第一話 変わりゆく日常 4

「――それでは時間が来ましたので自習プリントを回収します。後ろの席の人から順々に前の席の人へと廻していってください。一番前の席の方は教卓の上まで提出をお願いします」


 午前授業の終了を知らせる鐘が鳴り、教師の代役として教壇に上がった中川がクラスメイトに指示を出す。それを皮切りに、通夜のように静まり返っていた教室がポツポツと活気を取り戻していく。


 やがて委員長の手元に全員分のプリントが集まり終える頃には、普段と変わらないざわつきが昼休みの教室内に蔓延していた。


「はぁ……緊張したぁ……」

「さすがは委員長。結構サマになってたじゃないか」


 秀彰は集計されたプリントの端をトントンと叩いて揃えつつ、中川に手渡す。


「い、いえいえっ!私なんてまだまだですよ。人前に立つとどうしてもアガっちゃって、上手く喋れないですから……」

「そうか? 的確に指示が出せてたと思うけどな」

「そーそー、委員長としては完璧な仕事っぷりだったよ、文子ちゃん」


 最後のプリントを渡し終えたところで、背後からにょきっと信吾が顔を出した。


「むしろオレから見れば、秀彰と話している時の方がオドオドしてる風に見えるけどねー」


 突然の流れ弾に撃たれた中川は、秀彰と信吾の顔を相互に見ながらアタフタと狼狽え始める。


「え、あ、そ、その……っっ」

「どういう意味だよ。俺が他人を威圧してるって言いたいのか?」

「さーねー。自分の胸に聞いてみなよー」


 信吾は頭の後ろで手を組み、飄々とした口調でそれ以上の説明を拒んだ。イラッとする態度だが、いつもこういう態度を取るヤツなのでいい加減秀彰も慣れている。


「なんて言うのかさー、こう言っちゃうと失礼かもだけど文子ちゃんって不思議と頼りがいがあるんだよね。苦手な分野でも物怖じせずに取り組む姿勢って言うのかな。秀彰だってそう思う時があるだろー?」

「ん? あぁ、そうだな」


 唐突に話を振られた秀彰はやや困惑するも、信吾の言い分に頷く。謙遜することも多いが、それは彼女が苦手としていることをより上手くやろうとする目的意識の高さからだというのが、言動の随所から窺える。


 要するに鼻に付かない、嫌味を感じさせない努力家なのだろう。


「俺も、たまに中川が羨ましく思うことがあるな」

「えっっ……!?」

「ほぉぉ~~~?」


 心の内で思ったことをそのまま口に出してしまい、秀彰はハッとした。言われた当人は頬を林檎のように赤くして、何やら困惑した眼差しを彼に向けている。そりゃそうだ。フダ付きの問題児が品行方正な委員長を羨ましいなんて言い出したら、迷惑以外の何物でもないだろう。


 どうすれば失言を取り消せるかと秀彰が考えあぐねている内に、中川の口から上擦った高い声が発せられた。


「あ、こ、今度は私がプリント持っていきますねっ! お二方とも、こ、この度はご協力頂きまして、誠に有難う御座いますっ」


 そう言って中川はペコリと頭を下げると、プリントの詰まったカゴを持ってそそくさと……いや、ダダダッと駆け足でその場から逃げるように退室してしまった。


 とりあえず、発言の真意がうやむやになったことで秀彰はほっと溜め息を吐く。


「いや~、可愛いねー、文子ちゃん。今時あんな素直で純朴な子、そうそう居ないよー?」

「そうか? いや、まぁそうかもな」

「可愛いよねー?」

「純朴すぎて将来悪い男に引っかからなければいいがな」


 自分の席に戻った秀彰は机に肘をつきながら呟くが、その高校生らしからぬ感想に友人の口からも深い深い溜息が漏れ出る。


「……はぁぁ、秀彰ってさなんでそう親父目線なのさ」

「知るか、ほっとけ」


 同じく自席に付いた信吾は大袈裟に両手を広げ、呆れたポーズをしてみせる。


「まぁいいや。それよりさ、職員室の様子はどうだった? オレの予想では荒れに荒れていると踏んでるんだけども」

「自習が終わった途端にソレか。相変わらず生粋の野次馬根性だな」

「好奇心旺盛と言ってくれよな」


 秀彰の皮肉に対して、信吾は自信げに鼻の下を擦っている。コイツは他人の面倒事や厄介事を副食に飯を食いたがるタイプだ。いつか自分も同じ目に遭うぞ…なんて脅してもどうせ聞きやしないだろうと秀彰は呆れていた。


