で畳に上がろうとした。


 ――その時だった。


「ぐっ……!?」


 死角から伸びてきた手が秀彰の腕を掴み上げ、そのまま畳の上に押し倒そうと背中越しに体重を掛ける。とっさに逃れようともがいてみるも、その動きすら相手の予想の範疇だったようだ。ダダンと地団駄を踏んだ拍子に足元をすくわれ、秀彰の身体は前のめりに半回転した。


「ぐ、ぉっっ!?」


 一瞬にして秀彰の視界が天井から床へと急旋回する。天地が逆さまに流れる景色を目で追う内に秀彰の顔は畳の上へと容赦なく叩きつけられた。その衝撃で丸机の上に積み上げられていたプリントが宙を舞い、バサバサと散らばり落ちる音が遠く聞こえる。鼻頭をしたたかに打ち付け、秀彰の鼻孔にじわりと嗅ぎ慣れた鉄の臭いが広がる。それでも必死に抗って上体を起こそうと試みるも、既に相手は秀彰の肘関節を極めに掛かっており、絶対的な劣勢を覆すことは出来なかった。


「く…っ、そ…っっ!!」

「やめときなよ。動けば動くだけ苦痛が強くなるだけだからね」


 秀彰の頭上から冷徹な声が咎めた。普段の授業で聞いているような感情豊かな声とは程遠い、無感動な声質だ。


「真田、教諭…っ!!」

「言っとくけど、痕印能力でどうこうしようとは考えないことね。少しでも怪しい気配がしたら、アンタの生命は無いわ」


 食堂での冗談めかしたモノとは違う、実現性を伴った脅迫。額から滴る脂汗が鼻血と混じり合い、秀彰は言い知れぬ不快感を覚える。


「く……ぅっ」

「そう、大人しくしてればこの尋問だって早く終わるわ。物分かりの良いヤツは嫌いじゃないから」


 そう言いつつも、真田は腕に掛けた力を緩めない。その気になれば腕だけでなく、首すらへし折ろうとする凄みが伝わってくる。あくまで秀彰と対等な関係を結ぶつもりはないようだ。


「単刀直入に訊くわ、赤坂ぁ。アンタが林の婆さんを殺ったのか?」

「な……なんのことだ?」


 唐突に意外な人物の名前が出たので、秀彰はつい反射的に訊き返してしまった。しかし、それがどうやら真田の癇に障ったらしい。


「いいから答えろ!」

「う、ぐ…ぐぐ…っっ!!」


 極められた肘関節へさらに力が加えられ、秀彰の骨がギシギシと軋みを上げる。あまりの苦痛に秀彰はただ呻くことしか出来ない。


(なんなんだこの女…っ、ただの女教師じゃねぇ)


 腕力もそうだが、一瞬で相手を無力化する技術は紛れもなく訓練されたモノだ。初戦喧嘩慣れしただけの素人である秀彰では歯も立たないほどに、強い。


「な、何のことだっ……お、俺、じゃないっっ! ……ぐ、ぐうううううっっ!!」

「しらばっくれても無駄よ。アンタが今日、この学校内で能力を使った事は分かってるんだ。無関係の一般人を殺して更なる愉悦に浸ろうとしたのか、それとも元特行のアタシの生命を狙っていたのか。どっちなの、答えなさい!」


 顔は見えずとも、相手が烈火の如き怒りに苛まれているのは明白だった。秀彰は薄れゆく意識を何とか繋ぎ止め、思考を行えるだけの胆力を振り絞る。


「と、トッコーってなんだよ、俺は何も知らない……っ、俺はただ、能力の使い方を練習していて――」

「あんなに人の多い場所で能力の練習だぁ? ふざけた嘘を吐くんじゃない!」

「ぐぶっっ!?」


 浮かせた踵で思い切りふくらはぎを踏みつけられ、秀彰の表情がさらに歪む。しかし、それは痛みのせいだけではない。初めから自分を犯人だと決めつけた理不尽な詰問に、彼の心に沸々と怒りが込み上げてくるのだ。


「ふざけてんのはどっちだ、こんなの、尋問じゃないだろ…っ…!」

「なんだって構わないわ。残念ながらアタシにゃ精神感応テレパシーの能力はないからね。アンタの証言がホントかどうかなんて分からないし、分かるつもりもない。要はアンタが罪を認めて謝罪すればいいだけのことだ」

「な……に……??」


 冤罪だろうがお構いなしという真田の態度に、秀彰は愕然とさせられた。多少手は早いとはいえ、まともな教職者だと思っていた人に、このような言葉を浴びせかけられるとは。


「言っとくけど、アタシは相手が生徒だろうが容赦はしない。素直に罪を認め、白状するまでここから帰さないからね……くく」

「…………」


 頭上から嗜虐的なせせら笑いが聞こえる。真田の言う通り、確かに秀彰が校内で紛らわしい行為をしたのは事実だ。そのせいで恩師を殺した犯人扱いされることも、不本意だが妥当な判断と言えるだろう。