「いいから聞かせてくれよ。今度何か奢るからさ」

「仕方ないな、今回だけだぞ」


 何度目になるか分からないお決まりの前置きをしてから、秀彰は今一度職員室の前を通った時の事を思い出した。


「先に断っておくが、別に職員室の壁に耳を付けて盗み聞きしてたワケじゃないからな。俺がプリントを取りに行った際には職員室の扉は半開きで、会話はほとんど筒抜け状態だったんだ」

「生徒が自習用のプリントを取りに来ると分かっていたのに? それは不用心というか、滑稽だね」


 信吾はシニカルな笑いを浮かべた。秀彰も口端を歪めて同意する。


「どんな会話だったか、覚えてるかい?」

「やれ宿直制度が悪いだの、林教諭が担当していた穴埋めはどうするだの、責任転嫁と体裁繕いの話題が主だったな。結構口汚い言葉も飛び交ってた。俺は平気だったが、他のクラスの自習担当者の中には露骨に眉を顰めて、一刻も早く自分たちの教室に帰りたそうにしているヤツも多かった。仮にも生徒に聞かせていい話じゃない」

「なるほど……ふむ、ふむ……」


 秀彰の話を右耳で聞きつつ、その内容を熱心にメモしていく。と、急にその手が止まったかと思うと、信吾は真剣な顔をふにゃりと崩して言い放った。


「つまり、これがホントの反面教師ってヤツだね」

「上手いこと言ったつもりか」

「あたっ」


 秀彰は余ったプリントを丸めて信吾の頭を叩く。ポコンと間抜けな音が騒がしい教室に吸い込まれた。


「サンキュー、タメになったよ。ところで秀彰、今日も昼飯は教室で食うんだろ?」

「あー、ちょっと用事があるから先食っててくれ」


 想定外の答えに驚いたのか、信吾の瞳が一瞬にして丸くなる。


「へぇ、珍しいね。もしかして、『コレ』かい?」


 言いながら信吾は小指を立ててみせた。今時、そこらのおっさんくらいしか出さないような古臭いサインだが、彼は平気な顔で出してくる。


「いや、どちらかと言えばコッチだ」

「へっ?」


 代わりに秀彰は痕印の刻まれた右肩口をポンポンと叩いてみせた。当然、何のことか分からない信吾は怪訝な顔になるが、気にも留めずに背を向ける。


「そんじゃ、行ってくる」

「おい、それってどういう事だよ、おい、秀彰っ!」


 信吾の問いには答えず、秀彰は一人教室を抜けだした。


   ※


 この学校にはグラウンドが二つある。一つは、新校舎の前に設置された第一グラウンド場。サッカー部や陸上部、ソフトボール部にテニス部と、数ある運動部の中でも花形の競技が使用している場所だ。面積も広く、校舎や体育館との行き来もしやすいため、昼休み中もスポーツ好きな学生達がわらわらと集っては賑やかに遊んでいる。


 対して、秀彰が今向かっているのはもう一方のグラウンド、第二グラウンド場だ。こちらは旧校舎の裏に設置されており、柔道部や剣道部が活動する格技館とも面した場所にある。第一グラウンドと比べると面積が狭く、利便性も良いとは言えないため、昼休み中は閑散としている。その人気の無さが、今回は好都合だった。


「さて、そんじゃ始めるとするか」


 軽い準備運動で身体をほぐした後、秀彰はおもむろに右手を掲げた。途端、脳内のスイッチが切り替わるように感覚が張り詰め、意識は自然と肩口に向かう。試行と調整を繰り返した末、目を閉ざさずとも、痕印の名を呼ばずとも、能力発動に至る手順を彼なりに編み出していた。


 やがて、肩口から痺れとも痛みともつかない微弱な刺激が走る。これで秀彰の意識と痕印が繋がった証左だ。この現象を彼は『通電』と呼んでいる。


(大事なのは想像の具体化だ。何を媒介にし、どこを狙うのか。思考を限りなくデジタルに、シンプルに、今の俺に出来ることはそれだけしかない)


 秀彰は深く細く息を吸い込みながら、軽く乱れた意識を整える。通電が完了したことを示すように、近くに転がっていた直径十センチほどの石が微かに震え始め、秀彰の胸元の高さまでゆっくりと浮き上がっていく。


「はッッ」


 十分な高さまで浮上したのを確認し、秀彰は短く息を吐きながら右手を素早く突き出した。それが射出の合図となり、浮き上がった石弾は空中を突き進んでいく。向かう先には雄々しく育った巨木、これが今回の攻撃目標だ。


 ――ズガン。

 硬い表皮と石がぶつかり、鈍い衝突音が響き渡る。撃ちだされた石弾は巨木の幹を易々と貫通すると、なおも空中を進み続けた。やがて石弾は推進力を失い、草茂る藪の奥でゴトリと墜ちる。


 狙い通り痕印能力を発動できたことに安堵しつつ、秀彰は全身に張り詰めた緊張を解き、ブラリと腕を垂れさせた。


「能力発動まで約8秒ってところか。まだまだ遅いな」


 時間にすればわずかな出来事だったが、疲労感は半端ない。荒くなった呼吸を整えつつ、秀彰は飛ばした石を探しに歩いた。まだまだ痕印能力に関しては未解明の部分が多いが、判明した事実が一つだけある。


 それは、秀彰の痕印者としての能力が『』ということだ。以前廃墟公園で初めて能力を発動した際、砂だけが空中に浮かび上がったのを考えると、ほぼ予想通りの内容だった。いわゆる地面系…とでも呼べば良いのだろうか。


 ただし、いくら地面系と言えど、重機が必要なほどの大岩を動かしたり、グラウンド全土の砂を巻き上げたりすることは出来ない。それが能力としての限界値なのか、それとも単に発動者の実力不足なのかは分からないが、今の秀彰に使役出来るのは先程打ち出した拳大くらいの石が許容範囲のようだ。


 それも媒介を浮き上がらせた後、それを直線的に飛ばす程度のごく単純な操作しか命じられない。さながら、連発出来ないピッチングマシンか。とてもじゃないが、これでは他の痕印者と戦うことはおろか、生身の人間を倒すことすら難しいだろう。


「よっと、ここまで飛んだのか。少しずつだが、飛距離も伸びてきているな、悪くない」


 だが、秀彰の頭に落胆の二文字はない。そう決めるのはまだまだ時期尚早だ。繰り返し痕印を発動させていく中で、自分の成長が見て取れるのはこの上なく愉しい。発動時間は如実に短縮され、扱える媒介の種類やサイズもどんどん増えていっている。まるでゲームの世界のレベルアップのようだと思うと、自然と秀彰の頬も緩む。


 再度訓練しようと振り向いたところで、空気を読まない予鈴の音が第二グラウンド場の隅まで届いた。


「続きは放課後にするか」


 トントンと靴先を地面に叩きつけてから、秀彰は急ぎ足で教室へと戻った。


   ※


「……だからぁ、ここの表現の特徴について最もふさわしい答えはぁ……」


 午後からは通常通りの授業が再開され、まるで事件など無かったかのように振る舞おうとする学校側の姿勢が垣間見えた。ショックを受けた生徒らも、来週に差し迫った中間考査の実施を告げられるや否や、熱心に板書を書き写していく。それが今は最良の精神治療になるかもしれないな、と秀彰は他人事のように考えていた。


 周りの生徒とは違う理由で授業なんぞに集中出来る気分ではなく、ノートを取る振りだけして雑念を育んでいる。


(退屈だ、早く放課後にならねぇかな)


 秀彰はクルクルと指の間でシャーペンを回す。壇上に上がった教諭の話はまるで頭に入ってこない。それどころか、今が何の授業なのかすら覚えていない。頭の中に広がるのは、痕印に関する事柄ばかり。


(当面はひっそりと痕印能力を磨き、力を蓄えていく。問題なのはその後だ。どうやって他の痕印者を見つけ出す?)