 しかし、それでも秀彰には一つだけ――どうにも容認出来ないことがある。臨界点を超えた怒りは恐怖や苦痛を押し殺し、腹底から沸き上がる反骨心をこの上なく高ぶらせた。


「いい加減にしろよ、テメェ」

「あぁ? ……今、なんて言った?」


 真田の声色が低くなるが、秀彰は構わず大声で叫び続けた。


「アンタの正体がなんだろうが、んなコト俺にはどうだっていい。殺したきゃさっさと殺せよ。それで気が晴れるならそうしろ。けどな、それでも俺にとっちゃアンタはなぁ、教師なんだよ!」

「……っ、だからっ、何だってのよっ!!」


 ヒステリックな叫びとともに、締め上げられた腕が一層キツく締まる。だが、その程度では秀彰の口撃は止められなかった。


「教師だったらっ! 生徒が嘘言ってるかどうかなんて、分かるだろうがっ!  能力なんてモンに頼らずともっ! それとも……それとも、俺は――」


 不意に秀彰は唇を噛み、言い淀む。誰にも見せたことのない、弱い自分をさらけ出すのに一瞬だけ躊躇したからだ。


「そんなに、信用出来ない生徒なのか……?」

「ぐ、う…ぅ……っ…っ」


 畳に頬を押し付けながら、秀彰は掠れた声で慟哭した。冷静ではないことも、それが単なる感情論でしかないことも内心では分かっていた。溜め込んでいた鬱憤と塞ぎこんでいた感情を吐き出したいが為に、真田をていよく利用しただけだと。


(あぁクソ……何らしくもねぇコト口走ってんだ、俺は)


 内面の弱さを吐露したことを後悔しつつも、秀彰は何だか妙にすっきりとした気分になっていた。恩人殺しという汚名を晴らせないままというのは心残りだが、ここで美人の女教師に殺されるというのも中々悪くない最期ではある。


「……赤坂ぁ」


 か弱い乙女のような声に、秀彰はそれが真田のモノだとはすぐに分からなかった。不意に締めあげられていた腕が楽になり、秀彰の身体の自由が戻る。もぞもぞと芋虫のように畳の上を這って、その場から抜け出し顔を上げると、そこには未だかつて見たことのないような、意気消沈とした表情の真田が立っていた。


 ようやく顔を合わせ、向き合いながら会話が出来ることに、内心ホッと安堵する秀彰。


「アンタ、本当に……林の婆さんを殺ってないの?」

「やってません」


 敢えて一言だけ、念を押すようにきっぱりと否定する。それで充分伝わるだろうと秀彰は確信していた。


「あー……その……」


 真田はくしゃりと長い髪を掴みながらすぐに何かを言おうとしたが、モゴモゴと口篭るばかりで言葉にはならない。発言を待つ間に、極められていた腕や背中の痛みがぶり返してきて、秀彰は思わず呻き声を上げてしまった。


「つぅ……てて……」

「だ、大丈夫か、赤坂ぁ? えぇと湿布、湿布あったっけな……」


 オロオロと焦り顔を浮かべながら、真田は部屋の隅にあった救急箱から湿布を取り出し、ぎこちない手つきで秀彰へと差し出した。


「はい、これ。使いなよ」

「……あ、あぁ、どうも」


 てっきり患部に貼ってくれるモノだと期待していた秀彰だが、現実はそこまで甘くないらしい。パリッとフィルムを剥がし、痛む部位へと自分の手で貼り付ける。暫くすると患部が冷えて、痛みが若干楽になった。


 心配げに見つめる真田の視線を真っ向から返してやると、居心地悪そうに顔を逸らされた。


「は、ははっ、そんなに熱心に見つめられると先生勘違いしちゃうぞ~……なんつって……」

「実際勘違いして俺を殺そうとしましたよね?」

「うぐっ」


 真顔のまま秀彰が指摘すると、真田はビクリと肩を弾ませ、視線を泳がせる。学内で恐れられたあの『女王様』が困ったように眉を曲げ、もぞもぞと太ももを擦り合わせる姿は中々に新鮮な光景だった。


「言い訳する気力も無いわ……本当に、ごめんなさい」


 沈んだ表情でそう言うと、真田は秀彰の前で畳に頭を押し付けるように深々と頭を垂れた。もう少しで土下座になりそうなところで、秀彰は慌てて制止させる。


「頭上げてください、真田教諭。俺が林教諭殺しの犯人じゃないって伝わったのなら、それで構いませんから」


 ドラマや映画ではよく見る光景だが、面と向かって土下座されるのは性に合わない。足の指がムズムズとしてきた秀彰は、居心地の悪さから逃げるように助け舟を出す。


「本当に? 許してくれるの?」


 真田は顔を半分だけ上げて、眼鏡の角度がずれたまま秀彰の顔を上目遣いに見ている。普段気の強い女性が垣間見せる隙、ギャップというのだろうか。その仕草に秀彰も内心グラッと来てしまう。