 今後の活動方針について思いを巡らせるが、不明な事項が多すぎて纏まりそうもない。自分以外の痕印者が何処にどれくらい居て、何を目的に能力を使役しているのかという、痕印者情勢がさっぱり分からない。深刻な情報不足だ。


(そういう込み入った話を聞ける痕印者が近くに居れば幸いなんだがな)


 空虚な心持ちで秀彰は窓の外を見やる。もしかすると自分が認識していないだけで、この学校の中にも痕印者が居るのかもしれない。都合が良いとは思いつつも、そんなストーリーを彼は望んでいた。


「おっと」


 指の力加減を誤り、廻していたペンを弾いてしまう。ペンはクルクルと横回転しながらタイル上の床へと転がり、ちょうど秀彰が座る椅子の後ろ側で停止する。拾い上げようと机の下へ屈んだが、自分より先に別の細い指がペンを拾った。


 礼を言おうと秀彰が頭を上げると、そこには『女王』の仇名で知られる国語教諭の真田の姿があった。


「中間考査の前だってのに、随分と余裕があるのね。あ~か~さ~か~?」

「……げ」


 大事な商売道具であるはずの紙製教材を丸めて肩に構えつつ、不機嫌そうに不良生徒の名前を呼んでいる。ヤバイと思った刹那、秀彰の頭にバチコンと小気味よい音が鳴り響いた。


「っつぅ」

「ペン回す暇あったら、頭廻しなさいっての。ほら、早く教科書開いて。ページは――」


 問題児の頭をぶっ叩いたことでクラス内の雰囲気はざわつくが、真田は平然と指導を続けている。体罰を問題視する風潮も彼女の前では無意味らしい。瞬間的な頭痛を与えられた秀彰は渋々と伏せていた教科書を開き、ページの指定を待った。


「……何ページですか?」


 パラパラとそれらしいページを捲って待つも、真田からの指示は来ない。この焦らしも指導の一環だと言うのか。いい加減痺れを切らした秀彰は、頭上を仰ぐように彼女の顔を見た。


 すると、そこにあったのは憤怒の表情だった。


「――、お前……っ」


 積年の恨み、つらみ、そういう負の感情を真正面から向けられたのは、秀彰の十余年の人生において初めての経験だった。恐ろしいほど引き絞られた瞳孔に射抜かれ、とてつもない強迫感を覚えているうちに、自然と口から謝罪の言葉が漏れ出ていた。


「……すいませんでした」


 その言葉を聞いた真田はハッと我に返ったように顔付きを戻した。そしてバツが悪そうに眼下の生徒から視線を逸らしながら、呟く。


「あー……次からは、気をつけるように」

「はい」


 秀彰が頭を下げる様子を見て、真田は教壇へと戻っていく。ふと、クラス内が変にざわついていることに気付いたのか、再び教材を丸めて生徒らに尋ねた。


「ほら、教科書72ページから再開するわよ。それとも、赤坂と同じ目に遭いたい人いる?」


 たった一言で、クラス全員が瞬く間に教科書を広げて視線を落とし、ざわつきが収まった。なるほど、確かに女王の名に相応しい統率力だと感心する秀彰だったが、頭の痛みと胸のむかつきは当然ながらすぐには晴れなかった。


「……鬼ババァ」


 恨みを込めて呟いた一言で、前の席に座っていた信吾の肩が面白いように跳ねた。


   ※


「にしても秀彰って、ホント怖いもの知らずだよなー」

「なんだよ唐突に」


 放課後。昼食を逃した秀彰は、信吾に連れ添われて食堂を訪れていた。信吾に聞いて初めて知ったのだが、ここの食堂は夕方五時くらいまでなら開いているらしい。秀彰が紅鮭定食を食べる傍ら、信吾は自販機で買った紙パックのカフェオレをチビチビと飲んでいる。彼曰く、定期考査前の今の期間は部活が無くて暇なのだと。だったらさっさと帰って試験勉強でもすればいいのにと、秀彰は思いながらも面倒なので口には出さない。


「五時限目の事だよ。あの真田センセの授業でさ、よくもまぁ堂々と授業放棄出来るよねー」

「ちょっと考え事をしていただけだ。授業放棄なんて大袈裟な言い方するなよ」


 空になったカフェオレのパックがぺこんと間抜けな凹み音を鳴らす。向かいに座る信吾は、秀彰の顔を物珍しそうに見た。


「まぁでもさ、秀彰が素直に謝ったのは驚きだよ。あのままてっきり乱闘騒ぎでも起こすんじゃないかって、クラスの皆が怯えてたんだぜー?」

「俺は気性の荒い猿か何かか?」


 秀彰にジロリと睨まれ、信吾はあははと笑って誤魔化している。


「俺だって喧嘩する相手くらい選ぶ。あんなおっかない目で睨まれたら誰だって怖気付くって」

「まぁ、真田センセの怖さは林婆に次ぐって専らの噂だからね……あ、そうそう、あの二人って実は旧知の仲らしいよ。何でも、真田センセは元々林婆の生徒だったらしくて――」

「ふーん、そうか」


 相変わらずよく喋る野郎だと、秀彰は余った鮭の皮をバリバリと食べつつ、同席者の雑情報を聞き流していた。


「けどな、あんだけ生徒を威圧してりゃ生徒からも相当嫌われてんじゃないか?」

「それがさー、結構人気あるんだよねー、真田センセって。怒ると怖いけど、女子からの恋愛相談にもよく乗ってるみたいだし、授業外じゃフレンドリーに話してくれるって評判だよ」

「ふーん、そりゃ意外だな」


 言葉通り、秀彰は少し驚いた表情で信吾を見やる。俗に言うオンオフの切り替えが上手いというタイプだろうか。先ほどの怒りは怖いの度を越していたようにも見えたが。


「あと、男子の中にはあの怖さが堪らないっていうのも居るんだよ。ファンというか、信者というか……まぁそんな感じの熱狂的なヤツが」

「……は?」


 秀彰がポカンと口を開けていると、信吾は椅子に座ったまま、飲み干した紙パックをゴミ箱目掛けて投げ捨てた。狙い違わず、紙パックは青いポリ袋の中へと吸い込まれていき、ポスンと柔らかい音を立てて見えなくなった。


「性格はアレだけど美人だからねー、真田センセ。キツく叱られた後に優しくフォローされると骨抜きにされるんだとか。まさに女王様だね」

「女王様ねぇ……俺としてはむしろ鬼――」

「あっはっは! そういやさっきもボソッと言ってたよね。真田センセの事、鬼ババ――」


 既に口を止めていた秀彰に続き、直前まで饒舌に語らいでいた信吾の口もピタと止まる。あんぐりと口を開けたままピクリとも動かない。その首元にはしなやかな女性の指が伸びていた。彼の背後からのっそりと、話題の女教諭が上半身を覗かせている。


「へぇぇ、随分と威勢がいいじゃないか、土方ぁ。いっつもアタシにへーこらしてご機嫌取ってるから単なるヘタレ野郎だと思ってたけど」


 引きつった顔の信吾が恐る恐る後ろを振り返ると、そこには凶悪な笑顔を浮かべた真田が佇んでいた。まるで捕食行為に入る直前のライオンのようだ。


「『ババ』の次は『ア』か? 『ア』なのかぁ? もしそうなら、たっぷりと可愛がってあげないとね」

「ババ……抜きをしようと思ってたんですよ、はは、あはは。さ、真田センセも一緒にや、やります?」


 二人のやり取りを横目に見ながら、秀彰は呆れたように小さく息を吐く。両手を上げ、必死で言い訳しようとする様は見ていて哀れだ。信吾の見事なまでの小物臭にさしもの女王も同情したのか、首元に絡んでいた指がすっと引き戻される。