「一方的に犯人扱いされたのは心外でしたけど、俺の軽率な振る舞いにも問題はありましたから。ですが、今後は俺の話も聞いて――」

「ホントっ!? 赤坂ってば、やっさしーっ!」

「ぐふ……っっ」


 聞き終わる前に、真田はすぐさま頭を上げて秀彰に抱きつく――もとい、タックルをかましてきた。突き出された肩と肘が秀彰の脇腹を的確に抉り、肺に溜め込んでいた空気を残らず吐き出させる。


「……ぉぉ……っっ」

「あは、ごめんごめん。つい昔のクセでタックルになっちゃった」

「ど、どんなクセ、だ……」


 にへらと口端を歪ませて笑う彼女の顔には、先程まで漂っていた申し訳なさは欠片も残っていない。


(この女、ワザとやりやがったな……)


 消沈した表情がたとえ演技だったとしても、せめて携帯のカメラで証拠写真を撮影しておけば良かったと、秀彰は強く後悔した。


「けどさぁ、なーんかまだ納得し切れてないのよね。上手く丸め込まれた感じがするというか。あ、別に今でもアンタが犯人だって決めつけているワケじゃないのよ?」


 それまでの意気消沈としていた空気はどこへやら。真田は普段と同じ口調で秀彰に話し掛けてくる。だが、変に余所余所しく接してこられるよりは自然体の方がやりやすいと、秀彰も特別口は挟まない。


「えぇ、言いたいことは分かりますよ。要は俺じゃないという証拠が欲しいんですよね?」

「そーそー。さすがは優等生、飲み込みが早くて助かるわ」


 床に散らばったプリントの束をかき集めながら、真田は皮肉にしか取れない言葉を発した。


「んで証拠はあるのかい? アタシが納得出来るような、ナイスな証拠がさ」

「ありますよ」


 整理されたプリントを端に置き、丸机の上で肘を付きながらこちらを見やる女教諭に対し、秀彰も負けじと不敵な笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。


「そのためにも、真田教諭。今から俺と第二グラウンド場まで来てもらえませんか?」

「おいおい、まさかアタシに愛の告白か~?」

「……は?」

「あぁ?」


 ついつい素の表情で真田を睨んでしまう秀彰。年甲斐もなく、頬を押さえて照れる姿があまりにもおぞましかったせいだ。数秒後、鬼とも見紛うばかりの凶悪な殺視線を向けられ、秀彰はコホンとわざとらしく咳払いを交えてやり過ごす。


「林教諭の殺害が俺の痕印能力で可能かどうか、そこで証明して見せようかと思いまして」

「えー、なんでわざわざグラウンドまで行かないといけないのさぁ。やるならここでパパっとやっちゃってよ」


 ぶつくさと文句を言われてイラッとする秀彰。そのアヒルのように尖らせた唇をクリップで留めてやろうかとも思ったが、代わりに素晴らしいアイディアが降ってきたので、それを披露することにした。


「そうですか。じゃあ今からここで試しますけど、俺もまだまだ痕印能力を完全にコントロール出来る訳ではないので、ふとした事故で諸先生方が苦心して作られたプリント類がグチャグチャに千切られるのは忍びないと思ったんですが、まぁ、部屋主の許可が下りたのであれば、遠慮なく――」

「……へっ?」


 そう言って、秀彰はおもむろに右手を掲げてみせる。一瞬キョトンとした顔になるが、彼の意図が分かった途端、真田はパタパタと袖を振って慌てだした。


「い、いや、それはさすがにマズイって! この部屋は旧校舎の中でも一、二を争うくらいに古いんだから傷なんてつけたら……それに回答済みのプリントを紛失しちゃったら減棒どころじゃ済まされないしっ! あ、あーもーー、分かった、分かったわよっ! 行けばいいんでしょ、第二グラウンド場にっ!!」

「ご理解頂けたようで、なによりです」


 秀彰は掲げた右手を下げると、早速グラウンド場へ向かうべく立ち上がった。机の上に積み重ねられたプリントの束を我が子のように庇っていた真田は、納得いかないと頬を膨らませて抗議しながらも、渋々秀彰の後について来る。


「あ、そうそう」


 宿直室を出て、秀彰が一歩踏み出した矢先。横に並んだ真田に、制服の袖下を思い切り掴まれた。


「万が一だけど、赤坂が逃亡を図る可能性も有り得るからねぇ。アリバイを証明し終えるまでは絶対に逃さないようにしないと」

「いや、袖掴まれるとすげぇ歩きにくんですけど……」

「文句言わずにちゃっちゃと歩きなさいよ。ほら、早くしないと日が暮れちゃうでしょうが」

「なっ、お、おい、ちょっとっ!?」


 秀彰の制止などまるで無視して、真田は袖を引っ張りながら強引に歩き始める。細い腕のどこにこんな馬鹿力が秘められているのか。秀彰はズリズリと引き摺られながら、旧校舎の廊下を後にする。


(散歩を嫌がる犬の気持ちって、こういうモンなのかねぇ……)


 文化系の部員と思しき生徒らに驚いた表情で見送られながら、どうでも良いことを考える秀彰。


(また変な噂が広まるんじゃないだろうな……)


 落胆した気分を表すかの如く、斜めに傾いた体勢のまま、秀彰は大きく溜め息を吐いた――。

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