「ハァ……まぁいいわ、今日は忙しいから見逃してあげる。その代わりに――」


 今度は、傍観者に徹していた秀彰の方を指差した。嘲るような笑みと共に。


「この後宿直室まで来なさい。アンタに用事があるから」

「……俺ですか?」

「そ。ちなみに断ったらコイツの命は無いわ」

「ぅえぇぇぇぇっ!?」


 隙を見て逃げようとしていた信吾の腕を真田がガッチリと拘束する。まるで示し合わせたかのような、二人の反応を見て、秀彰は面倒げに息を吐いた。


「ひ、秀彰っ、助けてくれよぉ~~」

「どうぞご自由に。俺は食器の片付けが残ってますんで」


 信吾の悲鳴が食堂内に響き渡る中、秀彰は黙々と食器を片付け、返却口へと運んでいく。通り過ぎる際、真田のうんざりしたような溜め息が聞こえてきた。


「土方ぁ、アンタも少しは友人を選びなよ。アイツ薄情者だぞ」

「いやーこう見えて普段はイイヤツなんすよ。秀彰って」

「ふーん。可愛くないヤツだなぁ」


 聞こえてくる会話を無視して、秀彰はさっさと出入口へと向かおうとした。が、あと数歩というところで、先回りされていた真田に進路を塞がれる。


「片付け終わったんならアタシと付き合って貰おうかしらね」

「通行の邪魔なので避けてもらえますか。真田」

「チッ、思ったより頑固なヤツだな。けど――」


 ずいっと真田が秀彰の方へと顔を近づけてくる。頭突きでもしてくるのかと秀彰は身構えたが、幸いにも額が衝突することはなかった。彼女の眼鏡のブリッジが秀彰の鼻頭と触れ合う距離まで接近し、囁きめいた言葉が耳に届く。


「『痕印者』に関する用事、って言っても帰るのかい?」

「……っ!?」


 ドクン、と秀彰の鼓動が高鳴る。それは聞き捨てならない言葉、それでいて彼が待ち望んでいた言葉だ。無くしていたはずのパズルのピースが再び合わさっていくような独特の感覚に、秀彰は心が震えるのを実感する。


(今、なんと言った、この女……)


 顔を引きつつ、睨みつけながら、秀彰は眼前の女を観察した。真田の姿形をまじまじと見たのは、これが初めてかもしれない。


 背は女性にしては高く、秀彰と並んでもさほど変わらない。長く延びた黒髪は後ろで一つに結んでおり、眉は細く切れ長で、なるほど、信吾が美人と評する通り、顔付きは全体的に整っているようだ。派手な赤フレームの眼鏡の内側には、猛獣を思わせる鋭い視線が潜んでいる。


(俺を、痕印者だと見抜いたと言うのか。だが、どうやって?)


 昼間の自主練の時なら、入念に人の気配を確認したはずだ。秀彰は疑いを込めた眼差しで、眼鏡の奥に潜む瞳をじっと見つめる。揺らぎない、平然とした感情が、今はやけに不気味に映った。


「そういう用事よ、分かったかしら?」

「…………」


 秀彰が応えずとも、真田は確信したように薄く引いた口紅を緩やかに曲げ、妖しく微笑んだ。そしてあっさりと食堂から姿を消す。ガラガラと引き戸が開放される音を聞きながら、秀彰はその場に立ち尽くしていた。


「お、おい秀彰、どういうことだよ? 宿直室に真田センセと二人きりって、まさかいかがわしい用事じゃないだろうな? な?」

「…………」

「おいってば~、オレの話聞いてる~?」


 雑音をシャットアウトしつつ、この怪しげな誘いについて考えを巡らせる。よからぬ展開なのは百も承知だが、痕印者というワードが出てきた以上、動かないという選択肢は彼の頭に無い。


(この際、『女王』とやらの正体を暴いてやるのも悪くないな)


 秀彰が自分自身の意見に納得し、頷くと、それを横で見ていた信吾が興奮気味の声を上げた。


「その顔、行くって覚悟を決めたんだね?」

「あぁ、真田が何を企んでるかは知らんが、誘いに乗ってやる」

「く~っ、それでこそ秀彰だよっ、かっけぇー! あ、一段落付いたらさ、是非とも詳しい情報提供を――」

「ソイツは無理だ、諦めてくれ」

「え、ええええええーーーーっっ!?」


 素っ頓狂な声で叫ぶ信吾にひらひらと後ろ手を振りながら、秀彰は食堂を後にした。目指すは宿直室のある旧校舎。痕印者の名を知る、女教諭のもとへ――。

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